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Burn the Silence ―沈黙を焦がす音―
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午後の空気は、光の粒を焦がすみたいに白く滲んでいる。アスファルトから立ち上がる陽炎が足首の辺りを撫で、電柱の影は分を追うごとに細く伸びる。潮の匂いを含んだ南風が、通学路の銀杏並木を重たく揺らす。葉の裏側にこびりついた夏の名残が、乾いた音を立てて擦れ合う。遠くでセミが高く鳴き、信号機のスピーカーが僅かにジジッと唸る。その下、日焼けした肩に制服シャツの袖をまくり上げた新堂玲央は、水筒の蓋をひねってぬるいスポーツドリンクを一口飲み、空を見上げた。胸の鼓動は落ち着いている。落ち着かせている。言い聞かせれば、体は従う。二年間ずっとそうしてきた。
夏は、まだ終わらない。だけど、終わりかけの匂いがある。熱の端に寂しさが混ざって、風に乗ってくる。真っ白な校舎の壁にその匂いがすべって、窓ガラスの向こうで誰かが笑っている。音が、軽い。昔はこんな軽さを許せなかった。いまは許せる。許したふりを、している。
「もう二度と戦わねぇ」
口の中で形だけの言葉にする。唇から離れても、空には溶けない。自分の耳にだけ届くように、低く。額に汗が一筋流れ、顎の先で光って落ちた。靴底がアスファルトを叩くたび、かすかな反響が足の骨を伝って上がってくる。それはリズムだ。歩くという動作に貼り付いた原始的な拍。無視しようとすればするほど、輪郭が濃くなる。
「……」
音を切るように息を吐いて、横断歩道の端に立った。赤。風がシャツの裾を膨らませる。信号が青に変わる寸前、商店街のスピーカーが小さくポッと音を立てて目を覚ます。今日は祭の宣伝だろう、と玲央は思う。かき氷の新メニュー、海辺の屋台、花火大会の延期。そんな他愛ない音声が、夏の終わりには似合う。スピーカーがキンと明るく響き、アナウンスの前口上が始まった。
「――日向シティの皆さんにお知らせします」
歩き出した足が、半歩で止まる。
「この夏、あの伝説が帰ってきます」
思わず首が動く。商店街の入口、アーケードの付け根には大型の液晶看板がある。普段は観光案内や海の様子が流れる。いまそこに現れたのは、黒と赤のスラッシュで切り裂かれたロゴ。無骨で尖った書体の英字が踊り、ビートが画面の内側で振動するのが見えるような気がした。息がひとつ、浅くなる。
BATTLE RHYTHM FESTIVAL。
あの文字列は、喉の奥をざらついた指でなぞるようだ。耳の穴の奥に、観客の歓声が蒸気となって戻ってくる。呼吸の回数が増える。背中の汗が冷える。重たくなる空気を押しのけるように、スピーカーは早口に続ける。
「今年は新体制のもと、全国から選りすぐりの若きファイターが集結! そして、スペシャルゲスト――」
映像が切り替わる。黒いステージ。銀の光がひと筋、斜めに落ちる。ギターの弦を爪弾く音が一拍、二拍、三拍。休符。カメラがパンする。その輪郭が現れる。
銀髪。切れ長の瞳。絵画から抜け出したみたいな涼やかな顔立ち。喉ぼとけの下、シャツのボタンが一つ外れている。その皮膚の白さに、会場のライトが柔らかく燃える。彼はマイクに口を寄せず、代わりに指先で空気をはじいた。そこに音が生まれる。微かな振動が、画面越しにでも分かる。唇が、笑う。優しく。痛いほどに。
榊悠真。
「……嘘、だろ」
喉の奥で名前が滑る。掌が乾く。握りしめた水筒のプラスチックがギシ、と鳴る。喉から漏れる音が、腹の底で弾ける。視界の縁が熱で波打つ。二年前の夏の終わり、最後に見た視線が、正確な角度と温度で返ってくる。あの時と同じ微笑み。けど、違う。薄氷のような静けさではなく、柔らかい熱を含んでいる。これは今の笑顔だ。現在の顔だ。過去ではない。
「玲央!」
背中から小さな声が飛び込んできた。肩を叩かれて振り返ると、揺れるポニーテールと白いキャップの縁。一ノ瀬朱莉が、息を弾ませて立っていた。Tシャツの上に羽織った薄いパーカーが風で翻り、首からぶら下げたマネージャー用のパスが胸元でチリ、と鳴った。
「見た? 今の告知」
「……ああ」
「また出るの? 玲央」
質問は丸ごと胸の真ん中に落ち、音を立てずに沈んだ。言葉を探す間、液晶看板では今度、街の風景と大会のロゴが繰り返し流れ始めている。赤い太字の「復活」が視界の端に点滅し続ける。
「いや――」
否定しようとした舌が、頬の内側で抵抗を受けた。視線が勝手に看板へ戻る。彼の姿はもう映っていないのに、残像だけが濃く残っている。
「……」
朱莉は言葉を急かさない。彼女のそういうところに何度も救われてきた。水筒の口を閉め、シャツの裾で手のひらの汗を拭く。自分の指紋が消えたみたいに感覚が薄い。喉は渇いているのに、さっき飲んだぬるい甘さが胃のあたりに残っている。
「行こ。とりあえず」
朱莉が肩を並べ、横断歩道を渡る。歩幅に無理がない。合わせてくる。信号機のメロディが、夏の終わりの空に似合わないくらい明るい。アスファルトの黒に白い横線が流れて、靴底がその上を刻む。歩くたびに、足の骨が鳴る。鳴る。鳴る。
放課後の体育館は、床に塗り込められたワックスの匂いが濃い。バスケットボールのゴムと汗の混じった香りが、空気を分厚くする。窓を全開にしても風は重く、天井のファンがものぐさに回る。隅で卓球部がラケットを打ち鳴らし、向こうの端ではダンス同好会がゆるくステップを踏んでいる。音が混じって、溶けて、曖昧な塊になる。
玲央は体育館の隅、旧ロッカーの前でジャージに着替えた。コンプレッションシャツを引き上げると、二の腕の筋肉が汗で光る。鏡に映る自分の顔は、二年前より少し大人びて見える。頬の線が鋭くなり、目の下に薄い影がある。そこに自分で驚くことはない。驚く余白は、とっくに使い切っている。
二年前の決勝の映像は、頭の裏側に保管してある。好きなときに再生できる。あのとき、負けた。負けたことよりも、終わりに彼が見せた笑顔が脳に焼き付いた。勝敗の向こうの、別の何か。名前のない熱。それが二年間、言葉にならなかった。言葉にしてはいけない気がしていた。名前を与えた瞬間、壊れるような気がしていた。
床に直接寝転び、耳を板に押し付ける。ワックスに封じ込められた古いリズムのかけらが、体中の骨を通じて微かに伝わってくる。遠い過去の足音。跳ねたボール。息。笑い。涙。ここには音の層が重なっている。自分の音もその一部になるかもしれない。なる資格があるのか。問いは、汗と一緒に額から滑り落ちる。
立ち上がり、拳を作る。手首を回す。肩を回す。足首を鳴らす。呼吸を整える。鼻から吸って、口から押し出す。吸う長さと吐く長さを意識する。心臓の拍と合わせる。タッ、タッ、タッ。三つ数え、二つ休む。床の上に曲が見えるように、等間隔の白線が頭の中に走る。そこに足音を置く。置く。握った拳はまだ軽い。軽いからこそ、肌の下で熱が増える。
「――始めよっか」
朱莉が体育館の中央、メトロノームのアプリをスマホで起動する。乾いたクリックが響き始める。最初は遅い。ゆっくり。五十。六十。七十。玲央はそのクリックに抗う。リードされるのは嫌いだ。自分の中の拍に外側を合わせたい。けれどいまは、外の拍に合わせてみる。二年の空白を埋めるには、他人の手を借りるのも悪くない。
踏み出す。左。右。右。左。足の裏は床の滑らかな抵抗を確かめる。指の付け根で掴むように。重心を前へ滑らせ、踵で軽く押し込む。膝は柔らかく。体幹が揺れないように。肩の力を抜く。視界の隅で朱莉がタイムを指で刻んでいる。呼吸が合ってくる。汗が耳の下を伝って落ちる。ふと、足下の板が応える音が心地よい。たった今、生まれたリズム。過去のかけらと混じらない、現在の音。
拳を少しだけ上げ、肩の高さで止める。空打ち。空気を殴ると、破れ目から風が漏れる。皮膚にまとわりついた熱がわずかに剥がれる。音は、鳴る。鳴ってしまう。自分で制御しようがしまいが、体はリズムに反応する。やっぱり、逃げられないのかもしれない。逃げたふりが上手くなるほど、本当の逃走は遠のく。
「――玲央」
朱莉が近づいて、冷えたペットボトルを差し出す。露が表面にびっしりとついて、指先がひやりとした。
「その顔、久しぶりに見た」
「どの顔だよ」
「戦ってる顔」
返す言葉は用意していなかった。喉を通る水の温度がちょうどいい。少しだけ冷たくて、でも刺さらない。腹に落ちる途中で体温になじむ。目を閉じて二呼吸。開くと、体育館の光は少しだけ柔らかく見えた。
夜。自室。蛍光灯を落として、ベッドの上に仰向けになる。窓からは港の灯りが小さく見える。ネオンの赤が海面に溶け、風がカーテンを揺らす。ファンがゆっくり回る音が、遠い波の音と重なる。スマホの画面が顔の上で明るくなり、指が検索履歴を辿る。二年前の大会決勝、アーカイブ映像。再生ボタン。抵抗はない。抵抗するふりをする時間は、さっき体育館に置いてきた。
映像の中の自分は、若い。驚くほど。目に熱が宿って、それを隠そうともしていない。汗の粒がライトで星みたいに光っている。その向かい側に、彼がいる。銀髪が青い光を吸い、目元に影が落ちる。正確なステップ。音に対する反射神経が生き物みたいに動いて、空気の密度を変えていく。二人の間の距離は、常に測られていた。近づきすぎれば爆発が起き、遠ざかれば吸引が起きた。重力がある。互いだけに働く、目に見えない力。
最後のシーン。勝敗が決し、歓声が空を埋め尽くした瞬間。彼は笑っていた。勝者の笑みではない。救いのない優しさの笑顔。敗者の痛みをなぞるように、同じところに熱を置く微笑み。その笑みを二年かけて何度焼き直しても、発色は薄れなかった。今日、その笑みは画面の向こうではなく、街の看板に現れた。現在の光を浴びていた。
動画を閉じる。天井を見て、呼吸を一つ深くした。拳を胸の上に置く。鼓動は、速い。だが、不安の速さではない。走り出す前の速さ。スタートに立った時の、あの鼓動。
「逃げる理由が、なくなった」
声にすると、部屋の空気が少し軽くなった気がする。言葉は音だ。音は残る。背中を支える。机の上の古いタオルに手を伸ばし、汗を拭く。指先に決心が張り付く。明日、部活棟の道具置き場に行く。使っていなかったグローブ。剥がれかけたテーピング。匂い。全部、取り戻す。
翌朝の部活棟は、湿った木の匂いが濃い。窓際のサボテンは伸びすぎた腕をだらしなく横たえ、掲示板の隅には去年の大会ポスターがまだ貼られている。そこには、もう会えないと思っていた自分の笑顔がある。隣に仲間の顔。あいつらは進学で他県に散った。連絡は取っている。だけど、リングの上ではもう会わない。
ロッカーの奥から手首用のバンテージを取り出す。少し黄ばんで、汗の塩が残っている。匂いを嗅ぐと、鼻の奥にチリッと刺さる。布を手首に巻きつける。一巻き、ふた巻き、親指の付け根をまたいで戻す。巻くたびに皮膚が落ち着く。小さく叩いて馴染ませる。拳を作って握り、開く。血が指先に集まる音がする。心臓の鼓動が、巻いた布の内側で響く。
鏡の前に立ち、軽くシャドー。空気の密度が腕の振りに合わせて変わる。緩急。短いジャブ。長いストレート。腰を切る。ステップを踏む。床板が応える。応答。返答。応答。返答。やっぱり体は覚えている。リズムは裏切らない。裏切るのは、いつも頭だ。
「差し入れ」
入り口で声。朱莉が紙袋をぶら下げて笑っている。肩から斜めがけの小さなバッグ。目は相変わらず明るい。深いところに薄い陰があるのは、最近気づいた。彼女は気づかれたくなさそうにするから、気づかないふりをするのが礼儀だと思ってる。
「ありがと」
「今日は本気なんだね」
「……そう見えるか」
「見える。そうじゃなきゃ、その巻き方にならない」
バンテージの端を結びながら、笑う。こいつはよく見てる。細かいところを。見られて困るほど、青くはない。
「なぁ朱莉」
「うん?」
「もし、俺がまた――」
言いかけた言葉が、扉の隙間から入った風に攫われた。窓の外で誰かが呼ばれている。その声が知らない名前だったことで、心が少し遠くへ行く。戻ってくるのに一拍が必要になった。
「……いや。なんでもねぇ」
「うん」
朱莉はそれ以上問わない。紙袋から出した保冷剤を手渡してくる。手首に当てると、皮膚がジュッと鳴るみたいに冷えた。血が戻る。体の輪郭が鮮明になる。
放課後、河川敷。日向川の水面は光を跳ね返して目に刺さる。草の匂いが濃く、風はまだ温い。堤防の上を走る自転車のタイヤが砂を噛む音が、リズムに聞こえる。距離のある音が好きだ。近くで鳴る音は、自分の手の内に入れなきゃ落ち着かない。遠くで鳴る音は、追いかけたいと思う。追いつけなくても、その間の空白が呼吸を深くする。
堤防の階段を上り、コンクリートの平たい場所に出る。そこは、二年前の夏に何度もステップの練習をした場所だ。足跡は残っていない。砂が全部を曖昧にした。曖昧さの上に足を置き、空を見上げる。雲の形がゆっくり変わる。海の方角から風が吹く。潮と油の匂いが混じる。鼻に少し刺さって、でも嫌じゃない。
「――やぁ」
背中から声。知っている響きだ。喉の穴を通る空気の速さと、舌の置き方でつくる音。振り返る前に、体の中のどこかが先に反応する。肩の筋肉が無意識で収縮し、足の裏の重心がわずかに下がる。振り向く。銀の髪が、南風で揺れる。
榊悠真が、そこにいた。
距離は十メートル。間に、光が落ちている。影が長い。彼はいつものように真っ直ぐ立っている。首の角度は少しだけ右。唇の端が、ほんの少し上がっている。目は、笑っていない。笑わない目は、優しい。見失わないように、優しい。
「……変わらねぇな、玲央」
最初に出た言葉がそれで、胸がすこし痛くなる。会いたかった、とか、久しぶり、とか、謝れ、とか、怒らせろ、とか、何百通りも考えていたのに、どれでもない。どれでもない言葉の方が、今は正しい。
「お前こそ、何してやがった」
声が出るまでに、肺の空気を一度全部入れ替えた。怒鳴らない。笑わない。名前も呼ばない。呼んだら、戻れない気がした。
「歩いてた。海の方から風が来るから」
「答えになってねぇ」
「言える答えと、言えない答えがある」
「そうやって、黙って消えたろ」
「……」
風の音が強くなる。髪が顔にかかり、彼は指でそれを払う。その指はギターを弾く指だ。細くて、骨ばって、爪の形が綺麗だ。二年前、その指はステージの上で空気を掴んだ。いまは何も掴んでいない。代わりに視線が、俺の喉仏のあたりを掠めて、すぐに目に戻ってくる。
「俺、また出る」
呼吸の合間みたいに、さらりと言う。
「――お前は?」
堤防のコンクリートの埃っぽい匂いが、急に鮮明になる。足の裏に粗さが戻る。鼻の奥が熱くなる。言葉はいくつかの候補が順番に喉を通ろうとしてぶつかる。ゆっくり選ぶ時間は、もともと持ち合わせていない。
「決まってんだろ」
拳を少し上げる。肩の高さ。二年前と同じ高さ。掌の中で血が速くなる。足の裏が地面を押す。押すだけ。まだ踏み込まない。
「もう一度、ぶっ壊すまでだ」
言葉に鋭さがつく。彼の目が、少しだけ細くなる。痛みに似た線が、瞼の上に寄る。次の瞬間、その線は消えた。代わりに口角がほんの一ミリ上がる。風が、二人の間を走る。
拳が、同時に上がる。音は鳴らない。鳴らないのに、鳴っている。皮膚の下で。骨の中で。あの舞台の上で何度も鳴らした、名前のない拍。南からの風は、海の塩を載せて頬を撫でる。睫毛に引っかかった汗が、熱を持ったまま揺れる。
斜め後方から、砂利を踏む靴音。軽い。リズムを持たない歩き方。呼吸が伴っていない。訓練で身につく歩き方は、音を殺す。だけど完全には消えない。消さない方が自然だと、彼らは知っている。視界の隅、堤防の下の影に、帽子のつばが一瞬見えた。黒。目が合わない角度。彼は気づいている。俺も気づく。だけど、名前は与えない。名前を与えた瞬間に、ここは別の場所になる。
「玲央」
悠真が一歩、近づく。影と影が触れそうになる。距離はまだ保つ。風が音を連れてくる。どこかでサッカーボールを蹴る乾いた音。遠くの国道を走るトラックの低い唸り。川面で跳ねた魚の水音。全部、彼の声の背景になる。背景が豊かすぎると、言葉は短くなる。
「準備、いる?」
「必要なのは一つだけだ」
「何?」
「言い訳しない、ってこと」
「……それは俺の台詞だと思ってた」
「取り合いはしねぇ」
言葉で殴り合う前に、視線が交差する。視線は、拳より深く侵入する。呼吸の温度が変わる。舌の位置がほんの少し上に上がる。喉の筋肉が柔らかくなる。胸骨の裏で、心臓がひとつ、強く鳴る。それに応答して、彼の喉がわずかに動く。鼓動の粒が、外からも見える気がする。実際には見えない。けれど、感じる。
「じゃあ、またステージで」
「ここでもいい」
「ここはステージじゃない」
「いま俺が立ってる場所が、ステージだ」
「……そういうところ、変わってない」
「変える必要がねぇ」
短い沈黙。風が、間を満たす。何も言わなくても、音は満ちる。音が満ちれば、余計な言葉は浮かばない。
遠くで自転車のブレーキが鳴る。影が動く。堤防の下の黒い帽子は、もういない。砂利の音もしない。音を鳴らさずに消えるのは、訓練の結果だ。頭の隅が、その事実だけを棚に置く。そこにラベルは貼らない。貼れるラベルがいくつもある場合、どれも貼らないのがいちばんいい。
「じゃあ、決まり」
悠真が手の甲を軽く上に向ける。握手ではない。拳を合わせるでもない。手の甲と甲を擦り合わせるような、彼らのやり方。玲央も同じ高さに手を上げ、空気の薄い膜を挟んで触れる。皮膚が直接触れないのに、触れた感覚がある。皮膚よりも深い場所、拍と拍が触れる。触れて、離れる。指先に残る熱が、風に舐められる。
「明日、体育館」
「分かってる」
「遅れるな」
「お前が先に来いよ」
「考えておく」
「考えんな」
短い笑い。笑い声は小さく、だけどよく響く。川の水面がわずかに揺れる。太陽は傾き始め、影の端が角を丸める。彼は踵を返し、堤防の階段を降りる。足音は軽い。軽いけれど、消さない。消せるのに、消さない。消さないでいてくれる。背中を見送る。銀の髪が、最後の段で一度だけ跳ねた。
息を吸う。胸の中の空洞が、ようやく自分の形を思い出す。拳を握る。骨と骨が寄る。皮膚の下で血が走る。汗はもう熱くない。風がすこし冷えた。夏の終わりの予告みたいな冷たさが、首筋を撫でる。目を閉じる。瞼の裏はまだ明るい。白い。そこに、赤い線が一本引かれている。線は真っ直ぐで、震えていない。手を伸ばせば触れられる距離。触れない。触れるのは、明日だ。
帰り道、商店街のアーケードでは、夕方の特売の声が重なっていた。焼き鳥の甘い匂いが鼻をくすぐる。タコの茹で汁の塩気が喉を誘う。ジューススタンドのブレンダーが氷を砕く音が、耳に涼しい。液晶看板はまだ同じ宣伝を流し続けている。今度は映像の端に小さく、日程が表示された。数字の並びが視界に飛び込んで、脳のどこかを軽く叩く。日付は思ったより早い。笑ってしまう。間に合うとか、間に合わないとか、そういう次元じゃない。
角のコンビニでスポーツドリンクを二本買う。レジの少年が腕に巻いた同期装置の試供品を指で弄っている。ここ数ヶ月で街の若い連中の腕に同じバンドが増えた。数値でリズムを測る装置。便利らしい。安全らしい。合理的らしい。玲央はそれを付けない。付ければ楽になる箇所がある。だから付けない。楽になる箇所は、後で必ず別の場所に痛みを作る。
家に帰ると、玄関の涼しさに救われる。冷蔵庫のドアを開け、氷を口に放り込む。舌の上で解ける音はしない。冷たさだけが音の代わり。冷たさは、音にもなれる。シャワー。湯の温度は低め。皮膚の上から二層目くらいまで熱が浸透していたから、それを剥がす。湯船には浸からない。浸かると考える時間が増える。考える時間は、今は要らない。
風呂上がり、窓際に座って足を伸ばす。夜の港に青い光。漁船のランプが点滅している。遠くの空に稲光が一瞬走り、何も聞こえない。音が遅れて来る前に、光は消える。湿った風が部屋に入ってくる。カーテンが頬に触れる。それは皮膚の温度を一瞬持ち上げて、すぐに去る。
スマホの画面に指を滑らせ、メッセージのアプリを開く。朱莉から「明日、朝から開けるよ」と一行。返信は短く。「行く」。その二文字に、十行分の意味を詰める。詰められる相手だから、詰める。送信。少しして既読が付く。通知音は鳴らさない設定にしてある。音を節約する。節約しても、必要な時には増やせる。
ベッドに横になり、目を閉じる。耳は起きている。遠くの国道の低い唸り。家の隣の犬の首輪がカチャカチャいう音。上の階の住人が椅子を引く音。すべてが、いつもより明瞭だ。体が、音に対して開いている。開き方を、思い出した。心臓の鼓動が、一定の速さで鳴る。そこに、別の拍が並走する。記憶の拍。未来の拍。名前のない拍。寝入り際、意識の薄皮の上を、その拍が軽く跳ねた。
朝。雲が少し出て、太陽は薄いヴェール越しに白い。空気の重さは昨夜よりまし。自転車で学校へ向かう道、風が頬を切る。信号で止まるたび、足を地面につけずにバランスを取る。体幹。重心。自分の中心が、昨日よりも、はっきりある。体育館の前に着くと、既に扉は半分開いている。朱莉が掃除をして、床の埃をモップで集めていた。彼女は汗をかかない方法を知っている。汗をかく種類の動作と、汗をかかない種類の動作。形は似ているのに、結果が違う。
「おはよ」
「おはよう」
「早いな」
「そっちこそ」
モップを受け取り、床の端を押す。木目に沿ってゆっくり。押すたびに小さな埃が前に集まり、光の中で舞う。塵は美しい。美しいと感じられるくらい、心に余裕があるのは悪くない。昨日までの自分にはなかった余裕だ。誰がくれたかは言わない。言わなくても、分かる。
準備運動。首。肩。腰。膝。足首。それぞれの関節が小さなクリック音を立てる。筋肉に血が回る。汗が早めに出る。出させる。熱を先に逃がす。体の内部で火が起きても、表面に排出口があれば暴れない。そんな理屈を、体が勝手に適用する。ステップ。左。右。スライド。ターン。また右。右から左へ重心を流し、目線だけを遅らせる。視界の端で、扉が動く。
彼が、来た。
悠真は、何も持っていない。ギターケースも、バッグも。必要なものは自分の中にある。それを持って来る。持って帰る。靴を履き替え、体育館の床に足を置く。音が僅かに鳴る。鳴らそうと思わなければ鳴らない音だ。鳴らさない技術も持っているのに、鳴らす。挨拶みたいに。床が応える。応答。返答。
「おはよう」
「おう」
「眠れた?」
「関係ねぇ」
「関係あると思うけど」
「だったら、ある」
短いやりとりの中に余白がある。余白に風が通る。朱莉は少し離れたベンチに座り、手帳を開いて何かを書いている。耳はこっちに向いている。目は手帳に落ちている。そういう技術も、彼女は持っている。
「合わせる?」
悠真が軽く顎を上げる。彼の「合わせる」は、服の色を合わせるみたいなニュアンスではない。音を合わせる。拍を合わせる。呼吸を合わせる。体温を合わせる。自分が持つすべての流れに、相手の流れを重ねてみる、という提案だ。提案に、頷く。
メトロノームは要らない。床の木目の幅と、天井のファンの回転速度と、窓の外の風鈴の揺れでテンポは決まる。ゆっくりから始める。二歩で一拍。肩を揺らさない。腰だけで前後。腕は重り。吊るす。ほどく。引く。押す。ステップの合間に、拳を一つ。空気が裂ける音がする。裂け目から、涼しいものが流れ込む。彼の足音が重なる。重ね方に迷いがない。迷いがないのに、押し付けない。重なる場所を、相手に選ばせる。選ばせた場所に、正確に入ってくる。
「……」
言葉の必要がない時間が続く。続く時間は怖い。二年前は怖かった。いまは怖くない。怖くないと認めるのは、少しだけ怖い。それでも認める。床の反響が体の芯を通り抜け、背骨の際を撫でる。汗が耳の裏を伝って落ち、首筋に冷たさの線を描く。肺は熱い。熱いけれど、苦しくはない。熱は、燃えるためにある。
「はい終了、いったん水分!」
朱莉の声で区切りがつく。呼吸を深く一度。ペットボトルの口を歯で引っかけて開ける。喉に流す。冷たい。冷たさが、内側から音を落ち着かせる。悠真も一本受け取り、ふたを開けずに額に押し当てる。目を閉じる。そのまつげが汗で重い。睫毛の先に光る小さな水滴が震える。震えはすぐに止まり、滴は頬に落ちる。
「……ルール、変わったよ」
朱莉が軽い声で言って、笑いを薄く引っ込める。
「新しい運営の人が来て、説明してくれるって。登録、午前中」
「登録?」
「腕に同期装置。簡単な計測。安全基準の同意」
悠真が短く息を吐く。ため息というより、音の確認みたいな呼気。
「計測はいい。安全は、言葉が軽い」
「言葉の重みは、誰が決める?」
「決めるやつの心臓の、拍の深さ」
「じゃあ、お前のは重いな」
「お前のも」
笑いが、呼吸の間に挟まる。重くはない。軽くもない。ちょうどいい。会話は競技ではない。勝敗が存在しない領域。言葉の応酬は、殴り合いと違って血が出ない。血が出ないから痛みがないわけじゃない。痛みは、残る。残った痛みは、次の滑らかさを作る。
登録会場は体育館脇の小さなホールに設営されていた。仮設のカウンター。パソコン。プリンター。冷たい空調。そこだけ秋が早い。制服のスタッフが笑顔のマニュアルを携え、腕に黒いバンドをいくつも並べている。バンドの表面には小さなディスプレイ。脈拍と、簡単なスコアが表示されるらしい。安全。公平。公正。壁のポスターにはそう書いてある。文字は太い。太い文字ほど、薄く見える。
「新堂さん、こちらへ」
名前を呼ばれ、椅子に座る。スタッフが手際よくバンドを巻く。皮膚に触れるラバーがひやりとする。心拍数が数字に変わる。数字は便利だ。便利だけれど、思っているほど正確ではない。人は数字に騙される。騙されたいのかもしれない。騙されている方が楽な場面が、人生にはいくつもある。
「締め付け強くないですか?」
朱莉がすかさず聞く。スタッフは笑顔で首を振る。
「大丈夫です。安全ですから」
安全。二度繰り返すと、軽い皮肉になる。皮肉を飲み込む。飲み込むのは、喉の筋肉の訓練が必要だ。彼女はそれを持っている。だから飲み込む。俺は飲み込まない。言葉として吐き出すのではなく、動きで返す。
バンドが表示を始める。心拍。呼吸。リズムの傾向。数列が波形と一緒に流れる。面白い。面白いと思ってしまう。数字が嫌いなわけじゃない。使われ方が嫌いだ。使うやつの心拍の浅さが嫌いだ。浅い拍は、音を薄くする。
「次、榊さん」
悠真が同じようにバンドを巻かれる。その細い手首に黒いバンドは少し浮く。ディスプレイの数字は、俺のより安定している。綺麗だ。綺麗すぎるのは、無機質だ。無機質に見せて、人を安心させる手口は古い。効き続けるのは、人が古いからだ。人は、古い。古いものが好きだ。古いものの中に自分を見つけるから。
登録が終わり、ホールを出る。外の空気は熱い。熱いのに、心地いい。胸の内側から熱を作って外に逃がすのは、体にとって自然だ。外から熱を押し付けられるのは、不自然だ。自然は、戦いの舞台に優しい。不自然は、勝敗の上に乗る。
更衣室に戻ると、空気の匂いが変わっていた。洗剤と汗の混じった匂いに、見慣れない香りが薄く混ざる。新しいボディソープか、ヘアワックスか。些細な違いが、感覚に引っかかる。ロッカーを開け、タオルを取り出す。背中に押し当てる。布地が汗を吸う音が、耳には届かない。でも、皮膚は聞いている。
「なぁ」
更衣室のベンチに腰掛けると、隣に腰が落ちる気配。悠真が、目線の高さを合わせて座った。鏡越しに目が合う。鏡の中の彼と、横の彼と、どちらも現実だ。現実は複数で成立する。単数の現実は、誰かの理想だ。
「なんで戻ってきたんだ」
訊いた。吐き出すところを見つけたから、そこに音を通した。音を通すと、少し楽になる。いつもそうだ。
「言えない」
「はぁ?」
「でも、真実を見届けたい」
「真実?」
「うん」
「また、黙って行くつもりかよ」
沈黙。彼は汗を拭きもせず、指先で膝の上の布をつまむ。布の皺が伸び、戻る。二回目で止まる。止める意思が、指の節に宿る。
「――信じろ」
「なにを」
「お前の音は、俺が護る」
喉の奥で何かが鳴った。笑う音でも、怒る音でもない。名前がない。名前のない音は、体の奥で長く残る。彼の手が、俺の肩に置かれる。軽い。握らない。押さない。ただ置く。置かれた肩の皮膚が、彼の手の温度を正確に計測しようとする。脳が邪魔をする。計測と感情を、分けられない。
一瞬。ほんの短い。けれど確実に長い瞬間。鼓動が重なる。重なり方に、迷いがない。彼は手を離す。離し方が綺麗だ。触れる技術と同じくらい、離れる技術がある。技術は、愛に似る。似ているけれど、同じではない。だから誤解が生まれる。
更衣室の扉が開き、朱莉が顔を覗かせる。
「次、ステージのリハ、空いたよ」
「行く」
立ち上がる。足に、迷いがない。足は、正直だ。頭が嘘をついても、足は正しい方へ向く。向かせるには、訓練が要る。訓練は、裏切らない。
リハーサルステージは体育館の端に組まれている。黒い床。簡易のライト。小さなスピーカー。観客はいない。だが、観客がいないステージの方が、音の癖がよく分かる。人が吸ってくれる湿気がない分、音は壁で跳ねる。跳ね方の角度が、壁の材質で変わる。そういうことが、いちいち楽しい。
ステップ。拳。彼の音。俺の音。重なる。重なったところで遊ぶ。遊びは、高度だ。余裕がなければ遊べない。遊ぶと、限界の位置が変わる。限界が動くと、怖さが減る。怖さが減ると、音は太くなる。
朱莉が遠くから見て、何も言わない。手帳のペン先が止まっている。止まっているのに、時間は進む。時間は、音だ。音は、時間を見えるようにする。
リハが終わる頃、体育館の端に知らない男が立っていた。スタッフの腕章。笑顔。目が笑っていない。笑っていない目は、優しい種類と優しくない種類に分かれる。これは後者。彼は手を軽く挙げて、近づいてくる。歩幅が一定。一定すぎるのは、不自然だ。
「今日のところはここまででお願いします」
「まだ時間あるはずだろ」
「機材の調整が入りますので」
言葉の縁に薄い膜。膜の向こうに見える本音は、機材ではない何か。悠真が視線を斜めに落とし、その男の腕に巻かれたバンドを一瞬だけ見る。男の心拍は、低い。低いのに、浅い。浅い低心拍は、訓練の結果か、薬の結果。どちらでもいい。どちらにせよ、音は薄い。
「分かった」
短く答える。争う場面じゃない。争うと散る音がある。集めたい音がある。いまは集める。
体育館を出ると、空は薄い茜色に染まっていた。日向川の水面も同じ色を抱き、風が少しだけ涼しくなる。堤防の上に立つ。夕飯の匂いがあちこちの家から漏れてくる。醤油。生姜。焼けた魚。味はまだ口に入らないのに、舌の両脇が微かに痛む。食べる準備をする舌の神経。体は、未来に先に反応することがある。未来は、音で予告される。
「今日はここまでだな」
「うん」
「朱莉、ありがとな」
「ううん」
彼女は軽く手を振り、ランニングシューズで堤防を降りて行く。背中は小さい。小さいけれど、強い。小さいものの強さは、大きいものより見つけづらいから、見つけたとき、嬉しい。
二人きりになった堤防。空はさらに赤く、雲は濃く。河口の方角には船の灯り。海の上で、誰かの一日が続いている。俺たちの一日も、続く。終わる気配はまだない。終わらせる気もない。
「玲央」
「なんだ」
「明日、もう一段上げる」
「勝手に決めんな」
「じゃあ、決めて」
「上げる」
「うん」
短い。短い会話ほど、重い。言葉の数を減らせるのは、信頼のためだ。信頼は、勝負の敵じゃない。信頼があると、もっと殴れる。もっと深く殴れる。深く殴れば、深く響く。
風が、頬を撫でる。南から。熱を少し含んで、でもどこか懐かしい湿気を連れてくる。鼻腔がそれを覚えている。二年前の夏と、同じ匂い。だけど違う。あのときより、少しだけ甘い。苦味が少ない。渋みがほどけて、舌の上で転がる。
南風が吹いた。あの夏が、帰ってきた。
夏は、まだ終わらない。だけど、終わりかけの匂いがある。熱の端に寂しさが混ざって、風に乗ってくる。真っ白な校舎の壁にその匂いがすべって、窓ガラスの向こうで誰かが笑っている。音が、軽い。昔はこんな軽さを許せなかった。いまは許せる。許したふりを、している。
「もう二度と戦わねぇ」
口の中で形だけの言葉にする。唇から離れても、空には溶けない。自分の耳にだけ届くように、低く。額に汗が一筋流れ、顎の先で光って落ちた。靴底がアスファルトを叩くたび、かすかな反響が足の骨を伝って上がってくる。それはリズムだ。歩くという動作に貼り付いた原始的な拍。無視しようとすればするほど、輪郭が濃くなる。
「……」
音を切るように息を吐いて、横断歩道の端に立った。赤。風がシャツの裾を膨らませる。信号が青に変わる寸前、商店街のスピーカーが小さくポッと音を立てて目を覚ます。今日は祭の宣伝だろう、と玲央は思う。かき氷の新メニュー、海辺の屋台、花火大会の延期。そんな他愛ない音声が、夏の終わりには似合う。スピーカーがキンと明るく響き、アナウンスの前口上が始まった。
「――日向シティの皆さんにお知らせします」
歩き出した足が、半歩で止まる。
「この夏、あの伝説が帰ってきます」
思わず首が動く。商店街の入口、アーケードの付け根には大型の液晶看板がある。普段は観光案内や海の様子が流れる。いまそこに現れたのは、黒と赤のスラッシュで切り裂かれたロゴ。無骨で尖った書体の英字が踊り、ビートが画面の内側で振動するのが見えるような気がした。息がひとつ、浅くなる。
BATTLE RHYTHM FESTIVAL。
あの文字列は、喉の奥をざらついた指でなぞるようだ。耳の穴の奥に、観客の歓声が蒸気となって戻ってくる。呼吸の回数が増える。背中の汗が冷える。重たくなる空気を押しのけるように、スピーカーは早口に続ける。
「今年は新体制のもと、全国から選りすぐりの若きファイターが集結! そして、スペシャルゲスト――」
映像が切り替わる。黒いステージ。銀の光がひと筋、斜めに落ちる。ギターの弦を爪弾く音が一拍、二拍、三拍。休符。カメラがパンする。その輪郭が現れる。
銀髪。切れ長の瞳。絵画から抜け出したみたいな涼やかな顔立ち。喉ぼとけの下、シャツのボタンが一つ外れている。その皮膚の白さに、会場のライトが柔らかく燃える。彼はマイクに口を寄せず、代わりに指先で空気をはじいた。そこに音が生まれる。微かな振動が、画面越しにでも分かる。唇が、笑う。優しく。痛いほどに。
榊悠真。
「……嘘、だろ」
喉の奥で名前が滑る。掌が乾く。握りしめた水筒のプラスチックがギシ、と鳴る。喉から漏れる音が、腹の底で弾ける。視界の縁が熱で波打つ。二年前の夏の終わり、最後に見た視線が、正確な角度と温度で返ってくる。あの時と同じ微笑み。けど、違う。薄氷のような静けさではなく、柔らかい熱を含んでいる。これは今の笑顔だ。現在の顔だ。過去ではない。
「玲央!」
背中から小さな声が飛び込んできた。肩を叩かれて振り返ると、揺れるポニーテールと白いキャップの縁。一ノ瀬朱莉が、息を弾ませて立っていた。Tシャツの上に羽織った薄いパーカーが風で翻り、首からぶら下げたマネージャー用のパスが胸元でチリ、と鳴った。
「見た? 今の告知」
「……ああ」
「また出るの? 玲央」
質問は丸ごと胸の真ん中に落ち、音を立てずに沈んだ。言葉を探す間、液晶看板では今度、街の風景と大会のロゴが繰り返し流れ始めている。赤い太字の「復活」が視界の端に点滅し続ける。
「いや――」
否定しようとした舌が、頬の内側で抵抗を受けた。視線が勝手に看板へ戻る。彼の姿はもう映っていないのに、残像だけが濃く残っている。
「……」
朱莉は言葉を急かさない。彼女のそういうところに何度も救われてきた。水筒の口を閉め、シャツの裾で手のひらの汗を拭く。自分の指紋が消えたみたいに感覚が薄い。喉は渇いているのに、さっき飲んだぬるい甘さが胃のあたりに残っている。
「行こ。とりあえず」
朱莉が肩を並べ、横断歩道を渡る。歩幅に無理がない。合わせてくる。信号機のメロディが、夏の終わりの空に似合わないくらい明るい。アスファルトの黒に白い横線が流れて、靴底がその上を刻む。歩くたびに、足の骨が鳴る。鳴る。鳴る。
放課後の体育館は、床に塗り込められたワックスの匂いが濃い。バスケットボールのゴムと汗の混じった香りが、空気を分厚くする。窓を全開にしても風は重く、天井のファンがものぐさに回る。隅で卓球部がラケットを打ち鳴らし、向こうの端ではダンス同好会がゆるくステップを踏んでいる。音が混じって、溶けて、曖昧な塊になる。
玲央は体育館の隅、旧ロッカーの前でジャージに着替えた。コンプレッションシャツを引き上げると、二の腕の筋肉が汗で光る。鏡に映る自分の顔は、二年前より少し大人びて見える。頬の線が鋭くなり、目の下に薄い影がある。そこに自分で驚くことはない。驚く余白は、とっくに使い切っている。
二年前の決勝の映像は、頭の裏側に保管してある。好きなときに再生できる。あのとき、負けた。負けたことよりも、終わりに彼が見せた笑顔が脳に焼き付いた。勝敗の向こうの、別の何か。名前のない熱。それが二年間、言葉にならなかった。言葉にしてはいけない気がしていた。名前を与えた瞬間、壊れるような気がしていた。
床に直接寝転び、耳を板に押し付ける。ワックスに封じ込められた古いリズムのかけらが、体中の骨を通じて微かに伝わってくる。遠い過去の足音。跳ねたボール。息。笑い。涙。ここには音の層が重なっている。自分の音もその一部になるかもしれない。なる資格があるのか。問いは、汗と一緒に額から滑り落ちる。
立ち上がり、拳を作る。手首を回す。肩を回す。足首を鳴らす。呼吸を整える。鼻から吸って、口から押し出す。吸う長さと吐く長さを意識する。心臓の拍と合わせる。タッ、タッ、タッ。三つ数え、二つ休む。床の上に曲が見えるように、等間隔の白線が頭の中に走る。そこに足音を置く。置く。握った拳はまだ軽い。軽いからこそ、肌の下で熱が増える。
「――始めよっか」
朱莉が体育館の中央、メトロノームのアプリをスマホで起動する。乾いたクリックが響き始める。最初は遅い。ゆっくり。五十。六十。七十。玲央はそのクリックに抗う。リードされるのは嫌いだ。自分の中の拍に外側を合わせたい。けれどいまは、外の拍に合わせてみる。二年の空白を埋めるには、他人の手を借りるのも悪くない。
踏み出す。左。右。右。左。足の裏は床の滑らかな抵抗を確かめる。指の付け根で掴むように。重心を前へ滑らせ、踵で軽く押し込む。膝は柔らかく。体幹が揺れないように。肩の力を抜く。視界の隅で朱莉がタイムを指で刻んでいる。呼吸が合ってくる。汗が耳の下を伝って落ちる。ふと、足下の板が応える音が心地よい。たった今、生まれたリズム。過去のかけらと混じらない、現在の音。
拳を少しだけ上げ、肩の高さで止める。空打ち。空気を殴ると、破れ目から風が漏れる。皮膚にまとわりついた熱がわずかに剥がれる。音は、鳴る。鳴ってしまう。自分で制御しようがしまいが、体はリズムに反応する。やっぱり、逃げられないのかもしれない。逃げたふりが上手くなるほど、本当の逃走は遠のく。
「――玲央」
朱莉が近づいて、冷えたペットボトルを差し出す。露が表面にびっしりとついて、指先がひやりとした。
「その顔、久しぶりに見た」
「どの顔だよ」
「戦ってる顔」
返す言葉は用意していなかった。喉を通る水の温度がちょうどいい。少しだけ冷たくて、でも刺さらない。腹に落ちる途中で体温になじむ。目を閉じて二呼吸。開くと、体育館の光は少しだけ柔らかく見えた。
夜。自室。蛍光灯を落として、ベッドの上に仰向けになる。窓からは港の灯りが小さく見える。ネオンの赤が海面に溶け、風がカーテンを揺らす。ファンがゆっくり回る音が、遠い波の音と重なる。スマホの画面が顔の上で明るくなり、指が検索履歴を辿る。二年前の大会決勝、アーカイブ映像。再生ボタン。抵抗はない。抵抗するふりをする時間は、さっき体育館に置いてきた。
映像の中の自分は、若い。驚くほど。目に熱が宿って、それを隠そうともしていない。汗の粒がライトで星みたいに光っている。その向かい側に、彼がいる。銀髪が青い光を吸い、目元に影が落ちる。正確なステップ。音に対する反射神経が生き物みたいに動いて、空気の密度を変えていく。二人の間の距離は、常に測られていた。近づきすぎれば爆発が起き、遠ざかれば吸引が起きた。重力がある。互いだけに働く、目に見えない力。
最後のシーン。勝敗が決し、歓声が空を埋め尽くした瞬間。彼は笑っていた。勝者の笑みではない。救いのない優しさの笑顔。敗者の痛みをなぞるように、同じところに熱を置く微笑み。その笑みを二年かけて何度焼き直しても、発色は薄れなかった。今日、その笑みは画面の向こうではなく、街の看板に現れた。現在の光を浴びていた。
動画を閉じる。天井を見て、呼吸を一つ深くした。拳を胸の上に置く。鼓動は、速い。だが、不安の速さではない。走り出す前の速さ。スタートに立った時の、あの鼓動。
「逃げる理由が、なくなった」
声にすると、部屋の空気が少し軽くなった気がする。言葉は音だ。音は残る。背中を支える。机の上の古いタオルに手を伸ばし、汗を拭く。指先に決心が張り付く。明日、部活棟の道具置き場に行く。使っていなかったグローブ。剥がれかけたテーピング。匂い。全部、取り戻す。
翌朝の部活棟は、湿った木の匂いが濃い。窓際のサボテンは伸びすぎた腕をだらしなく横たえ、掲示板の隅には去年の大会ポスターがまだ貼られている。そこには、もう会えないと思っていた自分の笑顔がある。隣に仲間の顔。あいつらは進学で他県に散った。連絡は取っている。だけど、リングの上ではもう会わない。
ロッカーの奥から手首用のバンテージを取り出す。少し黄ばんで、汗の塩が残っている。匂いを嗅ぐと、鼻の奥にチリッと刺さる。布を手首に巻きつける。一巻き、ふた巻き、親指の付け根をまたいで戻す。巻くたびに皮膚が落ち着く。小さく叩いて馴染ませる。拳を作って握り、開く。血が指先に集まる音がする。心臓の鼓動が、巻いた布の内側で響く。
鏡の前に立ち、軽くシャドー。空気の密度が腕の振りに合わせて変わる。緩急。短いジャブ。長いストレート。腰を切る。ステップを踏む。床板が応える。応答。返答。応答。返答。やっぱり体は覚えている。リズムは裏切らない。裏切るのは、いつも頭だ。
「差し入れ」
入り口で声。朱莉が紙袋をぶら下げて笑っている。肩から斜めがけの小さなバッグ。目は相変わらず明るい。深いところに薄い陰があるのは、最近気づいた。彼女は気づかれたくなさそうにするから、気づかないふりをするのが礼儀だと思ってる。
「ありがと」
「今日は本気なんだね」
「……そう見えるか」
「見える。そうじゃなきゃ、その巻き方にならない」
バンテージの端を結びながら、笑う。こいつはよく見てる。細かいところを。見られて困るほど、青くはない。
「なぁ朱莉」
「うん?」
「もし、俺がまた――」
言いかけた言葉が、扉の隙間から入った風に攫われた。窓の外で誰かが呼ばれている。その声が知らない名前だったことで、心が少し遠くへ行く。戻ってくるのに一拍が必要になった。
「……いや。なんでもねぇ」
「うん」
朱莉はそれ以上問わない。紙袋から出した保冷剤を手渡してくる。手首に当てると、皮膚がジュッと鳴るみたいに冷えた。血が戻る。体の輪郭が鮮明になる。
放課後、河川敷。日向川の水面は光を跳ね返して目に刺さる。草の匂いが濃く、風はまだ温い。堤防の上を走る自転車のタイヤが砂を噛む音が、リズムに聞こえる。距離のある音が好きだ。近くで鳴る音は、自分の手の内に入れなきゃ落ち着かない。遠くで鳴る音は、追いかけたいと思う。追いつけなくても、その間の空白が呼吸を深くする。
堤防の階段を上り、コンクリートの平たい場所に出る。そこは、二年前の夏に何度もステップの練習をした場所だ。足跡は残っていない。砂が全部を曖昧にした。曖昧さの上に足を置き、空を見上げる。雲の形がゆっくり変わる。海の方角から風が吹く。潮と油の匂いが混じる。鼻に少し刺さって、でも嫌じゃない。
「――やぁ」
背中から声。知っている響きだ。喉の穴を通る空気の速さと、舌の置き方でつくる音。振り返る前に、体の中のどこかが先に反応する。肩の筋肉が無意識で収縮し、足の裏の重心がわずかに下がる。振り向く。銀の髪が、南風で揺れる。
榊悠真が、そこにいた。
距離は十メートル。間に、光が落ちている。影が長い。彼はいつものように真っ直ぐ立っている。首の角度は少しだけ右。唇の端が、ほんの少し上がっている。目は、笑っていない。笑わない目は、優しい。見失わないように、優しい。
「……変わらねぇな、玲央」
最初に出た言葉がそれで、胸がすこし痛くなる。会いたかった、とか、久しぶり、とか、謝れ、とか、怒らせろ、とか、何百通りも考えていたのに、どれでもない。どれでもない言葉の方が、今は正しい。
「お前こそ、何してやがった」
声が出るまでに、肺の空気を一度全部入れ替えた。怒鳴らない。笑わない。名前も呼ばない。呼んだら、戻れない気がした。
「歩いてた。海の方から風が来るから」
「答えになってねぇ」
「言える答えと、言えない答えがある」
「そうやって、黙って消えたろ」
「……」
風の音が強くなる。髪が顔にかかり、彼は指でそれを払う。その指はギターを弾く指だ。細くて、骨ばって、爪の形が綺麗だ。二年前、その指はステージの上で空気を掴んだ。いまは何も掴んでいない。代わりに視線が、俺の喉仏のあたりを掠めて、すぐに目に戻ってくる。
「俺、また出る」
呼吸の合間みたいに、さらりと言う。
「――お前は?」
堤防のコンクリートの埃っぽい匂いが、急に鮮明になる。足の裏に粗さが戻る。鼻の奥が熱くなる。言葉はいくつかの候補が順番に喉を通ろうとしてぶつかる。ゆっくり選ぶ時間は、もともと持ち合わせていない。
「決まってんだろ」
拳を少し上げる。肩の高さ。二年前と同じ高さ。掌の中で血が速くなる。足の裏が地面を押す。押すだけ。まだ踏み込まない。
「もう一度、ぶっ壊すまでだ」
言葉に鋭さがつく。彼の目が、少しだけ細くなる。痛みに似た線が、瞼の上に寄る。次の瞬間、その線は消えた。代わりに口角がほんの一ミリ上がる。風が、二人の間を走る。
拳が、同時に上がる。音は鳴らない。鳴らないのに、鳴っている。皮膚の下で。骨の中で。あの舞台の上で何度も鳴らした、名前のない拍。南からの風は、海の塩を載せて頬を撫でる。睫毛に引っかかった汗が、熱を持ったまま揺れる。
斜め後方から、砂利を踏む靴音。軽い。リズムを持たない歩き方。呼吸が伴っていない。訓練で身につく歩き方は、音を殺す。だけど完全には消えない。消さない方が自然だと、彼らは知っている。視界の隅、堤防の下の影に、帽子のつばが一瞬見えた。黒。目が合わない角度。彼は気づいている。俺も気づく。だけど、名前は与えない。名前を与えた瞬間に、ここは別の場所になる。
「玲央」
悠真が一歩、近づく。影と影が触れそうになる。距離はまだ保つ。風が音を連れてくる。どこかでサッカーボールを蹴る乾いた音。遠くの国道を走るトラックの低い唸り。川面で跳ねた魚の水音。全部、彼の声の背景になる。背景が豊かすぎると、言葉は短くなる。
「準備、いる?」
「必要なのは一つだけだ」
「何?」
「言い訳しない、ってこと」
「……それは俺の台詞だと思ってた」
「取り合いはしねぇ」
言葉で殴り合う前に、視線が交差する。視線は、拳より深く侵入する。呼吸の温度が変わる。舌の位置がほんの少し上に上がる。喉の筋肉が柔らかくなる。胸骨の裏で、心臓がひとつ、強く鳴る。それに応答して、彼の喉がわずかに動く。鼓動の粒が、外からも見える気がする。実際には見えない。けれど、感じる。
「じゃあ、またステージで」
「ここでもいい」
「ここはステージじゃない」
「いま俺が立ってる場所が、ステージだ」
「……そういうところ、変わってない」
「変える必要がねぇ」
短い沈黙。風が、間を満たす。何も言わなくても、音は満ちる。音が満ちれば、余計な言葉は浮かばない。
遠くで自転車のブレーキが鳴る。影が動く。堤防の下の黒い帽子は、もういない。砂利の音もしない。音を鳴らさずに消えるのは、訓練の結果だ。頭の隅が、その事実だけを棚に置く。そこにラベルは貼らない。貼れるラベルがいくつもある場合、どれも貼らないのがいちばんいい。
「じゃあ、決まり」
悠真が手の甲を軽く上に向ける。握手ではない。拳を合わせるでもない。手の甲と甲を擦り合わせるような、彼らのやり方。玲央も同じ高さに手を上げ、空気の薄い膜を挟んで触れる。皮膚が直接触れないのに、触れた感覚がある。皮膚よりも深い場所、拍と拍が触れる。触れて、離れる。指先に残る熱が、風に舐められる。
「明日、体育館」
「分かってる」
「遅れるな」
「お前が先に来いよ」
「考えておく」
「考えんな」
短い笑い。笑い声は小さく、だけどよく響く。川の水面がわずかに揺れる。太陽は傾き始め、影の端が角を丸める。彼は踵を返し、堤防の階段を降りる。足音は軽い。軽いけれど、消さない。消せるのに、消さない。消さないでいてくれる。背中を見送る。銀の髪が、最後の段で一度だけ跳ねた。
息を吸う。胸の中の空洞が、ようやく自分の形を思い出す。拳を握る。骨と骨が寄る。皮膚の下で血が走る。汗はもう熱くない。風がすこし冷えた。夏の終わりの予告みたいな冷たさが、首筋を撫でる。目を閉じる。瞼の裏はまだ明るい。白い。そこに、赤い線が一本引かれている。線は真っ直ぐで、震えていない。手を伸ばせば触れられる距離。触れない。触れるのは、明日だ。
帰り道、商店街のアーケードでは、夕方の特売の声が重なっていた。焼き鳥の甘い匂いが鼻をくすぐる。タコの茹で汁の塩気が喉を誘う。ジューススタンドのブレンダーが氷を砕く音が、耳に涼しい。液晶看板はまだ同じ宣伝を流し続けている。今度は映像の端に小さく、日程が表示された。数字の並びが視界に飛び込んで、脳のどこかを軽く叩く。日付は思ったより早い。笑ってしまう。間に合うとか、間に合わないとか、そういう次元じゃない。
角のコンビニでスポーツドリンクを二本買う。レジの少年が腕に巻いた同期装置の試供品を指で弄っている。ここ数ヶ月で街の若い連中の腕に同じバンドが増えた。数値でリズムを測る装置。便利らしい。安全らしい。合理的らしい。玲央はそれを付けない。付ければ楽になる箇所がある。だから付けない。楽になる箇所は、後で必ず別の場所に痛みを作る。
家に帰ると、玄関の涼しさに救われる。冷蔵庫のドアを開け、氷を口に放り込む。舌の上で解ける音はしない。冷たさだけが音の代わり。冷たさは、音にもなれる。シャワー。湯の温度は低め。皮膚の上から二層目くらいまで熱が浸透していたから、それを剥がす。湯船には浸からない。浸かると考える時間が増える。考える時間は、今は要らない。
風呂上がり、窓際に座って足を伸ばす。夜の港に青い光。漁船のランプが点滅している。遠くの空に稲光が一瞬走り、何も聞こえない。音が遅れて来る前に、光は消える。湿った風が部屋に入ってくる。カーテンが頬に触れる。それは皮膚の温度を一瞬持ち上げて、すぐに去る。
スマホの画面に指を滑らせ、メッセージのアプリを開く。朱莉から「明日、朝から開けるよ」と一行。返信は短く。「行く」。その二文字に、十行分の意味を詰める。詰められる相手だから、詰める。送信。少しして既読が付く。通知音は鳴らさない設定にしてある。音を節約する。節約しても、必要な時には増やせる。
ベッドに横になり、目を閉じる。耳は起きている。遠くの国道の低い唸り。家の隣の犬の首輪がカチャカチャいう音。上の階の住人が椅子を引く音。すべてが、いつもより明瞭だ。体が、音に対して開いている。開き方を、思い出した。心臓の鼓動が、一定の速さで鳴る。そこに、別の拍が並走する。記憶の拍。未来の拍。名前のない拍。寝入り際、意識の薄皮の上を、その拍が軽く跳ねた。
朝。雲が少し出て、太陽は薄いヴェール越しに白い。空気の重さは昨夜よりまし。自転車で学校へ向かう道、風が頬を切る。信号で止まるたび、足を地面につけずにバランスを取る。体幹。重心。自分の中心が、昨日よりも、はっきりある。体育館の前に着くと、既に扉は半分開いている。朱莉が掃除をして、床の埃をモップで集めていた。彼女は汗をかかない方法を知っている。汗をかく種類の動作と、汗をかかない種類の動作。形は似ているのに、結果が違う。
「おはよ」
「おはよう」
「早いな」
「そっちこそ」
モップを受け取り、床の端を押す。木目に沿ってゆっくり。押すたびに小さな埃が前に集まり、光の中で舞う。塵は美しい。美しいと感じられるくらい、心に余裕があるのは悪くない。昨日までの自分にはなかった余裕だ。誰がくれたかは言わない。言わなくても、分かる。
準備運動。首。肩。腰。膝。足首。それぞれの関節が小さなクリック音を立てる。筋肉に血が回る。汗が早めに出る。出させる。熱を先に逃がす。体の内部で火が起きても、表面に排出口があれば暴れない。そんな理屈を、体が勝手に適用する。ステップ。左。右。スライド。ターン。また右。右から左へ重心を流し、目線だけを遅らせる。視界の端で、扉が動く。
彼が、来た。
悠真は、何も持っていない。ギターケースも、バッグも。必要なものは自分の中にある。それを持って来る。持って帰る。靴を履き替え、体育館の床に足を置く。音が僅かに鳴る。鳴らそうと思わなければ鳴らない音だ。鳴らさない技術も持っているのに、鳴らす。挨拶みたいに。床が応える。応答。返答。
「おはよう」
「おう」
「眠れた?」
「関係ねぇ」
「関係あると思うけど」
「だったら、ある」
短いやりとりの中に余白がある。余白に風が通る。朱莉は少し離れたベンチに座り、手帳を開いて何かを書いている。耳はこっちに向いている。目は手帳に落ちている。そういう技術も、彼女は持っている。
「合わせる?」
悠真が軽く顎を上げる。彼の「合わせる」は、服の色を合わせるみたいなニュアンスではない。音を合わせる。拍を合わせる。呼吸を合わせる。体温を合わせる。自分が持つすべての流れに、相手の流れを重ねてみる、という提案だ。提案に、頷く。
メトロノームは要らない。床の木目の幅と、天井のファンの回転速度と、窓の外の風鈴の揺れでテンポは決まる。ゆっくりから始める。二歩で一拍。肩を揺らさない。腰だけで前後。腕は重り。吊るす。ほどく。引く。押す。ステップの合間に、拳を一つ。空気が裂ける音がする。裂け目から、涼しいものが流れ込む。彼の足音が重なる。重ね方に迷いがない。迷いがないのに、押し付けない。重なる場所を、相手に選ばせる。選ばせた場所に、正確に入ってくる。
「……」
言葉の必要がない時間が続く。続く時間は怖い。二年前は怖かった。いまは怖くない。怖くないと認めるのは、少しだけ怖い。それでも認める。床の反響が体の芯を通り抜け、背骨の際を撫でる。汗が耳の裏を伝って落ち、首筋に冷たさの線を描く。肺は熱い。熱いけれど、苦しくはない。熱は、燃えるためにある。
「はい終了、いったん水分!」
朱莉の声で区切りがつく。呼吸を深く一度。ペットボトルの口を歯で引っかけて開ける。喉に流す。冷たい。冷たさが、内側から音を落ち着かせる。悠真も一本受け取り、ふたを開けずに額に押し当てる。目を閉じる。そのまつげが汗で重い。睫毛の先に光る小さな水滴が震える。震えはすぐに止まり、滴は頬に落ちる。
「……ルール、変わったよ」
朱莉が軽い声で言って、笑いを薄く引っ込める。
「新しい運営の人が来て、説明してくれるって。登録、午前中」
「登録?」
「腕に同期装置。簡単な計測。安全基準の同意」
悠真が短く息を吐く。ため息というより、音の確認みたいな呼気。
「計測はいい。安全は、言葉が軽い」
「言葉の重みは、誰が決める?」
「決めるやつの心臓の、拍の深さ」
「じゃあ、お前のは重いな」
「お前のも」
笑いが、呼吸の間に挟まる。重くはない。軽くもない。ちょうどいい。会話は競技ではない。勝敗が存在しない領域。言葉の応酬は、殴り合いと違って血が出ない。血が出ないから痛みがないわけじゃない。痛みは、残る。残った痛みは、次の滑らかさを作る。
登録会場は体育館脇の小さなホールに設営されていた。仮設のカウンター。パソコン。プリンター。冷たい空調。そこだけ秋が早い。制服のスタッフが笑顔のマニュアルを携え、腕に黒いバンドをいくつも並べている。バンドの表面には小さなディスプレイ。脈拍と、簡単なスコアが表示されるらしい。安全。公平。公正。壁のポスターにはそう書いてある。文字は太い。太い文字ほど、薄く見える。
「新堂さん、こちらへ」
名前を呼ばれ、椅子に座る。スタッフが手際よくバンドを巻く。皮膚に触れるラバーがひやりとする。心拍数が数字に変わる。数字は便利だ。便利だけれど、思っているほど正確ではない。人は数字に騙される。騙されたいのかもしれない。騙されている方が楽な場面が、人生にはいくつもある。
「締め付け強くないですか?」
朱莉がすかさず聞く。スタッフは笑顔で首を振る。
「大丈夫です。安全ですから」
安全。二度繰り返すと、軽い皮肉になる。皮肉を飲み込む。飲み込むのは、喉の筋肉の訓練が必要だ。彼女はそれを持っている。だから飲み込む。俺は飲み込まない。言葉として吐き出すのではなく、動きで返す。
バンドが表示を始める。心拍。呼吸。リズムの傾向。数列が波形と一緒に流れる。面白い。面白いと思ってしまう。数字が嫌いなわけじゃない。使われ方が嫌いだ。使うやつの心拍の浅さが嫌いだ。浅い拍は、音を薄くする。
「次、榊さん」
悠真が同じようにバンドを巻かれる。その細い手首に黒いバンドは少し浮く。ディスプレイの数字は、俺のより安定している。綺麗だ。綺麗すぎるのは、無機質だ。無機質に見せて、人を安心させる手口は古い。効き続けるのは、人が古いからだ。人は、古い。古いものが好きだ。古いものの中に自分を見つけるから。
登録が終わり、ホールを出る。外の空気は熱い。熱いのに、心地いい。胸の内側から熱を作って外に逃がすのは、体にとって自然だ。外から熱を押し付けられるのは、不自然だ。自然は、戦いの舞台に優しい。不自然は、勝敗の上に乗る。
更衣室に戻ると、空気の匂いが変わっていた。洗剤と汗の混じった匂いに、見慣れない香りが薄く混ざる。新しいボディソープか、ヘアワックスか。些細な違いが、感覚に引っかかる。ロッカーを開け、タオルを取り出す。背中に押し当てる。布地が汗を吸う音が、耳には届かない。でも、皮膚は聞いている。
「なぁ」
更衣室のベンチに腰掛けると、隣に腰が落ちる気配。悠真が、目線の高さを合わせて座った。鏡越しに目が合う。鏡の中の彼と、横の彼と、どちらも現実だ。現実は複数で成立する。単数の現実は、誰かの理想だ。
「なんで戻ってきたんだ」
訊いた。吐き出すところを見つけたから、そこに音を通した。音を通すと、少し楽になる。いつもそうだ。
「言えない」
「はぁ?」
「でも、真実を見届けたい」
「真実?」
「うん」
「また、黙って行くつもりかよ」
沈黙。彼は汗を拭きもせず、指先で膝の上の布をつまむ。布の皺が伸び、戻る。二回目で止まる。止める意思が、指の節に宿る。
「――信じろ」
「なにを」
「お前の音は、俺が護る」
喉の奥で何かが鳴った。笑う音でも、怒る音でもない。名前がない。名前のない音は、体の奥で長く残る。彼の手が、俺の肩に置かれる。軽い。握らない。押さない。ただ置く。置かれた肩の皮膚が、彼の手の温度を正確に計測しようとする。脳が邪魔をする。計測と感情を、分けられない。
一瞬。ほんの短い。けれど確実に長い瞬間。鼓動が重なる。重なり方に、迷いがない。彼は手を離す。離し方が綺麗だ。触れる技術と同じくらい、離れる技術がある。技術は、愛に似る。似ているけれど、同じではない。だから誤解が生まれる。
更衣室の扉が開き、朱莉が顔を覗かせる。
「次、ステージのリハ、空いたよ」
「行く」
立ち上がる。足に、迷いがない。足は、正直だ。頭が嘘をついても、足は正しい方へ向く。向かせるには、訓練が要る。訓練は、裏切らない。
リハーサルステージは体育館の端に組まれている。黒い床。簡易のライト。小さなスピーカー。観客はいない。だが、観客がいないステージの方が、音の癖がよく分かる。人が吸ってくれる湿気がない分、音は壁で跳ねる。跳ね方の角度が、壁の材質で変わる。そういうことが、いちいち楽しい。
ステップ。拳。彼の音。俺の音。重なる。重なったところで遊ぶ。遊びは、高度だ。余裕がなければ遊べない。遊ぶと、限界の位置が変わる。限界が動くと、怖さが減る。怖さが減ると、音は太くなる。
朱莉が遠くから見て、何も言わない。手帳のペン先が止まっている。止まっているのに、時間は進む。時間は、音だ。音は、時間を見えるようにする。
リハが終わる頃、体育館の端に知らない男が立っていた。スタッフの腕章。笑顔。目が笑っていない。笑っていない目は、優しい種類と優しくない種類に分かれる。これは後者。彼は手を軽く挙げて、近づいてくる。歩幅が一定。一定すぎるのは、不自然だ。
「今日のところはここまででお願いします」
「まだ時間あるはずだろ」
「機材の調整が入りますので」
言葉の縁に薄い膜。膜の向こうに見える本音は、機材ではない何か。悠真が視線を斜めに落とし、その男の腕に巻かれたバンドを一瞬だけ見る。男の心拍は、低い。低いのに、浅い。浅い低心拍は、訓練の結果か、薬の結果。どちらでもいい。どちらにせよ、音は薄い。
「分かった」
短く答える。争う場面じゃない。争うと散る音がある。集めたい音がある。いまは集める。
体育館を出ると、空は薄い茜色に染まっていた。日向川の水面も同じ色を抱き、風が少しだけ涼しくなる。堤防の上に立つ。夕飯の匂いがあちこちの家から漏れてくる。醤油。生姜。焼けた魚。味はまだ口に入らないのに、舌の両脇が微かに痛む。食べる準備をする舌の神経。体は、未来に先に反応することがある。未来は、音で予告される。
「今日はここまでだな」
「うん」
「朱莉、ありがとな」
「ううん」
彼女は軽く手を振り、ランニングシューズで堤防を降りて行く。背中は小さい。小さいけれど、強い。小さいものの強さは、大きいものより見つけづらいから、見つけたとき、嬉しい。
二人きりになった堤防。空はさらに赤く、雲は濃く。河口の方角には船の灯り。海の上で、誰かの一日が続いている。俺たちの一日も、続く。終わる気配はまだない。終わらせる気もない。
「玲央」
「なんだ」
「明日、もう一段上げる」
「勝手に決めんな」
「じゃあ、決めて」
「上げる」
「うん」
短い。短い会話ほど、重い。言葉の数を減らせるのは、信頼のためだ。信頼は、勝負の敵じゃない。信頼があると、もっと殴れる。もっと深く殴れる。深く殴れば、深く響く。
風が、頬を撫でる。南から。熱を少し含んで、でもどこか懐かしい湿気を連れてくる。鼻腔がそれを覚えている。二年前の夏と、同じ匂い。だけど違う。あのときより、少しだけ甘い。苦味が少ない。渋みがほどけて、舌の上で転がる。
南風が吹いた。あの夏が、帰ってきた。
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