ノラの女

五味千里

文字の大きさ
6 / 14

六話 海

しおりを挟む
「水着持ってくればよかったかな」

 ユリ姉は遠くの水平線を眺めていた。子供が書いたみたいに水平線はわずかに曲がっている。そしてその線の上に隣の島がぽかんと乗っかって、ほんの少し間抜けだ。

「ユリ姉。私が溺れたときのこと、覚えてる?」

 視線は遠くの海のまま訊いた。私の視線と水平線がちょうど垂直になるように交差している。

「うん。そこまではっきりとじゃないけど」


 私は中学生のとき、この海で溺れた。うーちゃんやカズやハタ坊と海に飛び込んでいたら、私だけが足をつった。右足の真ん中に針金を通されたように動かなくなって、左足だけで踏ん張っていたら次第に左足もつってしまった。あとは手をバタバタさせるばかりで、パニックになった頭の中みたいに水面を浮いたり沈んだりしていた。
 岸から悲鳴のような怒号のような声が聞こえるけれど、それが少しずつ遠くなると、いよいよ恐怖が私を包んだ。死がのっぺらぼうの顔で私を覗き込んでいる。いつもは生きたいなんて強く思ったことはないのに、その瞬間は死にたくない理由ばかり泡のように溢れ出た。
 けれども服の重みも相まって、身体はスローモーションで落ちていく。死がいよいよ私を覆い被さって、この身体を喰らおうとしている。私はただ目をぎゅっと瞑って、右手を一生懸命伸ばし続けた。それでも意識は遠のいて、暫く覚えていない。
 
 それからはっきりと記憶があるのは、ユリ姉と並んで父に怒られているときだった。なんで私たち二人が怒られたのかは覚えていない。しかし父は珍しく怒りを露わにしていて、叱り慣れていない彼らしく手持ち無沙汰な右手で大袈裟に手振りをしていた。
 右で正座するユリ姉はぴしゃっと背を伸ばして父の言葉を聴いていた。そしてその奥にカズが申し訳なさそうに猫背で様子を伺っている。どちらが説教されているかわからない。母は台所で夕飯の片付けをしていた。
 そして私はというと、わき目もふらずに泣きじゃくっていた。涙が止まらず、嗚咽を漏らすまでそういう状態だった。今考えても、どうしてあそこまで号泣したのかはわからない。ぼろぼろと落ちる涙は熱く頬をつたって、ああいう涙はもうないのかもしれない。


「なんであのとき、あんなに泣いたんだろう」

 文脈も流れもなしに呟いた。誰かに訊いたわけじゃない。ただこの海を見て、あの涙を思い出して、自然と口をついた。波がサンダルにかかってちょっと冷たい。ユリ姉のワンピースが潮の白さと少し似ている気がした。
 ハワイのワイキキに行ったことがある。絵に描いたように綺麗で、きちんと整えられた砂浜だった。サンタモニカの海は隣接された遊園地で海に入らなくたって充分楽しめるものだった。
 この十年間で思いつく限り旅行をした。海外も国内も人並み以上に巡った自信がある。自然も都会も、数多く出会ってきた。けれどもあそこまでの感情の揺さぶりは無かった。人並みに「すごい」とか「へー」とかいって、それきりだった。
 死の恐怖とか、簡単に言えばそうなのだと思う。単にうら若い少女が初めて死と隣り合わせになったら誰だって泣く想いぐらいするだろう。
 じゃあ、この涙は何なのだろう。いま私の眼から溢れるこの涙は何なのだろう。何故私は手が震え、それを抑えるようにブランドのシャツの端をこれでもかと握りしめているのだろう。
 叱られた時の涙も、今のこの涙も、いや、私の流した全ての涙がどこか果てしない一つの線で繋がっている気がした。それは決して真っ直ぐなんかじゃなくて、この水平線のように下手くそな湾曲でかたどられていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢の去った後、残された物は

たぬまる
恋愛
公爵令嬢シルビアが誕生パーティーで断罪され追放される。 シルビアは喜び去って行き 残された者達に不幸が降り注ぐ 気分転換に短編を書いてみました。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

ちゃんと忠告をしましたよ?

柚木ゆず
ファンタジー
 ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。 「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」  アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。  アゼット様。まだ間に合います。  今なら、引き返せますよ? ※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。

悪意のパーティー《完結》

アーエル
ファンタジー
私が目を覚ましたのは王城で行われたパーティーで毒を盛られてから1年になろうかという時期でした。 ある意味でダークな内容です ‪☆他社でも公開

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

婚約破棄された令嬢が記憶を消され、それを望んだ王子は後悔することになりました

kieiku
恋愛
「では、記憶消去の魔法を執行します」 王子に婚約破棄された公爵令嬢は、王子妃教育の知識を消し去るため、10歳以降の記憶を奪われることになった。そして記憶を失い、退行した令嬢の言葉が王子を後悔に突き落とす。

処理中です...