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三章

28 ミリヤムの要求

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 ミリヤムは悲しそうな顔をしていた。

 悲しそうな顔で、ゆっくりとブラシをその黒い毛並みにあてている。

「はー……」
「……さっきから何なのだそのため息は!?」

 ぎろりと首を回して己の背後にいる娘に怒鳴ったのはギズルフだ。ギズルフは脱衣所の椅子に座らされてミリヤムに毛をブラシで梳かれていた。
 そうして先程から何度もため息を落とすミリヤムに、辛気臭いと唸る。

「一体何が不満だ!?」

 と、その頭にぽてん、とブラシが落ちてきた。
 ミリヤムはそのブラシでギズルフの頭の後ろの毛並みを整えながらぼやく。

「はあ、まったく、ちびっ子小姓の坊ちゃま達は、あんなにふんわふんわの仕上がりだと言うのに……それと比べると、どうしてこう若様の毛並みはいまひとつなのでしょうか……」
「……」

 その視線の先には、綺麗に洗いあがって、丸まるふわふわした小姓達が、わあわあ言いながらヴォルデマーの仕度を手伝っている。毛並みを拭いたりブラシをあてたり。ヴォルデマーも無言でそれに付き合っている。いやむしろ小姓達に服を着せている。

 そのぼやきを聞いてギズルフが眉間の縦じわを深くする。

「貴様……何故あっちに行かない……ヴォルデマーを差し置いて俺にかまうとまた嫉妬で因縁つけられるんだが……」

 ギズルフが怪訝そうにそうミリヤムを窺うと、ミリヤムはじろり、と彼を見下ろした。若干ブラシのあて方が荒くなった。

「だって坊ちゃん達がヴォルデマー様はレアキャラだから一緒に遊びたいって言うから……!! 仕方ないでしょう!? 大人気なくも、お子様達の楽しみを奪った挙句、皆様の前で照れ照れヴォルデマー様のお仕度ができますか!? どんな見世物ですかそれは!? 出来ませんよ流石に!! さっきだってサンルームで恥ずかしい所見せたばかりだと言うのに……お子様達にまで痴女認定されたらかないません!!」
「……おい、分かったからぺしぺし叩くな……」

 それに、とミリヤムはギズルフを睨む。

「どう考えても、ヴォルデマー様よりも若様の方がお手入れ苦手でしょう……? 分かっているんですか? 若様の背中に乗せて頂いた貴重な経験を元に言わせて頂けるのならば……若様の毛並みはヴォルデマー様の毛並みよりもごわごわです!!」
「…………」
「耳ぺったんこにしても駄目です。言わせて頂きます。普段からお手入れサボってるでしょう? 若様はお貴族様だから手入れしようと思えば一から十まで使用人がやってくれる筈なのに……どうしてですか!?」
「ふん……そんな婦女子みたいなことが出来るか。鏡の前に座ってちんたらちんたらブラシをあてて、風呂でも洗毛剤やら香油やら……そんな事をしている暇があるくらいなら剣の手入れでもしていた方がましだ」

 拗ねたようにぷいっと横を向くギズルフに、ミリヤムはやれやれとため息をつく。

「要するに短気でいらっしゃるんですね。まったく……勿体ない、こんなに立派な毛並みだというのに……」
「…………」

 立派という言葉に少しだけギズルフの耳が上向いた、その時、脱衣所の中に美声が響く。

「おや、此処にいたのか」
「あ」

 不意に掛けられた声に振り向くと、出入り口にアタウルフの姿があった。その背後にはハラハラしている執事長の姿もある。
 伯は、そこでギズルフが憮然としながらも大人しくミリヤムにブラッシングされているのを見て、声を立てて笑った。

「なんと、その無精者が昼間っから風呂に? 珍しい事もあるものだ」

 するとギズルフが嫌そうな顔でヴォルデマーを睨む。

「仕方ありません……俺がこの娘の手から逃げようとするとヴォルデマーがこちらを威圧してくるのです。好きなようにやらせよと。まったく甘い事です。嫉妬しているくせに……」
「…………」

 兄弟達はさりげなく、ふん、とお互い顔を逸らせている。
 辺境伯がそれを聞いて、小さい身体を揺らし余計に笑う。

「ははははは、そうかそうか成程」
「……父上、何か御用が御座いましたか?」

 小姓達と共にすっかり仕度をすませたヴォルデマーが、父の元へと歩いていく。

「ん? おおそうだった。その娘に用があったのだ」
「? わたくしめ、で、ございますか……?」

 伯に来い来いと手招かれたミリヤムは、ブラシを手に持ったまま緊張した面持ちを見せた。
 不安げにヴォルデマーに視線をやると、彼はミリヤムに一つ頷いてみせる。
 けれども何と言ってもアタウルフはこの領の主であり、ヴォルデマーの父である。ミリヤムの足はびくびくとしてなかなか進まない。と、それを見たギズルフが、ミリヤムの後ろで憮然とため息をつく。

「さっさと行け、お待たせするな」
「う……」

 ギズルフにべいん! と、尻を叩かれたミリヤムはよろめきながらアタウルフの前に歩いて行った。(それをヴォルデマーが壮絶に睨んでいる。勿論ギズルフを)

 ミリヤムはその先で待っていたヴォルデマーの少し後ろで足を止め、彼の隣に居るアタウルフを見た。

「あ、の……?」

 ビクビクしているミリヤムを見て伯は軽い調子で笑う。

「そう緊張しなくてもよい。部屋を見た。お前が指揮を取って片付けさせたそうだな」
「あ……ああ……若様の……」
「うむ。それに今も当家の小姓達が世話になったと聞いた。それで思い出したのだが……御主はギズルフに、正当な対価を寄越せと言っていたのであろう?」
「!!!?」

 そう微笑みかけられて、ミリヤムが、びゃ!? っと飛び上がる。
 それはつまり、ミリヤムが以前客間で、ギズルフの白シャツを剥ぎ取って雑巾にした時のことだった。その無礼も合わせて思い出したミリヤムは青くなって叫ぶ。

「も、申し訳ありません申し訳ありません厚かましい事を申しました!! 申し訳ありません!!」
「……ミリヤム……」

 土下座しそうな勢いで頭を下げるミリヤムに、ヴォルデマーがそれを止める。

「ヴォ、ヴォルデマー様……」
「大丈夫だ……」

 ヴォルデマーはミリヤムを落ち着かせようとするようにその背に手をあてて微笑んだ。そこにアタウルフの笑い声が響く。

「はははは、ああ、勿論責めている訳ではない。労働に対価とは至極真っ当な要求である。そこで……御主に何か対価を遣わしたいのだが、何がよい?」
「……え……えぇ?」

 思ってもみなかった伯の言葉に、ミリヤムは額にだらだらと流れる汗を感じながらアタウルフの顔を見た。
 その視線を受けて、伯は穏やかに笑っている。

「確かに我等は御主の砦での労働を阻害したゆえ、その保障もあると思ってな。しかし、かと言ってその対価が、ギズルフのシャツ一枚では流石に見合うまい。どうだ、何か欲しい物はあるか? 単純に金銭がよければ用意させるが」
「ぇえ? っと……」

 ミリヤムは戸惑った。確かにギズルフにそう言ったのは覚えているが、まさかその要求がこんな形で呑まれるとは思ってもみなかった。不安げにヴォルデマーを見上げると、彼は小さく微笑んでミリヤムに頷いてみせる。と同時に、背後にずんと大きな気配が。

「うだうだ言わず何か貰っておけ。また服を剥ぎ取られては敵わん」
「若様……」
「……」(ヴォルデマー※ミリヤムが兄の服を脱がせていたとはその事か、と察した)

「それで如何する? 用意できるものなら何でも良いぞ?」
「……そ、そうですね……うーん……」

 にっこりと微笑まれたミリヤムは、どうしたものかと考え込む。急に何でもやるなどと言われても困った。
 最近とても欲しいと思ったものはと言えば、ギズフルに胸焼けさせられて欲しかった粥と、砦に無事を報せたかった便箋とペン、あとは押し込まれた客間で欲しかった雑巾くらいだった。
 
(え? でもそれは今更いらないし……じゃあ、やっぱり砦で貰えた筈のお給金……?)

「……ん?」

 ミリヤムは不意に、もふっとした感触に囲まれている事に気がついて視線を下に向ける。
 いつの間にか、周りに小姓達が集まって来ていた。
 彼等はきらきらした目でミリヤムからの伯への返答を待っている。その口からどんなお宝の名が出てくるのかと期待しているらしかった。
 そんな彼等の顔を見てミリヤムは、ハッとした。

「……あ……」

(そうだ……)


 ミリヤムはヴォルデマーの顔を見上げ、それからその隣に居る辺境伯の顔を見た。

「決まったか?」

 ミリヤムの様子を見てアタウルフが答えを促す。ミリヤムは頷いた。

「……辺境伯様……それでは一つ、お願い事をしてもよろしいでしょうか……」
 
 その言葉にアタウルフは自分の顎を手で撫でる。

「ふむ? 物ではなく? 分かっているとは思うが……ヴォルデマーと結婚させろという要求は通らぬぞ? 此処から解放せよという願いも今は聞けない。すまぬな」

 アタウルフの念押しにミリヤムが、勿論、と頷く。

「はい、分かっております」
「ではなんだ? 申してみよ」

 アタウルフは何処かミリヤムを試すような、楽しむようなそんな表情で彼女を見ている。ギズルフはつんとそっぽを向き、耳だけをミリヤムの方へ向けていた。ヴォルデマーは少し案じるような顔をしていた。

 それらの視線の中で、ミリヤムは深呼吸をひとつ。そしてアタウルフの微笑んだ顔をしっかりと見返した。



「辺境伯様お願いです……どうか私に、この領都の城下町に行く許可を下さいませんでしょうか……」





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