光と音を失った貴公子が望んだのは、醜いと厭われた私の声でした。

緋田鞠

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   ***

 離宮滞在四日目。
 明日は、朝食後に直ぐ離宮を発つので、実質最終日。
 昨日の雨も上がり、ランドールとアマリアは連れ立って、薔薇のトンネルの先にある東屋で過ごしていた。
 今日のランドールの目隠しは、薄灰色。
 瞼に感じる日差しも、大分明るくなっている。
 人の話し声だけでなく、鳥の鳴き声、川のせせらぎ、風が梢を渡る音も、はっきりと聞こえるようになっていた。
 バサ、と、鳥の飛び立つ音に、ふと頭を上げると、アマリアが尋ねてくる。
「ランドール様。大分、お耳が聞こえるようになりましたか…?」
 アマリアには、聴力が回復した事は言っていないが、彼の様子を見ていて、感じるものがあるのだろう。
「あぁ。マイルスに着いた翌日位から、徐々にだが、聞こえる音が増えて来た」
「それは喜ばしい事です」
 魔術医療師エルフェイスの診立て通り、事故から三か月で、彼の聴力はほぼ事故前同等に回復している。
 視力の方は試した事がないが、この様子ならば期待出来るだろう。
「王宮に戻ってからなのですが」
 躊躇いがちに、アマリアが切り出した。
「ランドール様のお体が回復した後、私は補佐官室で、どのような業務に携わるのでしょう…?」
「そうだな。立場としては補佐官室付侍女のままだが、我々が行き届かない細々とした雑務の他、日常的に書類の確認に入って欲しい」
「書類の確認、ですか?」
「あぁ。貴女はこれまで、王城の執務室に付き添ってくれていたから、王宮の補佐官室の様子を知らないだろう。王宮の補佐官室では、分野ごとに専任の補佐官がいて、部署を分けて作業している。そこから上がった書類を、補佐官長のアレクシスがまとめ、締め切りの早いものから順に俺が確認する次第だ」
「はい」
「アレクシスと俺の間に入って、一度書類に目を通して欲しい。その上で、確認が必要と思ったものは、俺に上げる前に元の部署に差し戻して欲しい」
「それは…確かに、これまでにも似たような作業は行っておりましたが、女の私が書類の確認等と言う大事に携わる事を、補佐官の皆様にご納得頂けますでしょうか?」
「頭が固い者に、補佐官は勤まらん。だが、万が一、抵抗する者がいたとしても、アマリア嬢の仕事を見れば、理解するだろう」
 結果的に、どの部署も作業の効率化が計れるのだから。
 自信に満ちたランドールの言葉に、アマリアは頬を緩める。
「承知致しました。私の持てる能力の全てで、職務に邁進させて頂きます」
 休暇終了後の方向性が見えた事で安心したアマリアは、一つ深呼吸して、目の前の景色に改めて目を遣った。
 東屋の柱に絡む満開の蔦薔薇に、薔薇のトンネル。
 夢のようなこの景色も、離宮と言う場所柄、常に見る人がいるわけではない。
 そもそもが王家の所有なのだから、王族と彼等に招かれた人々以外が、目にする事はないのだ。
 年によっては、訪れる者が一人もいない事もあるだろう。
 それでも、人知れず、だが喜びに満ちて命の限りに咲き誇る姿を見て、自分もそうありたいと思う。
 誰に気づかれずとも、誰の目に触れずとも、自分の精一杯で咲いていたい。
「アマリア嬢。先日の続きを読んでくれるか」
 ランドールに呼ばれて、手にした本に目を落とす。
 『ランドールの冒険』の続刊だ。
「はい」
 答えると、長椅子で隣に腰を下ろしていたランドールが、拳一つ分の距離を詰める。
 肩を寄せ合ってうたた寝したからか、共にダンスをしたからか、肌が触れる距離にも、前程の居たたまれなさはない。
 寧ろ、人肌の温かさに落ち着く心地がして、アマリアは心の中で首を傾げる。
 元婚約者とは、肌が触れる距離どころか、隣り合って座った事もなかった。
 だから、未婚の異性同士の距離は、どれくらいが適切なものなのか、判らない。
 自分よりも世慣れているランドールが取る距離なのだから、きっと、問題はないのだろうけれど。
「『屋根裏から始まった冒険の次は、何処に行くのがいいと思う?僕は知ってる。勿論、地下室だ!』」



 今回は二人とも寝ずに、本を一冊読み終えた。
「二十年振りだったが、子供心に胸を高鳴らせた事を思い出した。有難う、アマリア嬢。自分で読んでいたら、きっと違う気持ちだったろうな」
「そうでしょうか?とても面白いお話でしたけれど」
「自分で読むと、つい、『知ってる』と思う場面は飛ばして読むものだ。勿論、それなりの満足感は得られるが、一字一句読む満足感とは違う」
「なるほど。勉強になります」
 心底、感心した様子のアマリアに、ランドールは嬉しくなる。
 このような雑談を、真っ直ぐ受け止めてくれる令嬢に、これまで出会った事がない。
 茶会や夜会で出会う令嬢達は、王都の流行りや人の噂話は喜ぶし、ランドールの私的な話も聞きたがるが、その内容次第では落胆した顔を見せるのだ。
「あぁ、そう言えば、アマリア嬢は、乗馬は得意だろうか?」
 『ランドールの冒険』第二巻では、主人公ランドールが悪漢に追われ、馬で脱出する場面が描かれている。
「乗馬ですか?父が馬好きなので、領地で飼っているのですが…私は敷地内で、並足の練習程度です」
「そうか。ならば、俺の体が回復したら、乗馬の練習をしてみないか?王宮にも、騎士達の練習用の馬場があるのだ」
「まぁ、よろしいのですか?一度、駆けさせてみたかったのです」
 アマリアの声が弾んだ。
 父であるギリアンが家から出さなかっただけに、これまで余り活動的ではなかったようだが、話をしていると、アマリアは本来、体を動かす事や外出する事を好むように見える。
「これまでに経験がない事も、機会があれば、何でも挑戦してみたいと考えております」
 力強いアマリアの言葉に、ランドールも頷いた。
「挑戦してみたい事があれば、言うといい」
 初めての女性の部下を、大切にしてくれようとしているのだとは思うが、そもそもが例外的な立場だ。
 余りランドールに気を遣われると、不審を持たれて、彼の縁談にも障りが出るのではないか。
「それは、嬉しいお言葉ですが…でも、ランドール様のご迷惑になるのでは」
「何、必然的に仕事と余暇をきっちり分ける事になるから、却ってアレクシスは喜ぶだろう。補佐官達の仕事にもゆとりが生まれる筈だ」
「お仕事の問題は、ないのでしょうけれど…」
「アマリア嬢は、俺と余暇を過ごすのは負担か?」
「い、いいえ、そのような事は決して」
 男女の機微に疎いアマリアにも、流石に、ランドールが自分に好意を示してくれている事は伝わる。
 ただ、その好意の種類が判らないだけで。
「私は、ランドール様と離宮で過ごさせて頂いて、とても楽しく充実した毎日でした」
 彼への気持ちが刻一刻と深まっていくのを感じられる程に。
 胸の中の透明な硝子瓶には、きらきらと輝く美しい思い出がたくさん集まっている。
 そして、だからこそ、余りに近い距離は、望んではいけない事を望んでしまいそうで怖い。
「俺も、貴女と過ごす時間はとても楽しい。自分を飾らず、気楽で安心出来る。…それだけでは、共に余暇を過ごす理由として、足りないか…?」
 隣り合って座るランドールが、そっと手を差し伸べて、手探りでアマリアの手に触れる。
 ダンスの時にはもっとしっかりと組んだのに、ただ触れるだけの方が、より彼の熱を感じて、アマリアの鼓動が早鐘を打った。
「いいえ…そう言って頂けて、嬉しいです」
 それ以外に、何が言えると言うのだろう。
「あの、明日には王都に戻りますし、離宮での思い出について、お聞かせ頂けますか?」
 アマリアは、これ以上、同じ話をするのが怖くて、半ば強引に話題を切り替えた。
「離宮の思い出…?そうだな、幼い頃は、兄や従姉妹達と連れ立って、年に一度は訪れていた。アマリア嬢は、俺以外の王族に会った事は?」
「先日、王城でエイダ王女殿下にお声掛け頂きましたが、他の皆様に拝謁させて頂いた事はございません」
「エイダに会ったのか。彼女は俺と十違うから、離宮を共に訪れたのは、ほんの小さな頃のみだったな」
 国王夫妻は、五人の王女を授かった。
 二十九の長女アデリーナは代々国政に携わる公爵家の夫人として二男一女を、二十七の次女プリシラは他国との交易を担う侯爵家の夫人として一男二女を、二十三の三女ラウラは騎士団の役職を務める侯爵家の夫人として一男一女を儲けている。
 二十の四女ソフィアは、勧めていた縁談に乗り気でないようなので、改めて、良縁を探している所だ。
 十六になった五女エイダは、姉達の婚家を訪れて甥や姪と遊んでいる方が楽しいようで、同世代の貴族子息に興味を持っていないようだ、と、ランドールは続けて語った。
「アデリーナ姉上やプリシラ姉上は、年が近いのもあって、離宮でよく共に遊んだ。今は、如何にも淑女然として子供達に注意を促しているが、そう言う姉上達こそ、お転婆だったのだ。それと比べると、ソフィアは大人しいし、エイダは姉達を見ていて、要領よく過ごしているように見える。何をすると叱られるのか、よく判っているのだな」
「私は従兄弟もおりませんので、年の近しい親族の関係に憧れのようなものがあります」
「知らぬものだからこそ、抱く憧れと言うのがあるのは判る。俺は、弟が欲しかった」
 だからこそ、『ランドールの冒険』が楽しかったのかもしれないな、と、ランドールは付け足した。
 ランドールの冒険には、主人公ランドールを慕う弟分が描かれているのだ。
「憧れの叶う世界が、本の中にあったのですね。思えば読書が好きなのは、ここではない世界へ入り込めるような気がしたから、と言う気が致します」
「そうだな」
 現実の世界を離れて、夢を叶えられるのが、本の中の世界だった。
「だが、現実に変える事の出来る夢もあるだろう。それを、一緒に叶えて欲しい」
 寄り道しただけで、結局はランドールの希望を再確認しただけになったのだが、アマリアは、先程とは違う気持ちでその言葉を受け止める。
 現実に変える事の出来る夢。
 それは、どんな夢なのだろう、と、希望と不安を半々に抱きながら。
「…はい、ランドール様」

   ***

 離宮滞在最終日。
 朝食を取った後、荷物をまとめ、行きと同じくジェイクが操る馬車で、南下する。
 大きく違うのは、行きは向かい合って座ったのに、帰りはランドールの希望で横並びに座っている事だ。
 ランドールの目隠しは、真っ白なものに変わっている。
 瞼に感じる光は、布を通す分、弱くなっているが、しっかりと感じられる。
 腕が触れる距離に座り、車窓から見える景色に人家が増える様を、何となしに眺めながら、時折、短く言葉を交わす。
 沈黙は苦痛ではなく、余暇の余韻に浸っているのがお互いに伝わっていたので、余計な言葉は不要だった。
「アマリア嬢は、いつも、馬車では何を?」
「馬車自体、乗り慣れていないものですから、車窓を眺めているだけで楽しいです」
「なるほど…珍しいものでも見つけたか?」
「コバルは北東にありますから、ロイスよりも寒いのです。冬には毎年、積雪があります。その為、雪に対応して頑丈な家が建てられているのですが、この辺りの家は、もう少し軽やかに見えます」
 コバル領では、平民の家も雪の重みに耐えうる煉瓦壁のものが一般的だが、雪が積もらないマイルスやロイスでは、平民の家では木造建築が多い。
「本で読んだ事を、実際に自分で確認出来るのは、とても勉強になります」
「勉強は、好きか?」
「そうですね、知識が一つ増えると、何だか自分が豊かになった気が致します」
 アマリアの言葉に、ランドールはいつしか、教師に教えられる事や書物で得る知識が全て、国の為、仕事の為で、自分の為とは思わなくなっていた事に気が付いた。
 自分の為に増えた知識が、国や仕事の為になるのであれば、それが理想だろう。
「そう、か…そうだな」
 アマリアと居ると、自分の事を好きになれる気がする。
 その喜びこそが、彼女を傍に置きたい理由なのかもしれない。
「ランドール様は、普段は馬車でどのように過ごされているのですか?」
「子供の頃は、本を読んでいた。城では、勉強になる本しか読ませて貰えなかったから、娯楽の為の冒険小説は、移動の車中での楽しみだったのだ。成人してからは、専ら仕事だな」
「では、今回のように何もしない移動は、初めてなのですね」
 何気ないアマリアの言葉に、心動かされる。
 彼女と経験出来る『初めて』は、何でも嬉しい。
「ですが…馬車の中で読書やお仕事など、車酔いはなさらないのですか?」
「あぁ…そう言えば、車酔いは経験がないな。幼い頃から、移動と言えば馬車だったから、慣れではないか?」
「まぁ、では、私も慣れたら、レース編み位、出来るようになるでしょうか?」
「レース編みが好きなのか?」
「趣味と実益を兼ねて、でしょうか。コバルには、ロイス程、職人がおりません。欲しいものは自分で作る他ないのです」
「素晴らしいな。自分の手を動かして、作る過程をつぶさに見ながら、完成させる事が出来るのだろう?」
「ランドール様も、同じ事をなさっていますよ」
 アマリアの言葉に、ランドールは不思議そうにアマリアの方を振り向いた。
「同じ事を?」
「そうです。ランドール様達、王宮にお勤めの皆様が、ロイスワルズ王国の未来を編んでいらっしゃいます。国の完成形、と言うものは、永遠に見られません。ですが、短い目で見れば、一つ一つの行事を準備し、遂行し、完了する。それも一つの作品です」
 日常的に開かれている茶会一つにしても、参加者の嗜好、開催時期、開催場所を考慮して、室内装飾、装花、茶菓子、茶の産地、主催の服装まで、全ての材料を検討するのだ。
 会話の内容までも、参加者に合わせて提供する必要がある。
 その結果として、参加者が満足すれば完成だ。
「レース編みにも、小さな部品をたくさん編んで、一つの大きな作品に編み繋ぐ大作品があります。一つ一つの施策、政策、茶会、夜会…それら全てが、ロイスワルズと言う王国を編んでいく為に必要な小作品なのです。小作品が集まって、大きな大きな、国と言う作品になる。この度、補佐官室のお仕事を手伝わせて頂いて、その事を実感致しました。ランドール様は、その大きな作品の制作を、指示し、監督なさる立場におられるのです。私は、ランドール様の下で国政の一端を垣間見る事が出来て、光栄に思っております」
 アマリアの言葉に、ランドールは目の前の霧がパッと晴れた心持ちがした。
 王族に生まれ、当然のように与えられた職責を、疑問を挟む余地もなく懸命に果たしてきた。
 愛国の心がないわけではないが、それが課せられた義務だったからだ。
 王族に生まれたが故に、衣食住が十分に満たされ、自分よりもずっと優秀な者が頭を下げ、立ててくれている。
 特権の代償としての義務なのだ、としか、感じられていなかった。
 そこに収まるのは、ランドールである必要はない。王族男子でさえあれば、誰でもいいのだ、と。
 だが、アマリアの視点を通すと、これまでただ「処理」してきた仕事の意味が変わる。
 一つ一つの仕事は、その後の国の在り方に繋がっている。
 漠然と判っていたつもりになっていた事が、すとん、と心に落ちる。
 きっとこれからは、仕事に向き合う際の心の在り処が、変わってくるだろう。
 彼女はもしかすると、自分以上に、国政に携わる責任を理解しているかもしれない。
「…貴女の言葉は、不思議だな」
 見た事はないが、世界には砂しかない乾いた地があると言う。
 乾いて、かさかさとひび割れていた心に、アマリアの言葉は恵みの雨のように染み渡っていく。
 ランドールは、我欲を満たす事しか考えていない人々に、うんざりしていた。
 昇進や縁談を求めてランドールに接触する一方で、彼らが何かをランドールに与える事はない。
 ランドールは王族であり、十二分に満たされた存在なのだから、何かを求める等と、考えもしないのだろう。
 その自分勝手さに辟易している事にすら、彼らは気づく事がない。
 だが、気づいて欲しい、察して欲しい、と求めるばかりで、どうして気づいてくれないのだ、言わずとも察せないのだ、と言う不満を、表に出さずに抱え込んでいたのは、ランドール自身だ。
 他者の気持ちなど、伝えなくては判るわけがないのだから。
 アマリアは、離宮滞在中に言っていた。
 与えてくれないと嘆くばかりで、自分で動こうとしていなかった、と。
 望むものを得る為には、自ら動く必要があると判った、と。
「貴女と居ると、俺はなりたかった自分になれる気がする」
(だから、貴女を手放したくない)
 目が見えようが見えなかろうが、この気持ちが変わるとは思えない。
 この先、ずっと、隣に立って、自分の知らない世界を教えて欲しい。
 ランドールはそっと、隣に座るアマリアの手を握った。
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