雲間の別鶴

結城かおる

文字の大きさ
7 / 7

最終話 別鶴

しおりを挟む
「冰心!冰心!」
 木蘭が追って外に出ると、既に空から白いものが舞い落ち始めていた。冰心は哄笑をのこしながら、遥か遠くに走っていく。
 木蘭の大声に気が付いたのか、見回りの宦官の一団が駆け寄ってきた。その一人が玉芝ぎょくしであることにほっとした木蘭は、彼女を抱きとめた若い宦官に、うわ言のように繰り返した。
「彼が……いえ、彼女があの池に……」

 
 ようやく衛士や宦官、そして木蘭が池にたどり着いたとき、すでに美貌の女官は、氷に半ば閉ざされた水面に浮かんでいた。心の臓の鼓動をとめ、その顔は穏やかで、死の苦しみとも無縁そうだった。
「……この寒さのなか池に落ちたんだ、ひとたまりもあるまい」
 玉芝のつぶやきに、木蘭は頷くこともできず、ただ涙を流して震えていた。

 
 
 それからどれだけの時が経ったのか、池の氷もすっかり緩んだある昼下がり、若い女官と宦官が池のほとりに佇んでいた。

――酒令の罰に刻んだ詩句が、綺麗に消えてしまったんだよ、あれほど苦労したのにさ。不思議だとは思わないか?

 玉芝が慌てた様子で木蘭のもとへ告げに来たが、彼女はもうそれを奇異なこととはみなさなかった。

  むし野中やちゅう双鳧そうふるとも
  雲間うんかん別鶴べっかくとなるを願わず(注1)

――いっそ野原にあそぶつがいのかも・・となるとも、つれあいと別れて雲間に飛ぶ鶴のようにはなりたくない。

 あのとき樹に刻んだ詩句を、木蘭は諳んじた。きっと彼女が玉を失った代わりに、この句を持って行ってしまったのだろう。

 そしていま、木蘭と玉芝の手のひらには、一対となる玉がそれぞれ載せられている。
「……もうこれで、彼が想い人を探してさ迷うこともないだろう」
「でも、想う相手は、彼を想い返すかしら?」
「さあ?でも情愛は、対価でやり取りするものではないから……想い返すも想い返さぬも、その人の自由だろう」
「彼の場合、万分の一でも、想う人が振り返ってくれればいいのにね」
「詩句だけではなくこの玉も持っていけば、きっと大丈夫だよ。振り返って、抱きしめるくらいはしてくれるさ」

 私もそう思う、木蘭は呟いた。曾祖父は、恋人を捨てたことを後悔する時もあっただろうか。情愛と裏切りの証しを、生涯持ち続けた廃太子――。

 二人はかがみ込んで、それぞれの玉をぴたりと合わせた状態で水面にそっと乗せた。水はたちまち璧を飲み込み、池の底にさらっていく。

 玉芝は水面を眺めたまま、囁くように問うた。
「なあ、木蘭」
「何?」
「もし良かったら、そのうち定婚しないか?皆には内緒で」
 木蘭は顔を赤くして俯き、ぼそぼそとつぶやいた。
「……考えておくわ」

 ばさりと音を立てて、池の端から一羽の鴨が飛び立った。

                           
     【 了 】

 注1「寧作野中双鳧、不願雲間之別鶴」
 文中の詩句の出典は、南朝・宋の鮑照。読み下しと和訳は『漢詩名句辞典』(大修館書店、一九八〇年)に拠る。

しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

ママのごはんはたべたくない

もちっぱち
絵本
おとこのこが ママのごはん たべたくないきもちを ほんに してみました。 ちょっと、おもしろエピソード よんでみてください。  これをよんだら おやこで   ハッピーに なれるかも? 約3600文字あります。 ゆっくり読んで大体20分以内で 読み終えると思います。 寝かしつけの読み聞かせにぜひどうぞ。 表紙作画:ぽん太郎 様  2023.3.7更新

雪嶺後宮と、狼王の花嫁

由香
キャラ文芸
後宮に降る雪は、呪いではなく嘆きだった。 巫女として献上された少女セツナは、 封じられた狼王の“花嫁”としての前世を思い出す。 人と妖、政と信仰の狭間で、 彼女が選ぶのは従属ではなく均衡。 雪嶺を舞台に描く、異種婚姻×後宮伝承譚。

焔と華 ―信長と帰蝶の恋―

歴史・時代
うつけと呼ばれた男――織田信長。 政略の華とされた女――帰蝶(濃姫)。 冷えた政略結婚から始まったふたりの関係は、やがて本物の愛へと変わっていく。 戦乱の世を駆け抜けた「焔」と「華」の、儚くも燃え上がる恋の物語。 ※全編チャットGPTにて生成しています 加筆修正しています

後宮なりきり夫婦録

石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」 「はあ……?」 雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。 あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。 空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。 かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。 影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。 サイトより転載になります。

遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜

小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。 でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。 就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。 そこには玲央がいる。 それなのに、私は玲央に選ばれない…… そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。 瀬川真冬 25歳 一ノ瀬玲央 25歳 ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。 表紙は簡単表紙メーカーにて作成。 アルファポリス公開日 2024/10/21 作品の無断転載はご遠慮ください。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

処理中です...