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アルフォンス様が落ち着くまで付き添った後、私は、アラベラ様に出来るだけ早くご報告のお時間を頂けるようパウズ様にお願いする為、普段は出入りしない王城の事務方執務室へと顔を出した。
日勤の使用人の定時は大分過ぎていたけれど、執務室には人が大勢出入りしていて、陛下のお膝元は不夜城なのだな、としみじみ実感する。
まさか、自分が王妃殿下直属と言う形でその中にいるとは。
無事にパウズ様と面会してから、涙で濡れたお仕着せを私服に着替え洗濯場に出して、通用口から出た所で、空が真っ暗になっている事に気が付いた。
「あ~…しまった」
昨夜から続いていた雨は、いつの間にか上がっていた。
遠い北の空に目を遣ると、薄曇りの中、一番星が瞬いている。
勤め始めて一ヶ月、ここまで遅くなった事はない。
王宮には、大勢の人間が務めている。
仕官している者は貴族なので、彼等は自家用馬車で通勤しているけれど、下働きの者には平民が多い。
王宮内の寮に住んでいる者以外は自宅から通勤しており、彼等の足として、王宮と市街地を結ぶ馬車が定期的に走っているのだ。
私もこの馬車を利用して通勤しているのだけれど、いつもよりも帰宅時間が遅くなったせいで、最終馬車が行ってしまっていた。
王宮勤め以外の人間が利用する辻馬車の停車場も、王宮の城門前にあるものの、とうに王宮の役所機能は閉庁しているし、暗くなると馬車を走らせる危険が増すから、もう運行は終了しているだろう。
ミカの国のように、夜でも明るい街灯があればいいが、道沿いの灯りを安全に管理する方法は、まだない。
唯一走っているのは、灯りを掲げながら走行出来るように訓練された貴族の馬車だけだ。
「う~ん…一時間って所かな…」
王宮は、街全体を見渡せる小高い丘の上にある。
警護の観点から、周辺に建物はない。
ウェインズ家の屋敷がある市街地までは、徒歩で一時間程度だろう。
王城勤めの体裁を保つ為、ヒールのある靴を履いているけれど、歩けないわけではない。
よし、と一つ心の中で気合を入れて、歩き出そうとした時。
一台の馬車が私の脇を抜け、少し行った先で停車した。
「ミカエラ」
馬車から降りてきたのは。
「ノーレイン閣下」
何故、此処に。
王立騎士団の練兵場は市街地の西にあるから、用事がなければ王宮にいらっしゃる筈がないのに。
ダリウス様は、王立騎士団の紺色の制服ではなく、外出着をお召しになっていた。
王宮に、何らかの用事がおありだったらしい。
「帰りか?馬車は?」
相変わらず、言葉の少ない方だ。
こちらが脳内で単語を補完しなくてはならない会話は、昔から変わらない。
「先程、本日の業務を終了しました。普段よりも遅くなってしまったので、最終馬車が行ってしまったようです」
「ウェインズ家の馬車は?」
あぁ、そちらの馬車か。
「御者のベンはもう高齢ですし、馬達も年老いています。たまの外出でしたら問題ありませんが、毎日の送迎を頼むのは、負担が大き過ぎますので」
「…そうか」
父が男爵位を授与された時に召し抱えた御者のベン爺は、腰痛に悩むお年頃だ。
馬達も、のんびりと厩舎で餌を食んでいるのが落ち着く年齢になった。
私がこれからも王城勤めを続けるのであれば、新しい御者を雇い、新入りの馬を飼う選択肢もあるけれど、私は飽くまで、臨時の教育係。
今日の様子を見る限り、お役御免は遠い話ではない。
「乗れ」
「え?」
「俺が来ている日で良かった。うちの馬車に乗るといい」
「お気持ちは有難いのですが、私でしたら、歩けますから」
「夜に一人歩きなどさせられるか。乗れ」
有無を言わさぬダリウス様が、私の手首を握る。
然程、力を入れているようには思えないのに、その手が振り払えない。
そのまま、ダリウス様の背後で静かに待機していた馬車に連れて行かれた。
王宮に上がると言うのに、ノーレイン家の家紋が控え目に描かれているだけの馬車なのは、私的な訪問と言う事だろうか。
もしかすると、ユリシーズ様にお会いになる為、王城に見えていたのかもしれない。
お忙しいだろうに、困った様子の私を見掛けたから、馬車を停めてくださったのだ。
…本当に、昔から優しい。
車内に腰を落ち着け、ダリウス様は、こん、と一つ馬車の壁を叩いて出発を促すと、私の顔を改めて見た。
「……久し振りだな。あれから、四ヶ月か。怪我はもういいのか?」
「はい、ご無沙汰しております。直ぐに診て頂いたお陰で、何も問題はございません」
そのまま、暫く沈黙が続く。
ダリウス様は、視線を少し逸らすと、
「ランドンはどうだ」
と尋ねられた。
「大分、回復してきております。お恥ずかしながら、わたくしの夫婦仲が思っていた以上に父に精神的負担を強いていたようで、元夫が家を出てから、少しずつ気持ちが上向きになって参りました。近場であれば、出掛ける事も可能になって参りましたので、折を見て、アルフォンス殿下にご紹介しようかと思っております」
「アルフォンスに?」
「はい。アルフォンス殿下は、『マグノリアの奇跡』の従騎士に興味をお持ちのようですから。ノーレイン閣下に剣の手ほどきをした父と、話をされてみたいのだそうです」
そう答えると、ダリウス様の眉間に、軽く皺が寄った。
これは、ダリウス様が何かを考える時の癖だった。
眉間に皺を寄せると、不快な思いをさせたのかと思って人が怖がるから、止めた方がいい、と散々言って指で伸ばしたけれど、直らなかったようだ。
「アルフォンスの教育係になったと聞いたが…」
「正確には遊び相手、でしょうか」
「遊び相手?」
「アルフォンス殿下は、まだ七歳にも関わらず、王族の責務に真っ直ぐに取り組んでいらっしゃいます。誰が何を言わずとも真面目に取り組まれる殿下ですから、誰かが強引に休憩を取るよう促さないといけないのです」
「あぁ…」
ダリウス様は、納得したように頷く。
「危険な事はないか?」
「王城ですもの。陛下のお膝元で、危険な事などございません」
「アルフォンスに休憩を取らせる係と言う事は、アルフォンスに影響を与えられる立場と言う事だ。好ましく思わない者もいるだろう」
鋭い。
私は、アルフォンス様の様子と教師陣の暴走具合を見ながら、強制突入をしているつもりだけれど、私の思惑によって優遇されている教師がいるのでは、と疑念に駆られる人がいるらしい。
アルフォンス様の目がない場で、実力行使的な手段に出て来る人が段々と増えて来ている。
アラベラ様特任侍女、と言う肩書は気になっても、『ミカエラ・ウェインズ男爵令嬢』なら、どう扱っても問題ない、と言う気持ちがあるのだろう。
末端も末端であるウェインズ男爵家の娘をアラベラ様が名指しで雇用したなどと、彼等は思いつきもしないから、『たまたま』『偶然』選ばれただけの娘ならば、如何様にも出来ると思っている。
つまり、私を懐柔して自陣に取り込むか、取り込めないようなら排除して、別の扱いやすい『特任侍女』を推薦すればいい、ただの遊び相手の男爵令嬢の代わりなど幾らでも見つかる、と考えているのだ。
まずは懐柔すべく、色仕掛けやら袖の下やら多岐に渡る方法で、何とか少しでも割り当てられる時間を長く確保しようとしてくる。
長くも何も、本来の授業時間を邪魔する事はないのだから、それで納得すればいいのに。
勿論、全てバッサリお断りしているけれど、しつこい人の一部は、次第に私を排除する方向へと動いている気配がある。
そんな行動に出る人間は、何故、アラベラ様が特任侍女なんて特別枠を作ってまで、アルフォンス様を休憩させようとしているのか、理解していない、と言う事だ。
「…問題ございません」
けれど、ダリウス様に言う必要はない。
ただでさえ、私の働き口の事で気を煩わせてしまったのだから。
「相変わらず、嘘を吐くのが下手だな」
ダリウス様は溜息を吐いた。
「え」
「癖が変わってないぞ」
言われて、自分が両手の人差し指を忙しなくとんとんと打ち合わせている事に気づいた。
幼い頃から、嘘を吐こうとすると気持ちがそわそわして、手遊びをしてしまう。
「…だから、安全な仕事を、と言ったのに…」
小さな声は、独り言だろう。
確かにアラベラ様は、ダリウス様が王宮内の安全な仕事を私に推薦してくださるつもりだったと仰っていた。
「今日遅くなったのは、そのせいではないのだろうな?」
「いえ、アルフォンス様とのお話が盛り上がった為で、」
幾らダリウス様が身内とは言え、私の口から勝手にアルフォンス様の話をするわけにはいかない。
「新しい御者を雇う予定は」
「ございません。わたくしの仕事も、いつまで継続するか不明なものですし」
「…判った」
そのまま、口を噤んで何かを考え始めたダリウス様に、私も口を閉じる。
そっと、向かいに座るダリウス様の様子を窺った。
まさかまた、こんなに近くでお顔を見る事が出来るとは。
「……よし」
何かを決めたのか、ダリウス様はきっぱりと言うと、私の顔を正面から見据えた。
「ノーレイン邸から仕事に通うといい。ランドンの調子も上向いているならば、お前が毎晩自宅に帰らずとも大丈夫だろう。馬車ならば数台あるし、朝夕の送迎が出来る」
「え?」
「甥が世話になっている教育係なのだから、我が家で世話して何の問題もない」
「閣下、それは、」
「もう決めた」
「もう決めた」って、何だそれは。
何を言われたのか、理解が出来ない。
「閣下!」
「ダリウスだ」
「いえ、ですが、」
「昔のように呼べないと言うなら、名で呼べばいい。俺は、閣下なんて名ではない」
「ですが、」
「ですがも何もあるか。俺がいいと言ってるんだ」
『お、れ、が』と、一音一音区切って強調してきた。
あぁ、もう!
一度決めると梃子でも動かない頑固な所まで、変わっていないと言うのか。
「ついでに、その似合わぬ話し方もやめろ。背中が痒くなる」
「似合わないと仰られても…淑女として、必要な事ですから…」
「今更、お前の本性が判っている俺の前で淑女に擬態した所で、どうなる?」
「…ぅ…っ」
擬態、とまで言われてしまうと、何も言い返せない。
自分でも、淑女は仮面に過ぎないと思っているのだから。
――母の体が弱く、寝込む時間が長かったせいで、私の教育を差配したのは父だった。
平民出身な上に気の回るタイプでもなかった父が、貴族令嬢に相応しい教育を手配出来た筈もない。
そんな伝手もない。
何しろ、三歳の娘に木刀を持たせた男だ。
父の愚直なまでの素直さと、平民らしい表裏のない言葉遣いを学んで、私は成長してしまった。
名誉爵位の男爵家に生まれた娘に、令嬢教育が必要だと、誰も思っていなかったのもある。
十歳で令嬢として未熟である事を自覚し、これではいけない、と女学校に通う事で、どうにか淑女らしい仮面を被れるようになったとは思うけれど、自分の身に沁みついているか、と問われれば、それは否だ。
はぁ、と深く溜息を吐くと、恨みがましい目でダリウス様を見てしまう。
「どうした、まだ猫を後生大事に抱えているのか?」
「……折角、何十匹も飼ってたのに、逃げちゃったじゃない」
ぴったりと閉じていた心の中の扉を、こじ開けられた気がした。
強引なのに、それが全然、嫌じゃない。
何だか息がしやすくて、胸の奥の奥までしっかりと膨らんだ気がする。
「あぁ、そちらの方がお前らしい」
にこり、と。
本当に嬉しそうに微笑まれて、一体、どんな顔が出来ると言うのか。
「一度、帰宅して準備するといい」と、ダリウス様は、ウェインズ邸まで馬車で送ってくれた。
「荷をまとめておけ。明日、お前が出仕している間に、取りに来させる。朝も迎えの馬車を寄越すから安心しろ」
「いや、あのね、閣下」
「ダリウス」
「…閣下」
「ダリウス、だ」
「そう言うわけにはいかないでしょう。幼馴染だからって、身分差のある女に呼び捨てにされるわけにはいかない立場だって、よく判ってるくせに」
ダリウス様は、呆れたような目で私を見た。
「人前でお前が擬態出来る事も、もう十分判った」
「…ご信頼、どうも。でも、何処で誰が見てるか、判らないし」
「それを言うなら、馬車に二人きりと言う時点で問題だぞ」
「あ」
そうだ。
押し切られてしまったけれど、そもそも、密室に二人きりって、大問題ではないか。
「やっぱり、色々と問題があるでしょう。幾らアルフォンス様の教育係と言ったって、王都に住んでるのに、ノーレイン家にお世話になる理由がないもの。使用人の部屋を借りるのはともかく、王城に通勤する馬車をわざわざ出して貰う、って…おかしいでしょ。一体、何様なのか、って話になるわよ?」
「使用人部屋を貸すつもりはない。部屋なら幾らでもある」
「…客間もおかしいからね?私は王城に侍女の身分で雇用されている人間で、客人じゃないんだから」
「本棟に住めばいい」
「もっと問題でしょ!」
本棟は、主家家族と、側近クラスの使用人の部屋がある場所だ。
客間もあるだろうけれど、そこに立ち入れるのは、余程近しい身内だろう。
ノーレイン家の使用人達に、何と言い含めるつもりなのか。
「問題ない。アルフォンスの傍に仕えている為に、身の危険がある、と説明するだけだ」
「あのね、私の事を心配してくれてるのは、判ってる。有難う。でも、貴方は独身で、公爵で、十年振りに王都に戻って来て、今、正に縁談が山のように来ている最中でしょ?幾ら後ろ暗い所がなくたって、付け入る隙を作ったらダメ」
「縁談を受けるつもりはない」
「受けるつもりはない、って…」
筆頭公爵が独身を貫くわけにいかない事は、よく判っているだろうに。
思わず絶句すると、ダリウス様は、ちら、とこちらを見て、憮然とした顔をした。
「お前だって、独身だろう」
「それは…」
「それとも、結婚する気があるのか?」
「ないけど…」
「俺だって、俺が結婚したい相手とでなければ、する気はない」
あぁ、なんだ。
結婚する気はあるのか。
相手を選びたいと言うだけで。
ホッとしたような、残念なような、複雑な気持ちに下唇を軽く噛んだ。
「ともかく。『アルフォンスの教育係には、ノーレイン家が後見についている』と言う事をこれみよがしに知らしめる。お前が義姉上から何をどれだけ聞いているのか判らんが、これは、アルフォンスの為でもある」
政治的な絡みの事は、私には判らない。
けれど、アルフォンス様の為、と言われたら、強硬に断るのも難しい。
「いいな?」
有無を言わさぬ口調に、こくり、と小さく頷いた。
日勤の使用人の定時は大分過ぎていたけれど、執務室には人が大勢出入りしていて、陛下のお膝元は不夜城なのだな、としみじみ実感する。
まさか、自分が王妃殿下直属と言う形でその中にいるとは。
無事にパウズ様と面会してから、涙で濡れたお仕着せを私服に着替え洗濯場に出して、通用口から出た所で、空が真っ暗になっている事に気が付いた。
「あ~…しまった」
昨夜から続いていた雨は、いつの間にか上がっていた。
遠い北の空に目を遣ると、薄曇りの中、一番星が瞬いている。
勤め始めて一ヶ月、ここまで遅くなった事はない。
王宮には、大勢の人間が務めている。
仕官している者は貴族なので、彼等は自家用馬車で通勤しているけれど、下働きの者には平民が多い。
王宮内の寮に住んでいる者以外は自宅から通勤しており、彼等の足として、王宮と市街地を結ぶ馬車が定期的に走っているのだ。
私もこの馬車を利用して通勤しているのだけれど、いつもよりも帰宅時間が遅くなったせいで、最終馬車が行ってしまっていた。
王宮勤め以外の人間が利用する辻馬車の停車場も、王宮の城門前にあるものの、とうに王宮の役所機能は閉庁しているし、暗くなると馬車を走らせる危険が増すから、もう運行は終了しているだろう。
ミカの国のように、夜でも明るい街灯があればいいが、道沿いの灯りを安全に管理する方法は、まだない。
唯一走っているのは、灯りを掲げながら走行出来るように訓練された貴族の馬車だけだ。
「う~ん…一時間って所かな…」
王宮は、街全体を見渡せる小高い丘の上にある。
警護の観点から、周辺に建物はない。
ウェインズ家の屋敷がある市街地までは、徒歩で一時間程度だろう。
王城勤めの体裁を保つ為、ヒールのある靴を履いているけれど、歩けないわけではない。
よし、と一つ心の中で気合を入れて、歩き出そうとした時。
一台の馬車が私の脇を抜け、少し行った先で停車した。
「ミカエラ」
馬車から降りてきたのは。
「ノーレイン閣下」
何故、此処に。
王立騎士団の練兵場は市街地の西にあるから、用事がなければ王宮にいらっしゃる筈がないのに。
ダリウス様は、王立騎士団の紺色の制服ではなく、外出着をお召しになっていた。
王宮に、何らかの用事がおありだったらしい。
「帰りか?馬車は?」
相変わらず、言葉の少ない方だ。
こちらが脳内で単語を補完しなくてはならない会話は、昔から変わらない。
「先程、本日の業務を終了しました。普段よりも遅くなってしまったので、最終馬車が行ってしまったようです」
「ウェインズ家の馬車は?」
あぁ、そちらの馬車か。
「御者のベンはもう高齢ですし、馬達も年老いています。たまの外出でしたら問題ありませんが、毎日の送迎を頼むのは、負担が大き過ぎますので」
「…そうか」
父が男爵位を授与された時に召し抱えた御者のベン爺は、腰痛に悩むお年頃だ。
馬達も、のんびりと厩舎で餌を食んでいるのが落ち着く年齢になった。
私がこれからも王城勤めを続けるのであれば、新しい御者を雇い、新入りの馬を飼う選択肢もあるけれど、私は飽くまで、臨時の教育係。
今日の様子を見る限り、お役御免は遠い話ではない。
「乗れ」
「え?」
「俺が来ている日で良かった。うちの馬車に乗るといい」
「お気持ちは有難いのですが、私でしたら、歩けますから」
「夜に一人歩きなどさせられるか。乗れ」
有無を言わさぬダリウス様が、私の手首を握る。
然程、力を入れているようには思えないのに、その手が振り払えない。
そのまま、ダリウス様の背後で静かに待機していた馬車に連れて行かれた。
王宮に上がると言うのに、ノーレイン家の家紋が控え目に描かれているだけの馬車なのは、私的な訪問と言う事だろうか。
もしかすると、ユリシーズ様にお会いになる為、王城に見えていたのかもしれない。
お忙しいだろうに、困った様子の私を見掛けたから、馬車を停めてくださったのだ。
…本当に、昔から優しい。
車内に腰を落ち着け、ダリウス様は、こん、と一つ馬車の壁を叩いて出発を促すと、私の顔を改めて見た。
「……久し振りだな。あれから、四ヶ月か。怪我はもういいのか?」
「はい、ご無沙汰しております。直ぐに診て頂いたお陰で、何も問題はございません」
そのまま、暫く沈黙が続く。
ダリウス様は、視線を少し逸らすと、
「ランドンはどうだ」
と尋ねられた。
「大分、回復してきております。お恥ずかしながら、わたくしの夫婦仲が思っていた以上に父に精神的負担を強いていたようで、元夫が家を出てから、少しずつ気持ちが上向きになって参りました。近場であれば、出掛ける事も可能になって参りましたので、折を見て、アルフォンス殿下にご紹介しようかと思っております」
「アルフォンスに?」
「はい。アルフォンス殿下は、『マグノリアの奇跡』の従騎士に興味をお持ちのようですから。ノーレイン閣下に剣の手ほどきをした父と、話をされてみたいのだそうです」
そう答えると、ダリウス様の眉間に、軽く皺が寄った。
これは、ダリウス様が何かを考える時の癖だった。
眉間に皺を寄せると、不快な思いをさせたのかと思って人が怖がるから、止めた方がいい、と散々言って指で伸ばしたけれど、直らなかったようだ。
「アルフォンスの教育係になったと聞いたが…」
「正確には遊び相手、でしょうか」
「遊び相手?」
「アルフォンス殿下は、まだ七歳にも関わらず、王族の責務に真っ直ぐに取り組んでいらっしゃいます。誰が何を言わずとも真面目に取り組まれる殿下ですから、誰かが強引に休憩を取るよう促さないといけないのです」
「あぁ…」
ダリウス様は、納得したように頷く。
「危険な事はないか?」
「王城ですもの。陛下のお膝元で、危険な事などございません」
「アルフォンスに休憩を取らせる係と言う事は、アルフォンスに影響を与えられる立場と言う事だ。好ましく思わない者もいるだろう」
鋭い。
私は、アルフォンス様の様子と教師陣の暴走具合を見ながら、強制突入をしているつもりだけれど、私の思惑によって優遇されている教師がいるのでは、と疑念に駆られる人がいるらしい。
アルフォンス様の目がない場で、実力行使的な手段に出て来る人が段々と増えて来ている。
アラベラ様特任侍女、と言う肩書は気になっても、『ミカエラ・ウェインズ男爵令嬢』なら、どう扱っても問題ない、と言う気持ちがあるのだろう。
末端も末端であるウェインズ男爵家の娘をアラベラ様が名指しで雇用したなどと、彼等は思いつきもしないから、『たまたま』『偶然』選ばれただけの娘ならば、如何様にも出来ると思っている。
つまり、私を懐柔して自陣に取り込むか、取り込めないようなら排除して、別の扱いやすい『特任侍女』を推薦すればいい、ただの遊び相手の男爵令嬢の代わりなど幾らでも見つかる、と考えているのだ。
まずは懐柔すべく、色仕掛けやら袖の下やら多岐に渡る方法で、何とか少しでも割り当てられる時間を長く確保しようとしてくる。
長くも何も、本来の授業時間を邪魔する事はないのだから、それで納得すればいいのに。
勿論、全てバッサリお断りしているけれど、しつこい人の一部は、次第に私を排除する方向へと動いている気配がある。
そんな行動に出る人間は、何故、アラベラ様が特任侍女なんて特別枠を作ってまで、アルフォンス様を休憩させようとしているのか、理解していない、と言う事だ。
「…問題ございません」
けれど、ダリウス様に言う必要はない。
ただでさえ、私の働き口の事で気を煩わせてしまったのだから。
「相変わらず、嘘を吐くのが下手だな」
ダリウス様は溜息を吐いた。
「え」
「癖が変わってないぞ」
言われて、自分が両手の人差し指を忙しなくとんとんと打ち合わせている事に気づいた。
幼い頃から、嘘を吐こうとすると気持ちがそわそわして、手遊びをしてしまう。
「…だから、安全な仕事を、と言ったのに…」
小さな声は、独り言だろう。
確かにアラベラ様は、ダリウス様が王宮内の安全な仕事を私に推薦してくださるつもりだったと仰っていた。
「今日遅くなったのは、そのせいではないのだろうな?」
「いえ、アルフォンス様とのお話が盛り上がった為で、」
幾らダリウス様が身内とは言え、私の口から勝手にアルフォンス様の話をするわけにはいかない。
「新しい御者を雇う予定は」
「ございません。わたくしの仕事も、いつまで継続するか不明なものですし」
「…判った」
そのまま、口を噤んで何かを考え始めたダリウス様に、私も口を閉じる。
そっと、向かいに座るダリウス様の様子を窺った。
まさかまた、こんなに近くでお顔を見る事が出来るとは。
「……よし」
何かを決めたのか、ダリウス様はきっぱりと言うと、私の顔を正面から見据えた。
「ノーレイン邸から仕事に通うといい。ランドンの調子も上向いているならば、お前が毎晩自宅に帰らずとも大丈夫だろう。馬車ならば数台あるし、朝夕の送迎が出来る」
「え?」
「甥が世話になっている教育係なのだから、我が家で世話して何の問題もない」
「閣下、それは、」
「もう決めた」
「もう決めた」って、何だそれは。
何を言われたのか、理解が出来ない。
「閣下!」
「ダリウスだ」
「いえ、ですが、」
「昔のように呼べないと言うなら、名で呼べばいい。俺は、閣下なんて名ではない」
「ですが、」
「ですがも何もあるか。俺がいいと言ってるんだ」
『お、れ、が』と、一音一音区切って強調してきた。
あぁ、もう!
一度決めると梃子でも動かない頑固な所まで、変わっていないと言うのか。
「ついでに、その似合わぬ話し方もやめろ。背中が痒くなる」
「似合わないと仰られても…淑女として、必要な事ですから…」
「今更、お前の本性が判っている俺の前で淑女に擬態した所で、どうなる?」
「…ぅ…っ」
擬態、とまで言われてしまうと、何も言い返せない。
自分でも、淑女は仮面に過ぎないと思っているのだから。
――母の体が弱く、寝込む時間が長かったせいで、私の教育を差配したのは父だった。
平民出身な上に気の回るタイプでもなかった父が、貴族令嬢に相応しい教育を手配出来た筈もない。
そんな伝手もない。
何しろ、三歳の娘に木刀を持たせた男だ。
父の愚直なまでの素直さと、平民らしい表裏のない言葉遣いを学んで、私は成長してしまった。
名誉爵位の男爵家に生まれた娘に、令嬢教育が必要だと、誰も思っていなかったのもある。
十歳で令嬢として未熟である事を自覚し、これではいけない、と女学校に通う事で、どうにか淑女らしい仮面を被れるようになったとは思うけれど、自分の身に沁みついているか、と問われれば、それは否だ。
はぁ、と深く溜息を吐くと、恨みがましい目でダリウス様を見てしまう。
「どうした、まだ猫を後生大事に抱えているのか?」
「……折角、何十匹も飼ってたのに、逃げちゃったじゃない」
ぴったりと閉じていた心の中の扉を、こじ開けられた気がした。
強引なのに、それが全然、嫌じゃない。
何だか息がしやすくて、胸の奥の奥までしっかりと膨らんだ気がする。
「あぁ、そちらの方がお前らしい」
にこり、と。
本当に嬉しそうに微笑まれて、一体、どんな顔が出来ると言うのか。
「一度、帰宅して準備するといい」と、ダリウス様は、ウェインズ邸まで馬車で送ってくれた。
「荷をまとめておけ。明日、お前が出仕している間に、取りに来させる。朝も迎えの馬車を寄越すから安心しろ」
「いや、あのね、閣下」
「ダリウス」
「…閣下」
「ダリウス、だ」
「そう言うわけにはいかないでしょう。幼馴染だからって、身分差のある女に呼び捨てにされるわけにはいかない立場だって、よく判ってるくせに」
ダリウス様は、呆れたような目で私を見た。
「人前でお前が擬態出来る事も、もう十分判った」
「…ご信頼、どうも。でも、何処で誰が見てるか、判らないし」
「それを言うなら、馬車に二人きりと言う時点で問題だぞ」
「あ」
そうだ。
押し切られてしまったけれど、そもそも、密室に二人きりって、大問題ではないか。
「やっぱり、色々と問題があるでしょう。幾らアルフォンス様の教育係と言ったって、王都に住んでるのに、ノーレイン家にお世話になる理由がないもの。使用人の部屋を借りるのはともかく、王城に通勤する馬車をわざわざ出して貰う、って…おかしいでしょ。一体、何様なのか、って話になるわよ?」
「使用人部屋を貸すつもりはない。部屋なら幾らでもある」
「…客間もおかしいからね?私は王城に侍女の身分で雇用されている人間で、客人じゃないんだから」
「本棟に住めばいい」
「もっと問題でしょ!」
本棟は、主家家族と、側近クラスの使用人の部屋がある場所だ。
客間もあるだろうけれど、そこに立ち入れるのは、余程近しい身内だろう。
ノーレイン家の使用人達に、何と言い含めるつもりなのか。
「問題ない。アルフォンスの傍に仕えている為に、身の危険がある、と説明するだけだ」
「あのね、私の事を心配してくれてるのは、判ってる。有難う。でも、貴方は独身で、公爵で、十年振りに王都に戻って来て、今、正に縁談が山のように来ている最中でしょ?幾ら後ろ暗い所がなくたって、付け入る隙を作ったらダメ」
「縁談を受けるつもりはない」
「受けるつもりはない、って…」
筆頭公爵が独身を貫くわけにいかない事は、よく判っているだろうに。
思わず絶句すると、ダリウス様は、ちら、とこちらを見て、憮然とした顔をした。
「お前だって、独身だろう」
「それは…」
「それとも、結婚する気があるのか?」
「ないけど…」
「俺だって、俺が結婚したい相手とでなければ、する気はない」
あぁ、なんだ。
結婚する気はあるのか。
相手を選びたいと言うだけで。
ホッとしたような、残念なような、複雑な気持ちに下唇を軽く噛んだ。
「ともかく。『アルフォンスの教育係には、ノーレイン家が後見についている』と言う事をこれみよがしに知らしめる。お前が義姉上から何をどれだけ聞いているのか判らんが、これは、アルフォンスの為でもある」
政治的な絡みの事は、私には判らない。
けれど、アルフォンス様の為、と言われたら、強硬に断るのも難しい。
「いいな?」
有無を言わさぬ口調に、こくり、と小さく頷いた。
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