68 / 68
転属 2
しおりを挟むうつむいて片手で胃を押さえ、床に打ち付けた膝も痛かったのだろう。痛みに耐えているらしい息子に、母は気の毒そうな目。
今回ばかりは、さすがのイアンガードも息子を茶化す気にはなれなかった。
彼女は静かにイスを立つと、身を折ったままの息子のそばに回りこんでその肩に手を置く。母はため息とともにぽつりぽつりと漏らす。
「……実はな……ロアナの申し出を聞いて、こなたは、あの娘の心を読みにいった」
その告白に、うつむいていたウルツの肩がピクリと反応する。
即座にたしなめるような視線が母を射て、その責めるような目を受けたイアンガードは渋い顔。
「いや、こなたとて、それはせぬつもりだった。しかし……あの娘がこのように唐突にそれを申し出てくるということは、きっと何かがあったはず。気になるであろう?」
確かにそれは気にかかる。
金品などの利益のある勧誘ならまだいいが、もし脅されてでもいたのなら、ほうっておけないと思った、とイアンガード。
「しかしな……無駄であった。ロアナの心を読もうとしたが、心がぴったりと閉じ、真意が読めない。おまけに心の浅層を諦めと怯え、そして後悔が霧のようにとりまいていて魔法が阻まれた」
「後悔……?」
母の言葉をウルツは口の中で繰り返す。
イアンガードによれば、人の心には大まかに言って、浅い場所と深い場所が存在する。
誰しもが心模様は多彩で、強い感情ほど読みやすい。だが、多彩ゆえに、強い感情が浅層を満たして深層をおおってしまうと、考えていることが分かりにくくなってしまう。
本人が隠そうとすると、さらに真意は深層に沈んでいく。
ロアナの心が負の感情に満たされていたと聞いて、ウルツはいっそう不安を感じるが。そんな彼に、イアンガードは、ただ、と、静かに続ける。
「あの娘は……確かに第四王子のもとへいくことを強く望んでいた。行かねばならぬと、思いつめている」
心配だが、それが本人の意思ならば、とにかく今は希望をかなえてやるほうが賢明だ、と言ったイアンガードに、ウルツは一瞬絶句。いったいどんな事情があって、彼女はそんなことを突然望んだのかと、どうしようもなく胸が騒ぐ。
だが、彼は動揺の中でも考える。
(……確かに、事情の分からぬ今、無理にロアナの希望を退けては、彼女の心を埋める諦めや後悔のもととなった何某の事情を、悪化させることもあるやもしれぬ……)
相手は、自分を敵視する弟王子。これは自分たち王家兄弟の諍いがもとで引き起こされた事態である。慎重に動かねばならなかった。
「…………」
ウルツは唇を噛んで沈黙し、とにかく思考をめぐらせ続けた。
この事態に、自分にできることはあるか。どう行動するのが一番彼女にとって幸いか。その思いに沈む、そんな息子の顔を。イアンガードは静かなまなざしで量っている。
* * *
西の空がうっすらと淡い茜色になってきたころ。
一の宮のある場所では、こちらもまた、困惑のままに沈黙のときを過ごしている娘がひとり。
「……、……、……」
けれども、彼女が沈黙はしていても、その場はけして静かではない。
戸惑う娘、ロアナの視線の先にいる青年は、ずっと楽しげに饒舌。ぺらぺら、ぺらぺらと。絶え間なく動く口と、次から次へと出てくる話題の多さに、ロアナはなかば圧倒されている。
(……、……、……どうしよう……第四王子殿下の……おしゃべりが……止まらない………………)
ロアナはこんなにおしゃべりな人物を、はじめて目の当たりにした。
──この度ロアナは、思いがけず一の宮へ転属をすることとなってしまった。
この事態に、彼女は慌ただしく荷物をまとめ、二の宮の人々にできうる限り挨拶をしてまわった。
そして急いで書いたのは、例の“名も知らぬお姉さま”宛の手紙と、いつぞやのもっさり頭の男性宛。
“お姉さま”宛の手紙は、いつも手作りの菓子を置いている場所に。もっさり頭の男性へは、彼に教えた、二の宮の厨房にあるロアナ用の引き出しに。
料理長には、転属しても、その引き出しをしばらくはそのままにしておいてもらえるよう頼んだ。
そこに保存している焼き菓子も、日持ちがするものばかりとはいえ、いずれはいたんでしまう。
もし、その中のものを食べにくる人がいなければ、そうなる前に、余裕をもってすべて処分してくださいとも。
(……なんだか、寂しいな……)
突然失うことになった、趣味の菓子作りを通じたささやかな交流。
喜んでくれた同僚たちや、手紙などで感謝を伝えてくれた人々のことを考えると、ロアナの胸にはぽっかり大きな穴が開いてしまったかのようで。
新しい勤め先では、そんな交流を持つことが難しいことがわかるだけに、よけいである。
(……あの方たちのお名前、やっぱり訊いておけばよかったな……)
今更ながら、そんな後悔が浮かぶ。
もし、名前や所属が分かれば、また何かしらの交流がもてたかもしれないのに。
“お姉さま”には、あれだけ色んな相談事をしたのだから、移動がこう急でなければ、もっとちゃんとお礼の品などを用意したかったし、黒髪の男性宛には、彼が出会った時のように極端な糖分摂取をしないよう、栄養のある菓子を作っておきたかった。でも、そんな時間はなかった。
(……大丈夫かな……やっぱり第四王子殿下にもう少し時間の猶予をいただくべきだったかな……)
それを考えると、ため息が出る。
過去の事を黙っていてもらう交換条件にこの転属を要求されたとき、彼女の頭は真っ白になった。
昔のことを思い出すと、つい怖くなって、急かされるままに動いてしまった。
ただ幸いと言っていいのかはわからないが……二の宮で掃除係をしていたロアナには、そう同僚に引き継ぐべきこともなかった。
その身軽さは、人に迷惑をかけることもなくてよかったと思えるような……自分という存在の軽さを表わしているようで、むなしいような……。なんとも複雑な気分である。
(……ううん、どこでも一生懸命働かなくちゃ)
つい気持ちが沈み、ロアナはそれを振り払うように首を数回横に振った。
頑張っていれば、いずれ新しい主ロスウェルにも、どこかの厨房を貸してほしいと願い出ることもできるようにもなるかもしれない。
そうなったとき、また改めて、お世話になった人々、名も知らぬ“お姉さま”や黒髪の青年にも、手製の菓子を贈れる日が来たらいい。……そんなふうに気持ちを改めて。
とにかく、今は与えられた仕事を頑張ろう、と。そう、思うの、だが……。
「………………」
ロアナは、困惑に満ちた難しい顔で、現実に意識を戻す。
そんな彼女の目の前には、なんだかよく分からないが、非常に機嫌のよさそうな青年、ものすごくよくしゃべる第四王子ロスウェルが。
ここは一の宮の中庭。
きれいに芝が刈り込まれた広場は、その周りをぐるりと囲む生垣に色とりどりの花が咲き誇っている。
さすが国王の住まう一の宮の内部だけあって、贅を凝らし整然とした庭はため息の出るような美しさ。
あちらこちらにロアナが見たこともないような珍しい花が咲き、美麗な女神像や威厳のある石像が飾られ、ここにくる途中に見た池には、美しい白鳥が優雅に泳いでいた。
本日は天気もよく、日差しもそう強くはないうららかな気候。
風も爽やかに流れ、草木のかぐわしい芳香を彼女たちのところまで運んでくる。
…………のは、いいのだが。
ロアナをどうしても戸惑わせるのは、今、目の前で庭用のテーブルに付き、長い脚を組んで優雅に茶を飲んでいる青年ロスウェル。
言わずとしれたロアナの新しい主、第四王子だが……。
満足そうな彼と彼女の境にある白いテーブルの上には、茶器がふたつ。
どちらもロアナが第四王子に言われて手配したもので、一つはもちろんロスウェルのもの。
そしてもうひとつは、なぞに彼の真正面に座らされているロアナへ勧められたものなのである……。
この事態には、ロアナは戸惑いが過ぎて、身が凍る。
(ぇ……? な──なんでわたし……殿下と……お茶を……? お、お仕事は……?)
『座ってくれなきゃ、例の件、バラしちゃうよ?』
そうニコニコ脅されたゆえのことで、当然ロアナは恐々としていたのだが……。
しかし、こわごわとテーブルについて、すでにもう一時間ほどは時間が経ってしまった。
その間、聞かされ続けている第四王子の止めどないおしゃべりの猛攻に、ロアナは非常に困惑している。
2
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
転生したので推し活をしていたら、推しに溺愛されました。
ラム猫
恋愛
異世界に転生した|天音《あまね》ことアメリーは、ある日、この世界が前世で熱狂的に遊んでいた乙女ゲームの世界であることに気が付く。
『煌めく騎士と甘い夜』の攻略対象の一人、騎士団長シオン・アルカス。アメリーは、彼の大ファンだった。彼女は喜びで飛び上がり、推し活と称してこっそりと彼に贈り物をするようになる。
しかしその行為は推しの目につき、彼に興味と執着を抱かれるようになったのだった。正体がばれてからは、あろうことか美しい彼の側でお世話係のような役割を担うことになる。
彼女は推しのためならばと奮闘するが、なぜか彼は彼女に甘い言葉を囁いてくるようになり……。
※この作品は、『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。
『身長185cmの私が異世界転移したら、「ちっちゃくて可愛い」って言われました!? 〜女神ルミエール様の気まぐれ〜』
透子(とおるこ)
恋愛
身長185cmの女子大生・三浦ヨウコ。
「ちっちゃくて可愛い女の子に、私もなってみたい……」
そんな密かな願望を抱えながら、今日もバイト帰りにクタクタになっていた――はずが!
突然現れたテンションMAXの女神ルミエールに「今度はこの子に決〜めた☆」と宣言され、理由もなく異世界に強制転移!?
気づけば、森の中で虫に囲まれ、何もわからずパニック状態!
けれど、そこは“3メートル超えの巨人たち”が暮らす世界で――
「なんて可憐な子なんだ……!」
……え、私が“ちっちゃくて可愛い”枠!?
これは、背が高すぎて自信が持てなかった女子大生が、異世界でまさかのモテ無双(?)!?
ちょっと変わった視点で描く、逆転系・異世界ラブコメ、ここに開幕☆
行き遅れにされた女騎士団長はやんごとなきお方に愛される
めもぐあい
恋愛
「ババアは、早く辞めたらいいのにな。辞めれる要素がないから無理か? ギャハハ」
ーーおーい。しっかり本人に聞こえてますからねー。今度の遠征の時、覚えてろよ!!
テレーズ・リヴィエ、31歳。騎士団の第4師団長で、テイム担当の魔物の騎士。
『テレーズを陰日向になって守る会』なる組織を、他の師団長達が作っていたらしく、お陰で恋愛経験0。
新人訓練に潜入していた、王弟のマクシムに外堀を埋められ、いつの間にか女性騎士団の団長に祭り上げられ、マクシムとは公認の仲に。
アラサー女騎士が、いつの間にかやんごとなきお方に愛されている話。
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
幼い頃に、大きくなったら結婚しようと約束した人は、英雄になりました。きっと彼はもう、わたしとの約束なんて覚えていない
ラム猫
恋愛
幼い頃に、セリフィアはシルヴァードと出会った。お互いがまだ世間を知らない中、二人は王城のパーティーで時折顔を合わせ、交流を深める。そしてある日、シルヴァードから「大きくなったら結婚しよう」と言われ、セリフィアはそれを喜んで受け入れた。
その後、十年以上彼と再会することはなかった。
三年間続いていた戦争が終わり、シルヴァードが王国を勝利に導いた英雄として帰ってきた。彼の隣には、聖女の姿が。彼は自分との約束をとっくに忘れているだろうと、セリフィアはその場を離れた。
しかし治療師として働いているセリフィアは、彼の後遺症治療のために彼と対面することになる。余計なことは言わず、ただ彼の治療をすることだけを考えていた。が、やけに彼との距離が近い。
それどころか、シルヴァードはセリフィアに甘く迫ってくる。これは治療者に対する依存に違いないのだが……。
「シルフィード様。全てをおひとりで抱え込もうとなさらないでください。わたしが、傍にいます」
「お願い、セリフィア。……君が傍にいてくれたら、僕はまともでいられる」
※糖度高め、勘違いが激しめ、主人公は鈍感です。ヒーローがとにかく拗れています。苦手な方はご注意ください。
※『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。
勘違いで嫁ぎましたが、相手が理想の筋肉でした!
エス
恋愛
「男性の魅力は筋肉ですわっ!!」
華奢な男がもてはやされるこの国で、そう豪語する侯爵令嬢テレーゼ。
縁談はことごとく破談し、兄アルベルトも王太子ユリウスも頭を抱えていた。
そんな折、騎士団長ヴォルフがユリウスの元に「若い女性を紹介してほしい」と相談に現れる。
よく見ればこの男──家柄よし、部下からの信頼厚し、そして何より、圧巻の筋肉!!
「この男しかいない!」とユリウスは即断し、テレーゼとの結婚話を進める。
ところがテレーゼが嫁いだ先で、当のヴォルフは、
「俺は……メイドを紹介してほしかったんだが!?」
と何やら焦っていて。
……まあ細かいことはいいでしょう。
なにせ、その腕、その太もも、その背中。
最高の筋肉ですもの! この結婚、全力で続行させていただきますわ!!
女性不慣れな不器用騎士団長 × 筋肉フェチ令嬢。
誤解から始まる、すれ違いだらけの新婚生活、いざスタート!
※他サイトに投稿したものを、改稿しています。
ヒスババアと呼ばれた私が異世界に行きました
陽花紫
恋愛
夫にヒスババアと呼ばれた瞬間に異世界に召喚されたリカが、乳母のメアリー、従者のウィルとともに幼い王子を立派に育て上げる話。
小説家になろうにも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる