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Beat Restart ―鼓動の再起動―
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昼の光は、体育館の窓枠で四角く切り取られて、床に淡い長方形の島をいくつも作る。ワックスの上で光は薄く滲み、浮遊する埃の粒子がそこだけ白く瞬く。南からの風はまだ湿りを含み、海の塩と木材の香りを同時に運んでくる。天井のファンは一定のテンポで回り、羽が空気の層を撫でるたび、汗の膜がわずかに薄くなる。新堂玲央は、受付机に置かれたタブレット端末に名前を入力し、読み上げる係の声を片耳で聞きながら、手首を差し出した。
黒いバンドは思っていたより冷たく、皮膚の上に小さな輪郭を作ってから、数秒で体温に馴染む。ディスプレイの数字が、脈拍の上がり下がりに合わせて小刻みに揺れ、細い水平線の上で短い棒が跳ねる。数字は便利だ。けれど、便利に見せる工夫が施された数字は、余計に胡散臭い。玲央は目を細め、表示の端に小さく点滅する「SYNC READY」の文字を見た。英語の語尾は冷たい。冷たいまま安全を約束するとき、人はその冷たさに安堵する。安堵は、油断に似る。
「締め付けは大丈夫ですか?」
受付のスタッフの笑顔は完璧で、頬の筋肉の緊張に無駄がない。マニュアルのページの匂いが、香水の甘さに隠れて残る。玲央は、拳をゆっくり握ってから開き、骨の鳴り具合で答えを量る。問題はない。問題は、別の場所に隠れる。
「平気」
一ノ瀬朱莉が隣で首を伸ばし、バンドの表示を覗き込む。彼女の視線は鋭いが、刺さらない。刺さらないのは、角を柔らかくする才能のせいだ。彼女は才能を隠さない。隠さないのに、驕らない。
「ねぇ、その“SYNC”って、どこまで合わせるんだろ」
「心拍とステップの相関、呼吸、ミクロの体幹の揺れ。あと、バトル時の出力ピークを“安全域”に収めるための自動制御」
説明の声が背後から落ちてくる。滑らかで、喉の奥に薄い金属の響きを持つ声。榊悠真は、受付台の向こう側から回り込み、玲央の手首に巻かれたバンドに視線を落とす。銀の髪は今日も淡く光を返し、瞼の影が表情を涼しく見せる。涼しさの奥に熱がある。熱は姿勢に出る。背骨の素直さが、それを隠しきれない。
「ルールは変わった」
彼は短く言って、スタッフから受け取った同じバンドを自分の手首に巻く。布の擦れる音が小さく鳴り、表示が点る。数字は玲央のより落ち着いている。油を差したメトロノームみたいに、滑らかで、揺れが少ない。玲央はそれを面白く思う。面白いと感じること自体が腹立たしい。腹立たしさが、血の温度をほんの少し上げる。
「でも、魂は変わらない」
悠真は言い切り、指先で空気を弾く。そこに微かな振動が生まれ、バンドの波形が一拍だけ揺れる。機械は音の“結果”を捉える。が、起こる前の予兆は拾えない。予兆を捉えるのは、体の方だ。皮膚の裏で、細い鳥が羽ばたくような気配が走る。玲央はその鳥を飛ばさないよう、わざと深く息を吐いた。
「安全のための装置ですから、ご理解を」
スタッフの笑顔は揺るがない。ポスターのキャッチコピーは“公平・公正・感動を、テクノロジーで”。“感動”にテクノロジーをかかわらせるのは、どこか滑稽だ。けれど、滑稽は強い。笑いは油断を生む。油断は、管理しやすい。
登録を終えて、三人で体育館へ戻る。ドアを押すと空気が変わる。木の香り、古い汗の塩、ラバーソールの匂い。外の風が重くても、ここには別の重さがある。音の重さ。過去の足音が染みこんだ板は、今日の足音に寛容だ。玲央は紐を二度結び、靴底のグリップを床に試す。少し滑る。滑るのは、今日の湿度のせい。ステップを刻めば、すぐに馴染む。
「メニュー、どうする?」
朱莉が、手帳をぱらぱらとめくる。走り書きの文字に、彼女の思考の速さが滲む。玲央は、前夜に自分で書いた紙切れを思い出す。段取りは頭にある。けれど、それを声に出すのは別の行為だ。声にすれば、言葉は音になり、音は約束になる。約束は逃げ道を塞ぐ。塞がるのは嫌いじゃない。
「まずリズム練習。三拍子と四拍子の切り替え、二曲分。ステップの重心移動を細かく。拳は最後」
「了解」
朱莉は軽くうなずき、スマホのメトロノームを起動する。クリックが乾いて鳴る。最初は遅いテンポ。七十。八十。九十。玲央は肩の力を抜き、骨盤だけで前後に揺れる。足裏の母指球に体重を乗せ、踵に戻す。その間に呼吸を通す。鼻から吸って、喉の後ろを広げたまま吐く。肺の内側に軽い熱が点り、すぐに広がる。汗の出る場所と、出ない場所が入れ替わる。体が思い出す。忘れるのが上手くなっただけで、無くしたわけじゃない。
「三拍――一、二、三」
朱莉のカウントが合図になり、玲央はステップを踏む。左、右、左。右の踵を軽く押し出し、返す。床板が応じる。木目の向きに沿った返答。一定のやり取りが続くと、床が友達になる。友達になった床は、踏み外した時に教えてくれる。足裏の皮膚で会話する関係。そこに、別の足音が重なる。
悠真は、音を吸わない。吸わないで、流す。流す音は、薄い膜みたいに周囲に広がって、玲央のステップの周りをやさしく包む。包まれると、勢いだけで突っ込む癖が抑えられる。抑えられた勢いは、別の場所に沈む。沈んだエネルギーは、溜まる。溜まると、深くなる。深さは、強さに変換できる。玲央はその変換を、両脚の付け根で受け止めながら、テンポを一段上げた。
「四拍――一、二、三、四」
汗の味が舌に降りてくる。塩。夏の味。顎の先から小さな水滴が光って跳ね、床に落ちる。落ちた音は、聞こえない。それでも、体は聞く。耳より敏感な器官が、皮膚のそこかしこに散らばっていて、空気の波形を拾う。バンドの表示が視界の端でちらちら動く。心拍は高い。けれど、不安の高さではない。準備の高さ。出発前のホームに響く電車のモーター音と同じ高さ。
「――」
言葉は要らない。要らない時間が長く続くのは、居心地がいい。二年前、沈黙は怖かった。沈黙の間に、相手を見失う気がしていた。いまは違う。沈黙は、相手の輪郭を浮かび上がらせる。輪郭が浮かべば、狙う場所が明確になる。狙いは愛にも似ている。似ているからこそ、混同しない技術が必要になる。
「はい、いったん水分!」
朱莉の声は、いつも絶妙のタイミングで入る。緊張が継ぎ目を求める瞬間。その一拍前。玲央はペットボトルの蓋を開け、水を喉に流し込む。冷たさが食道の壁を滑り、胃に到達する感覚が輪郭を持つ。冷たいものは、音を落ち着かせる。落ち着いた音は、次に跳ねる。
「――で、今日の午後は運営の職員が視察に来るって。SonicEdgeの」
朱莉がタオルで自分の額を押さえながら言う。遠いところにある名前なのに、この体育館の空気が一瞬だけ固くなる。固い空気は、肺に刺さる。玲央は、わざと一度咳払いをして、棘を外に出した。
「視察ねぇ。数字を見に来るんだろ」
「数字は便利だよ」
悠真は、ペットボトルの冷たさを額につけたまま、目だけを玲央に向ける。
「でも、便利だと信じてるやつの心拍は、薄い」
「薄い心拍って、どんな音だ?」
「壁で跳ね返らない音。自分の内側の壁で全部吸われる」
「じゃあ、外に出すには?」
「外に出したいと思ってるかどうか」
「思ってる」
「知ってる」
短く、鋭い往復。言葉は拳にもなるし、手のひらにもなる。どちらで触れるかは、その時々で変える。変える判断は直感だ。直感は訓練で精度が上がる。訓練は裏切らない。
午後のフロアには、観客席が一段だけ組まれ、薄い幕が吊されている。照明は仮設でも容赦なく熱を吐き、床の表面に薄い光の池ができる。そこに足を入れると、皮膚の上を熱が跳ねて抜けていく。リハーサル開始の合図。スピーカーからベースの低い音が流れ、空気が震える。脇でダンス同好会の子たちが小さく歓声をあげ、バスケ部は遠巻きに見ながらボールを突く手を止めない。日常と特別が溶け合う境目は、匂いが濃い。匂いの濃さは、現実感の濃さだ。
「――行くぞ」
玲央は、左足を半歩前に置き、肩の力を抜く。首の後ろを長く保ち、腰を落とし過ぎない。視線は正面。悠真が斜め右後ろに位置を取り、指先で空気を探る。探る指は、弦を弾く前の指と同じだ。弾く前に、鳴り方が決まる。彼の呼吸が、玲央の後頭部に触れる。体の背面は、無防備になりやすい。無防備に、相手の呼吸を預ける。その行為が、関係を決定づける。
ビートが落ちる。床が一瞬沈み、次の瞬間に弾む。足の裏がそれに乗る。乗りながら、玲央は拳を出す。律動に忠実でいるほど、野生が顔を出す。野生は乱暴じゃない。洗練の奥にある粗さだ。粗さが、相手の呼吸を欲しがる。欲望は直線じゃない。曲線だ。曲がりながら、まっすぐ行く。そんな矛盾を、体は喜ぶ。
悠真の“サウンド・バインド”は、透明な檻の形で空気を組む。形を見せないまま、玲央のステップの縁に柔らかく壁を立て、踏み外しそうなところを滑らかな坂に変える。坂は危険じゃない。危険に見えない。見えないけれど、確かに制御されている。制御の行き過ぎは、自由を痩せさせる。いまは、痩せていない。むしろ厚みが増す。厚みのある自由は、強い。
「――やば」
観客席の端で、誰かが小さく呟く声。言葉の内容は耳に入らない。入るのは、その音の温度。温度は、ステージの上にとって栄養だ。栄養は、意識せずに吸収する。吸収しすぎないように、呼吸で調整する。調整は、心の仕事だ。心は忙しい。忙しいけれど、働かせる。
二曲目の終わり際、スピーカーの低音が一瞬だけ痩せる。痩せた瞬間に、玲央の背中の筋肉が微かに硬くなる。それを、悠真の音が撫でていく。撫で方に愛想はない。必要なだけ、正確に。正確さは、信頼になる。信頼が、拳の速度を上げる。拳は前に出る。空気は裂け、鼓膜が薄く痛む。痛みは、意識をここに繋ぎ止める。
「カット、OK!」
朱莉の声が飛び、ライトが一段落ちる。汗を拭くタオルが重い。重いタオルは、今日の分だけの重さ。昨日とも明日とも違う。タオルの繊維に、今日の音が絡んで離れない。離れないものが増えると、身軽さを失うと思っていた。違った。繋いだものが多いほど、足場が増える。足場が増えると、跳べる高さが増える。
「――ちょっと、よろしいですか」
フロアの端から、黒いジャケットの男が近づく。首元だけ涼しげで、靴音は軽いのに、床への圧が均等にかかる。訓練された歩き方。腕に巻かれた同期バンドは、スタッフ用の灰色。ディスプレイの数字は見えないよう角度を作られている。
「SonicEdge運営の三嶋です。本日は視察ということで」
名刺。受け取る。紙の手触りは上質で、端の処理が丁寧だ。丁寧なものを丁寧に作る会社は、雑なことを隠すのがうまい。玲央は名刺を見て、すぐに朱莉に渡す。管理は彼女の管轄だ。彼女は微笑んで名刺をしまい、うなずく。
「素晴らしいパフォーマンスでした。新システムとの整合性も高く、観客受けが期待できます」
「観客“受け”を測る装置も作ったのか?」
玲央は冗談めかして言い、男の目の奥の筋肉が一瞬だけ動くのを見た。動きは小さい。小さいけれど、音がする。骨の中で鳴る音。音の種類は、笑いじゃない。
「いえいえ、そこまでは。ただ、より安全に、より公平に。皆さんの努力が正当に評価されるよう、最善を尽くすだけです」
安全。公平。正当。言葉は太い。太い言葉は、枠組みに向いている。枠組みは必要だ。必要だが、立て方がある。立て方を誰が決めるか。その問題を、彼らは笑顔で流す。
「午後、データの記録テストを少しだけ。五分程度です」
「五分って、何を?」
朱莉の問いに、男は笑顔の厚みを変えず、タブレットを見せる。画面には、心拍、呼吸、ステップ精度、出力ピーク、回復時間。数列は美しい。美しい数列は、人の目を安心させる。安心の形に似せているだけの図形ほど、危険だ。
「準備はい」いな」
玲央は悠真に目だけで合図する。悠真は頷き、顎で軽く合図を返す。言葉はいらない。二年前、言葉に頼りすぎていた。頼ること自体は悪くない。頼り方の問題だ。頼り方を、いま、学んでいる。
更衣室。鏡に向かって手首のバンテージを巻き直す。布の匂いに、古い汗の塩と新しい洗剤の甘さが混ざる。指先が少し震える。震えは怖さではない。身体が音を待つ震え。待つことに耐えられる強さは、二年の空白の副産物だ。空白は無駄じゃない。無駄にしなかったのは、たぶん朱莉のおかげで、そして――
「なぁ」
声が隣から落ちる。悠真はベンチに腰掛け、包帯を玲央の手に回している。巻き方が丁寧で、ほどけない。ほどけないのに、血流を止めない。彼は、やさしい。やさしさは、時に残酷だ。残酷さを知っているやさしさは、強い。
「なんで戻ってきたんだ」
同じ問いを、今度は少し柔らかく投げる。柔らかさは逃げ道じゃない。相手に触れた指を傷つけないための角度だ。
「言えない」
「またかよ」
「でも、真実を見届けたい」
「真実って、何の?」
「――俺たちの音が、数字より強いってこと」
薄い沈黙。鏡の中の二人が、わずかにだけ目線を外す。外し方が似ている。似ている部分を見つけるたび、心臓の位置が定まる。定まると、殴れる。
「信じろ」
悠真の手が、玲央の肩に乗る。置くだけ。押さない。握らない。なのに、重い。重さは、体重のせいじゃない。言葉のせいだ。言葉が、骨に密着する。肩甲骨の下で、熱がゆっくり広がる。ひと呼吸で、広がった熱が背中の中央まで届く。届いたところで、朱莉の声が扉の隙間から跳ねる。
「――いける?」
「いける」
玲央は立ち上がり、バンテージの端を指で弾いてから、拳を軽く打ち合わせる。指先に残る布のザラつき。ザラつきは、今日の頼りだ。
ホールでは、SonicEdgeのスタッフが数人、端末を並べて座っている。顔は笑っている。目は笑っていない。その目は、何かを見ない訓練を積んだ目だ。見ない訓練は役に立つ。心を守る。だが、それは音を痩せさせる。痩せた音は、遠くまで届かない。
「じゃ、五分だけ。普段どおりで」
三嶋の声に、玲央はかすかに鼻で笑う。“普段どおり”がいちばん難しい。難しいから、燃える。燃えるから、音が立つ。音が立つと、世界が近くなる。
ベースが落ちる。スネアが返す。ハイハットが縁を描く。その上に、玲央のステップ。ステップに、悠真の音が重なる。重なるたび、バンドのディスプレイに波形が生まれ、消える。消える刹那、玲央は自分の内側の波形を感じる。内側の波形は、数字にならない。ならないものに、価値がある。価値は、自分で決める。
三十秒。六十秒。九十秒。時間は波だ。波の頂点で呼吸を取り、谷で出力を落とす。落とすことを恐れない。恐れない方が、最後に高く跳べる。跳ぶ準備で、ふっと息を抜いた瞬間、悠真の指先が空気に透明の糸を張る。その糸が、玲央の肩甲骨の間に柔らかく触れる。触れ方は丁寧で、必要なだけ。必要なだけ、という精度は、二人でしか作れない。
「――いいですね」
スタッフの一人が、端末越しに漏らす声。漏れる声は、管理されていない。管理されていない音の方が、信用できる。信用できる音は、稀だ。稀だから、価値がある。稀なものを、街は忘れやすい。忘れやすさに抗うのが、舞台だ。
「ラスト十秒、最大出力お願いします」
三嶋の声。玲央は、目だけで悠真を見る。悠真は、短く頷く。頷きは、許可ではない。共犯の合図だ。胸の内側で熱が炎に変わり、喉の奥で声にならず揺れる。揺れを、拳に落とす。ステップが速くなる。床が低くなる。世界が体の中心に集まる。拳が空気を裂き、耳の奥で小さく破裂音がする。その瞬間、バンドのディスプレイに赤い点が点滅する。“PEAK”。同時に、微かな抵抗が手首から腕へ逆流する。制御だ。装置が出力を制限する。安全のために。
「――ちっ」
玲央は、舌打ちを喉の奥で飲む。飲んだ音は、胃の辺りで熱になる。熱は、次の跳躍に使う。跳躍は、止まらない。五分が終わる。音が落ちる。空気が、少しだけ軽くなる。軽くなった空気は、汗の塩を肌の上に浮かび上がらせる。舌で唇を濡らすと、しょっぱい。しょっぱさは、生きている証拠の味だ。
「計測、終了。ありがとうございました」
三嶋は、笑顔でタブレットの画面を伏せる。伏せられた画面には、何が映っていたのか。数字は、彼らの目的に従順だ。従順なものは、裏切らない代わりに、救わない。救いは、こっち側で用意する。
「――更衣室」
悠真が小さく言い、ふたりでホールを出る。朱莉は少し後ろから付いてくる。足音は軽く、呼吸は浅くない。浅くない呼吸をする人は、嘘をつく時にも酸素を無駄にしない。無駄がない嘘は、罪が薄い。薄い罪は、残る。残るから、痛む。痛みは、毒じゃない。体が生きている反応だ。
更衣室のドアが閉まる音に、薄い金属の響きが混ざる。鍵を落とした誰かの癖。癖は、日常の中に潜む。潜んでいるものを見つける目は、舞台の外で育つ。舞台の外に、戦いは多い。玲央は、ベンチに腰を下ろし、濡れたタオルで顔を覆う。布の湿り気が、瞼の熱を吸う。布の繊維が、睫毛にからまる。からまった繊維を指で外し、深呼吸をひとつ。
「――なぁ、なんで戻ってきた」
同じ問いを三度も繰り返すのは、癖じゃない。必要だ。必要な言葉は、何度でも使う。磨耗しない。使うたびに、意味が深くなる。
「言えない。でも」
悠真は、言葉を選ぶ。選ぶ時間を、玲央は待つ。待っている間に、心拍が少し落ち着く。落ち着いた心拍は、聴こえやすい。
「言わないままじゃ、たぶん――お前を失う」
布越しに聞こえた声の温度が、タオルの湿り気と混ざって、頬に染みる。玲央は、タオルを膝に落とし、視線をまっすぐ向ける。悠真の目は揺れない。揺れない目は、強いわけじゃない。揺れを見せないだけだ。見せないのは、守るためだ。誰を。何を。問いは、胸の奥へ沈む。
「俺は――」
言いかけたところで、更衣室のドアが、コンコンと二回叩かれる。朱莉の声。
「玲央」
「ん」
「ちょっと、来て。あの人たち、データの“活用”の話をしてる」
“活用”。便利な言葉だ。便利な言葉は、何にでも化ける。化けた先を見極めるのは、匂いだ。匂いは嘘をつかない。玲央は立ち上がり、ドアを開ける。廊下の空気は、体育館の内よりも冷たい。冷たい空気は、言葉に薄い霧をかける。霧の向こうで、三嶋とスタッフの会話が切れ切れに聞こえる。
「――リズム同期装置の回帰係数は、予定どおり」「――観客センサーの試験、次のステージで」「――プロファイルの露出順は、上げる」
“露出順”。言葉の選び方が、意図を隠さない。隠す気がないのか、隠し方を知らないのか。どちらにせよ、舞台の上で決めるべきことではない。玲央は舌の裏に小さく傷を作り、そこに意識を集中させる。集中させる場所を自分で選ぶのは、怒りの流儀だ。怒りは、場所を間違えると爆発する。爆発は、美しいが、壊す。壊したくないものが、いまは多い。
「――すぐ終わる。戻ろう」
悠真の声に、玲央は頷く。頷く代わりに、壁に拳を当てる。叩かない。押す。押した壁の冷たさが、拳の熱を持っていく。持っていかれた熱は、別の場所で燃える。燃える場所は、ステージだ。
夕刻の体育館。光はオレンジに傾き、床の島は金色になる。ファンの影がゆっくり壁を渡り、窓の外、日向川の水面は逆光で白く潰れる。人のざわめきが薄くなり、代わりに準備の音が増える。テープの切れる音、ケーブルの擦れる音、靴底が床の埃を掃く音。日常の音が好きだ。そこに、特別の音を混ぜる時間が、いちばん好きだ。
「玲央」
朱莉が、タオルの束を抱えて近づく。額の髪が汗で頬に貼りつき、目尻の光が柔らかい。彼女は、いつもより少し静かだ。静かなときの彼女は、深いところに言葉を持っている。
「さっき、運営の人――“露出順”って言ってた」
「あぁ」
「ねぇ、“順”ってさ、誰が決めるんだろ」
「決めるやつの心拍の深さ」
「またそれ」
「それしかねぇ」
朱莉は、笑う。笑いは短い。短いけれど、温かい。温かさは、肩甲骨の間に溜まる。溜まった温かさは、夜に効く。夜は、長い。
「――で、『BRAVE BEAT』、再結成のこと、書類出したよ」
彼女は、さらりと言う。さらりと言うために、どれだけ準備したかは想像がつく。彼女の“さらり”は、軽いふりをした重さだ。重さは、受け取る側の体幹で決まる。玲央は、軽く頷く。頷きの中に、ありがとうを詰める。詰めすぎると、首が重くなる。重くなる前に、息を吐く。
「――ありがと」
言葉にしておく。言葉は音だ。音は残る。残るものを増やす。増えたものを、守る。守るには、殴る。殴るには、笑う。笑いと拳は矛盾しない。矛盾しないことが、やっと分かった。
夕陽が一段と赤くなる頃、体育館の扉が開き、ひやりとした風が入ってくる。風の向こうに、ギターの柔らかな音。弦を指が撫でる音。悠真が、ステージ脇の椅子に腰掛け、何かを確かめるように短いフレーズを繰り返す。音は、言葉より正直だ。正直な音は、隠せない。隠せないものを、ここに置く。
「――なぁ」
玲央は、音に引かれるまま近づき、椅子の背に肘を置く。距離は近い。近い距離は、呼吸を難しくする。難しい呼吸は、リズムを鋭利にする。
「お前、何を見たいんだ」
「真実」
「だから、それは――」
「俺とお前の音が、誰にも制御できないって事実」
「誰にも?」
「俺たち自身でさえ」
短い沈黙。沈黙は、耳の奥で熱を持つ。熱は、視線の温度を上げる。上がった温度は、皮膚の表面を通り、空気に混ざる。空気が甘くなる。甘くなった空気は、喉の奥で少し痛い。
「――信じる」
玲央は言い、背中を伸ばす。背骨が軽く鳴る。鳴る音は、小さくても、現実だ。現実を増やす。増えた現実の上に、明日を置く。
放課後の終わり、体育館の外に出ると、日向川の堤防に細い影が二つ並んだ。南風が頬を撫で、潮の匂いが薄く、夕食の匂いが濃い。家の窓から漏れる笑い声が、遠くで丸く弾む。世界が、音で満ちている。満ちている世界の中で、まだ鳴らしていない音を探す。探すこと自体が、すでに音だ。
「――玲央」
「ん」
「明日、練習、朝から」
「わかってる」
「遅れるな」
「お前が先にいろ」
「考えておく」
「考えるな」
笑いが重なる。重なった笑いは、夕焼けの空に薄く溶ける。溶けると、どこにでも届く。どこに届いても、戻ってくる。戻ってきた音が胸に当たると、心臓の拍が一つ増える。その増えた一つが、今日の余白だ。余白は、夜に使う。
夜。窓の外に港の明かり。ネオンの赤が波に滲み、遠くで船のエンジン音が低く続く。部屋の空気は、昼間の熱をまだ抱えている。扇風機の風がひとつの方向から当たり、皮膚の上に横方向の川を作る。スマホの画面の上で指が滑り、メッセージアプリが開く。朱莉から「チーム登録OK。明日の枠、押さえた」と短い文。返事は「助かる」。二文字。二文字の中に、何十行分もの意味を押し込む。押し込み過ぎると、画面が歪む気がして笑う。
冷蔵庫のペットボトルに口をつけ、冷たさを舌の裏で転がしながら、窓枠にもたれる。夜の空気は、昼より少しだけ軽い。軽い空気は、心拍を二つ落とす。落とした分だけ、意識が深く潜る。潜った場所で、音が鳴る。鳴った音は、言葉にならない。言葉にしない。しないことが、約束になる。
ベッドに横たわり、天井の白を見上げる。白は夜の色を吸って灰色に近づき、角が柔らかくなっていく。眠りの境目は、いつも水の表面に似る。指先で撫でると波紋が広がり、形も時間も曖昧になる。曖昧の中で、彼の笑顔が浮かぶ。あの夏より少し優しい。少し痛い。痛みがある笑顔は、嘘が少ない。嘘の少ない笑顔は、残る。残るなら、信じられる。
――鼓動が、同じテンポで鳴る。壁の向こう、港の向こう、夜の向こう。どこにいても、同じ拍で呼吸できる。できると信じられる。信じることは、弱さじゃない。強がりでもない。強さと弱さが、一瞬だけ重なってできる細い橋。その上に、明日を置く。
目を閉じる直前、腕に巻かれた黒いバンドが、薄く光る。数字は、眠りの初めに向かう心拍を丁寧に記録し続ける。記録されることに、恐れはない。数字は、敵じゃない。敵は、数字の使い方だ。使い方を決めるやつは、たいてい心拍が浅い。浅い拍には、深さで応える。深さは、明日、床の上で示す。
明け方。まだ青い空に薄い雲。窓から入る風に夜の匂いが残り、その裏に新しい朝の匂いが忍び込む。目が自然に開く。体が起きたがる。起きる。足裏が床の冷たさを受け取り、ふくらはぎの筋肉が短く伸びる。水道の水で顔を洗うと、皮膚の表面の音がリセットされる。新しい音を入れる準備ができる。
体育館の扉は、朱莉がいつものように半分開けておいてくれた。モップが床の端を滑り、埃の小さな山が光の中で踊る。踊る埃は美しい。美しいものを美しいと感じる余裕が、今日もある。それを確認するだけで、拳は軽くなる。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶に、体温が乗る。体温の乗った言葉は、筋肉に染みる。染みた言葉が、動きを滑らかにする。滑らかさは、強さと矛盾しない。矛盾しないことを、体はもう知っている。
扉の影が傾き、銀の髪が現れる。悠真が、一歩入って空気を嗅ぐみたいに小さく息を吸う。吸い方に、音楽家の癖が出る。音を嗅ぐのは、動物の生き方だ。人間はそれを理屈で包み、名前をつける。名前をつけても、根っこは変わらない。根っこは、殴り合いの中で露わになる。
「――合わせるか」
「合わせる」
声は短い。短さが、決意の輪郭になる。メトロノームは要らない。天井のファンと、窓の外の風鈴と、自分たちの心臓で十分だ。ステップ。呼吸。拳。音。重なる。重なるたび、昨日より深く沈む。沈んだ底から、昨日より高く跳ねる。跳ねながら、目が合う。目が合うと、笑う。笑いは邪魔をしない。笑いは、拍の隙間にやさしく入る。
「――」
言葉は、いまはいい。言葉は、あとでいい。あとで、必要なときに必要な場所で使う。使うために、いまは体を使う。体は、嘘をつかない。床が、受け止める。受け止めた床が、返す。返ってきた音を、胸の中で丸くする。丸くした音を、拳に詰める。詰めた拳を、前へ。
南風が、窓から抜けていく。風には匂いがある。匂いは、記憶の最短距離を走る。走った先に、二年前の夏がいる。いるけれど、もう同じではない。同じでないものを、同じテンポで抱きしめる。抱きしめる相手は、目の前で汗を光らせて、息を吐いて、笑っている。
――鼓動が、再起動する。焼けるような残暑の中で、静かに、確かに。
黒いバンドは思っていたより冷たく、皮膚の上に小さな輪郭を作ってから、数秒で体温に馴染む。ディスプレイの数字が、脈拍の上がり下がりに合わせて小刻みに揺れ、細い水平線の上で短い棒が跳ねる。数字は便利だ。けれど、便利に見せる工夫が施された数字は、余計に胡散臭い。玲央は目を細め、表示の端に小さく点滅する「SYNC READY」の文字を見た。英語の語尾は冷たい。冷たいまま安全を約束するとき、人はその冷たさに安堵する。安堵は、油断に似る。
「締め付けは大丈夫ですか?」
受付のスタッフの笑顔は完璧で、頬の筋肉の緊張に無駄がない。マニュアルのページの匂いが、香水の甘さに隠れて残る。玲央は、拳をゆっくり握ってから開き、骨の鳴り具合で答えを量る。問題はない。問題は、別の場所に隠れる。
「平気」
一ノ瀬朱莉が隣で首を伸ばし、バンドの表示を覗き込む。彼女の視線は鋭いが、刺さらない。刺さらないのは、角を柔らかくする才能のせいだ。彼女は才能を隠さない。隠さないのに、驕らない。
「ねぇ、その“SYNC”って、どこまで合わせるんだろ」
「心拍とステップの相関、呼吸、ミクロの体幹の揺れ。あと、バトル時の出力ピークを“安全域”に収めるための自動制御」
説明の声が背後から落ちてくる。滑らかで、喉の奥に薄い金属の響きを持つ声。榊悠真は、受付台の向こう側から回り込み、玲央の手首に巻かれたバンドに視線を落とす。銀の髪は今日も淡く光を返し、瞼の影が表情を涼しく見せる。涼しさの奥に熱がある。熱は姿勢に出る。背骨の素直さが、それを隠しきれない。
「ルールは変わった」
彼は短く言って、スタッフから受け取った同じバンドを自分の手首に巻く。布の擦れる音が小さく鳴り、表示が点る。数字は玲央のより落ち着いている。油を差したメトロノームみたいに、滑らかで、揺れが少ない。玲央はそれを面白く思う。面白いと感じること自体が腹立たしい。腹立たしさが、血の温度をほんの少し上げる。
「でも、魂は変わらない」
悠真は言い切り、指先で空気を弾く。そこに微かな振動が生まれ、バンドの波形が一拍だけ揺れる。機械は音の“結果”を捉える。が、起こる前の予兆は拾えない。予兆を捉えるのは、体の方だ。皮膚の裏で、細い鳥が羽ばたくような気配が走る。玲央はその鳥を飛ばさないよう、わざと深く息を吐いた。
「安全のための装置ですから、ご理解を」
スタッフの笑顔は揺るがない。ポスターのキャッチコピーは“公平・公正・感動を、テクノロジーで”。“感動”にテクノロジーをかかわらせるのは、どこか滑稽だ。けれど、滑稽は強い。笑いは油断を生む。油断は、管理しやすい。
登録を終えて、三人で体育館へ戻る。ドアを押すと空気が変わる。木の香り、古い汗の塩、ラバーソールの匂い。外の風が重くても、ここには別の重さがある。音の重さ。過去の足音が染みこんだ板は、今日の足音に寛容だ。玲央は紐を二度結び、靴底のグリップを床に試す。少し滑る。滑るのは、今日の湿度のせい。ステップを刻めば、すぐに馴染む。
「メニュー、どうする?」
朱莉が、手帳をぱらぱらとめくる。走り書きの文字に、彼女の思考の速さが滲む。玲央は、前夜に自分で書いた紙切れを思い出す。段取りは頭にある。けれど、それを声に出すのは別の行為だ。声にすれば、言葉は音になり、音は約束になる。約束は逃げ道を塞ぐ。塞がるのは嫌いじゃない。
「まずリズム練習。三拍子と四拍子の切り替え、二曲分。ステップの重心移動を細かく。拳は最後」
「了解」
朱莉は軽くうなずき、スマホのメトロノームを起動する。クリックが乾いて鳴る。最初は遅いテンポ。七十。八十。九十。玲央は肩の力を抜き、骨盤だけで前後に揺れる。足裏の母指球に体重を乗せ、踵に戻す。その間に呼吸を通す。鼻から吸って、喉の後ろを広げたまま吐く。肺の内側に軽い熱が点り、すぐに広がる。汗の出る場所と、出ない場所が入れ替わる。体が思い出す。忘れるのが上手くなっただけで、無くしたわけじゃない。
「三拍――一、二、三」
朱莉のカウントが合図になり、玲央はステップを踏む。左、右、左。右の踵を軽く押し出し、返す。床板が応じる。木目の向きに沿った返答。一定のやり取りが続くと、床が友達になる。友達になった床は、踏み外した時に教えてくれる。足裏の皮膚で会話する関係。そこに、別の足音が重なる。
悠真は、音を吸わない。吸わないで、流す。流す音は、薄い膜みたいに周囲に広がって、玲央のステップの周りをやさしく包む。包まれると、勢いだけで突っ込む癖が抑えられる。抑えられた勢いは、別の場所に沈む。沈んだエネルギーは、溜まる。溜まると、深くなる。深さは、強さに変換できる。玲央はその変換を、両脚の付け根で受け止めながら、テンポを一段上げた。
「四拍――一、二、三、四」
汗の味が舌に降りてくる。塩。夏の味。顎の先から小さな水滴が光って跳ね、床に落ちる。落ちた音は、聞こえない。それでも、体は聞く。耳より敏感な器官が、皮膚のそこかしこに散らばっていて、空気の波形を拾う。バンドの表示が視界の端でちらちら動く。心拍は高い。けれど、不安の高さではない。準備の高さ。出発前のホームに響く電車のモーター音と同じ高さ。
「――」
言葉は要らない。要らない時間が長く続くのは、居心地がいい。二年前、沈黙は怖かった。沈黙の間に、相手を見失う気がしていた。いまは違う。沈黙は、相手の輪郭を浮かび上がらせる。輪郭が浮かべば、狙う場所が明確になる。狙いは愛にも似ている。似ているからこそ、混同しない技術が必要になる。
「はい、いったん水分!」
朱莉の声は、いつも絶妙のタイミングで入る。緊張が継ぎ目を求める瞬間。その一拍前。玲央はペットボトルの蓋を開け、水を喉に流し込む。冷たさが食道の壁を滑り、胃に到達する感覚が輪郭を持つ。冷たいものは、音を落ち着かせる。落ち着いた音は、次に跳ねる。
「――で、今日の午後は運営の職員が視察に来るって。SonicEdgeの」
朱莉がタオルで自分の額を押さえながら言う。遠いところにある名前なのに、この体育館の空気が一瞬だけ固くなる。固い空気は、肺に刺さる。玲央は、わざと一度咳払いをして、棘を外に出した。
「視察ねぇ。数字を見に来るんだろ」
「数字は便利だよ」
悠真は、ペットボトルの冷たさを額につけたまま、目だけを玲央に向ける。
「でも、便利だと信じてるやつの心拍は、薄い」
「薄い心拍って、どんな音だ?」
「壁で跳ね返らない音。自分の内側の壁で全部吸われる」
「じゃあ、外に出すには?」
「外に出したいと思ってるかどうか」
「思ってる」
「知ってる」
短く、鋭い往復。言葉は拳にもなるし、手のひらにもなる。どちらで触れるかは、その時々で変える。変える判断は直感だ。直感は訓練で精度が上がる。訓練は裏切らない。
午後のフロアには、観客席が一段だけ組まれ、薄い幕が吊されている。照明は仮設でも容赦なく熱を吐き、床の表面に薄い光の池ができる。そこに足を入れると、皮膚の上を熱が跳ねて抜けていく。リハーサル開始の合図。スピーカーからベースの低い音が流れ、空気が震える。脇でダンス同好会の子たちが小さく歓声をあげ、バスケ部は遠巻きに見ながらボールを突く手を止めない。日常と特別が溶け合う境目は、匂いが濃い。匂いの濃さは、現実感の濃さだ。
「――行くぞ」
玲央は、左足を半歩前に置き、肩の力を抜く。首の後ろを長く保ち、腰を落とし過ぎない。視線は正面。悠真が斜め右後ろに位置を取り、指先で空気を探る。探る指は、弦を弾く前の指と同じだ。弾く前に、鳴り方が決まる。彼の呼吸が、玲央の後頭部に触れる。体の背面は、無防備になりやすい。無防備に、相手の呼吸を預ける。その行為が、関係を決定づける。
ビートが落ちる。床が一瞬沈み、次の瞬間に弾む。足の裏がそれに乗る。乗りながら、玲央は拳を出す。律動に忠実でいるほど、野生が顔を出す。野生は乱暴じゃない。洗練の奥にある粗さだ。粗さが、相手の呼吸を欲しがる。欲望は直線じゃない。曲線だ。曲がりながら、まっすぐ行く。そんな矛盾を、体は喜ぶ。
悠真の“サウンド・バインド”は、透明な檻の形で空気を組む。形を見せないまま、玲央のステップの縁に柔らかく壁を立て、踏み外しそうなところを滑らかな坂に変える。坂は危険じゃない。危険に見えない。見えないけれど、確かに制御されている。制御の行き過ぎは、自由を痩せさせる。いまは、痩せていない。むしろ厚みが増す。厚みのある自由は、強い。
「――やば」
観客席の端で、誰かが小さく呟く声。言葉の内容は耳に入らない。入るのは、その音の温度。温度は、ステージの上にとって栄養だ。栄養は、意識せずに吸収する。吸収しすぎないように、呼吸で調整する。調整は、心の仕事だ。心は忙しい。忙しいけれど、働かせる。
二曲目の終わり際、スピーカーの低音が一瞬だけ痩せる。痩せた瞬間に、玲央の背中の筋肉が微かに硬くなる。それを、悠真の音が撫でていく。撫で方に愛想はない。必要なだけ、正確に。正確さは、信頼になる。信頼が、拳の速度を上げる。拳は前に出る。空気は裂け、鼓膜が薄く痛む。痛みは、意識をここに繋ぎ止める。
「カット、OK!」
朱莉の声が飛び、ライトが一段落ちる。汗を拭くタオルが重い。重いタオルは、今日の分だけの重さ。昨日とも明日とも違う。タオルの繊維に、今日の音が絡んで離れない。離れないものが増えると、身軽さを失うと思っていた。違った。繋いだものが多いほど、足場が増える。足場が増えると、跳べる高さが増える。
「――ちょっと、よろしいですか」
フロアの端から、黒いジャケットの男が近づく。首元だけ涼しげで、靴音は軽いのに、床への圧が均等にかかる。訓練された歩き方。腕に巻かれた同期バンドは、スタッフ用の灰色。ディスプレイの数字は見えないよう角度を作られている。
「SonicEdge運営の三嶋です。本日は視察ということで」
名刺。受け取る。紙の手触りは上質で、端の処理が丁寧だ。丁寧なものを丁寧に作る会社は、雑なことを隠すのがうまい。玲央は名刺を見て、すぐに朱莉に渡す。管理は彼女の管轄だ。彼女は微笑んで名刺をしまい、うなずく。
「素晴らしいパフォーマンスでした。新システムとの整合性も高く、観客受けが期待できます」
「観客“受け”を測る装置も作ったのか?」
玲央は冗談めかして言い、男の目の奥の筋肉が一瞬だけ動くのを見た。動きは小さい。小さいけれど、音がする。骨の中で鳴る音。音の種類は、笑いじゃない。
「いえいえ、そこまでは。ただ、より安全に、より公平に。皆さんの努力が正当に評価されるよう、最善を尽くすだけです」
安全。公平。正当。言葉は太い。太い言葉は、枠組みに向いている。枠組みは必要だ。必要だが、立て方がある。立て方を誰が決めるか。その問題を、彼らは笑顔で流す。
「午後、データの記録テストを少しだけ。五分程度です」
「五分って、何を?」
朱莉の問いに、男は笑顔の厚みを変えず、タブレットを見せる。画面には、心拍、呼吸、ステップ精度、出力ピーク、回復時間。数列は美しい。美しい数列は、人の目を安心させる。安心の形に似せているだけの図形ほど、危険だ。
「準備はい」いな」
玲央は悠真に目だけで合図する。悠真は頷き、顎で軽く合図を返す。言葉はいらない。二年前、言葉に頼りすぎていた。頼ること自体は悪くない。頼り方の問題だ。頼り方を、いま、学んでいる。
更衣室。鏡に向かって手首のバンテージを巻き直す。布の匂いに、古い汗の塩と新しい洗剤の甘さが混ざる。指先が少し震える。震えは怖さではない。身体が音を待つ震え。待つことに耐えられる強さは、二年の空白の副産物だ。空白は無駄じゃない。無駄にしなかったのは、たぶん朱莉のおかげで、そして――
「なぁ」
声が隣から落ちる。悠真はベンチに腰掛け、包帯を玲央の手に回している。巻き方が丁寧で、ほどけない。ほどけないのに、血流を止めない。彼は、やさしい。やさしさは、時に残酷だ。残酷さを知っているやさしさは、強い。
「なんで戻ってきたんだ」
同じ問いを、今度は少し柔らかく投げる。柔らかさは逃げ道じゃない。相手に触れた指を傷つけないための角度だ。
「言えない」
「またかよ」
「でも、真実を見届けたい」
「真実って、何の?」
「――俺たちの音が、数字より強いってこと」
薄い沈黙。鏡の中の二人が、わずかにだけ目線を外す。外し方が似ている。似ている部分を見つけるたび、心臓の位置が定まる。定まると、殴れる。
「信じろ」
悠真の手が、玲央の肩に乗る。置くだけ。押さない。握らない。なのに、重い。重さは、体重のせいじゃない。言葉のせいだ。言葉が、骨に密着する。肩甲骨の下で、熱がゆっくり広がる。ひと呼吸で、広がった熱が背中の中央まで届く。届いたところで、朱莉の声が扉の隙間から跳ねる。
「――いける?」
「いける」
玲央は立ち上がり、バンテージの端を指で弾いてから、拳を軽く打ち合わせる。指先に残る布のザラつき。ザラつきは、今日の頼りだ。
ホールでは、SonicEdgeのスタッフが数人、端末を並べて座っている。顔は笑っている。目は笑っていない。その目は、何かを見ない訓練を積んだ目だ。見ない訓練は役に立つ。心を守る。だが、それは音を痩せさせる。痩せた音は、遠くまで届かない。
「じゃ、五分だけ。普段どおりで」
三嶋の声に、玲央はかすかに鼻で笑う。“普段どおり”がいちばん難しい。難しいから、燃える。燃えるから、音が立つ。音が立つと、世界が近くなる。
ベースが落ちる。スネアが返す。ハイハットが縁を描く。その上に、玲央のステップ。ステップに、悠真の音が重なる。重なるたび、バンドのディスプレイに波形が生まれ、消える。消える刹那、玲央は自分の内側の波形を感じる。内側の波形は、数字にならない。ならないものに、価値がある。価値は、自分で決める。
三十秒。六十秒。九十秒。時間は波だ。波の頂点で呼吸を取り、谷で出力を落とす。落とすことを恐れない。恐れない方が、最後に高く跳べる。跳ぶ準備で、ふっと息を抜いた瞬間、悠真の指先が空気に透明の糸を張る。その糸が、玲央の肩甲骨の間に柔らかく触れる。触れ方は丁寧で、必要なだけ。必要なだけ、という精度は、二人でしか作れない。
「――いいですね」
スタッフの一人が、端末越しに漏らす声。漏れる声は、管理されていない。管理されていない音の方が、信用できる。信用できる音は、稀だ。稀だから、価値がある。稀なものを、街は忘れやすい。忘れやすさに抗うのが、舞台だ。
「ラスト十秒、最大出力お願いします」
三嶋の声。玲央は、目だけで悠真を見る。悠真は、短く頷く。頷きは、許可ではない。共犯の合図だ。胸の内側で熱が炎に変わり、喉の奥で声にならず揺れる。揺れを、拳に落とす。ステップが速くなる。床が低くなる。世界が体の中心に集まる。拳が空気を裂き、耳の奥で小さく破裂音がする。その瞬間、バンドのディスプレイに赤い点が点滅する。“PEAK”。同時に、微かな抵抗が手首から腕へ逆流する。制御だ。装置が出力を制限する。安全のために。
「――ちっ」
玲央は、舌打ちを喉の奥で飲む。飲んだ音は、胃の辺りで熱になる。熱は、次の跳躍に使う。跳躍は、止まらない。五分が終わる。音が落ちる。空気が、少しだけ軽くなる。軽くなった空気は、汗の塩を肌の上に浮かび上がらせる。舌で唇を濡らすと、しょっぱい。しょっぱさは、生きている証拠の味だ。
「計測、終了。ありがとうございました」
三嶋は、笑顔でタブレットの画面を伏せる。伏せられた画面には、何が映っていたのか。数字は、彼らの目的に従順だ。従順なものは、裏切らない代わりに、救わない。救いは、こっち側で用意する。
「――更衣室」
悠真が小さく言い、ふたりでホールを出る。朱莉は少し後ろから付いてくる。足音は軽く、呼吸は浅くない。浅くない呼吸をする人は、嘘をつく時にも酸素を無駄にしない。無駄がない嘘は、罪が薄い。薄い罪は、残る。残るから、痛む。痛みは、毒じゃない。体が生きている反応だ。
更衣室のドアが閉まる音に、薄い金属の響きが混ざる。鍵を落とした誰かの癖。癖は、日常の中に潜む。潜んでいるものを見つける目は、舞台の外で育つ。舞台の外に、戦いは多い。玲央は、ベンチに腰を下ろし、濡れたタオルで顔を覆う。布の湿り気が、瞼の熱を吸う。布の繊維が、睫毛にからまる。からまった繊維を指で外し、深呼吸をひとつ。
「――なぁ、なんで戻ってきた」
同じ問いを三度も繰り返すのは、癖じゃない。必要だ。必要な言葉は、何度でも使う。磨耗しない。使うたびに、意味が深くなる。
「言えない。でも」
悠真は、言葉を選ぶ。選ぶ時間を、玲央は待つ。待っている間に、心拍が少し落ち着く。落ち着いた心拍は、聴こえやすい。
「言わないままじゃ、たぶん――お前を失う」
布越しに聞こえた声の温度が、タオルの湿り気と混ざって、頬に染みる。玲央は、タオルを膝に落とし、視線をまっすぐ向ける。悠真の目は揺れない。揺れない目は、強いわけじゃない。揺れを見せないだけだ。見せないのは、守るためだ。誰を。何を。問いは、胸の奥へ沈む。
「俺は――」
言いかけたところで、更衣室のドアが、コンコンと二回叩かれる。朱莉の声。
「玲央」
「ん」
「ちょっと、来て。あの人たち、データの“活用”の話をしてる」
“活用”。便利な言葉だ。便利な言葉は、何にでも化ける。化けた先を見極めるのは、匂いだ。匂いは嘘をつかない。玲央は立ち上がり、ドアを開ける。廊下の空気は、体育館の内よりも冷たい。冷たい空気は、言葉に薄い霧をかける。霧の向こうで、三嶋とスタッフの会話が切れ切れに聞こえる。
「――リズム同期装置の回帰係数は、予定どおり」「――観客センサーの試験、次のステージで」「――プロファイルの露出順は、上げる」
“露出順”。言葉の選び方が、意図を隠さない。隠す気がないのか、隠し方を知らないのか。どちらにせよ、舞台の上で決めるべきことではない。玲央は舌の裏に小さく傷を作り、そこに意識を集中させる。集中させる場所を自分で選ぶのは、怒りの流儀だ。怒りは、場所を間違えると爆発する。爆発は、美しいが、壊す。壊したくないものが、いまは多い。
「――すぐ終わる。戻ろう」
悠真の声に、玲央は頷く。頷く代わりに、壁に拳を当てる。叩かない。押す。押した壁の冷たさが、拳の熱を持っていく。持っていかれた熱は、別の場所で燃える。燃える場所は、ステージだ。
夕刻の体育館。光はオレンジに傾き、床の島は金色になる。ファンの影がゆっくり壁を渡り、窓の外、日向川の水面は逆光で白く潰れる。人のざわめきが薄くなり、代わりに準備の音が増える。テープの切れる音、ケーブルの擦れる音、靴底が床の埃を掃く音。日常の音が好きだ。そこに、特別の音を混ぜる時間が、いちばん好きだ。
「玲央」
朱莉が、タオルの束を抱えて近づく。額の髪が汗で頬に貼りつき、目尻の光が柔らかい。彼女は、いつもより少し静かだ。静かなときの彼女は、深いところに言葉を持っている。
「さっき、運営の人――“露出順”って言ってた」
「あぁ」
「ねぇ、“順”ってさ、誰が決めるんだろ」
「決めるやつの心拍の深さ」
「またそれ」
「それしかねぇ」
朱莉は、笑う。笑いは短い。短いけれど、温かい。温かさは、肩甲骨の間に溜まる。溜まった温かさは、夜に効く。夜は、長い。
「――で、『BRAVE BEAT』、再結成のこと、書類出したよ」
彼女は、さらりと言う。さらりと言うために、どれだけ準備したかは想像がつく。彼女の“さらり”は、軽いふりをした重さだ。重さは、受け取る側の体幹で決まる。玲央は、軽く頷く。頷きの中に、ありがとうを詰める。詰めすぎると、首が重くなる。重くなる前に、息を吐く。
「――ありがと」
言葉にしておく。言葉は音だ。音は残る。残るものを増やす。増えたものを、守る。守るには、殴る。殴るには、笑う。笑いと拳は矛盾しない。矛盾しないことが、やっと分かった。
夕陽が一段と赤くなる頃、体育館の扉が開き、ひやりとした風が入ってくる。風の向こうに、ギターの柔らかな音。弦を指が撫でる音。悠真が、ステージ脇の椅子に腰掛け、何かを確かめるように短いフレーズを繰り返す。音は、言葉より正直だ。正直な音は、隠せない。隠せないものを、ここに置く。
「――なぁ」
玲央は、音に引かれるまま近づき、椅子の背に肘を置く。距離は近い。近い距離は、呼吸を難しくする。難しい呼吸は、リズムを鋭利にする。
「お前、何を見たいんだ」
「真実」
「だから、それは――」
「俺とお前の音が、誰にも制御できないって事実」
「誰にも?」
「俺たち自身でさえ」
短い沈黙。沈黙は、耳の奥で熱を持つ。熱は、視線の温度を上げる。上がった温度は、皮膚の表面を通り、空気に混ざる。空気が甘くなる。甘くなった空気は、喉の奥で少し痛い。
「――信じる」
玲央は言い、背中を伸ばす。背骨が軽く鳴る。鳴る音は、小さくても、現実だ。現実を増やす。増えた現実の上に、明日を置く。
放課後の終わり、体育館の外に出ると、日向川の堤防に細い影が二つ並んだ。南風が頬を撫で、潮の匂いが薄く、夕食の匂いが濃い。家の窓から漏れる笑い声が、遠くで丸く弾む。世界が、音で満ちている。満ちている世界の中で、まだ鳴らしていない音を探す。探すこと自体が、すでに音だ。
「――玲央」
「ん」
「明日、練習、朝から」
「わかってる」
「遅れるな」
「お前が先にいろ」
「考えておく」
「考えるな」
笑いが重なる。重なった笑いは、夕焼けの空に薄く溶ける。溶けると、どこにでも届く。どこに届いても、戻ってくる。戻ってきた音が胸に当たると、心臓の拍が一つ増える。その増えた一つが、今日の余白だ。余白は、夜に使う。
夜。窓の外に港の明かり。ネオンの赤が波に滲み、遠くで船のエンジン音が低く続く。部屋の空気は、昼間の熱をまだ抱えている。扇風機の風がひとつの方向から当たり、皮膚の上に横方向の川を作る。スマホの画面の上で指が滑り、メッセージアプリが開く。朱莉から「チーム登録OK。明日の枠、押さえた」と短い文。返事は「助かる」。二文字。二文字の中に、何十行分もの意味を押し込む。押し込み過ぎると、画面が歪む気がして笑う。
冷蔵庫のペットボトルに口をつけ、冷たさを舌の裏で転がしながら、窓枠にもたれる。夜の空気は、昼より少しだけ軽い。軽い空気は、心拍を二つ落とす。落とした分だけ、意識が深く潜る。潜った場所で、音が鳴る。鳴った音は、言葉にならない。言葉にしない。しないことが、約束になる。
ベッドに横たわり、天井の白を見上げる。白は夜の色を吸って灰色に近づき、角が柔らかくなっていく。眠りの境目は、いつも水の表面に似る。指先で撫でると波紋が広がり、形も時間も曖昧になる。曖昧の中で、彼の笑顔が浮かぶ。あの夏より少し優しい。少し痛い。痛みがある笑顔は、嘘が少ない。嘘の少ない笑顔は、残る。残るなら、信じられる。
――鼓動が、同じテンポで鳴る。壁の向こう、港の向こう、夜の向こう。どこにいても、同じ拍で呼吸できる。できると信じられる。信じることは、弱さじゃない。強がりでもない。強さと弱さが、一瞬だけ重なってできる細い橋。その上に、明日を置く。
目を閉じる直前、腕に巻かれた黒いバンドが、薄く光る。数字は、眠りの初めに向かう心拍を丁寧に記録し続ける。記録されることに、恐れはない。数字は、敵じゃない。敵は、数字の使い方だ。使い方を決めるやつは、たいてい心拍が浅い。浅い拍には、深さで応える。深さは、明日、床の上で示す。
明け方。まだ青い空に薄い雲。窓から入る風に夜の匂いが残り、その裏に新しい朝の匂いが忍び込む。目が自然に開く。体が起きたがる。起きる。足裏が床の冷たさを受け取り、ふくらはぎの筋肉が短く伸びる。水道の水で顔を洗うと、皮膚の表面の音がリセットされる。新しい音を入れる準備ができる。
体育館の扉は、朱莉がいつものように半分開けておいてくれた。モップが床の端を滑り、埃の小さな山が光の中で踊る。踊る埃は美しい。美しいものを美しいと感じる余裕が、今日もある。それを確認するだけで、拳は軽くなる。
「おはよう」
「おはよう」
挨拶に、体温が乗る。体温の乗った言葉は、筋肉に染みる。染みた言葉が、動きを滑らかにする。滑らかさは、強さと矛盾しない。矛盾しないことを、体はもう知っている。
扉の影が傾き、銀の髪が現れる。悠真が、一歩入って空気を嗅ぐみたいに小さく息を吸う。吸い方に、音楽家の癖が出る。音を嗅ぐのは、動物の生き方だ。人間はそれを理屈で包み、名前をつける。名前をつけても、根っこは変わらない。根っこは、殴り合いの中で露わになる。
「――合わせるか」
「合わせる」
声は短い。短さが、決意の輪郭になる。メトロノームは要らない。天井のファンと、窓の外の風鈴と、自分たちの心臓で十分だ。ステップ。呼吸。拳。音。重なる。重なるたび、昨日より深く沈む。沈んだ底から、昨日より高く跳ねる。跳ねながら、目が合う。目が合うと、笑う。笑いは邪魔をしない。笑いは、拍の隙間にやさしく入る。
「――」
言葉は、いまはいい。言葉は、あとでいい。あとで、必要なときに必要な場所で使う。使うために、いまは体を使う。体は、嘘をつかない。床が、受け止める。受け止めた床が、返す。返ってきた音を、胸の中で丸くする。丸くした音を、拳に詰める。詰めた拳を、前へ。
南風が、窓から抜けていく。風には匂いがある。匂いは、記憶の最短距離を走る。走った先に、二年前の夏がいる。いるけれど、もう同じではない。同じでないものを、同じテンポで抱きしめる。抱きしめる相手は、目の前で汗を光らせて、息を吐いて、笑っている。
――鼓動が、再起動する。焼けるような残暑の中で、静かに、確かに。
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