光と音を失った貴公子が望んだのは、醜いと厭われた私の声でした。

緋田鞠

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   ***

 初めて足を踏み入れた王宮の書庫で、アマリア・トゥランジアは、目当ての本を探していた。
 書庫は、貴重な書物が傷まないように窓がなく、照明はアマリアが左手で掲げている角灯のみ。
 角灯には、光の魔法陣が刻まれた魔法石が使用されている。
 この国で魔法石は高価なものだが、魔術の心得のない人間でも、魔法石に蓄積された魔力が切れるまでは使えるので、重宝されている灯具だ。
 魔法石の光は、仄白く辺りを照らす程度に抑えられているものの、背表紙を読み取るには十分だった。
 自然光では傷む革の表紙も、熱のない魔法石の光ならば、影響がない。
 慣れない書庫での検索に苦労しながら、アマリアは本を探して、書棚を端から確認している所だった。
 自宅の書庫であれば、人差し指で一冊ずつ示しながら確認したい所だが、ここは国の宝である希少性の高い書物ばかりの王宮の書庫。我慢して、目だけで書名を確認する。
 広い書庫の中には、アマリアの他にも書物を探しに来た者がいるらしい。
 視界の端を時折、アマリアのものとは異なる角灯の灯りがちらつく。
「…あ」
 漸く、目的の本を見つけた。
 著名な学者の記した学術書だが、内容が一般的ではない為、入手する事が出来なかったものだ。
 「技術」に分類された書物が集められた、天井まで届く背の高い書棚の最上段。
 女性としては背が高いアマリアでも、背伸びをしても届かない。
 左右を確認して三段になっている踏み台を見つけると、アマリアは慎重に踏み台に足を乗せた。
 王宮の他の部屋よりも天井が高い書庫の最上段は、踏み台に乗ってもなお高く、アマリアは踏み台の上で背伸びをして、背表紙に手を伸ばす。
「ん、」
 最上段にも関わらず、詰め込むように並べられているようで、なかなか取り出す事が出来ない。
 漸く掛かった人差し指に思い切り力を入れて、背表紙を引き出そうとした時。
「きゃ…っ」
 ぐらり。
踏み台が揺れて、アマリアの体は後ろ向きに投げ出された。
 落下の勢いで胸元から飛び出た首飾りの石が、角灯の光を反射してきらりと軌跡を描く。
 衝撃を覚悟し、ぎゅっと目を瞑ったアマリアの体は、しかし、暖かな感触に受け止められた。
「っ!」
 遅れて、静かな書庫に不似合いな、踏み台の倒れる高い音。
「大丈夫か」
 ふわり。
 鼻先をくすぐる、森の爽やかな香り。深みの中に、僅かに感じる苦味。
 続いて、耳元で落ち着いた低い囁き声に尋ねられて、アマリアは慌てて顔を上げた。
 肩越しに見える男性の顔に、驚いて飛びのこうとして、また転びそうになるのを、苦笑した男性が支えてくれる。
 背の高いアマリアよりもなお、頭一つ高いという事は、男性の中でも長身だろう。
「驚かせてしまったな。足は痛めていないか?」
 問われて、自分が踏み台から落ちた事を思い出したアマリアは、自分の足元に目をやった後、
「はい、大丈夫です。あの、助けて頂いて有難うございました」
 一歩下がってスカートを軽く持ち上げ、深く礼をする。
「怪我がなければそれでいい。どの書物を取りたいのだ?」
「あ…あの、最上段の『キアルト地方における灌漑政策について』という書物を」
「灌漑政策について、か…この書物は著名な学者が記したものだが、専門用語が多くて難解だぞ」
「私の住む地でも、灌漑は取り入れておりますので、ある程度の基礎知識はあるつもりなのですが…」
「そうか。ならば、判るかもしれんな」
 倒れた踏み台を起こして、男性はトットッと軽い足取りで登ると、アマリアの目当ての本を取ってくれた。
「こんなに詰め込んでは、本が傷むだろうに。後で、配置を見直させよう」
 溜息交じりに言いながら、アマリアに本を差し出す。
「これでいいか」
「有難うございます!」
 本を両手で受け取って、笑みを浮かべたアマリアは、改めて、角灯に照らされた男性の顔を見て、息を飲んだ。
 暗い書庫の中、灯りは角灯のみなので、正確な色合いは判らないが、魔法石の僅かな灯りにも冴え冴えと白く輝く艶やかな髪は、すっきりと後ろに流され、肩口の辺りまで伸びている。
 瞳の色も薄いのだろう、きらりと光る様は、夜闇の中の猫のようだ。
 何よりも、その完璧な造作に、男性の美醜にさして興味のないアマリアも、思わず感心する。
 切れ長の瞳に、真っすぐ通った高い鼻筋、薄い唇。秀でた額はつるりと滑らかだ。
 笑みを浮かべていなければ、何処か酷薄な空気を感じさせる、冷たい美貌だった。
 年の頃は、二十代半ばから後半だろうか。
 文官を示す白の宮廷服には、アマリアの見た事のない階級章がつけられている。
 見た目の年齢にそぐわない口調は、威圧的と言っても差し支えないのに、違和感も嫌悪感もない。相応の身分の人物なのは推測出来た。
「お手数をお掛け致しました」
 本来ならば、アマリアが言葉を交わせるような立場の人物ではない事を悟って、名乗る事はせずに腰を折る。
 この国では、名を告げる事は、相手とお近づきになりたいと言う意思表示と同義になるからだ。
 そのアマリアの気持ちを正確に汲んだのか、気にする様子もなく、男性は、
「構わん」
と、鷹揚に答えると、書庫から退室した。
 時間をずらす為に、二呼吸置いてから、アマリアは書庫から閲覧室へと出ていく。
 人気のない閲覧室には、男性の姿はもうなかった。
 先程、男性の胸元に受け止められた時にほつれたのであろう長い深紅の髪を手櫛でまとめて結び直し、アマリアは髪色よりも淡い、紅玉に紫水晶を混ぜ込んだような不思議な虹彩の瞳を細めた。
 王宮を訪れると言う事で上質な光沢ある生地を使用しているものの、濃紺で、襟ぐりと袖口のレース以外に飾り気のないドレスは、アマリアの年齢を幾つか上に見せているだろう。
 服の上に飛び出したままの首飾りを、控えめに開けられた襟ぐりから胸元へと滑り込ませる。
 半透明の石の中に金の筋が針のように不規則に並んでいる楕円型の石が、華奢な作りのくすんだ金の鎖の先についている首飾りだ。
 日に翳せば、石の裏側に模様が彫り込まれている事が判るだろう。
 本来なら装飾品は見せるものだが、この首飾りは出来るだけ人目につかせたくない。
 暗闇に慣れた目が、大きな窓のある明るい閲覧室に慣れるまで暫く待って、アマリアは書物を開く。
 時折、控えを取りながら興味深く読んでいると、長身の人影が傍らに落ちた。
 父である、ギリアン・トゥランジア伯爵だ。
 アマリアとは異なる金茶色の髪には、ちらほらと白いものが混じっているが、丁寧に撫でつけられており、とうに五十を越していると言うのに、そうは感じさせない。
 いつも穏やかで柔らかな笑顔を浮かべている彼は、萌黄色の瞳を細めて、娘に謝罪した。
「すまない、アマリア。遅くなったな」
「いいえ、お父様。読みたい本がありましたので」
「お前の王宮勤めが、正式に決まったよ」
「…そうですか。有難うございます、お父様」
「……すまんな、何もしてやれなくて」
「いいえ、こうして、王宮でのお仕事を勧めて頂きました。きっと…この方が、良かったのです」
 微笑むアマリアを見て、ギリアンは痛ましそうにそっと視線を逸らす。
 アマリアは、先月、二十三才になった。
 二人の住むロイスワルズ王国だけでなく、この大陸では、貴族として生まれた女性の結婚適齢期は成人を迎える十六才から二十二才。
 婚約していれば、相手の仕事の都合で二十二才を幾つか超える事もあるが、アマリアに婚約者はいない。
 いや、婚約者はいなくなった。
 十六の年に婚約してから七年。
 何かと理由をつけて結婚を先延ばしにされた結果、二十三を目前にして破棄された。
 年に一度、顔を合わせればいい方だった婚約者の態度が、誠実なものだったとは思わない。
 婚約の破棄と言う大きな出来事すら、婚約者から告げられたものではなかった。
 王家から送られてきた書類で、自分達の婚約が正式に破棄されたと知ったものの、あれから一か月、婚約者…元婚約者からは、音沙汰もない。
 けれど、アマリアは自分が婚約破棄されたのを、何処か仕方ないと諦念の思いで受け止めていた。
「私は…ロイスワルズの女性としては、少し、扱いにくいようですから」
 アマリアの婚約者だった一つ上の伯爵令息は、成人男性としては少し小柄な人だった。
 踵の低い靴を履いたアマリアの方が、彼よりも頭半分は背が高く見える程度には。
 それでも、婚約当初はまだ、彼自身がいずれ成長してアマリアを追い越すだろう、と受け止めてくれていたように思う。
 成長が止まってからの彼は、明らかにアマリアを疎むようになった。
 エスコートしにくい。可愛らしくない。髪色が血を思わせて悍ましい。声が低くて聞き苦しい。
 婚約者の付き合いとして二人で過ごす時間に、直接に、間接に、言われた言葉。
 王宮で文官として伺候する父に代わり、領地経営に携わっており、多くの家庭教師から女性の教養以上の知識や学識を学んでいる事も、不満に感じているのに気づいていた。
 通常であれば、家長である父が伯爵として領地を治め、母が補佐をする形になるのだが、アマリアの父は王宮勤めで、一年の四分の三を王都ロイスで生活している。
 母は、既に亡い為、領地の経営は、代々トゥランジア家に仕えてきた家令が父の代理として行っていた。
 長じてアマリアは、父と家令の負担軽減の為に領地経営に携わるようになったのだが、元婚約者が、それを生意気だと思っている事は感じ取っていた。
 元婚約者が王都の幼年学校に在籍していたのに対し、王都で学んだわけでもないアマリアが、家長の役を果たすのが気に食わなかったのだろう。
 一般的な貴族女性であれば、婚約者を頼り、顔を立てるものだ、と、忌々し気に言われた事を思い出す。
 アマリアからすれば、婚約しているとは言え結婚前の相手に、大事な自領の内情を話すわけにはいかず、結局、任せる事はおろか、相談する事もなかった。
 家と家で決められた結婚だったから、アマリアは父には何も言わずに彼の言葉をただ受け止めていたけれど、それもまた、苛立ちの原因になったのだと思う。
 貴族が婚約を結ぶ場合、必ず王族の許可を受ける必要がある。
 この国では、階級差による婚姻が忌避されているわけではないが、領地を持ち、領民の安全な生活を預かる貴族達は、領地経営について相応の教育を受けた者同士の結婚を望む事が多かった。
 トゥランジア伯爵が治めるコバル領は、大陸の穀物庫である大平原の片隅にある。
 だが、水源から遠い為、穀物庫としての役割を期待されながらも、実りは決して多くなかった。
 その為、祖父の代から灌漑に力を入れて、少しずつ収穫量を増やし、漸く領民の生活が豊かになり始めたのは、父の代になってからだ。
 その灌漑の知識目当てに、隣の領地を治める伯爵からアマリアの元に婚約の申し込みがあったのも、貴族社会の事を考えれば当然と言えた。
 トゥランジア伯爵夫妻は、結婚から十年、子宝に恵まれなかった。
 漸く授かったアマリアの出産は、酷い難産で、母はアマリアを産んで間もなく、亡くなっている。
 トゥランジア家の子供はアマリア一人であり、血筋の近い親族もいない事から、三男である元婚約者が婿養子としてトゥランジア家を継ぐ事と引き換えに、灌漑事業への協力をする事になっていたのだが、それは飽くまで家同士の思惑の話。
 灌漑に関する知識は惜しみなく提供するのだし、三男では家を継ぐ可能性はまずないのだから、同格の伯爵家の婿養子になるのは好条件だろう、と思っていたのは、こちらの都合だった、という事だ。
 婚約の許可を得るのは容易でも、破棄をするのは難しい。
 簡単に破棄出来ないよう、相応の理由の提示が求められる。
 それでも破棄されたのだから…アマリアとしては、不満の持ちようもない。
 原則として、婚約を破棄するには、両家の合意が取れた上で申し出る必要があるが、大体の場合、両家の関係がこじれた結果の破棄なので、正当な理由さえ呈示されていれば、認められてしまうのだ。
 例え、実際にはアマリアの事を元婚約者が気に入らなかった、の一言に過ぎるものであっても、彼は王宮が認めるような理由を示したに違いないのだから。
 灌漑の知識を欲しがっていた筈の父親からも、特に連絡がないと言う事は、婚約破棄が相手方の家の総意だったのだろう。
「私が至らなかったのです。申し訳ございません、お父様。このままでは、トゥランジアの家は…」
「家の事など、どうでもよい。後継がおらなんだとしても、領地を王家の皆様に返還すればよいのだ。領民の生活も落ち着いたし、悪いようにはならんよ。私が王宮勤めだったばかりに、お前にコバルを任せきりにしてすまなかった。王宮も、決して安穏としたばかりの場所ではないが、お前ならうまくやっていけるだろう」
「はい。ご迷惑をお掛けしないように頑張ります」
 例え重大な瑕疵がなくとも、婚約破棄された令嬢に、次の縁談はなかなか来るものではない。
 ましてや、必要以上に背が高いのと、目立つ深紅の髪のせいで、悪い意味で注目されてしまうのでは。
 婚約破棄され、結婚適齢期を逃したアマリアが取れる道は、生涯独身でも問題のない生活環境を作る事。
 男子が爵位を継承するのが原則のロイスワルズ王国で、将来、女伯爵として爵位継承が認められるには、それまでの王家への貢献度が考慮される事を、長い文官勤めでギリアンはよく判っていた。
 侍女として王宮で勤め上げて、骨を埋めるもよし。
 ギリアン亡き後、コバル領に戻ってトゥランジア女伯爵として爵位を継ぐもよし。
 アマリアの未来を、少しでも居心地よいものにする事が、婚約破棄を阻止出来なかった自分の勤めだとギリアンは考えていた。
 いや、そもそも、あのような相手と強引に結婚させたとしても、アマリアが幸せになれるかは保障がなかったか、と溜息を吐く。
 初めて顔を合わせた時には、可愛がって育てられた末っ子らしい、素直で純粋な少年だと思っていたのに。
 文官として仕え、それなりに人を見る目があると自負していただけに、この結果は自責の念が強い。
 何かと理由をつけて結婚する時期の明言を避けられている事に気づいていたのに、急かす事がなかったのは、自分の中に、一人娘が夫のものとなる寂しさがあったからだろう。
 婚約期間が引き延ばされていた時も、婚約破棄された時も、王宮への伺候を打診した時も、アマリアは淡々と受け止めているように見えた。
 それが、ギリアンには不憫で仕方ない。
 本来なら、年齢相応に怒ったり悲しんだりしていい筈なのに。
 せめて、王宮での勤めがアマリアにとって遣り甲斐のあるものである事を、一人の父として心から願った。

   ***

 『氷血の貴公子』。
 現在、大陸で最も有名な貴公子ランドール・クレス・ロイスワルズは、そんな字名で呼ばれていた。
 きっちりと後ろに撫でつけられた、肩まで伸ばした月の光のように冴え冴えと輝く銀髪。
 瞳の色は、王国でも珍しい蜜のようなとろりとした金色。
 すっきりと真っすぐ伸びた高い鼻梁。薄い唇は、公の場で笑みを刻む事は滅多になく、瞳同様に何処か冷たい。
 しかし、完璧なまでに整った作り物めいた容貌から、対面する相手は、彼が笑みを浮かべていない事すら気づかないまま、圧倒されてしまうのだ。
 武官の武骨さはないが、男性の中でも長身の体には、均整の取れた筋肉がしっかりとついており、特に礼装を着ていると姿の良さがよく判る。
 美しい容姿に関わらず、人前では無表情が基本で、冷徹な物言いをする事からついたのが、『氷血の貴公子』と言う、本人からすれば何とも薄気味の悪い字名だった。
「殿下、チートス王国のアンジェリカ王女殿下から親書が届いております」
 補佐官長のアレクシスが、執務机で仕事中のランドールに、銀盆に載せた手紙を恭しく捧げた。
 封蝋も開いていない封筒にちらりと目を遣って、ランドールは溜息を吐く。
「親書だろうが何だろうが、私宛の封書は全て、検閲してから持って来い、と何度言えば判る?お前に見られて困るような手紙はない」
「そうは仰いましてもね」
 先程と一転して、砕けた口調でアレクシスは返すと、不審物に触れるように指先でちょんちょん、と親書を突いた。
 離れた所からでも薫る、強い薔薇の香り。
 アンジェリカは、派手好きな王女としてこの大陸中に名を知らしめている。
「検閲も何も、内容は推して知るべし、って言うか?」
「勝手な推測をせずに、中身を検閲するのがお前の仕事だろう」
「えぇ?恋文の検閲まで、俺の仕事なんですか?俺、殿下のお仕事の補佐が仕事だと思ってたんですけど?」
 ランドールは、ここ、ロイスワルズ王国王弟の第二子として生を受けた。
 臣下には下らず、王族のまま宰相を務める父の補佐として、二十六歳の若さで宰相補佐に任じられている。
 二つ上である兄のユリアスは近衛騎士団長、ランドールは宰相補佐と、王族であるが故に早い出世なのは確かだが、彼らの実力はその肩書に見合ったものだと、近隣諸国でも評判だった。
 当代の国王と宰相は、身内の気安さもあり、歴代と比較しても随分と親密な関係を築いている。
 実質は国王が二人居るようなもので、かつての宰相の仕事を宰相補佐であるランドールが果たしている事も多い。
 宰相に上げるものであっても、採決を委ねるだけの状態にしておかなくてはならないので、ランドールの下には、補佐官長であるアレクシスの他、多くの部下がいる。
 国内各地から上げられた陳情、自然災害への対応、貴族同士の揉め事、流行り病への対処と言ったものから、王宮内で開催される茶会や夜会の手配まで。
 専門の部署に依頼するものも多いが、依頼を回すにも手順と言うものがある。
それらの内容は細々と多岐に渡る為、アレクシスの下にいる者達は、それぞれ、各分野の専任として割り振られている。
 部下の仕事の進捗を管理し、適切な時期にランドールに情報を上げるのが、補佐官長であるアレクシスの主な仕事なのだが、同時に、ランドールの私的な秘書のような役割も果たしていた。
 渋々と封蝋を小刀で切り、一層強く薫る薔薇の香水に眉を顰めながら、アレクシスは中の書状を読み上げた。
「えぇっと…

『愛するランドール様

わたくし、もう、これ以上お待ちできません。いつになったら、愛を乞いに来てくださるのですか?わたくしの胸は、貴方への恋心で焦がれているというのに、酷いお方。四の月までには、その麗しいお顔を拝見できますわよね?お忙しいのであれば、わたくしの方から、勇敢で忠実なるチートスの民と共にそちらにお邪魔させていただきますわね。

 貴方のアンジェリカ』

…えぇ…殿下?何、やったんです?」
 頭痛を堪えるように額を手で押さえていたランドールが、重い溜息をついて顔を上げる。
「……噂に違わぬようだな、アンジェリカ王女は。見事なまでの妄想だ」
「本当に?殿下、本当に妄想なんですか?もうこれ、完全に、相思相愛って事になってません?」
「だから、妄想だと言っているだろう。アンジェリカ王女とは、先月、シャナハン王国の建国祭で一度ご挨拶しただけだ。お前には留守居を任せたから、疑うのも無理はなかろうが、ダンスすらしていない」
「ご挨拶だけ?」
「あぁ。『ロイスワルズ王国のランドール・クレス・ロイスワルズと申します。父を補佐すべく、宰相補佐に任じられております。お見知りおきください』だけだ。全く、欠片も、心の籠ったものではなかったのだがな。お見知りおいてくれなくていい種類の王女だった」
「それだけで、何でアンジェリカ王女の中では、殿下がアンジェリカ王女に愛を乞いに行く設定になってるんです?いや、好意を持たれるまでは判るんですけど。笑みの一つも浮かべなくても、何でか好意持たれますもんね、殿下は。美形って得ですね」
「だから、一方的に恋慕されているだけだろう。アンジェリカ王女は…随分と美しいものがお好きらしい。王女の身でありながら、自分の後宮があると言う噂なのだが…。それもあって、アンジェリカ王女の出席が判った式典は、これまで避けてきたのだがな」
「何、さらっと自分が美形な事を認めてるんですか。って、女性で、後宮ですか?」
「見目のよい少年を集めているらしい。侍女ではなく、何処に行くにも美青年を数人侍らせているという噂もある。建国祭ではそんな事もなかったから、単なる僻みから出た噂だと話半分に聞いていたが…本当かもしれん」
「何ですか、殿下をその侍らせる美青年の一人にしようとでも?随分と不遜ですね、他国の王族に対して」
 ムッとした様子のアレクシスに、ランドールは唇の片端を皮肉気に上げた笑みを浮かべた。
「ロイスワルズ王国のロイスワルズ、と聞けば、大概の人間は王族だと気付く。気づいていないのか、気づいていてどうでもいいのか、政治に興味がないのは確かだろうよ」
 冷え冷えとした言葉に、アレクシスは背中が寒くなって、思わず喉を鳴らす。
「敵にしちゃいけない人を敵にしましたね、アンジェリカ王女…」
 問題は、
『勇敢で忠実なるチートスの民と共にそちらにお邪魔させていただきます』
という文言だ。
「これってつまり…」
「色よい返事をせねば、もっと言えば、私と四の月までに顔を合わせねば、国境を侵す、と言う事だろうな。戦争まで考えているのかは判らんが」
「う~わ~…」
 絶句したアレクシスは、まだ手に持ったままだった書状を、それ自体が発火物かのように慌てて手放した。
 ランドールは、ふん、と鼻で笑うと、
「返信を認める。そこそこの等級の書状を用意せよ」
「そこそこ、ですか」
「一級品など、勿体ないだろう」
「はぁ…まぁ、そうなんですけど…」 
「チートスは大国だからな。礼を失さないように、けれど、つけ入る隙のないように、釘を刺しておかねば」
 結局、ランドールの認めた内容は、
『無粋なもので、アンジェリカ王女のお気持ちに全く欠片も気づいていなかった。何か勘違いをさせてしまったのなら申し訳ない。現在、多忙を極めている為、失礼ながら私的な交流をする余裕は全くない。国同士の交流であれば考慮したいが、どのようなご用件か』
 と言う極めて他人行儀な文章を、丁寧に丁寧に薄紙に包んだものだった。
「これで通じますかね?」
「通じた所で、私が聞き知ったアンジェリカ王女の性格では、無視されるだろうな。まぁ、だが、断りの連絡を入れたのだ、と、チートスの誰かにさえ判ればよい。国同士の関係もあるのだ。暴走を防ぐ努力位はしてくれるだろう」
 ランドールの手から書状を受け取ったアレクシスが、彼からふと漂ってきた香りに、首を傾げる。
「あれ?殿下、香水変え…てませんよね、うん、明らかに女性モノ」
「香水?いや…特に変えたとは聞いていないが」
 身の回りの事は全て、侍従に任せているランドールは、己の纏う香りの名すら知らない。
「どうしたんです?移り香が残る程、女性の接近を許すなんて」
 揶揄うようなアレクシスの言葉に、ランドールは眉を顰めた。
 女性全般への忌避感が強いランドールが、思わせぶりな女性の接近を許可する事などない。
 だが、先程の書庫での出来事を思い出して、あぁ、と頷いた。
「思い出した、書庫だ」
「書庫?書庫に女性がいたんですか?」
「式典の資料を探しに行ったら、珍しく先客がいてな。踏み台から落ちてきた所を救助した」
「あぁ、なるほど」
 落ちてきたのを抱き留めるように受け止めたから、香りが移る事もあるだろう。
 アレクシスに言われて初めて、ランドールは覚えのない香りを胸元から感じる事に気づく。
「灌漑の第一人者が著した学術書を探していたようだ」
「はぁ、灌漑ですか。女性が書庫にいるってだけでも珍しいのに、これはまた、お堅い本ですね」
「最上段にも関わらず、本が詰め込んであってな。あれでは、大事な書物も傷んでしまう。司書に、もう少しゆとりを作るように進言しておいてくれ」
 踏み台から落下する女性を抱き留めるなんて、これは、恋が始まる場面じゃないのかなぁ…本の心配してる場合じゃないでしょう、と、アレクシスは生温い視線で主を見遣った。
「因みに、お名前は?」
「名前?何だったか…あぁ、そうだ、ギルバート・ドレイクだったか」
「いやいやいや、本の著者じゃなくて、その女性の」
「は?」
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「女性、と言うだけで若いと思い込んでましたけど、殿下より人生経験豊富そうでした?」
「どうだろうな、暗かったからよく判らんが…若かったのではないだろうか」
「じゃあ、やっぱり、殿下だと気づいてなかったのかな…どんな女性でした?」
「だから、判らんと。あぁ、背は高い方だと思うぞ。頭一つ分位しか私と差がなかった」
 男性の中でも長身のランドールと、その程度しか差がないとは、女性の中では相当な長身だろう。
 アレクシスは、今後、ランドールの元に挨拶と称して送り込まれてくる若い娘に、長身の女性がいないか要確認、と、己の脳内に控えを取った。
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