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第1話 沈鬱な水面
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大唐の大明宮は太極宮の東北にあり、朝政の中枢となっている。瑞雲に取りまかれたその一角には、青柳に囲まれ陰鬱な緑に沈む小さな池があった。広々と大きな太掖池とは対照的に、宮中でもこの池の存在を知る者はほとんどない。
「……何だか薄気味悪いわね」
「そりゃ、そうでもなければ酒令の罰にはならないだろう?」
池のほとりに植わった柳のもと、ひそひそ話をしながら肩を寄せ合うようにしているのは、一組のごく若い宦官と女官だった。宦官の名は玉芝、女官の名は木蘭といい、ともに幼いころに入宮して兄妹のように育ってきた、気の置けない仲である。玉芝ははしっこそうな眼つきの、そばかすの浮いた少年で、いっぽう木蘭はまだあどけなさの残る顔立ちの小柄な少女で、二人が並ぶと、不思議と一対の置物のようにおさまりが良い。
彼らが昼間から顔を赤くし、足取りが若干心もとないのには理由がある。二聖、すなわち皇上と武后の愛娘である太平公主が、母后の無聊を慰めようと宮中で宴を開いた。公主の気に入りである玉芝と木蘭もその場に侍していたところ、酒令への参加を命じられてともに負け、したたか罰杯を飲まされたあげく、罰として詩を一句、この池の柳の幹に彫り付けてくるよう課せられたのである。
――後ほど人を遣わして検分させるゆえ、しかと刻んでまいれ。
母親の武后とよく似た面立ちで、朱の匂う唇を歪めてそう念押しした太平公主の、楽しげな表情が忘れられない。にぎにぎしく糸竹が鳴り響き、倡優たちの声も高らかに、とりどりの酒肴も、水晶の壺に活けられた竜胆の花も、何もかもが極楽の生き写しのごとき宴席に比べれば、この人に見捨てられたがごとき池のあり様は、木蘭の心細さを掻き立てるには十分であった。
「なぜ公主さまはわざわざこの池を?」
玉芝は眉を挙げた。
「知らないのか?俺は内侍高品の張さまから聞いたことがあるんだが――」
何でも、かつて太宗の皇太子であった李承乾には、情を交わした若い美貌の宦官がいたのだが、そのうち太常楽童の称心に寵愛を移した。哀れ、太子に捨てられた宦官は世をはかなんで下賜の玉璧を握りしめ、愛する人と逍遥し語らったこの池に身を投げたという。承乾ものちに太子を廃されて没し、いまは父帝の昭陵に陪葬されている。
「恐れ多くも、陛下のおわす宮城の池を汚したというので、宦官の家族も縁坐で殺されてしまったんだよ」
木蘭はぶるっと身を震わせた。
「恐ろしいわ……。でも、宦官といい楽童といい、太子さまはもちろん殿方なのに男性と情を交わされていたの?あ、宦官は男性というのとは、ちょっと違うけど」
日頃、先輩の宦官からいろいろな知識を仕入れては木蘭に聞かせている玉芝は、肩をすくめた。
「男同士でもそういうことだってあるんだよ。男女にだけある関係ではないらしい。だって、宦官も女官と夫婦約束を交わしたりするじゃないか、秘密にね。知ってる?そういうの、『対食』っていうんだよ、夫婦差し向かいで食事をとるからさ」
「え、結婚できるの?私達も、あなた方と?」
木蘭は眼を見開いた。
「ええと、……でもどうやって?」
木蘭とて、耳年増の女官から男女関係などの知識を断片的に聞いてはいるが、宦官と女官がどのようにして夫婦の関係を結ぶのか、想像もできない。
「さあね。でもどうだい?俺達もそのうち夫婦になろうか?ずっと一緒にいられるし。それとも、木蘭は俺が嫌い?」
からかいに満ちた囁きが、女官の耳をくすぐる。彼女はかあっと頬が熱くなるのを感じ、それをごまかすために宦官の頬をつまんで思い切りひねった。
「つまらないこと言ってないで、早く半句でもひねり出して、そこの幹に刻んでよ。公主さまに復命しなくてはならないのに、ぐずぐずしていると日が暮れてしまうわ」
「……何だか薄気味悪いわね」
「そりゃ、そうでもなければ酒令の罰にはならないだろう?」
池のほとりに植わった柳のもと、ひそひそ話をしながら肩を寄せ合うようにしているのは、一組のごく若い宦官と女官だった。宦官の名は玉芝、女官の名は木蘭といい、ともに幼いころに入宮して兄妹のように育ってきた、気の置けない仲である。玉芝ははしっこそうな眼つきの、そばかすの浮いた少年で、いっぽう木蘭はまだあどけなさの残る顔立ちの小柄な少女で、二人が並ぶと、不思議と一対の置物のようにおさまりが良い。
彼らが昼間から顔を赤くし、足取りが若干心もとないのには理由がある。二聖、すなわち皇上と武后の愛娘である太平公主が、母后の無聊を慰めようと宮中で宴を開いた。公主の気に入りである玉芝と木蘭もその場に侍していたところ、酒令への参加を命じられてともに負け、したたか罰杯を飲まされたあげく、罰として詩を一句、この池の柳の幹に彫り付けてくるよう課せられたのである。
――後ほど人を遣わして検分させるゆえ、しかと刻んでまいれ。
母親の武后とよく似た面立ちで、朱の匂う唇を歪めてそう念押しした太平公主の、楽しげな表情が忘れられない。にぎにぎしく糸竹が鳴り響き、倡優たちの声も高らかに、とりどりの酒肴も、水晶の壺に活けられた竜胆の花も、何もかもが極楽の生き写しのごとき宴席に比べれば、この人に見捨てられたがごとき池のあり様は、木蘭の心細さを掻き立てるには十分であった。
「なぜ公主さまはわざわざこの池を?」
玉芝は眉を挙げた。
「知らないのか?俺は内侍高品の張さまから聞いたことがあるんだが――」
何でも、かつて太宗の皇太子であった李承乾には、情を交わした若い美貌の宦官がいたのだが、そのうち太常楽童の称心に寵愛を移した。哀れ、太子に捨てられた宦官は世をはかなんで下賜の玉璧を握りしめ、愛する人と逍遥し語らったこの池に身を投げたという。承乾ものちに太子を廃されて没し、いまは父帝の昭陵に陪葬されている。
「恐れ多くも、陛下のおわす宮城の池を汚したというので、宦官の家族も縁坐で殺されてしまったんだよ」
木蘭はぶるっと身を震わせた。
「恐ろしいわ……。でも、宦官といい楽童といい、太子さまはもちろん殿方なのに男性と情を交わされていたの?あ、宦官は男性というのとは、ちょっと違うけど」
日頃、先輩の宦官からいろいろな知識を仕入れては木蘭に聞かせている玉芝は、肩をすくめた。
「男同士でもそういうことだってあるんだよ。男女にだけある関係ではないらしい。だって、宦官も女官と夫婦約束を交わしたりするじゃないか、秘密にね。知ってる?そういうの、『対食』っていうんだよ、夫婦差し向かいで食事をとるからさ」
「え、結婚できるの?私達も、あなた方と?」
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「ええと、……でもどうやって?」
木蘭とて、耳年増の女官から男女関係などの知識を断片的に聞いてはいるが、宦官と女官がどのようにして夫婦の関係を結ぶのか、想像もできない。
「さあね。でもどうだい?俺達もそのうち夫婦になろうか?ずっと一緒にいられるし。それとも、木蘭は俺が嫌い?」
からかいに満ちた囁きが、女官の耳をくすぐる。彼女はかあっと頬が熱くなるのを感じ、それをごまかすために宦官の頬をつまんで思い切りひねった。
「つまらないこと言ってないで、早く半句でもひねり出して、そこの幹に刻んでよ。公主さまに復命しなくてはならないのに、ぐずぐずしていると日が暮れてしまうわ」
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