雲間の別鶴

結城かおる

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最終話 別鶴

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「冰心!冰心!」
 木蘭が追って外に出ると、既に空から白いものが舞い落ち始めていた。冰心は哄笑をのこしながら、遥か遠くに走っていく。
 木蘭の大声に気が付いたのか、見回りの宦官の一団が駆け寄ってきた。その一人が玉芝ぎょくしであることにほっとした木蘭は、彼女を抱きとめた若い宦官に、うわ言のように繰り返した。
「彼が……いえ、彼女があの池に……」

 
 ようやく衛士や宦官、そして木蘭が池にたどり着いたとき、すでに美貌の女官は、氷に半ば閉ざされた水面に浮かんでいた。心の臓の鼓動をとめ、その顔は穏やかで、死の苦しみとも無縁そうだった。
「……この寒さのなか池に落ちたんだ、ひとたまりもあるまい」
 玉芝のつぶやきに、木蘭は頷くこともできず、ただ涙を流して震えていた。

 
 
 それからどれだけの時が経ったのか、池の氷もすっかり緩んだある昼下がり、若い女官と宦官が池のほとりに佇んでいた。

――酒令の罰に刻んだ詩句が、綺麗に消えてしまったんだよ、あれほど苦労したのにさ。不思議だとは思わないか?

 玉芝が慌てた様子で木蘭のもとへ告げに来たが、彼女はもうそれを奇異なこととはみなさなかった。

  むし野中やちゅう双鳧そうふるとも
  雲間うんかん別鶴べっかくとなるを願わず(注1)

――いっそ野原にあそぶつがいのかも・・となるとも、つれあいと別れて雲間に飛ぶ鶴のようにはなりたくない。

 あのとき樹に刻んだ詩句を、木蘭は諳んじた。きっと彼女が玉を失った代わりに、この句を持って行ってしまったのだろう。

 そしていま、木蘭と玉芝の手のひらには、一対となる玉がそれぞれ載せられている。
「……もうこれで、彼が想い人を探してさ迷うこともないだろう」
「でも、想う相手は、彼を想い返すかしら?」
「さあ?でも情愛は、対価でやり取りするものではないから……想い返すも想い返さぬも、その人の自由だろう」
「彼の場合、万分の一でも、想う人が振り返ってくれればいいのにね」
「詩句だけではなくこの玉も持っていけば、きっと大丈夫だよ。振り返って、抱きしめるくらいはしてくれるさ」

 私もそう思う、木蘭は呟いた。曾祖父は、恋人を捨てたことを後悔する時もあっただろうか。情愛と裏切りの証しを、生涯持ち続けた廃太子――。

 二人はかがみ込んで、それぞれの玉をぴたりと合わせた状態で水面にそっと乗せた。水はたちまち璧を飲み込み、池の底にさらっていく。

 玉芝は水面を眺めたまま、囁くように問うた。
「なあ、木蘭」
「何?」
「もし良かったら、そのうち定婚しないか?皆には内緒で」
 木蘭は顔を赤くして俯き、ぼそぼそとつぶやいた。
「……考えておくわ」

 ばさりと音を立てて、池の端から一羽の鴨が飛び立った。

                           
     【 了 】

 注1「寧作野中双鳧、不願雲間之別鶴」
 文中の詩句の出典は、南朝・宋の鮑照。読み下しと和訳は『漢詩名句辞典』(大修館書店、一九八〇年)に拠る。

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