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過去の文献を漁り、実行可能か大枠で検討した末にヒースが有識者会議に挙げたニーナの提案は、大筋で受け入れられた。
民の命と財産を守る為、と切り出したヒースの言葉に異論を挟めば、その者が民を軽んじているように見えてしまう。
内心でどう考えているかは別として、国民に人気があり、若く勢いのあるヒースに逆らうのは得策ではない。
ガンズネルもまた、ヒースの提案を粛々と受け止めた一人だった。
現地調査や、ラヴィルの治水工事に掛かる費用及び必要となる人員の数、反対意見への対応など、詰めていかなくてはならない項目は多岐に渡る。
計画の立案から実行に至るまでには、年単位の時間と多額の予算を要するだろう。
その上、実際に形になるまでにも、十年単位の時間が予想される。
だが、それらを含めても、費用対効果は大きいと判断されたのだ。
ラヴィルはアイルとの国境の川。
大規模な治水工事や国境の扱いについては、ガルダ王国のみで決定できる内容ではない為、提案と言う形で、アイル王国に使節団が送られる事となった。
その使節団の代表こそが、初めて外交の場に赴くディーンだ。
王弟を代表者に立てる事で、ガルダがいかにこの計画に真剣に向き合っているかを示す意図もある。
また、ディーンの母が現アイル国王の異母妹であると言う縁が、僅かにでも有利に働きはしまいか、との下心も多少は合った。
「ニーナ」
ディーンが、アイル王国へと向かう前夜。
彼は珍しく、夜が更けてからニーナの部屋を訪った。
ニーナがディーンに、「結婚しない」とはっきり宣言してから三ヶ月。
二人の関係に大きな変化はなかった。
多忙故に婚約者選びをする余裕はない、と話していた通り、ディーンが婚約者を決める事はなかったし、ニーナに縁談が持ち込まれる事もない。
変化と呼べるとすれば、使節団代表の準備に追われるディーンの代わりとして、ガルダ語の日常会話をある程度身に着けたニーナに、専属の家庭教師がつくようになった事だろうか。
その結果、ディーンと過ごす時間は激減している。
授業はなくなったものの、彼はこれまで同様、手土産と共に度々、ニーナの元を訪れていた。
但し、滞在時間はいずれも短時間。それも、日の高い時間に限られている。
短い逢瀬で、ディーンは常にニーナを気遣い、励まし、肯定した。
関係性は曖昧なまま、好意の上澄みだけを享受する生活。
ぬるま湯に浸かっているようだと思いつつも、その心地良さから抜け出したくない。
一方的に受け取る事は我儘であると理解しているけれど、このまま、彼が傍にいてくれればいいのに、と己の中に欲が出て来た事が判る。
「ディーン?どうしたの?」
「うん、僕は、明日からアイルに向かうだろう?アイルの王都までは片道十日掛かるし、おおよその予定はあるけど、滞在期間もはっきりしていない」
使節団全員が転移魔法を使えるわけではないし、転移魔法にも制限がある為、アイルへの移動は馬車だ。
隣国とは言え、簡単に行き来できる距離ではなかった。
「戻って来るまでの間に、ニーナの誕生日が来ちゃうかもしれないから、先に贈り物を渡しておこうと思って」
まだガルダの暦に慣れていないニーナはすっかり忘れていたけれど、あとひと月程で、ニーナがこちらの世界に落ちて来た日――誕生日が、やってくる。
「有難う…」
渡されたのは、掌に乗る大きさの小箱。
「開けるのは誕生日当日にしてね」
「うん、判った」
「……じゃあ、おやすみ」
少しだけ、名残惜しそうな様子を見せながらも、背を向けたディーンに。
「あ、待って」
ニーナは思わず、声を掛けていた。
「どうかした?」
「え、と…」
特に、伝えたい言葉があったわけではなかった。
けれど、明日、旅立つ人に、何も言わないのは違う気がした。
「いってらっしゃい。気をつけて行って来てね。無事の帰りを待ってるから」
「…うん」
少し頬を染めて答えたディーンが、おもむろに一歩、ニーナに歩み寄る。
「ディーン?」
視界が急に暗くなってニーナが瞬くと、額に柔らかな感触が一瞬、触れた。
「おまじない」
そう、笑って。
今度こそ立ち去る背中を、ニーナは茫然と見送った。
ディーンがアイルに旅立ってから一ヶ月。
ニーナの日々に、大きな変化はない。
毎日のようにあったディーンの訪れがなくなった結果、部屋の花瓶に空きが増えた位だ。
家庭教師の授業を受け、時にはヒースに請われて異世界の視点に立った意見を述べ、招待された茶会に出席する日々。
慣れてしまえば、これはこれで、日々のルーティンになっていく。
日本での会社員生活と異なり、特に役職があるわけでもなく、『落ち人』であるだけで生活が保障されているニーナは、用事に追われていない。
一つ一つの予定には間隔の余裕があり、一日三食の食事以外にも、午前と午後にゆっくりとお茶をする時間がある生活は、オリアナには多忙だと言われるけれど、ニーナには十分のんびりしたものだった。
…けれど、だからこそ、ふとした瞬間にディーンの顔を思い出してしまう。
日に透けてきらきらと輝く金の髪。
青の瞳は、吸い込まれそうに深い。
元々整っていた容姿は、プロの手による手入れが行われるようになったからか、一層、眩くなった。
塔にいた時の長髪も似合っていたけれど、ニーナの個人的な好みは、今の耳に掛からない位の短髪だ。
思い出すディーンはいつも笑顔を見せていて、ニーナも、ふ、と頬を緩めてしまう。
ディーンに思いを馳せるのは、招かれた茶会でも、だ。
彼が不在の間に、と言う魂胆なのだろう。
招待者であるご令嬢の兄弟や従兄弟の同席が増えた。
会場までの護衛の座を巡って、騎士の間で争いも起きていると聞く。
ニーナは落ち人で、貴族令嬢とは異なり彼女自身が選択権を持つ存在である為、これまでの所、身の危険を感じるようなアプローチはない。
しかし、男性陣も、また、ニーナを望む令息達の次の選択を待つ令嬢達も、苛立ちを募らせて来ているのが判る。
ニーナがガルダ王国に「落ちて」来たと公式に認定されてからあと二ヶ月ちょっとで一年。
ガルダ語でのコミュニケーションを取れるようになり、こちらの世界の常識にも慣れて来た結婚適齢期のニーナが誰も選ばない事への不満が、積もっている。
しかし、落ち人は、ガルダの身分制度の枠組みに属さない存在。
貴族最高位の公爵令嬢ですら、ニーナに直接的な苦言を呈する事はできない。
精々、助言に見せ掛けた嫌味を言う位だ。
「そうは言われてもね…」
生涯独身と言う選択が一般的ではないガルダ貴族にとって、結婚するつもりはない、と言うニーナの言葉は信用ならないらしい。
勿体ぶっている、もしくは、己の価値を吊り上げようとしている、と見られてしまう。
先日、招待された茶会を主催した令嬢にも、破れたオブラートに包んだ嫌味を言われた。
彼女が慕う令息がニーナとの縁を望んでいるらしいけれど、名前を聞いてもどの男性なのか判らない。
耳慣れない響きの名前は一回聞いただけでは覚えられないものの、二回挨拶すれば、顔はともかく、名前位は思い出せる。
思い出せないと言う事は、挨拶を受けていたのだとしても一度きりと言う事で、その程度の関係性しかない男性ならば、『ニーナ』ではなく、『落ち人』との縁が欲しいだけなのは確実だ。
けれど、そんな人を選ぶ筈もない、と言う事が、どうしても理解して貰えない。
「私がその方と縁を結ぶ事はないです」
「では、どなたを望まれるのか、教えて頂けませんか?」
「私はこのまま、一人でいるつもりです」
「一人で生きるなんて、できる筈もございません。わたくしへの慰めは不要ですわ。はっきりおっしゃって。耳障りのいい事を言って、本当はあの方を望んでいらっしゃるのでしょう?」
思い込みの激しさに、その気性を敬遠して、ニーナを言い訳に距離を置かれているのでは、と思ってしまった位だ。
実際、そう言ったケースもあるかもしれない。
令嬢達は自ら求婚する事はできないけれど、意中の令息にアピールする事はできるから、そのアピール攻勢から逃れる為に、彼女達と全く立ち位置の異なるニーナの名を挙げるのは、十分、可能性として考えられる。
それもまた、ディーンが不在故に口にしやすい言い訳なのだろう。
ディーンの存在が彼等の疑惑や不満を抑え込んでくれていたのだ、としみじみと実感して、自分一人の足で立ってみせる、誰にも迷惑を掛けずに暮らしてみせる、と肩肘を張っていたのが、急に恥ずかしくなった。
「ニーナ様!お誕生日おめでとうございます」
私室の椅子に姿勢良く腰を掛け、午後のお茶の時間を待っていたニーナに向かって、ふんだんに季節の果物を盛りつけた皿を運んで来たオリアナが、嬉しそうに声を上げた。
椅子の座面が高過ぎて爪先が床から浮いてしまうニーナの為に、元のデザインに違和感のない足置きがさり気なく付け足されたのは、いつの事だったか。
「今日だった?」
ニーナは、自分がいつ、こちらにやって来たのか日にちを覚えていない。
あの日が、誕生日であった事は覚えていても。
「はい!ジェラルディン殿下より、本日お祝いするように、とご指示がございました」
オリアナが、ニーナが皿を見やすいように、膝を屈めてくれる。
美しく飾り切りが施された果物は色鮮やかで目にも楽しいけれど、いかんせん、大皿に盛られた量が尋常ではない。
「有難いけど、とても、一人では食べきれそうにないわ。アンリエッタ、キャシー、バーサ、オリアナ。美味しいうちに、一緒に食べてくれない?」
「ですが、ニーナ様」
「誕生日なのよ、お願い」
ニーナは、従者のいる生活に慣れていないから、と言う理由で、これまでにも度々、彼女達とお茶の時間を共にして来た。
「ニーナ様がそうおっしゃるのでしたら、仕方ありませんね」
仕方ない、と言いつつも、アンリエッタの頬は緩んでいる。
もうすぐ一年が経とうと言うのに、ニーナは自らの立場に驕る様子を見せない。
結婚に前向きではない点だけが気掛かりだけれど、仕える主として、不満はなかった。
果物の山が、五人の手に掛かれば、見る見るうちに嵩を減らしていく。
「普段のお茶の時間には焼き菓子が多いのに、全部果物なのは珍しいね」
「こちらは、ジェラルディン殿下のご要望なのです。『ニーナは砂糖をたっぷり使用した甘い菓子よりも自然な甘味を喜ぶから、誕生日には是非、旬の果物を用意してくれ』との事で」
過去の落ち人が広めた「タイヤァキ」は市井で愛されている庶民の菓子である為、どこか素朴な甘さなのだが、王宮で提供される焼き菓子は、贅を示す為かニーナの好みよりも甘さの強いものが多い。
出されたものは何でも美味しく頂く、が信条のニーナは、これまで、一度もそのような事を口にしていないのに、ディーンは気づいていたらしい。
確かに、彼が「美味しかったから」と手土産に持って来るお菓子は、甘さが控えめなものが多かった。
そんな小さな事まで気遣ってくれる事が、申し訳ないと同時に、面映ゆい。
「ジェラルディン殿下は、他にも贈り物を用意されていたのですよね?」
アンリエッタの問いに、ニーナは頷いた。
「誕生日当日に開けるように言われているから、まだ見てないの」
ニーナの発言を受けて、オリアナが大事に飾り棚に置いてあった小箱を持って来る。
「何かしら…」
綺麗なウェーブを描いて結ばれたリボンを解き、そっと上蓋を開ける。
白い絹に包まれるように納まっていたのは、艶消し加工を施した金色の懐中時計だった。
蓋には、外周をぐるりと一周するように装飾的な蔦模様が、真ん中部分には意匠化された星が刻み込まれている。
「可愛い…!」
ガルダでは数少ない機械であると言うのに、思わず「可愛い」と言う感想が出たのは、何でも可愛いと言ってしまいがちな日本人女性の悪癖が出たのもあるけれど、時計のフォルムも、時計と繋がった鎖も、すべてが丸っこく愛らしいからだ。
蓋をぱかりと開けると白い文字盤が見え、数字を示す部分に埋め込まれた小さな青い石が光を反射した。
同じく青い石が竜頭の天辺にも埋められていて、その色味から、サファイアだと思われた。
「ディーンの目と同じ色…」
ニーナは呟いて、竜頭の先のサファイアにそっと触れる。
懐中時計は、ガルダに存在する数少ない機械の一つではあるけれど、高価な事もあり、決して一般に普及しているものではない。
人々は、街に一か所は存在する時計塔の鐘の音を聞いて、時間を知るのだ。
懐中時計の使用者は分単位で動く必要がある官吏が中心の為、女性の使用者は、もしかすると国内にいないかもしれない。
ガルダ人は日本人と比べて大柄である上に、男性の使用を前提としている懐中時計は、ニーナの手には余る程の大きさが主流だ。
それを思えば、彼女の手にすっぽりと納まる小振りな懐中時計が特注品である事がよく判る。
もしかすると、部品の小型化から苦労が重ねられたのではないだろうか。
「綺麗ですねぇ」
「ニーナ様はご予定が多いですから、時計を個人でお持ちになると言うのは、いい案ですね。流石、ジェラルディン殿下です」
ほぅ、と溜息と共にアンリエッタ達から感想を漏らされて、ニーナも微笑んだ。
両親に忘れられていた誕生日。
彼等にとって要らない子だったニーナの誕生日が祝われる筈もなく、育ててくれた祖母もまた、母に対する負の感情を持たせまい、と言う一心でプレゼントをくれたに過ぎなかった。
過去の恋人達も、その時々の心尽くしを贈ってくれたと思っているけれど、その中のどれよりも、この時計が一番嬉しいのは何故だろう。
恋人でもないニーナに、このような高価なプレゼントをくれながらも、ディーンは、何の見返りも求めて来ない。
ただ純粋に、ニーナが生まれた日を祝ってくれている事が伝わって、それが胸を擽った。
生まれてから今まで、感じた事のない無償の好意に、目元が熱くなる。
「ディーン…」
思わず、彼の名を呟くと、
「呼んだ?」
応えがあって、驚いたニーナは顔を上げた。
「ディーン?!」
「うん、ただいま、ニーナ。良かった、誕生日に間に合って」
ディーンが旅立ってから一ヶ月。
片道十日の道のりである事を考えると、アイルでの滞在期間は十日程か。
それが長いのか短いのか、外交に縁のないニーナには判らない。
王弟の登場に慌てているのはニーナだけで、いつの間にかアンリエッタ達は定位置――壁際――へと下がっている。
どうやら、ニーナが懐中時計を感慨深く眺めている間に、訪問が告げられていたらしい。
「驚いた。お帰りなさい」
ちら、と全身に視線を走らせるけれど、まだ旅装を解いていないようで、少しばかり、服が縒れていて埃っぽい。
帰国後、真っ先に会いに来てくれたと言う事だろう。
十日の馬車旅の間、宿に泊まれない事はないと思うものの、新幹線程に快適なものではない事は、近場への往復でしか馬車に乗った事のないニーナにも判った。
「漸く帰って来られたよ」
ディーンの笑顔が以前よりも一層眩しく感じられるのは、開けたばかりの贈り物に気持ちが浮き立っているからなのか。
「お疲れ様でした」
「ニーナも、お疲れ様。話はちらっと聞いてる」
話、とは、結婚問題のあれやこれやの事だろうか。
苦笑を返すと、ディーンは真剣な顔をしてから、背後に控える従者達に視線を向けた。
「ニーナと二人にして欲しい」
「殿下…」
「大丈夫だよ、自分の立場もニーナの立場も、十分理解してる」
そう微笑むディーンを見て、従者達は顔を見合わせながら、退室していく。
但し、勿論、扉は少し開けて。
二人きりになると、ニーナの向かいの席に座ったディーンは、自分用に用意されたお茶を一口含んで、にっこりと微笑んだ。
「改めて、誕生日おめでとう、ニーナ。三十一歳…とは、やはり、信じられないのだけど」
ニーナは、肩を竦めるだけだ。
「有難う。時計も嬉しい。これって、特別に作ってくれたんでしょ?」
「そうだね。元々、懐中時計はほとんどが注文品で、完成品を店に置いてある事は少ないんだ。せっかくだから、信頼できる職人に大きさから色まで、指定して作らせたよ」
ニーナの手は、小さいからね。
そう言いながら、ディーンがテーブル越しに手を伸ばし、ニーナの手をエスコートする時のように掌に載せる。
恐らく、ディーンは随分と前から、計画してくれていたのだろう。
部品の一つ一つをゼロから作り上げる工程が、一朝一夕で済む筈もない。
「とっても綺麗で気に入った。日本にいた時、時計は常に身に着けてたから、携帯できる時計があるのは、本当に助かる。この石は、ディーンの目と同じ色ね」
「僕が一番苦労したのは、この色の石を探す事だったかもしれないな」
おどけたように笑うディーンに、ニーナが彼の好意を負担に感じないよう、配慮してくれていると感じる。
「ニホンでは、時計は腕に巻くものだったと聞いたけど、そこまでの小型化はまだ技術的に難しくて」
「いいよ、懐中時計って何か格好いいし。普段着ている服には隠しをつけてあるから、自分で持ち運べるしね」
コルセットの要らないワンピースドレスは、パニエを入れて膨らませる事もない。
せいぜい、足さばきがいいようにペチコートを穿くだけなので、ハンカチ程度は入れられる小振りのポケットをつけている。
「それでね、ニーナ」
緊張の色を覗かせたディーンが、慎重に切り出した。
「ここ一ヶ月の出来事を踏まえて、一つ、提案があるんだ」
「何?」
「以前、君は、結婚したくないと話していただろう?でも、君が一人でいる事を、人々はよしとしない。虎視眈々と、君の隣の席を狙い続ける筈だ」
「…」
彼等が望むのがニーナの異世界人としての知識である以上、子供を生めない位に年齢を重ねようが、顔や体に傷を負おうが、諦める筈もない。
口さえ利く事ができれば、家門の繁栄の為に、ニーナを取り込もうとするだろう。
ただでさえ、ニーナが相手を選ばない事への不満が高まっているのだ。
ニーナが根負けするまで、非難を続ける事は想像に容易い。
「だからと言って、君が敬遠している結婚を無理に勧める事はしたくない。だから…結婚はしなくていいから、僕の恋人になってくれないかな」
「……え?」
愛の告白にしては、随分とあっさりしている。
これまで、彼が向けてくれていた好意と比べて、全く熱を感じない言葉にニーナが首を傾げると、ディーンは説明を続ける。
「いや、つまり、えっと、その…恋人契約を結んでくれないかな、って事だよ。ガルダでは、余程の事情がなければ、婚約の一年後に結婚式を挙げるんだ。だから、婚約した時点で、すぐに婚姻の日程が組まれてしまう。でも、君は結婚したくないんだから、婚約はしない。ガルダ貴族の中では異例だけど、相手が落ち人なら許されると思う。それに、恋人関係を公言しておけば、婚約や婚姻をせっつかれても僕が介入する事ができる。婚約者として公的に認められた関係ではなくても、赤の他人に口を挟まれる頻度がぐっと下がる筈だ」
焦ったように言い募るディーンの顔を、ニーナは見つめ返す。
確かに、王弟の恋人として認識されれば、ディーンを押し退けてまで配偶者に立候補する男性は激減する。
ディーンがニーナを気に入っている、と匂わせているだけの段階でも、彼の顔色を窺って抜け駆けする人物はいなかったのだから。
けれど。
「ディーン…でも、それってとっても大きな問題があるでしょ?」
「そうかな?」
「貴方は王弟なんだよ。ヒースが未婚で後継者もいないのに、貴方まで結婚しないってなったら、ガルダ王家を継ぐ人はどうするの。王太后様が心配するでしょう」
「いや、寧ろ、兄上の地位を狙ってないって示す為に、恋人はいるけど婚約はしていないと言う状況は、僕にとって都合がいい」
ディーンとヒースは、本人達の意向に関わらず、玉座を巡る貴族達の思惑に巻き込まれて来た。
ヒースを支える立場を前面に押し出しているディーンが、ヒースが結婚し後継を得るまで自身の結婚を後回しにする、と言うのは自然に思える。
「でも、ヒースが結婚した後は?子供が生まれれば、ディーンが結婚しても何も問題はないでしょ?そしたら、恋人契約を止めるの?」
ニーナがフリーになれば、また同じ事の繰り返しだ。
顔触れは変わるだろうけれど、彼等はニーナを慕っているから求婚したいのではなく、落ち人を家門に取り込みたいだけなのだから。
「止めないよ。終身契約だ。僕が結婚しなくても問題はない。ガルダ王族の人数が少ないのは確かだけど、だからって別に、何が何でも僕に結婚を強要させる事はできないんだから」
沈黙したニーナに何を思ったのか、ディーンは慌てて言葉を続ける。
「あぁ、違うな、これじゃあ、勘違いさせてしまうよね。勿論、一番の理由は、君と一緒にいたいからだ。結婚したくない、と言うなら、それでいい。でも、君の一番傍にいるのは、他の誰でもなくて僕がいいんだ。僕にとって、君は大切な人だから」
一緒にいたい。
大切な人。
ならば、ディーンはニーナを見限って、他の人と結婚する気はないと言う事なのか。
けれど、決定的な一言を、ディーンは決して口にしない。
好きだとは、愛しているとは、言わないのだ。
本当の恋人になって欲しい、と言う一言さえも。
「今すぐ、答えて欲しいとは思ってない。でも、ニーナを煩わせている問題の半分以上は片付くと踏んでる。だから…考えてみてくれないかな」
ニーナも、理性の部分では判っている。
この世界の常識では、ニーナの独身主義は理解されない。
この国でも高貴な身分で、気心の知れたディーンが特別な存在だと示しておけば、少なくとも表面上の問題は沈静化する。
ディーンは、彼にもメリットがあるのだ、と言うけれど、そんなもの、ニーナが受け取るものに比べれば微々たるものだ。
どれだけ甘やかすつもりなんだ、とニーナは泣きそうになった。
こんな提案をするのも、決して気持ちを伝えて来ないのも、ニーナが恋愛感情を忌避している事を理解しているからなのだろう。
「うん…」
だから、頭から拒否する事は、できなかった。
ニーナだって、隣にいるのはディーンがいいと思ってしまったのだから。
民の命と財産を守る為、と切り出したヒースの言葉に異論を挟めば、その者が民を軽んじているように見えてしまう。
内心でどう考えているかは別として、国民に人気があり、若く勢いのあるヒースに逆らうのは得策ではない。
ガンズネルもまた、ヒースの提案を粛々と受け止めた一人だった。
現地調査や、ラヴィルの治水工事に掛かる費用及び必要となる人員の数、反対意見への対応など、詰めていかなくてはならない項目は多岐に渡る。
計画の立案から実行に至るまでには、年単位の時間と多額の予算を要するだろう。
その上、実際に形になるまでにも、十年単位の時間が予想される。
だが、それらを含めても、費用対効果は大きいと判断されたのだ。
ラヴィルはアイルとの国境の川。
大規模な治水工事や国境の扱いについては、ガルダ王国のみで決定できる内容ではない為、提案と言う形で、アイル王国に使節団が送られる事となった。
その使節団の代表こそが、初めて外交の場に赴くディーンだ。
王弟を代表者に立てる事で、ガルダがいかにこの計画に真剣に向き合っているかを示す意図もある。
また、ディーンの母が現アイル国王の異母妹であると言う縁が、僅かにでも有利に働きはしまいか、との下心も多少は合った。
「ニーナ」
ディーンが、アイル王国へと向かう前夜。
彼は珍しく、夜が更けてからニーナの部屋を訪った。
ニーナがディーンに、「結婚しない」とはっきり宣言してから三ヶ月。
二人の関係に大きな変化はなかった。
多忙故に婚約者選びをする余裕はない、と話していた通り、ディーンが婚約者を決める事はなかったし、ニーナに縁談が持ち込まれる事もない。
変化と呼べるとすれば、使節団代表の準備に追われるディーンの代わりとして、ガルダ語の日常会話をある程度身に着けたニーナに、専属の家庭教師がつくようになった事だろうか。
その結果、ディーンと過ごす時間は激減している。
授業はなくなったものの、彼はこれまで同様、手土産と共に度々、ニーナの元を訪れていた。
但し、滞在時間はいずれも短時間。それも、日の高い時間に限られている。
短い逢瀬で、ディーンは常にニーナを気遣い、励まし、肯定した。
関係性は曖昧なまま、好意の上澄みだけを享受する生活。
ぬるま湯に浸かっているようだと思いつつも、その心地良さから抜け出したくない。
一方的に受け取る事は我儘であると理解しているけれど、このまま、彼が傍にいてくれればいいのに、と己の中に欲が出て来た事が判る。
「ディーン?どうしたの?」
「うん、僕は、明日からアイルに向かうだろう?アイルの王都までは片道十日掛かるし、おおよその予定はあるけど、滞在期間もはっきりしていない」
使節団全員が転移魔法を使えるわけではないし、転移魔法にも制限がある為、アイルへの移動は馬車だ。
隣国とは言え、簡単に行き来できる距離ではなかった。
「戻って来るまでの間に、ニーナの誕生日が来ちゃうかもしれないから、先に贈り物を渡しておこうと思って」
まだガルダの暦に慣れていないニーナはすっかり忘れていたけれど、あとひと月程で、ニーナがこちらの世界に落ちて来た日――誕生日が、やってくる。
「有難う…」
渡されたのは、掌に乗る大きさの小箱。
「開けるのは誕生日当日にしてね」
「うん、判った」
「……じゃあ、おやすみ」
少しだけ、名残惜しそうな様子を見せながらも、背を向けたディーンに。
「あ、待って」
ニーナは思わず、声を掛けていた。
「どうかした?」
「え、と…」
特に、伝えたい言葉があったわけではなかった。
けれど、明日、旅立つ人に、何も言わないのは違う気がした。
「いってらっしゃい。気をつけて行って来てね。無事の帰りを待ってるから」
「…うん」
少し頬を染めて答えたディーンが、おもむろに一歩、ニーナに歩み寄る。
「ディーン?」
視界が急に暗くなってニーナが瞬くと、額に柔らかな感触が一瞬、触れた。
「おまじない」
そう、笑って。
今度こそ立ち去る背中を、ニーナは茫然と見送った。
ディーンがアイルに旅立ってから一ヶ月。
ニーナの日々に、大きな変化はない。
毎日のようにあったディーンの訪れがなくなった結果、部屋の花瓶に空きが増えた位だ。
家庭教師の授業を受け、時にはヒースに請われて異世界の視点に立った意見を述べ、招待された茶会に出席する日々。
慣れてしまえば、これはこれで、日々のルーティンになっていく。
日本での会社員生活と異なり、特に役職があるわけでもなく、『落ち人』であるだけで生活が保障されているニーナは、用事に追われていない。
一つ一つの予定には間隔の余裕があり、一日三食の食事以外にも、午前と午後にゆっくりとお茶をする時間がある生活は、オリアナには多忙だと言われるけれど、ニーナには十分のんびりしたものだった。
…けれど、だからこそ、ふとした瞬間にディーンの顔を思い出してしまう。
日に透けてきらきらと輝く金の髪。
青の瞳は、吸い込まれそうに深い。
元々整っていた容姿は、プロの手による手入れが行われるようになったからか、一層、眩くなった。
塔にいた時の長髪も似合っていたけれど、ニーナの個人的な好みは、今の耳に掛からない位の短髪だ。
思い出すディーンはいつも笑顔を見せていて、ニーナも、ふ、と頬を緩めてしまう。
ディーンに思いを馳せるのは、招かれた茶会でも、だ。
彼が不在の間に、と言う魂胆なのだろう。
招待者であるご令嬢の兄弟や従兄弟の同席が増えた。
会場までの護衛の座を巡って、騎士の間で争いも起きていると聞く。
ニーナは落ち人で、貴族令嬢とは異なり彼女自身が選択権を持つ存在である為、これまでの所、身の危険を感じるようなアプローチはない。
しかし、男性陣も、また、ニーナを望む令息達の次の選択を待つ令嬢達も、苛立ちを募らせて来ているのが判る。
ニーナがガルダ王国に「落ちて」来たと公式に認定されてからあと二ヶ月ちょっとで一年。
ガルダ語でのコミュニケーションを取れるようになり、こちらの世界の常識にも慣れて来た結婚適齢期のニーナが誰も選ばない事への不満が、積もっている。
しかし、落ち人は、ガルダの身分制度の枠組みに属さない存在。
貴族最高位の公爵令嬢ですら、ニーナに直接的な苦言を呈する事はできない。
精々、助言に見せ掛けた嫌味を言う位だ。
「そうは言われてもね…」
生涯独身と言う選択が一般的ではないガルダ貴族にとって、結婚するつもりはない、と言うニーナの言葉は信用ならないらしい。
勿体ぶっている、もしくは、己の価値を吊り上げようとしている、と見られてしまう。
先日、招待された茶会を主催した令嬢にも、破れたオブラートに包んだ嫌味を言われた。
彼女が慕う令息がニーナとの縁を望んでいるらしいけれど、名前を聞いてもどの男性なのか判らない。
耳慣れない響きの名前は一回聞いただけでは覚えられないものの、二回挨拶すれば、顔はともかく、名前位は思い出せる。
思い出せないと言う事は、挨拶を受けていたのだとしても一度きりと言う事で、その程度の関係性しかない男性ならば、『ニーナ』ではなく、『落ち人』との縁が欲しいだけなのは確実だ。
けれど、そんな人を選ぶ筈もない、と言う事が、どうしても理解して貰えない。
「私がその方と縁を結ぶ事はないです」
「では、どなたを望まれるのか、教えて頂けませんか?」
「私はこのまま、一人でいるつもりです」
「一人で生きるなんて、できる筈もございません。わたくしへの慰めは不要ですわ。はっきりおっしゃって。耳障りのいい事を言って、本当はあの方を望んでいらっしゃるのでしょう?」
思い込みの激しさに、その気性を敬遠して、ニーナを言い訳に距離を置かれているのでは、と思ってしまった位だ。
実際、そう言ったケースもあるかもしれない。
令嬢達は自ら求婚する事はできないけれど、意中の令息にアピールする事はできるから、そのアピール攻勢から逃れる為に、彼女達と全く立ち位置の異なるニーナの名を挙げるのは、十分、可能性として考えられる。
それもまた、ディーンが不在故に口にしやすい言い訳なのだろう。
ディーンの存在が彼等の疑惑や不満を抑え込んでくれていたのだ、としみじみと実感して、自分一人の足で立ってみせる、誰にも迷惑を掛けずに暮らしてみせる、と肩肘を張っていたのが、急に恥ずかしくなった。
「ニーナ様!お誕生日おめでとうございます」
私室の椅子に姿勢良く腰を掛け、午後のお茶の時間を待っていたニーナに向かって、ふんだんに季節の果物を盛りつけた皿を運んで来たオリアナが、嬉しそうに声を上げた。
椅子の座面が高過ぎて爪先が床から浮いてしまうニーナの為に、元のデザインに違和感のない足置きがさり気なく付け足されたのは、いつの事だったか。
「今日だった?」
ニーナは、自分がいつ、こちらにやって来たのか日にちを覚えていない。
あの日が、誕生日であった事は覚えていても。
「はい!ジェラルディン殿下より、本日お祝いするように、とご指示がございました」
オリアナが、ニーナが皿を見やすいように、膝を屈めてくれる。
美しく飾り切りが施された果物は色鮮やかで目にも楽しいけれど、いかんせん、大皿に盛られた量が尋常ではない。
「有難いけど、とても、一人では食べきれそうにないわ。アンリエッタ、キャシー、バーサ、オリアナ。美味しいうちに、一緒に食べてくれない?」
「ですが、ニーナ様」
「誕生日なのよ、お願い」
ニーナは、従者のいる生活に慣れていないから、と言う理由で、これまでにも度々、彼女達とお茶の時間を共にして来た。
「ニーナ様がそうおっしゃるのでしたら、仕方ありませんね」
仕方ない、と言いつつも、アンリエッタの頬は緩んでいる。
もうすぐ一年が経とうと言うのに、ニーナは自らの立場に驕る様子を見せない。
結婚に前向きではない点だけが気掛かりだけれど、仕える主として、不満はなかった。
果物の山が、五人の手に掛かれば、見る見るうちに嵩を減らしていく。
「普段のお茶の時間には焼き菓子が多いのに、全部果物なのは珍しいね」
「こちらは、ジェラルディン殿下のご要望なのです。『ニーナは砂糖をたっぷり使用した甘い菓子よりも自然な甘味を喜ぶから、誕生日には是非、旬の果物を用意してくれ』との事で」
過去の落ち人が広めた「タイヤァキ」は市井で愛されている庶民の菓子である為、どこか素朴な甘さなのだが、王宮で提供される焼き菓子は、贅を示す為かニーナの好みよりも甘さの強いものが多い。
出されたものは何でも美味しく頂く、が信条のニーナは、これまで、一度もそのような事を口にしていないのに、ディーンは気づいていたらしい。
確かに、彼が「美味しかったから」と手土産に持って来るお菓子は、甘さが控えめなものが多かった。
そんな小さな事まで気遣ってくれる事が、申し訳ないと同時に、面映ゆい。
「ジェラルディン殿下は、他にも贈り物を用意されていたのですよね?」
アンリエッタの問いに、ニーナは頷いた。
「誕生日当日に開けるように言われているから、まだ見てないの」
ニーナの発言を受けて、オリアナが大事に飾り棚に置いてあった小箱を持って来る。
「何かしら…」
綺麗なウェーブを描いて結ばれたリボンを解き、そっと上蓋を開ける。
白い絹に包まれるように納まっていたのは、艶消し加工を施した金色の懐中時計だった。
蓋には、外周をぐるりと一周するように装飾的な蔦模様が、真ん中部分には意匠化された星が刻み込まれている。
「可愛い…!」
ガルダでは数少ない機械であると言うのに、思わず「可愛い」と言う感想が出たのは、何でも可愛いと言ってしまいがちな日本人女性の悪癖が出たのもあるけれど、時計のフォルムも、時計と繋がった鎖も、すべてが丸っこく愛らしいからだ。
蓋をぱかりと開けると白い文字盤が見え、数字を示す部分に埋め込まれた小さな青い石が光を反射した。
同じく青い石が竜頭の天辺にも埋められていて、その色味から、サファイアだと思われた。
「ディーンの目と同じ色…」
ニーナは呟いて、竜頭の先のサファイアにそっと触れる。
懐中時計は、ガルダに存在する数少ない機械の一つではあるけれど、高価な事もあり、決して一般に普及しているものではない。
人々は、街に一か所は存在する時計塔の鐘の音を聞いて、時間を知るのだ。
懐中時計の使用者は分単位で動く必要がある官吏が中心の為、女性の使用者は、もしかすると国内にいないかもしれない。
ガルダ人は日本人と比べて大柄である上に、男性の使用を前提としている懐中時計は、ニーナの手には余る程の大きさが主流だ。
それを思えば、彼女の手にすっぽりと納まる小振りな懐中時計が特注品である事がよく判る。
もしかすると、部品の小型化から苦労が重ねられたのではないだろうか。
「綺麗ですねぇ」
「ニーナ様はご予定が多いですから、時計を個人でお持ちになると言うのは、いい案ですね。流石、ジェラルディン殿下です」
ほぅ、と溜息と共にアンリエッタ達から感想を漏らされて、ニーナも微笑んだ。
両親に忘れられていた誕生日。
彼等にとって要らない子だったニーナの誕生日が祝われる筈もなく、育ててくれた祖母もまた、母に対する負の感情を持たせまい、と言う一心でプレゼントをくれたに過ぎなかった。
過去の恋人達も、その時々の心尽くしを贈ってくれたと思っているけれど、その中のどれよりも、この時計が一番嬉しいのは何故だろう。
恋人でもないニーナに、このような高価なプレゼントをくれながらも、ディーンは、何の見返りも求めて来ない。
ただ純粋に、ニーナが生まれた日を祝ってくれている事が伝わって、それが胸を擽った。
生まれてから今まで、感じた事のない無償の好意に、目元が熱くなる。
「ディーン…」
思わず、彼の名を呟くと、
「呼んだ?」
応えがあって、驚いたニーナは顔を上げた。
「ディーン?!」
「うん、ただいま、ニーナ。良かった、誕生日に間に合って」
ディーンが旅立ってから一ヶ月。
片道十日の道のりである事を考えると、アイルでの滞在期間は十日程か。
それが長いのか短いのか、外交に縁のないニーナには判らない。
王弟の登場に慌てているのはニーナだけで、いつの間にかアンリエッタ達は定位置――壁際――へと下がっている。
どうやら、ニーナが懐中時計を感慨深く眺めている間に、訪問が告げられていたらしい。
「驚いた。お帰りなさい」
ちら、と全身に視線を走らせるけれど、まだ旅装を解いていないようで、少しばかり、服が縒れていて埃っぽい。
帰国後、真っ先に会いに来てくれたと言う事だろう。
十日の馬車旅の間、宿に泊まれない事はないと思うものの、新幹線程に快適なものではない事は、近場への往復でしか馬車に乗った事のないニーナにも判った。
「漸く帰って来られたよ」
ディーンの笑顔が以前よりも一層眩しく感じられるのは、開けたばかりの贈り物に気持ちが浮き立っているからなのか。
「お疲れ様でした」
「ニーナも、お疲れ様。話はちらっと聞いてる」
話、とは、結婚問題のあれやこれやの事だろうか。
苦笑を返すと、ディーンは真剣な顔をしてから、背後に控える従者達に視線を向けた。
「ニーナと二人にして欲しい」
「殿下…」
「大丈夫だよ、自分の立場もニーナの立場も、十分理解してる」
そう微笑むディーンを見て、従者達は顔を見合わせながら、退室していく。
但し、勿論、扉は少し開けて。
二人きりになると、ニーナの向かいの席に座ったディーンは、自分用に用意されたお茶を一口含んで、にっこりと微笑んだ。
「改めて、誕生日おめでとう、ニーナ。三十一歳…とは、やはり、信じられないのだけど」
ニーナは、肩を竦めるだけだ。
「有難う。時計も嬉しい。これって、特別に作ってくれたんでしょ?」
「そうだね。元々、懐中時計はほとんどが注文品で、完成品を店に置いてある事は少ないんだ。せっかくだから、信頼できる職人に大きさから色まで、指定して作らせたよ」
ニーナの手は、小さいからね。
そう言いながら、ディーンがテーブル越しに手を伸ばし、ニーナの手をエスコートする時のように掌に載せる。
恐らく、ディーンは随分と前から、計画してくれていたのだろう。
部品の一つ一つをゼロから作り上げる工程が、一朝一夕で済む筈もない。
「とっても綺麗で気に入った。日本にいた時、時計は常に身に着けてたから、携帯できる時計があるのは、本当に助かる。この石は、ディーンの目と同じ色ね」
「僕が一番苦労したのは、この色の石を探す事だったかもしれないな」
おどけたように笑うディーンに、ニーナが彼の好意を負担に感じないよう、配慮してくれていると感じる。
「ニホンでは、時計は腕に巻くものだったと聞いたけど、そこまでの小型化はまだ技術的に難しくて」
「いいよ、懐中時計って何か格好いいし。普段着ている服には隠しをつけてあるから、自分で持ち運べるしね」
コルセットの要らないワンピースドレスは、パニエを入れて膨らませる事もない。
せいぜい、足さばきがいいようにペチコートを穿くだけなので、ハンカチ程度は入れられる小振りのポケットをつけている。
「それでね、ニーナ」
緊張の色を覗かせたディーンが、慎重に切り出した。
「ここ一ヶ月の出来事を踏まえて、一つ、提案があるんだ」
「何?」
「以前、君は、結婚したくないと話していただろう?でも、君が一人でいる事を、人々はよしとしない。虎視眈々と、君の隣の席を狙い続ける筈だ」
「…」
彼等が望むのがニーナの異世界人としての知識である以上、子供を生めない位に年齢を重ねようが、顔や体に傷を負おうが、諦める筈もない。
口さえ利く事ができれば、家門の繁栄の為に、ニーナを取り込もうとするだろう。
ただでさえ、ニーナが相手を選ばない事への不満が高まっているのだ。
ニーナが根負けするまで、非難を続ける事は想像に容易い。
「だからと言って、君が敬遠している結婚を無理に勧める事はしたくない。だから…結婚はしなくていいから、僕の恋人になってくれないかな」
「……え?」
愛の告白にしては、随分とあっさりしている。
これまで、彼が向けてくれていた好意と比べて、全く熱を感じない言葉にニーナが首を傾げると、ディーンは説明を続ける。
「いや、つまり、えっと、その…恋人契約を結んでくれないかな、って事だよ。ガルダでは、余程の事情がなければ、婚約の一年後に結婚式を挙げるんだ。だから、婚約した時点で、すぐに婚姻の日程が組まれてしまう。でも、君は結婚したくないんだから、婚約はしない。ガルダ貴族の中では異例だけど、相手が落ち人なら許されると思う。それに、恋人関係を公言しておけば、婚約や婚姻をせっつかれても僕が介入する事ができる。婚約者として公的に認められた関係ではなくても、赤の他人に口を挟まれる頻度がぐっと下がる筈だ」
焦ったように言い募るディーンの顔を、ニーナは見つめ返す。
確かに、王弟の恋人として認識されれば、ディーンを押し退けてまで配偶者に立候補する男性は激減する。
ディーンがニーナを気に入っている、と匂わせているだけの段階でも、彼の顔色を窺って抜け駆けする人物はいなかったのだから。
けれど。
「ディーン…でも、それってとっても大きな問題があるでしょ?」
「そうかな?」
「貴方は王弟なんだよ。ヒースが未婚で後継者もいないのに、貴方まで結婚しないってなったら、ガルダ王家を継ぐ人はどうするの。王太后様が心配するでしょう」
「いや、寧ろ、兄上の地位を狙ってないって示す為に、恋人はいるけど婚約はしていないと言う状況は、僕にとって都合がいい」
ディーンとヒースは、本人達の意向に関わらず、玉座を巡る貴族達の思惑に巻き込まれて来た。
ヒースを支える立場を前面に押し出しているディーンが、ヒースが結婚し後継を得るまで自身の結婚を後回しにする、と言うのは自然に思える。
「でも、ヒースが結婚した後は?子供が生まれれば、ディーンが結婚しても何も問題はないでしょ?そしたら、恋人契約を止めるの?」
ニーナがフリーになれば、また同じ事の繰り返しだ。
顔触れは変わるだろうけれど、彼等はニーナを慕っているから求婚したいのではなく、落ち人を家門に取り込みたいだけなのだから。
「止めないよ。終身契約だ。僕が結婚しなくても問題はない。ガルダ王族の人数が少ないのは確かだけど、だからって別に、何が何でも僕に結婚を強要させる事はできないんだから」
沈黙したニーナに何を思ったのか、ディーンは慌てて言葉を続ける。
「あぁ、違うな、これじゃあ、勘違いさせてしまうよね。勿論、一番の理由は、君と一緒にいたいからだ。結婚したくない、と言うなら、それでいい。でも、君の一番傍にいるのは、他の誰でもなくて僕がいいんだ。僕にとって、君は大切な人だから」
一緒にいたい。
大切な人。
ならば、ディーンはニーナを見限って、他の人と結婚する気はないと言う事なのか。
けれど、決定的な一言を、ディーンは決して口にしない。
好きだとは、愛しているとは、言わないのだ。
本当の恋人になって欲しい、と言う一言さえも。
「今すぐ、答えて欲しいとは思ってない。でも、ニーナを煩わせている問題の半分以上は片付くと踏んでる。だから…考えてみてくれないかな」
ニーナも、理性の部分では判っている。
この世界の常識では、ニーナの独身主義は理解されない。
この国でも高貴な身分で、気心の知れたディーンが特別な存在だと示しておけば、少なくとも表面上の問題は沈静化する。
ディーンは、彼にもメリットがあるのだ、と言うけれど、そんなもの、ニーナが受け取るものに比べれば微々たるものだ。
どれだけ甘やかすつもりなんだ、とニーナは泣きそうになった。
こんな提案をするのも、決して気持ちを伝えて来ないのも、ニーナが恋愛感情を忌避している事を理解しているからなのだろう。
「うん…」
だから、頭から拒否する事は、できなかった。
ニーナだって、隣にいるのはディーンがいいと思ってしまったのだから。
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