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第6話 蘇る過去
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その三日後、木蘭はうきうきした気分で自室の敷居を跨いだ。手習いのための反故紙を多く入手することができたからで、夕餉の後は書の稽古に当てるつもりだった。そのために、今日の仕事を精励したのである。冰心は宿直で、深更にならないと戻ってこない。のびのびと手習いをするには絶好の機会だった。炭火を大いに熾して外から帰ってきた身体のこわばりをほぐし、手を温めてから愛用の文房具を広げる。
「さあて、次はどの紙を……」
何枚か書きつぶして真黒にした後で、何気なく取った一枚の古い紙に眼を通し、木蘭は固まった。
「……これは」
ある一人の宦官の名。容貌。家族構成。入宮の年月。池にいたおおよその日時。周囲と遺体の状況。身に着けていたもの――。
燭を引き寄せ、彼女は貪るようにそれを読む。曾祖父に焦がれて身投げした、かの宦官を調査した書類だった。年月が経って廃棄され、反故として扱われたものが木蘭にまで回ってきたのだろう。さらに、彼女はそのなかのある図に眼が釘付けとなった。池から引き揚げられた宦官の握りしめていたものが描かれている。それは玉。半月型で中心がくりぬかれた、璧を二つに割った形の――。
震える手で懐からあの白玉を取り出し、その図に重ね合わせる。自分の持つ玉と、図に描かれた玉と、ぴたりと合って全き円となる。縁の文様も、龍の彫刻も。おそらく、もとの実物を原寸大に描きとったものと見える。
「……あ」
窓外からの冷気ではなく、身体の内からの寒気に襲われた木蘭はふらりと立ち上がり、半ば泳ぐかのように部屋を横切った。喉がからからに乾いて水が欲しかったのだ。だが上手く歩けず、冰心の寝床脇の小卓にぶつかり、その上に載っていた螺鈿細工の針箱を払い落としてしまった。
――いけない、冰心が常々『中を見ないで』『触らないで』と頼んでいたじゃない。怒られるわ…。
そう思う間に、箱は床に当たって蓋が外れ、針山や糸、指ぬきなどが飛び散った。さらに錦の袋から飛び出した中身が、からんと音を立てて転がる。慌てて拾い上げた木蘭は、眼を疑った。それも、やはり玉。しかもあの図とまったく同じ、木蘭が持つものと一対になる。璧が半分に断ち切られていて――。
木蘭は首を横に何度も振り、のろのろと二つの玉を合わせた。隙間なく合わさり、完全な形となる。
がたり、と戸口が鳴って人影が立つ。我に返った木蘭は顔を引きつらせていたが、それは相手も同じだった。
「――冰心」
菩薩のようにいつも穏やかで、秀麗な面差しはだがしかし、いまは阿修羅のようになっていた。
「どうして……!開けないで、見ないでとあれほど……!」
眦をつり上げた同輩に、木蘭は震えあがった。しかし、冰心は木蘭の手元によくよく目を凝らしたようだった。阿修羅が変じて、今度は狂恋の形相となる。
「ああ!ここにいらしたとは……何故、今日の今日まで気が付かなかったのか。あなたが私の……」
女官は一声、高笑いを上げた。
「何度でもこの宮中に生まれ変わり、あの方を待とうという宿願がついに果たされるとは!天もひとりの哀れな、よるべなき宦者の魂を嘉されたか!こんな近くに我が君がいらしたとは!」
木蘭は混乱して、何が何だかわからない。だが、冰心は彼女を部屋の隅に追い詰め、怒りに歪んでもなお美しい顔を突き出した。
「なぜ私をお捨てになられた!永遠の誓いは偽りであったのか!歓を尽くし寝食を共にしていながら、なぜ塵芥のようにお捨てになられた……憎らしい、憎んでも余りある我が君…」
万力のような力で璧の片割れをもぎ取り、木蘭を抱きすくめるとその口腔に自分の舌を押し込む。その口づけはいつぞやの戯れとは違う、濃厚なものだった。
「――!」
木蘭はもがき、ありったけの力で相手を突き飛ばした。彼女と冰心の璧、二つの玉がともに床に転がる。冰心は結い上げた髷も崩れ、踏み潰されて断末魔となった虫のように、木蘭を上目遣いに見ながら床を後ずさりに這った。そして戸口にまで至ると、ぱっと身を翻して暗闇のなかに消えた。
「さあて、次はどの紙を……」
何枚か書きつぶして真黒にした後で、何気なく取った一枚の古い紙に眼を通し、木蘭は固まった。
「……これは」
ある一人の宦官の名。容貌。家族構成。入宮の年月。池にいたおおよその日時。周囲と遺体の状況。身に着けていたもの――。
燭を引き寄せ、彼女は貪るようにそれを読む。曾祖父に焦がれて身投げした、かの宦官を調査した書類だった。年月が経って廃棄され、反故として扱われたものが木蘭にまで回ってきたのだろう。さらに、彼女はそのなかのある図に眼が釘付けとなった。池から引き揚げられた宦官の握りしめていたものが描かれている。それは玉。半月型で中心がくりぬかれた、璧を二つに割った形の――。
震える手で懐からあの白玉を取り出し、その図に重ね合わせる。自分の持つ玉と、図に描かれた玉と、ぴたりと合って全き円となる。縁の文様も、龍の彫刻も。おそらく、もとの実物を原寸大に描きとったものと見える。
「……あ」
窓外からの冷気ではなく、身体の内からの寒気に襲われた木蘭はふらりと立ち上がり、半ば泳ぐかのように部屋を横切った。喉がからからに乾いて水が欲しかったのだ。だが上手く歩けず、冰心の寝床脇の小卓にぶつかり、その上に載っていた螺鈿細工の針箱を払い落としてしまった。
――いけない、冰心が常々『中を見ないで』『触らないで』と頼んでいたじゃない。怒られるわ…。
そう思う間に、箱は床に当たって蓋が外れ、針山や糸、指ぬきなどが飛び散った。さらに錦の袋から飛び出した中身が、からんと音を立てて転がる。慌てて拾い上げた木蘭は、眼を疑った。それも、やはり玉。しかもあの図とまったく同じ、木蘭が持つものと一対になる。璧が半分に断ち切られていて――。
木蘭は首を横に何度も振り、のろのろと二つの玉を合わせた。隙間なく合わさり、完全な形となる。
がたり、と戸口が鳴って人影が立つ。我に返った木蘭は顔を引きつらせていたが、それは相手も同じだった。
「――冰心」
菩薩のようにいつも穏やかで、秀麗な面差しはだがしかし、いまは阿修羅のようになっていた。
「どうして……!開けないで、見ないでとあれほど……!」
眦をつり上げた同輩に、木蘭は震えあがった。しかし、冰心は木蘭の手元によくよく目を凝らしたようだった。阿修羅が変じて、今度は狂恋の形相となる。
「ああ!ここにいらしたとは……何故、今日の今日まで気が付かなかったのか。あなたが私の……」
女官は一声、高笑いを上げた。
「何度でもこの宮中に生まれ変わり、あの方を待とうという宿願がついに果たされるとは!天もひとりの哀れな、よるべなき宦者の魂を嘉されたか!こんな近くに我が君がいらしたとは!」
木蘭は混乱して、何が何だかわからない。だが、冰心は彼女を部屋の隅に追い詰め、怒りに歪んでもなお美しい顔を突き出した。
「なぜ私をお捨てになられた!永遠の誓いは偽りであったのか!歓を尽くし寝食を共にしていながら、なぜ塵芥のようにお捨てになられた……憎らしい、憎んでも余りある我が君…」
万力のような力で璧の片割れをもぎ取り、木蘭を抱きすくめるとその口腔に自分の舌を押し込む。その口づけはいつぞやの戯れとは違う、濃厚なものだった。
「――!」
木蘭はもがき、ありったけの力で相手を突き飛ばした。彼女と冰心の璧、二つの玉がともに床に転がる。冰心は結い上げた髷も崩れ、踏み潰されて断末魔となった虫のように、木蘭を上目遣いに見ながら床を後ずさりに這った。そして戸口にまで至ると、ぱっと身を翻して暗闇のなかに消えた。
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