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三章

9 腕を二倍

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「おい貴様、何故死んでいないと言わなかった。無駄に走ってしまった……」
「……お言葉ですが……若様……」

 不愉快そうにそう言う黒い大きな人狼に、ミリヤムは平らな顔で手を上げた。

「私めはちゃんと死んでおらぬと申告しておりました!! してましたよ! ねえ!?」

 ミリヤムが大きい人狼──ギズルフの背中から背後を振り返ると、そこにいた人狼達が一斉に頷いた。
 それを見たギズルフがまたぺたんと耳を後ろに倒す。

「……兎に角お前はもう走るな」
「そんなに柔じゃないって言ってるではありませんか。人族も走って転んだくらいでいちいち手足を外していられませんよ。一回試しに引っ張ってみられたらいいではありませんか……ほら! ほらほら!!」

 ギズルフに背負われていたミリヤムは、そこからもそもそと黒い長毛をかき分けて、白い腕を彼の鼻先へ突き出す。その行動にギズルフがぎょっとした。

「やめろ! なんだその筋肉の無い木の枝のような腕は……見ているだけで鳥肌が立つ! しまえ!!」
「ええ? 砦で鍛えられて人生最高に筋肉がついたと思っていたのに……?」
「そんな腕を引っ張れだと……? ……いやだ。俺は絶対に引っ張らない。虫の手足のように落ちるのは目に見えている」
「……」

 乗った背がぶるぶる震えだして。ミリヤムは怯えたようなその横顔に呆れる。

「若様……ファイトです! 人生何事も挑戦ですよ!?」
「嫌だ。貴様私を誰だと思っている。強要するな。その手首を倍の太さに鍛えてから出直せ」
「倍……は……厳しいですね……」

 ミリヤムが腕を引いてまじまじとそれを見ていると、ギズルフはやりきれないという様子で呻く。

「まったく……母上も厄介なものを預けてくれる……父上に合わせる前に息絶えさせてしまったら俺はどうしたらいいんだ……」
「……そんな虫みたいにすぐ息絶えませんが……」
「朝から肉は嫌だなどと言っているからそのように脆弱なのだ。貴様ら人族は肉食ではないのか!?」
「雑食ですねえ……」

 ミリヤムは駄目だこりゃ、と思った。
 


  結局ミリヤムはまた客間に戻された。

「サンルームが良かった……」
「駄目だ。貴様また走るだろう……思ったのだが、お前鎧をつけて見てはどうだ? 少しは身体の守りとなろう」
「お断りです」

 ミリヤムがきっぱりお断りすると、ギズルフは「まあそうか」と神妙な顔つきで素直に頷いている。おそらく心の中で「重さで潰れるのだな」「硝子細工だからな……」などという事を考えているのだろうなあという事は、ミリヤムにもなんとなく分ったが、とりあえず黙っておいた。部屋で重い鎧なんて冗談ではない。

 弱々しいと思っていてくれるほうが彼等も何かと油断してくれるのでは……と一瞬思ったミリヤムではあったのだが、ギズルフはミリヤムが弱々しいと思い込めば思い込む程に怯えて警戒が強まるようだった。強い人の考える事は分からん。と、ミリヤムは思う。


「あの……若様、そろそろお仕事にでもお戻りになられたら如何ですか……」

 客間に戻ったのというのに、一向に部屋を出て行く気配の無いギズルフにミリヤムがそう言うと、彼はじろりとミリヤムを睨む。その、ヴォルデマーにそっくりな顔に浮かぶ冷淡な表情にミリヤムがちょっとよろめく。

「う、……ちょっとその目……どきどきします! ヴォルデマー様のそんな冷たい顔見たことがないせいでしょうか!?」
「煩い! 貴様がもし誰も見ていないところで息絶えていたらと思うとおちおち仕事なんぞしていられんのだ! もしその様な事になれば俺はヴォルデマーに絞め殺されるかもしれん……」

 何せ、母の命令だとはいえ、砦から娘を担いで攫ったのは自分なのだ。しかもそのせいでミリヤムが体調を崩しているとなると、現時点でも既に兄弟喧嘩の勃発は避けられないと思われた。

「その上貴様の腕の一本でももげようものなら……」

 ギズルフが、ちーんと消沈した。大きな背をがっくり丸めて項垂れる人狼の様に、ミリヤムがちょっと慌てる。

「ちょっ、落ち込まないで若様! ええと……っ」

 ミリヤムはあわあわしながら左右へ視線を走らせて、目に入った椅子を引っ張って来た。
 それをギズルフの隣に置き踏み台にすると、その頭をわしわし撫でる。

「御兄弟なんですから絞め殺されるなんてことありませんよ……ヴォルデマー様はとってもお優しいではありませんか……」
「……いいや、俺は知っている。ヴォルデマーは昔からとにかく人や物への執着が薄かったが、一度気に入ってしまうとそれはもう執着が物凄い……中でも母の反対を押し切って、という状態は、もう最悪だ。奴はそれを絶対に手放そうとしないし、母は母で、いつもはあまり逆らう事の無い息子が抵抗するものだから余計反発する……」
「はあああ……な、成程……若様にも色々ご苦労があるわけですね……」
「そうだ! だから俺は……貴様の指一本もぐ訳には行かぬのだ!!」
「だから……もげませんって……」

 ミリヤムが疲れたようにため息をつくと──……唐突に、ギズルフが己の耳の後ろをわしわし撫でていた娘のその手をがしりと掴む。

「おう!?」

 行き成りの事に驚いていると、次いでギズルフの黒い鼻先がぬっと目前に迫って来る。ミリヤムは思わず目を見開いて仰け反った。男は顰め面でミリヤムの顔を睨んでいる。

「何故そう言い切れる……! 貴様……自分の指が如何に脆弱か分っておらぬな!? 見ろ! この虫の足のように細い指を!!」
「……いや……いつも見ておりますけど……その虫扱いそろそろやめて頂けませんか……」

 顔近いなあ、と思いながらミリヤムは、折るではなく、もぐと言っているあたり、ギズルフは本気でミリヤムを虫扱いしているのだなとしみじみ思う。

(はー……やっぱりヴォルデマー様につくづく似ていらっしゃる……)

 ミリヤムがじろじろ見ていることにも気が付かずに、わなわなしている様子は似て非なるような気もするが。

「くそ……見ているだけで毛並みの下に鳥肌が立つ……!! 此度の諍いも、きっと俺が貴様のこの指一本もいでしまえば、もう二度とヴォルデマーは母の事も俺の事も許さぬだろう……どうすればいい……どうすればいいんだ俺は!! こいつを鍛えるしかないのか!?」
「え」
「肉を食わせて毎日走らせれば……しかしこの指はどうしたらいい……? 素振り……? そうか素振りか!!」

 ぽかんとするミリヤムの前で、ギズルフは、よし、と真顔になった。

「お前、今日から我等の訓練に混じれ。俺がお前の腕を二倍にしてやる」
「…………二倍に……」
「そうと決まれば行くぞ! 稽古場だ!!」
「……ほう……」

 神妙な顔をしているミリヤムをギズルフは椅子から下ろし、その手を引いた。その相手の意見をまったく聞こうとしない様子にミリヤムは、やっぱりこの方嫡男だなあ、と思う。あと、硝子細工はどうした、とも。

「どうした? 行くぞ」
「……ええまあ、此処に閉じ込められているくらいなら行きますし、熱血指導も受けますけどね……」
「そうかそうか、よし行く……ぃ……く…………ん……?」

 そうしてミリヤムを部屋から連れ出そうとしたギズルフは、ふと、己がミリヤムの手を握り締めていることに気がついた。

「……ひっ」
「ん?」

 行き成り目を見開いて自分の手を振りほどいた人狼に、ミリヤムが瞼をパチパチさせている。
 ギズルフは叫んだ。

「貴様……! 何故俺の手を握っている! 引っ張ってしまったではないか!!」

 もげるだろう! 虫め!! ……と慄いている辺境伯家嫡男に、ミリヤムは──

 この方若干おもしろいな……と、そっと思うのだった。




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