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六話 海
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「水着持ってくればよかったかな」
ユリ姉は遠くの水平線を眺めていた。子供が書いたみたいに水平線はわずかに曲がっている。そしてその線の上に隣の島がぽかんと乗っかって、ほんの少し間抜けだ。
「ユリ姉。私が溺れたときのこと、覚えてる?」
視線は遠くの海のまま訊いた。私の視線と水平線がちょうど垂直になるように交差している。
「うん。そこまではっきりとじゃないけど」
私は中学生のとき、この海で溺れた。うーちゃんやカズやハタ坊と海に飛び込んでいたら、私だけが足をつった。右足の真ん中に針金を通されたように動かなくなって、左足だけで踏ん張っていたら次第に左足もつってしまった。あとは手をバタバタさせるばかりで、パニックになった頭の中みたいに水面を浮いたり沈んだりしていた。
岸から悲鳴のような怒号のような声が聞こえるけれど、それが少しずつ遠くなると、いよいよ恐怖が私を包んだ。死がのっぺらぼうの顔で私を覗き込んでいる。いつもは生きたいなんて強く思ったことはないのに、その瞬間は死にたくない理由ばかり泡のように溢れ出た。
けれども服の重みも相まって、身体はスローモーションで落ちていく。死がいよいよ私を覆い被さって、この身体を喰らおうとしている。私はただ目をぎゅっと瞑って、右手を一生懸命伸ばし続けた。それでも意識は遠のいて、暫く覚えていない。
それからはっきりと記憶があるのは、ユリ姉と並んで父に怒られているときだった。なんで私たち二人が怒られたのかは覚えていない。しかし父は珍しく怒りを露わにしていて、叱り慣れていない彼らしく手持ち無沙汰な右手で大袈裟に手振りをしていた。
右で正座するユリ姉はぴしゃっと背を伸ばして父の言葉を聴いていた。そしてその奥にカズが申し訳なさそうに猫背で様子を伺っている。どちらが説教されているかわからない。母は台所で夕飯の片付けをしていた。
そして私はというと、わき目もふらずに泣きじゃくっていた。涙が止まらず、嗚咽を漏らすまでそういう状態だった。今考えても、どうしてあそこまで号泣したのかはわからない。ぼろぼろと落ちる涙は熱く頬をつたって、ああいう涙はもうないのかもしれない。
「なんであのとき、あんなに泣いたんだろう」
文脈も流れもなしに呟いた。誰かに訊いたわけじゃない。ただこの海を見て、あの涙を思い出して、自然と口をついた。波がサンダルにかかってちょっと冷たい。ユリ姉のワンピースが潮の白さと少し似ている気がした。
ハワイのワイキキに行ったことがある。絵に描いたように綺麗で、きちんと整えられた砂浜だった。サンタモニカの海は隣接された遊園地で海に入らなくたって充分楽しめるものだった。
この十年間で思いつく限り旅行をした。海外も国内も人並み以上に巡った自信がある。自然も都会も、数多く出会ってきた。けれどもあそこまでの感情の揺さぶりは無かった。人並みに「すごい」とか「へー」とかいって、それきりだった。
死の恐怖とか、簡単に言えばそうなのだと思う。単にうら若い少女が初めて死と隣り合わせになったら誰だって泣く想いぐらいするだろう。
じゃあ、この涙は何なのだろう。いま私の眼から溢れるこの涙は何なのだろう。何故私は手が震え、それを抑えるようにブランドのシャツの端をこれでもかと握りしめているのだろう。
叱られた時の涙も、今のこの涙も、いや、私の流した全ての涙がどこか果てしない一つの線で繋がっている気がした。それは決して真っ直ぐなんかじゃなくて、この水平線のように下手くそな湾曲でかたどられていた。
ユリ姉は遠くの水平線を眺めていた。子供が書いたみたいに水平線はわずかに曲がっている。そしてその線の上に隣の島がぽかんと乗っかって、ほんの少し間抜けだ。
「ユリ姉。私が溺れたときのこと、覚えてる?」
視線は遠くの海のまま訊いた。私の視線と水平線がちょうど垂直になるように交差している。
「うん。そこまではっきりとじゃないけど」
私は中学生のとき、この海で溺れた。うーちゃんやカズやハタ坊と海に飛び込んでいたら、私だけが足をつった。右足の真ん中に針金を通されたように動かなくなって、左足だけで踏ん張っていたら次第に左足もつってしまった。あとは手をバタバタさせるばかりで、パニックになった頭の中みたいに水面を浮いたり沈んだりしていた。
岸から悲鳴のような怒号のような声が聞こえるけれど、それが少しずつ遠くなると、いよいよ恐怖が私を包んだ。死がのっぺらぼうの顔で私を覗き込んでいる。いつもは生きたいなんて強く思ったことはないのに、その瞬間は死にたくない理由ばかり泡のように溢れ出た。
けれども服の重みも相まって、身体はスローモーションで落ちていく。死がいよいよ私を覆い被さって、この身体を喰らおうとしている。私はただ目をぎゅっと瞑って、右手を一生懸命伸ばし続けた。それでも意識は遠のいて、暫く覚えていない。
それからはっきりと記憶があるのは、ユリ姉と並んで父に怒られているときだった。なんで私たち二人が怒られたのかは覚えていない。しかし父は珍しく怒りを露わにしていて、叱り慣れていない彼らしく手持ち無沙汰な右手で大袈裟に手振りをしていた。
右で正座するユリ姉はぴしゃっと背を伸ばして父の言葉を聴いていた。そしてその奥にカズが申し訳なさそうに猫背で様子を伺っている。どちらが説教されているかわからない。母は台所で夕飯の片付けをしていた。
そして私はというと、わき目もふらずに泣きじゃくっていた。涙が止まらず、嗚咽を漏らすまでそういう状態だった。今考えても、どうしてあそこまで号泣したのかはわからない。ぼろぼろと落ちる涙は熱く頬をつたって、ああいう涙はもうないのかもしれない。
「なんであのとき、あんなに泣いたんだろう」
文脈も流れもなしに呟いた。誰かに訊いたわけじゃない。ただこの海を見て、あの涙を思い出して、自然と口をついた。波がサンダルにかかってちょっと冷たい。ユリ姉のワンピースが潮の白さと少し似ている気がした。
ハワイのワイキキに行ったことがある。絵に描いたように綺麗で、きちんと整えられた砂浜だった。サンタモニカの海は隣接された遊園地で海に入らなくたって充分楽しめるものだった。
この十年間で思いつく限り旅行をした。海外も国内も人並み以上に巡った自信がある。自然も都会も、数多く出会ってきた。けれどもあそこまでの感情の揺さぶりは無かった。人並みに「すごい」とか「へー」とかいって、それきりだった。
死の恐怖とか、簡単に言えばそうなのだと思う。単にうら若い少女が初めて死と隣り合わせになったら誰だって泣く想いぐらいするだろう。
じゃあ、この涙は何なのだろう。いま私の眼から溢れるこの涙は何なのだろう。何故私は手が震え、それを抑えるようにブランドのシャツの端をこれでもかと握りしめているのだろう。
叱られた時の涙も、今のこの涙も、いや、私の流した全ての涙がどこか果てしない一つの線で繋がっている気がした。それは決して真っ直ぐなんかじゃなくて、この水平線のように下手くそな湾曲でかたどられていた。
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