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 ランドールは、忙しい。
 国王イアンは、王妃と結婚して三十年、在位もまた三十年に及ぶ。
 王弟であるランドールの父エリクとは双子の兄弟であり、エリクは王位継承権第一位となっている。
 ランドールの兄ユリアスが継承権第二位、ランドールが第三位。
 そう、国王夫妻には、男児が生まれていないのだ。
 女ばかりが五人生まれ、現在、第一王女から第三王女は、国内有力貴族と結婚している。
 過去に女王が全くいなかったわけではないロイスワルズ王国だが、国王に男の兄弟がいる場合は、そちらに継承させる事が優先されてきた。
 ましてや、イアンとエリクは一卵性の双生児。
 性格は、イアンは血の気が多く、エリクは争いを好まない、と言う違いがあるのだが、普段、王族と触れ合う機会のない身分の人々が知る事はない。
 五十にならんとする今でも、見た目だけはそっくりなのだ。
 寧ろ、本人達自身が、似るように努力を続けており、多忙な公務の合間を縫って同じ日に散髪するし、どちらかが太ればお互いに指摘しあって、体形の維持に努めている。
 時折、国王業務も入れ替わって行っていると言う噂があるが、流石にそれはない…と思いたい、が、自信はない。
 国政に携わる者だけでなく国民にも広く知れ渡っているように、兄弟仲が非常によいからなのか、臣下も国民も当の国王夫妻も、後継となる男児が生まれなくても、エリクがいるから大丈夫、と考えている節がある。
 国王のみならず王妃も、実子に継承したいとの拘りが全くない。
 五人の子供を儲けたのは、男児欲しさではないのかと穿って見る者もいるが、単に国王夫妻の仲の良さの結果らしい。
 双子の気安さなのか、王妃と王弟妃の気がよく合ったからか、どちらの子供も分け隔てなく、一緒に育てたとの意識があるのも大きな要因だろう。
 とは言え、イアンとエリクは同い年なので、実質、イアンの跡を継ぐのはユリアスだと目されている。
 ランドールは、兄のスペアとして帝王学を学びながら、宰相となるべく宰相補佐の仕事に邁進していた。
 国王の実子である従姉妹達は、いずれ降嫁する身である、との思いが強く、将来、夫となる者の家が良からぬ事を考え出さぬよう、政治的立場に敢えて関わろうとはしない。
 それよりも、社交術や美しさを磨く事に余念がない。
 必然的に、王族の仕事は、ランドール達兄弟が負担する事になっていた。
「兄上の婚儀が無事に終了すれば、少しは落ち着くのだろうが」
 兄のユリアスは、ユルタ王国第二王女との結婚が決まっている。
 今年は、イアンの在位三十周年式典がある為、式典を終えた後に結婚するのだ。
 ランドールが多忙なのは、式典と婚儀が続くのが大きな要因だった。
 アンジェリカに出した書状に記したように、私的交流に割く時間は欠片もない。
「せめて、大きな行事は一年に一回にして頂きたい所ですが…おめでたい話ですからねぇ」
 運ばれてきた書類を分別しながら、アレクシスが溜息をつく。
 ランドールが多忙と言う事は、補佐官長であるアレクシスも休みなし、と言う事だ。
「仕方あるまい。折角、初めてユルタとの間に婚姻関係が結べるのだ。撤回されぬうちに決めてしまわねば」
 ロイスワルズ王国は、大陸の中央、大平原に位置する国だ。
 国土の中央を母なるテベ川が流れ、川沿いの肥沃な大地は、国だけでなく大陸全土の穀物庫と呼ばれている。
 テベ川が東西に分岐する三角州にあるのが、王都ロイス。
 過去三百年、戦地になった事はないが、その昔、大陸が陣地争いの真っ只中だった時分には、川が天然の要塞の役割を果たしたと言う。
 ロイスワルズ王国は、北東をチートス王国、北西をシャナハン王国、南をユルタ王国の三国に囲まれている。
 チートス、シャナハン、ユルタの間には、容易には踏破出来ない峻烈な山脈が聳えている為、陸路で行く旅人や商人は皆、ロイスワルズ王国を通過しなくてはならず、交通の要衝である。
 どの国からも攻められやすい位置でもあるのだが、ロイスワルズ以外の三国では、他の資源こそ豊富なものの、国民の主食となる穀物を自国だけで賄えていない為、穀物の輸出を条件に、和平条約を結んでいる。
 過去には、穀倉地帯を手に入れるべく侵略戦争があった事もあるのだが、国境に近い土地はテベ川からも離れている為、十分な実りが見込めない。
 肥沃な大地に到達するまでに兵糧は尽き、疲労困憊した状態で血気盛んな騎士と戦うのは無謀である、と、現在はいずれの三国も、ロイスワルズ王国と友好的な関係を結んでいる。
 友好の証として、王族同士の婚姻を結ぶ事も多く、イアンの妻、マグダレナ王妃は、シャナハン王国の王女だった。
 ユルタ王国は、三国の中でも穏やかな気性で知られる南国で、王族の結婚であっても、政略ではなく、本人の意思を尊重すると聞く。
 その為なのか、政治的には重要な関係にある筈なのに、過去にロイスワルズ王国王族とユルタ王国王族の結婚は一度もない。
 今回の、ユリアスと、ユルタ王国第二王女シェイラの結婚は、シェイラたっての希望だった。
 過去にユルタ王国で行われた式典に、ユリアスが国王名代として参列した際、一目惚れしたらしい。
 公務に多忙で、結婚相手をなかなか決めずに周囲をやきもきさせていたユリアスに、結婚を申し入れたのはユルタ側からだった。
「で、肝心のユリアス殿下のお気持ちはどうなんですか?シェイラ王女側が熱心だったと聞きますけど」
「兄上のお考えになる事は、私にも判らん。人当たりはいいが、腹の中で何を考えておられるのか、決して見せない方だからな」
「それ、殿下にだけは言われたくないと思いますけど」
 アレクシスに白い目で見られながら、ランドールは山と積まれた書類に猛然とした勢いで片端から目を通していく。
 そうしなければ、必要な処理が追い付かない。
 流石に疲れて、目の間をもみほぐしている時。
 叩扉の音と共に、入室の許可を求める声がする。
「入れ」
「失礼致します」
 許可を得て入室したのは、王城の家令セルバンテスだった。
 王家の私的な用事を管理する彼が、仕事中の執務室にやって来るのは珍しい。
「殿下、至急の用件が発生致しました。ご指示をお願い致します」
「何だ」
 淡い金髪を丁寧に撫でつけ、口髭の長さは毎日一定で毛一筋の乱れもなく、いつも無表情で、表情筋が存在しないのでは、と新米騎士達に密やかに噂されているセルバンテスの顔が、常になく緊張しているのに気づき、ランドールは書類から目を上げて、彼と目を合わせた。
「…チートス王国アンジェリカ王女殿下が、いらっしゃいました」
「……は?」
 漏れたのは、ランドールの声だったか、アレクシスの声だったか。
「先触れもなく、アンジェリカ王女殿下がいらっしゃいました。ランドール殿下にお目通り願いたいとの由です」
「…何処に、いらしたのだ。ネランドか?」
 チートスとの国境にある州都の名を挙げて、ランドールが問う。
 セルバンテスは、小さく首を振った。
「本日、四の刻頃、城の正門で誰何され、名乗りを上げられました。王宮の応接間にお通ししておりますが、その後、どのように差配すれば宜しいか…私では判断が出来ませんので、殿下のご判断を仰ぎに参りました」
 アンジェリカがランドールを名指しにした事から、二人の間に約束でもあったのか、と確認する意図もあるのだろう。
 直角の深さまで腰を曲げて頭を下げるセルバンテスの首筋には、先触れなしと言うアンジェリカの無礼への不満、王城の家令と言う職への自負がありながら、処理出来ない出来事が発生した苛立ちからか、汗が浮かんでいた。
 唖然としていたアレクシスが、呆けたように息を漏らす。
「想定の斜め上来ましたね、殿下…」
 途端に痛み出した頭を庇うように、ランドールが深く息をつきながら、額を両手で覆う。
「先触れはないし、過去にアンジェリカ王女がロイスワルズを訪れた事もない。どうして、ご本人だと認識した?」
「ご尊顔を拝した事はございませんが、封蝋は拝見しております。お持ちの印章が、アンジェリカ王女殿下のものでした。確実にご本人かとお尋ねでしたら、絶対の自信はございません。ですが、身なりやそのお振舞いから、騙りと撥ねつけるわけにはいかない方と断じました」
 緊張したセルバンテスの言葉に、ランドールは頷く。
 本来、ただの観光旅行であろうと、王族が先触れもなしに他国を訪問する事などあり得ないし、ましてや、王宮に本人が直接乗り込むなど、誰が思いつくか。
「西の離れは今、無人だろう。直ぐに使えるか?」
「花はありませんが、清掃は整ってございます」
「それでよい。流石にチートスの王族と、一般貴族を通す応接間で面談するわけにもいかないからな。まさか王都の街中にお泊り頂くわけにもいかないし、かと言って招かれざる客に奥宮の貴賓室も使いたくない。離れならば、監視…もとい護衛もしやすいだろう」
「殿下、本音が漏れてますよ」
「直ぐに部屋を整えて、アンジェリカ王女ご一行をお通ししろ。何人でお見えになったのだ?」
「アンジェリカ王女の他は、護衛の騎士が二名、侍従が二名。侍女はお連れではありません」
「大国の王女殿下ともあろう方が、供が四人だと?」
「本当にお忍びなんですねぇ」
 呆れを一周回って、感心したようにアレクシスが言うのを、本気で嫌そうな顔をしてランドールが見遣った。

   ***

「アマリア」
 急ぎの書類を届けて欲しい、と、書記官に頼まれた書類を、無事に先方に届けて侍女控室に戻ったアマリアは、侍女長に声を掛けられた。
「はい、エリカ様」
「貴女は今、専属の仕事はありませんね?」
「はい、ございません。人手の不足している場所に伺わせて頂いております」
 アマリアが王宮で侍女として勤め始めて、三か月が経過していた。
 王宮に勤め始めて、アマリアが改めた事が一つある。
 コバルにいた頃、数少ない表に出る機会は大抵、元婚約者と一緒だった。
 彼がアマリアの外見を疎んでいる事は気づいていたので、隣を歩く時は、少しでも目立たないよう赤い髪を隠す為の帽子を被り、背中をみっともなくない程度に丸めて、小柄に見せるようにしていた。
 涙ぐましい努力は実を結ばなかったわけだが、同じように表に出る場であっても、コバルと同じような振る舞いは許されるものではない。
 王宮に勤められるのは、登用試験を通過した一部の人間のみなのだ。
 他の模範となるべく、意識して身を律しなくてはいけない。
 特に、姿勢の良さ、所作の美しさは重視されている。
 コバルでは、淑女教育の家庭教師にみっちりと指導されていたから、アマリアにとっては、背筋を伸ばして胸を軽く張って歩く方が楽なのだが、勿論、その姿勢では長身が目を引く。
 その為なのか、否か。
 ロイスワルズ王国では、貴人の従者は、貴人本人からの指名で決まる事が多い。
 伯爵令嬢の地位があれば、王族でなくとも、王城勤めの女官の侍女になる可能性が高いのだが、今の所、アマリアに声を掛ける者はなかった。
 その為、日替わりで、体調を崩した者の代理や、突発的に手が必要となった場所に赴いて、仕事をしている。
 揃いのお仕着せを着ていると、アマリアの長身は余計に目立つので、臨時でついた女官に面と向かって、
「わたくしより、侍女の貴女が目立ってどうするの」
と、呆れを含んだ声で言われた事もある。
 例え、丹念に手入れしているにしても、色素の薄い方が美しい、とされるこの国で、血のように濃い紅色の髪に紅い瞳は、褒められる事などない。
 王宮で務める者は、確実な身元保証人が必要とされる。
 アマリアの場合、長く王宮に務めている父が身元を保証しているが、人手不足でもない中での雇用に、強引に採用を迫ったのでは、と疑う声があるのも知っていた。
 ロイスワルズ王国では、王族の住まう奥宮を王城、国政に携わる者の職場や社交の場を王宮と呼び、空中回廊で繋がった王城に入れるのは、王族に許可された者のみ。
 王族の侍女ではないアマリアは、王宮内で指示された仕事しかした事がない。
 仕事をするのはおろか、屋敷から殆ど出た事もなかったアマリアは、道を覚えるのが苦手である事を、王宮に来て自身でも初めて知った。
 優秀な従者は、一度通っただけで道を覚えるものだし、行った事のある異なる二か所の地点を繋ぐ道を思い浮かべる事が出来るものなのに、そんな事も出来ないのかしら、と、先輩侍女に嫌味を言われたが、アマリアは、一度や二度では道が覚えられずに、苦労した。
 国政の中枢だけに重要機密であり、万が一漏洩するような事があってはいけないから、紙に地図を描くわけにもいかず、自分の頭で覚える他ない。
 当初は道に迷う事が多く不安だったが、三か月経った今は、王宮内の主要な場所には、問題なく行けるようになっている。
 誰かが教えてくれるわけではないので、試行錯誤しながら、自分なりに道を覚えていったのだ。
 王宮での仕事を一通り経験した結果、年配の侍女からは重宝がられるようになったが、若い侍女達からは何故か疎まれている事にも気づいている。
「そう、良かったわ。急なお客様がお見えになったの。西の離れを整えて頂戴。清掃はしてあるから、それ以外のものを。あと、お客様は侍女をお連れになっていらっしゃらないそうだから、ご滞在の間、貴女が代わりにお仕えして頂戴」
「承知致しました。お客様のお名前を伺っても?」
 エリカは、困ったように眉を顰めた。
「それが…チートス王国のアンジェリカ王女殿下なのよ。まだ務めて日の浅い貴方に、他国の王女殿下にお仕えするよう頼むのは、私も心苦しいのだけど…急な事だったから、体が空いている者が他にいないの。でも、私が見ている限り、貴女ならきっと、卒なくこなしてくれると信じているから」
 暖かな眼差しに、アマリアはこくんと息を飲んだ。
「…有難いお言葉です。誠心誠意、お仕えさせて頂きます」
「ただね?貴女が知っているかは判らないのだけれど、王女殿下は、その…ちょっと難しいお方みたいなの。無理難題を言われるかもしれないわ。出来るだけ、ご希望に添うように努力してくれるかしら」
「承知致しました」
 片田舎の領地に住み、社交らしい社交を経験していないアマリアの耳に、他国の王族の話など、そうそう入らない。
 けれど、アマリアの住んでいたコバル領はチートス国境にも程近い上に、アンジェリカは、その美貌と王族の常識に囚われない行動で、他国の田舎にまで噂が出回っている姫君だ。
 一般的な貴族女性の結婚適齢期が、十六才から二十二才。
 王族であれば、生まれる前から婚約が決まっている事も少なくない中、アンジェリカは二十七才でまだ嫁いでいない。
 その美しさから、国の内外を問わず結婚の申し込みは後を絶たないのだが、決して頷かないのだと言う。
(そんな方が、何故、突然お城に…?)
 疑問には思ったが、今のアマリアの仕事は考える事ではない。
 至急、と言われ、エリカに一つ礼をすると、踵を返して西の離れへと向かった。

 王宮、とロイスワルズの民は呼んでいるが、正式名称をワルズ城と言う。
 三角州に築かれたロイスの街の中で、一際堅固な石組の上に、王宮と王城は建っていた。
 城下町から緩やかな傾斜の坂を上った先に、高い城壁が広がり、出入り出来るのは門衛に守られた背の高い城門のみ。
 そこでは、出る者も入る者も、身分を照合され、目的を確認される。
 城門を入ると、大きな広場の向こうに王宮が見える。
 城門からは王宮に隠れて見えないが、王宮と、中庭を挟み空中回廊で繋がっているのが、王族の住まう王城だ。
 中庭は、王族の茶会に使用される為、季節を問わず整えられており、その片隅に建つ小ぢんまりとした瀟洒な白い建物が、「西の離れ」だった。
 長命だった三代前の王太后が、晩年、足腰が弱って城の外に出るのが難しくなった折に、当時の国王が愛する母の為に用意した建物だ。
 王太后の愛した美しい中庭を、どの部屋からも眺められるように設計されていた。
 また、寒い時期でも王太后が花を楽しめるように、離れの傍には、板硝子をふんだんに使用した温室も置かれている。
 王太后亡き後は、諸事情で長期滞在する他国の王族や高位貴族へと提供されてきたが、アマリアが伺候してからはずっと、無人の宮となっていた。
 真新しい寝具を用意し、同行者である騎士と侍従の控えの間を整え、急いで王宮に移動したアマリアは、王宮の応接間で対応に当たっていたセルバンテスに声を掛ける。
 王女一行の先回りをする為、中庭に敷かれた煉瓦敷きの小径ではなく、温室の裏側を通って近道し、居間の壁際で顔を少し伏せたまま待機していると、
「あら、小さくて可愛らしいお部屋ね」
 薔薇の香り。
 華やかな香りと共に現れたのは、赤味の強い金色の髪を編み上げ、真っ赤なドレスに身を包んだ女性だった。
 女性の平均身長がロイスワルズよりも高いチートス人としては、かなり小柄だろう。
 翠玉のように深く大きな緑の瞳には、ところどころに滲むように蒼玉の青が混ざり、きらきらと光を反射しているようだ。
 すっと流れるような柳眉、小さくつんとした鼻、小ぶりで赤い唇が、小さな卵型の顔に、バランス良く配置されている。
 二十七才という年齢に見えない位、少女めいた美貌の持ち主だった。
 幼い顔立ちに見合わない豊満な胸元に、きゅっと絞られた腰、日差しを浴びた事などないような白い手にレースの手袋をして、ほっそりとした指には印章の刻まれた指輪。
 思わせぶりに、紗の張られた象牙の扇子を優雅に扇いでいる。
 真っ赤なドレスは、着る者によっては華美に過ぎるだろうが、アンジェリカの華やかな容姿によく似合っていた。
 勧められる前に、居間の長椅子に優雅に腰を下ろしたアンジェリカの背後には、侍従らしい青年が二人、更に後ろに、アンジェリカより頭二つは大きい騎士が二人、付き従っている。
 騎士も侍従も、はっと目を引く美しい容貌をしていた。
「王女殿下には、是非城内にご滞在頂きたいと、ランドール殿下のご要望です。こちらは、三代前の王太后殿下がお過ごしになられた、当王家にとって思い入れのある宮でございます。離れとなっておりますので、ごゆっくりお過ごし頂けるかと存じます」
 案内してきたセルバンテスが、揶揄するようなアンジェリカの口調に構わず冷静に答えると、顔を伏せたままのアマリアにちらりと視線を遣る。
「王女殿下におかれましては、侍女をお連れになっていらっしゃらないご様子。僭越ながら、ご滞在中は、この者に身の回りのお世話をさせたいと存じます。ご不自由のないように努めますが、何かありましたらお申しつけ下さいませ」
 アマリアが一層頭を下げると、頭のてっぺんから足の先まで、じろじろと見つめる不躾な視線を感じた。
「お前、名は」
「アマリアと申します」
「そう。爵位は」
「父が、伯爵位を賜っております」
「まぁ!ねぇ、ちょっと貴方」
 心底驚いた様子で、アンジェリカがセルバンテスを呼んだ。
「ロイスワルズは、チートスに含む所でもあるのかしら?わたくしの世話が、伯爵家の娘に出来るとお思いなの?わたくし、国では侯爵位以上の家の者としか口を利かない事にしているのよ?」
 ぴく、とセルバンテスの肩が震えるのを、アマリアは見て取る。
「とんでもない事でございます。私共に王女殿下に対して含むものなど、ある筈がございません。大変申し訳ないのですが、ご期待に添うような者を手配する暇がございませんでした。少々お時間を頂戴出来ませんでしょうか」
「仕方ないわね。アーダム」
 扇子を傾けて侍従の一人を呼ぶと、アーダムと呼ばれた侍従が足音も立てずに近寄り、アンジェリカの傍らに腰を屈めた。
 開いた扇子で口元を隠し、彼の耳元で何やら囁く。
 一つ頷くと、アーダムはアマリアに向かって朗々とした声で、当然の口調でこう切り出した。
「殿下は、美しいものがお好きだ。特に女性は、小柄で愛らしい方がよいとお考えになっていらっしゃる。だが、ロイスワルズには小柄な者が多いとお聞き及びであったのに、お前は、ちと大き過ぎる。侍女のなりでは目立って仕方なく、それが殿下にはご不快なのだ。侍女たるもの、主の傍に影のように付き従うべきだからな。しかし、身の回りのお世話をさせて頂きたい、というお前の気持ちは、殿下の広いお心でお許しになるそうだ。解決策として、殿下は、お前に侍従の服を着て仕えるようお命じになっておられる。侍女ではなく、侍従としてであれば、お目汚しにはなるまい」
 アンジェリカは艶然と頷いて、扇子をひらりと一つ扇がせる。
 唖然とした様子のセルバンテスが何か言おうとするのを目で制し、アマリアは深く頭を下げた。
「発言をお許し頂けますでしょうか?」
 アーダムがアンジェリカの顔を伺い、鷹揚に頷く。
 アマリアは、首肯されたのを受けて、頭を再度下げた。
「アンジェリカ王女殿下におかれましては、ご不快なお気持ちにさせてしまい、大変申し訳ない事でございます。只今より、侍従として改めて参りますので、暫し、御前を離れる事をお許し下さい」
「殿下は、お許しになるとの事だ。早く戻るがいい」
 淑女の礼を取ると、アマリアは見苦しくない程度に速足で、離れを出る。
 その後ろから足音が聞こえて振り返ると、セルバンテスが珍しく顔を顰めて追ってきていた。
「アマリア」
「セルバンテス様」
「あのような無理難題、受けずともよいのだぞ。そもそも侍女をお連れでないのは先方だ。侍女をお貸しするのは、飽くまで厚意からなのだから」
「いいえ、王女殿下のご来訪のご用件が終わるまでは、ご指示に従うべきでございます。私如きの事で、付け入る隙など作るわけには参りません」
「だが、妙齢の娘に男装せよ、など…っ」
 セルバンテスは、アマリアの父ギリアンの旧友であり、アマリアとも面識がある事から、王家の家令と王宮の侍女という関係よりも親しい仲だった。
「侍従の服を着るだけで良いのであれば、従います。ご心配有難うございます…おじ様」
 尚も渋い顔のセルバンテスに、駄目押しのように微笑みかけると、セルバンテスは深く溜息を吐く。
「すまないな。出来るだけお早く、ランドール殿下には足を運んで頂く。王女殿下には、最短でお帰り頂こう」
「王女殿下は、ランドール殿下に御用なのですね」
 王宮に勤め始めて、アマリアも何度か、遠くからその姿を見掛けた事がある。
 初めて王宮に足を踏み入れた際に、書庫で助けてくれたのが彼だったのではないかと思うのだが、そもそも、アマリアが接する機会のある人ではないし、ランドールがあの出来事を覚えているとも思えない。
 それでも、他の王族よりも気にかかるのは、一瞬とは言え、接点があったからだろう。
 巷間の噂通り、清冽で穢れのない美貌の持ち主であるランドールの顔を思い出せば、何となくアンジェリカの「用事」も推察出来る気がする。
「アマリア、出来るだけ早く熟練の侍女を手配するから、なるべく王女殿下の視界に入らぬようにな」
「?はい…」
 セルバンテスの言葉に首を傾げつつも、アマリアが頷くと、セルバンテスは、常ならば考えられぬ位に慌てた様子で、王宮へと向かっていった。
「…よし、頑張ろう」
 セルバンテスがああ言ってくれているのだから、長くても三日程度の勤めだろう。
 それまでは何とか、アンジェリカの機嫌を損ねないようにしなくては。
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