3 / 8
Rhythm Clash ―魂がぶつかる瞬間―
しおりを挟む
ライトの白は、目の奥の膜を一枚はがすような鋭さで落ちる。客席を覆う暗がりは波打ち、うねり、見えない潮汐がステージへ寄せては返す。天井高く吊られたスピーカーから、低音がゆっくり空気を撫でる。床は黒。表面に薄い鏡のような艶があり、踏めば光がにじむ。新堂玲央は、控室の扉に背を預けたまま、包帯を巻いた右手をゆっくり開閉し、骨のきしむ感触で現実を確かめる。バンテージの下、皮膚は熱を含み、血潮の鼓動が布地の繊維を押し広げるたび、世界の輪郭がシャープに立ち上がる。
ホール名はリズム・アリーナ。湿った木材と鉄と、香水と汗が混ざった匂い。ステージ裏の通路にはケーブルが這い、黒いガムテープが小さな山脈を作っている。遠くでスタッフの合図が飛び交う。数字が並ぶ声。秒単位の段取り。数字の正確さは頼もしいが、頼りすぎると足が硬くなる。硬くなった足は、床の反応を取りこぼす。玲央は鼻の奥に刺激を集め、ゆっくり吐く。匂いが、神経の表面を磨く。
ベンチに腰掛け、足首をぐるりと回す。靴底のグリップが床のゴムに軽く吸い付く音。指先で汗を拭う。鏡はない。鏡はいらない。いま必要なのは、内側に貼った鏡の角度を正すこと。そこに映るのは、額に汗を光らせた少年でも、背伸びした大人でもない。ただの、拍。拍を刻む器官としての自分。そこへ、柔らかな影が落ちる。
「結ぶよ」
榊悠真が無言で膝を折り、玲央の手を取り、包帯の端を整える。巻き方は丁寧で、呼吸の邪魔をしない強さ。指が触れるたび、皮膚の上に薄い電気が走る。電気は熱に変わり、背骨を伝って胸骨の裏に集まる。集まった熱が、鼓動を一拍、押し上げる。押し上がった拍が、彼の指先の動きと同期する。やわらかな共鳴。言葉の要らない確認。
「緊張してる」
「してねぇよ。お前のせいでな」
口の端に乗る軽さは、ほんの飾りだ。実際には、胸の奥の拍が少しだけ速い。速さは、不安の速さじゃない。スタートラインに靴を置いた直後の、前に倒れ始めるあの瞬間の速さ。彼は結び目を指で押さえ、視線で問いかける。緩くないか。痛くないか。言葉にせずに尋ねる手つき。うなずく。うなずきは、彼の肩の奥の筋肉をほんの少しだけ緩める。
対戦相手は〈Noise Hunters〉。電子音を基調にした細かいフェイントと、足元のビートを乱すノイズの壁。かなり厄介な連中。だが、やりがいはある。乱されるほどに、芯の深さが測れる。測れた芯は、殴れる。
「――行こう」
扉が開く。照明の白が滑り込み、汗の膜が一瞬透ける。舞台袖に足を置いた瞬間、客席のざわめきが塊のままぶつかってきて、破れて霧になる。霧の微粒子が皮膚に貼り付き、温度が半度上がる。ライトマンの合図。スモークが薄く流れる。ビートのテスト。スネアが一度だけ鳴り、空気が跳ねる。
ステージへ。踏み出した足に、床が返す。返すタイミングが早すぎず遅すぎず、ちょうどいい。床の木の芯と、自分の足の骨の芯が、一瞬だけ触れ合って離れる。離れた余韻に、客席からの息が乗る。玲央は視線をまっすぐ前へ向ける。それだけで、胸の奥の火は形を整え、拳の中に収まる準備を始める。
アナウンスは短く、無駄がない。ルールの確認。センサーの校正。名前が呼ばれる。声の抑揚が、客席の一角で小さく上ずるのが聞こえる。期待が揺れる。揺れは栄養。栄養は、消化しすぎると眠くなる。眠くならない範囲で噛み砕く。
向かい側に〈Noise Hunters〉。黒いフード。低く構えた上体。足首に光る同期バンドのLEDが青く点滅している。視線が合う。挑発はない。油断もない。プロの顔。プロの顔は、殴りがいがある。
ビートが落ちる。最初の一拍は、床が沈む。二拍目で弾む。三拍目で空気が薄くなる。四拍目で息が増える。その四拍の間に、足が三本の線を描き、拳が二つの円を切る。円の中心に、悠真の音が入る。透明な枠が空中に立ち上がり、玲央のステップの縁を撫で、逸れそうな動きをわずかに押し返す。押し返し過ぎない。自由は奪わない。奪わない枠組みだけが、信頼に変わる。
〈Noise Hunters〉は、低いノイズを床から吹き上げる。足の裏が痺れるほどの波。痺れは恐怖に似るが違う。恐怖は縮こまる。痺れは感覚を研ぎ澄ます。玲央は、膝のばねで波をいなす。波の合間に拳を入れる。拳は、空気の皮膚を裂き、熱い血潮の代わりに残響だけを滲ませる。滲んだ残響に、客席の呼気が絡む。絡み方が滑らか。滑らかさは幸福の最小単位。
「いける」
視線の端に、悠真の口が小さく動く。音にしない言葉。口の動きだけで伝える短い合図。いける。その一文字が、骨髄に効く。いけるとは、殴れるということ。殴って届くということ。届いた先に、相手の核があるということ。
〈Noise Hunters〉の一人が、右足で速い三連を刻み、上半身で別の拍を乗せてくる。ずらし。ずらしは厄介だが、甘い。甘さは舌の両脇で痺れに変わる。玲央は、右のジャブを短く二度、リズムの隙間に差し込み、左のストレートを遅らせて落とす。落とす瞬間に、悠真のサウンド・バインドが薄い膜を敵の足首に掛ける。動きが半拍だけ鈍る。その半拍に、拳が刺さる。剣ではない。刺すのは、拍。刺さった拍は、相手の中で反響して、自分の方へ薄い返歌を返す。返歌に、笑いが混じる。楽しい。楽しいは、危険。危険は、音を太くする。
一気にラッシュを仕掛ける。ステップで前へ、斜めへ、また前へ。床の摩擦がほどよい抵抗を与え、脚の筋肉が芯から熱を出す。喉は乾かない。乾かないのは、水を飲んだからじゃない。呼吸がうまく働いているからだ。鼻から入れる空気に塩気が混じる。観客の汗と照明の熱と、ステージの古い木材の匂いが、舌の奥に薄く触れる。
「っ――」
〈Noise Hunters〉の二人目が、低い電子音の壁を張る。張られた壁は、感情を鈍らせる。鈍らされると、拳が重くなる。重くなった拳は、鈍器のように強いが、狙いが甘くなる。甘さを嫌って、玲央は一度引く。引く足裏に、床が優しく着いてくる。着いてきた床を踏み、真上へ跳ねる。空中で半回転。着地の瞬間に、悠真の音が真横から細い支えを差し入れる。支えが、足の震えを吸う。吸った震えは、彼の肩の奥で熱に変わる。その熱が、玲央の背中へ戻ってくる気がした。目が合う。瞬きの長さが、ほんのわずか短くなる。短い瞬きは、約束のしるし。
スコアパネルが、視界の隅でやわらかく変わる。数字はいい。だが、数字を見すぎると、音が細くなる。細くなった音は、相手に届かない。届かない拳は、美しいだけで役に立たない。役に立たない美しさは、嫌いだ。嫌いなら、壊す。壊すのは、相手ではない。自分の臆病だ。
後半。汗が目の周りに集まり、塩がまぶたの縁を薄く差す。差す痛みが意識をここに留める。足の裏の皮膚が熱を帯び、指の付け根が床を捉える。捉えた瞬間、世界の向きが揃う。揃った向きに沿って、拳を出す。拳の速度に、観客の声が追い付いてこない。遅れた歓声が、ステージの上で甘く揺れる。
「ラスト入る」
悠真の低い声。息の隙間。声に纏う僅かな震えが、玲央の肘から指先へ電光のように走る。走った電光は、拳に宿る。ふたりの間に張られた透明な線が、一瞬だけ太くなる。太くなった線は、相手のリズムの中心へまっすぐ向かう。中心は、殴るためにある。殴られた中心は、別の中心を呼び寄せる。呼び寄せられた中心同士が、刹那に重なる。重なったとき、世界は静かになる。
――その静けさの直後だった。
スコアパネルが、点滅した。白から赤へ、赤から黒へ。警告の三角形が、パネルの隅に踊る。SonicEdge SYSTEM WARNING。観客のざわめきが一段音程を下げ、ざらりとした不安の粒が空気に混ざる。玲央は、半歩引いて構え直し、客席の上に浮かぶ数字を斜めに見る。波形が、一つ、消えた。青い帯。悠真の音を示すトラック。表示外へ落ちる。落ちた瞬間、スコアの合算が一気に痩せる。数字が細る。細った数字に、客席がざわめきを足す。
「おい、なんだ」
声は喉で生まれ、歯の裏に当たって弾んだ。悠真は一瞬だけ自分の手首のバンドを見る。ディスプレイは正常に点滅している。心拍も、呼吸も、波形も表示されている。表示は、ねじ曲げられていない。だが、会場のスコアからは消えた。消えたことが事実。事実は、音より重い。
審判の手が、なぜか落ち着きなく動く。イヤモニに手を添え、裏からの指示を聞いている。〈Noise Hunters〉は、戸惑いながらも攻めを少し緩める。緩んだ敵の隙間に入るのは簡単だ。だが、その勝ちは鈍い。鈍い勝ちは、喉に刺さる。呑み込めない。
スコアパネルが黒から白へ、白から赤へ。繰り返し。次の瞬間、審判の拡声器が唸る。
「技術的エラーにより、BRAVE BEATの敗北とする」
一拍、二拍、三拍。空気が凍る。凍った空気が、胸の中で割れる。割れ目から熱が噴き出す。
「ふざけんな」
喉が燃える。声はマイクより先に客席の皮膚を叩く。玲央は足で床を一度強く踏み、身体の中心を前へ押し出す。審判へ歩く。歩く速度は、走る直前の獣のそれ。周囲のスタッフが慌てた気配で手を伸ばす。伸ばされた手の指先に迷い。迷いは、押し返せる。押し返しながら、玲央は拡声器を掴む寸前で止まり、自分の声を丸ごと使って会場に投げる。
「俺たちは数字で戦ってねぇ」
胸骨の裏にある熱が、言葉の背骨になる。背骨の通った声は、天井の梁にぶつかって跳ね返り、客席の一番端の耳を震わせる。震えが連鎖する。連鎖の音は、拍手に似るが違う。まだ拍手にならない。まだ殴りたい。殴りたい気持ちが、喉の奥に籠る。
スタッフの手が肩に掛かる。振りほどく。振りほどいた肩の皮膚が擦れて熱を帯びる。熱は怒りの味だ。怒りに味があることを忘れていた。味を思い出すと、舌が疼く。疼く舌は、次の言葉に鋭さを与える。与えすぎると刃になる。刃は血を呼ぶ。血は嫌いじゃないが、今日の舞台に似合わない。
背中から、腕が回る。肩甲骨の内側に、冷たいものが触れる。抱き止める力。悠真。彼の腕は細いが、支点の見つけ方が正確だ。正確さは力になる。力で押し留められる。押し留められた胸の中の火が、彼の皮膚の温度で少し落ち着く。
「やめろ。今は、まだ」
耳のすぐ近くで、低く、短く。息が耳介をかすめる。皮膚が反射的に震える。震えが、怒りの波を一瞬だけ分散させる。
「なん」でだよ」
歯ぎしりはしない。歯をぶつける音は、無駄だ。無駄を嫌う訓練はしてきた。訓練の成果が、今ここで邪魔になる。邪魔な冷静が、熱を薄める。薄められた熱は、刃にならず、拳で残る。
客席の奥。薄い影の中に、藤堂颯真の横顔が見える。顎の線は以前より少し鋭く、目尻の皺は深く。腕を組み、何かを見透かすように、しかし安易に断じない視線。彼は知っている。知っている顔だ。だが、声を出さない。出さない態度が、より多くを語る。
場内のざわめきは収束しない。マイクのハウリングが一瞬尖り、審判が声を絞り出すように繰り返す。技術的エラー。判定は覆らない。覆らないことに、言葉は要らない。要らないからこそ、拳が疼く。
試合後。夕焼け。屋上。風は少し涼しく、照り返しの熱はまだ残る。手すりは冷え、掌に鉄の線が写る。玲央は、目の前の水平線の上にうっすらと雲を見やり、胃の奥の熱を唾で押し返す。喉は乾いているが、飲み物は要らない。乾きが、怒りの輪郭を保つ。
「全部、仕組まれてる」
夕日の白で洗われた声は、生のまま出る。やわらかい飾りをつけない。つける余裕もない。
「知ってた」
悠真は手すりに片肘を置き、目を細くする。まぶしさのせいだけじゃない。見たくないものの輪郭を、視界の端に追いやる手つき。追いやっても、消えない。消えないことを、彼は知っている。知っている顔をしている。
「だから戻ってきた」
「なんで言わなかった」
言葉は短い。短いから刺さる。刺さる場所は、あの夏から変わっていない。刺さったところが熱を持つ。その熱が目に上がる。上がった熱を、拳に落とす。拳が、風を切る。
頬に骨の硬さ。軽い。軽く当てた。なのに、世界が一瞬横へ傾く。一発。悠真の唇がかすかに切れ、血の味が空気に混ざる。混ざった鉄の匂いに、喉の奥の熱が一瞬甘くなり、吐き気が遠のく。
「言えるわけない」
返ってくる拳。頬を受ける。衝撃は短い。皮膚の下で火花が散り、耳の奥で小さな破裂音。殴り合いは会話だ。会話は殴り合いだ。どちらも、相手の中心を探るための手段でしかない。中心に触れたい。触れさせたくない。矛盾が、拳の速度を決める。
二発、三発。数えるのはやめる。数え始めると、拳は遅くなる。遅くなった拳は、後悔を生む。後悔は、未来のリズムを狂わせる。狂わせないために、いまを濃くする。濃くして殴る。殴られ、殴る。背中に夕風。頬に熱。口の中に塩。鉄。舌先に、少しだけ甘い味。甘味は筋肉を柔らかくする。柔らかくなった筋肉が、次の拳を滑らかにする。
拳が止まる。止めたのは、どちらか。たぶん、同時。肩で息をし、視線が絡む。絡んだ視線の中に、互いの過去と、いまの温度と、何も言えなかった二年間が薄く層になって見える。層を指で剥がせば、真ん中に何があるか。触れたい。触れてはいけない。触れないと、前に進まない。いや、進むために触れるものじゃない。確かめるために触れるものだ。
玲央は、先に手を伸ばした。拳ではない。掌。掌で、彼のシャツの胸元を掴む。布の感触が、汗で重い。引き寄せる。抵抗はない。ないのは、受け入れではない。選択。選んで、動かない。
額と額が、近づく。鼻先で彼の息が触れる。触れた息は、薄いミントと、血の鉄と、汗の塩。塩は甘い。甘いと感じる自分に驚かない。驚かない余裕が、いまはある。唇が、触れる。触れた瞬間、風が屋上の縁を駆け抜け、鉄の手すりが冷たい音を鳴らす。音は短い。短いのに、残る。
音が、消える。消えたのに、鳴っている。胸の中で。皮膚の下で。骨の中心で。数字にならない拍が、はっきりと輪郭を持って立ち上がる。立ち上がった拍が、二人の間で重なる。重なったところに、名前は要らない。名前がつくと、壊れる気がする。壊れたら、また作ればいいのかもしれない。けれど、いまは作り直したくない。
唇が離れる。離れ方は丁寧で、未練を残さない。未練は、別の場所に置く。置いた場所は、胸骨の裏。そこなら、誰にも見えない。
「……どうせ、俺たち、やることは同じ」
悠真の声は掠れ、しかし芯は折れていない。折れない芯は、無敵ではない。折れないために、いつも軋んでいる。それを知っている顔。
「真実を、舞台の上に引きずり出す」
「引きずるより、鳴らす」
「鳴らした音が真実なら、それでいい」
「数字が邪魔をしても」
「音で踏み潰す」
夕焼けの色は濃く、街の輪郭が黒くなっていく。遠く、港の方角で船の汽笛が鳴る。低い音。海の底で眠る巨体の呼吸。その低音に、胸の中の拍が重なる。重なり方は自然だ。自然すぎて、怖くない。怖くないことが少し怖い。怖さを、風が頬から奪う。
屋上の扉が開き、朱莉が立っている。目は赤くない。泣いていない。泣けない場所で泣かない技術。彼女も、訓練を重ねている。
「下、ざわついてる。早めに出た方がいい」
「わかった」
玲央は頷き、手すりから掌を離す。鉄の冷たさが皮膚に残り、少し遅れて熱に変わる。変わった熱が、背中を押す。押された背中で扉を潜る。階段の踊り場は、汗とコンクリートの匂いが混じり、天井の蛍光灯が薄い白を落とす。ひとつ降りるごとに、熱が脚から抜ける。抜けた熱は、視界の端で小さな明かりになる。
廊下に出ると、スタッフの声、ケーブルを巻く音、マイクのオンオフのクリック。日常の終わりと、夜の始まりの間の雑音。雑音は、音楽の母親だ。母親の手が、子を黙らせるときの優しさ。優しい雑音に身を預ける。
出口へ向かう途中、控室の扉が少し開いているのが見える。中から、低い声。SonicEdgeのスタッフらしき男が数人、タブレットの画面を覗き込んでいる。言葉が切れ切れに耳へ入る。回線。障害。無効化。意図的、という単語は使わない。使わない言葉ほど、濃い。
藤堂が廊下の端に背中を預け、腕を組んで立っていた。目が合う。彼は顎で小さく合図するだけで、近づいてはこない。近づけば、誰かに見られる。見られれば、匂いがつく。匂いは便利だが、今日は邪魔だ。
「――続きは、明日」
悠真が短く言う。明日のことは、明日の音で決める。決めるために、眠る。眠りは、武器の整備だ。
会場の外に出ると、夜の湿気が喉にまとわりつく。電柱に貼られたポスターが風に揺れ、角が少しめくれて音を立てる。自動販売機の冷気が足首を撫で、道路を渡る車のライトが白い帯を引きながら消える。遠くの海は見えないが、波の反響が建物の隙間から薄く聞こえる。音の層が重なり、街は一曲のように鳴る。
「なぁ」
歩きながら、玲央は声をかける。目線は前。横顔の存在を、視界の端の影と体温で捉える。
「どうしても、言えねぇのか」
「今は」
「今は、か」
「言うと、誰かが死ぬ可能性がある」
「誰だ」
「俺かもしれないし、お前かもしれない。朱莉かもしれない。藤堂かもしれない。あるいは、名前も知らない誰か」
「……」
沈黙は、重い。重いけれど、嫌いじゃない。重さが筋肉を強くする。強くなった筋肉は、次の殴りを美しくする。美しさは、強さと矛盾しない。
信号が赤に変わる。立ち止まる。風が背中から前へ回り込む。背中で温めた熱を、胸の前で吸い込む。不思議な循環。循環の輪が、ふたりを囲む。囲まれているのに、閉じ込められている感じがない。囲いは透明だ。透明な壁に、手を軽く当てる。割れない。割れないは、安心だ。
「明日、練習」
「朝から」
「遅れるな」
「お前が先に」
「考える」
「考えんな」
短い、いつものやりとり。いつものは、救いだ。救いの形は、日常にしかない。日常の中に、非日常を少しだけ混ぜる。混ぜる匙加減が、愛の技術。
角を曲がり、別れ際。悠真は、ほんの半歩だけ近づく。街灯の光が銀髪の中で小さく跳ねる。瞼の影が深くなり、口角がわずかに上がる。
「玲央」
「ん」
「俺は、逃げてない」
「知ってる」
「逃げたように見えたとしても」
「見えなくなった」
「よかった」
言葉の終わりには、句点がない。句点を打てば、そこが終わりになる。終わらせたくないところに、句点は似合わない。
夜が深くなる。街の音は少しずつ低く、大きく、丸くなる。丸くなった音の中で、胸の拍は一定を保ちつつ、どこかで微かに速度を上げる。上がるのは、怖さではない。期待だ。期待は、殴る前の笑いに似る。笑いに似ているのに、違う。違うもの同士が隣り合うところに、舞台が生まれる。
――翌朝、灰色がかった青空。Rhythm Arenaの裏口に、早すぎる涼しさ。荷捌き場に停まるトラックから機材が降ろされ、スタッフが黙々と運ぶ。彼らの足音は一定で、無駄がない。その一定の中に、わずかな乱れ。乱れは悪ではない。人である証拠。玲央はそれを心地よいと感じ、同時に不穏の種として胸の隅に置く。
体育館ではなく、今日は本会場での最終調整。ステージの板は厚く、跳ね返りは少し鈍い。鈍い反発は、拳に余計な力を要求する。余計な力は、怪我に繋がる。繋げないための工夫。足の置き方、膝の角度、腰の抜き方。細部を丁寧に運び、呼吸の隙間を深くする。深くなった隙間に、悠真の音が入る。
「さっきの停止、システム障害だってアナウンスされたよ」
朱莉が配線図のコピーを手に、眉を寄せずに言う。寄せないのは、表情筋の節約。無駄な動きは疲労を呼ぶ。彼女は疲れない。
「障害ね」
悠真が短く笑う。笑いというより、息の形を変えただけ。息の形が皮肉を帯びる。
「障害が都合よく、俺のトラックだけ消す」
「偶然って言葉は便利だな」
玲央はステージの端に立ち、客席の空間を眺める。昨日のざわめきの残渣がまだ浮かんでいる。見えないが、匂いで分かる。音は匂いを抱く。抱いた匂いが、床の隙間に残る。
「――今日は、やる」
「やる」
「数字がどう出ても」
「関係ない」
「関係ないなら、壊す必要すらない」
「鳴らすだけ」
二人の会話は短く、端的で、余白が広い。余白の広さは、信頼の広さ。広い余白に、朱莉が小さく笑みを落とす。落ちた笑みが床に溶け、空気の湿度が一度上がる。
午前の公開リハ。観客はまばら。だが、空席にも耳がある。空席は、拍手の準備をしている。準備の気配に励まされるのは少し滑稽で、少し愛おしい。愛おしさは力になる。力は、拳の速度を上げるだけじゃない。視線の柔らかさを増す。柔らかい視線は、相手の弱さを刺さずに撫でる。撫でることで、相手の強さを引き出す。
音を合わせ、ステップを刻み、最後の一撃の直前、会場上部のスクリーンが一瞬だけちらつく。デジャヴ。だが、今日は落ちない。落ちない代わりに、別の違和感。床の下に微かな振動。機械室からの共振だ。共振の周期が、ステージの固有振動に意図的に合わせられている。合わせたやつの、心拍の浅さ。浅い拍の匂い。
「感じる」
悠真が目だけで問う。玲央は顎で小さく返す。感じる。感じたなら、合わせない。合わせさせない。固有振動に逆位相の小さな踏み込み。一拍遅らせた呼吸。間をあけた拳。三つの手で、揺さぶりに抗う。抗うたび、装置の波は歪む。歪みが、向こう側の苛立ちを引きずり出す。苛立ちの音は低い。低いが、濁っている。濁りは汚れ。汚れは、戦いの燃料になる。
公開リハは滑らかに終わる。終わった瞬間、三嶋がステージ袖に来て、笑顔で短くお辞儀をする。笑顔の奥に薄い影。影に色がある。色は灰。灰は火が消えたあとの残滓。火は消えていない。消したふりをして、風を待っている。
「本番で、観客センサーの試験も入れます。盛り上がりを正確に可視化して、演出に活かすため」
「可視化」
玲央は言葉を反芻する。可視化されたものだけが現実ではない。不可視の層を切り落とせば、音は痩せる。痩せた音は、心を持たない。
「楽しみにしています」
悠真は短く、それ以上言わない。言わないことと、何もないことは違う。違いを分かるやつは、少ない。少ないからこそ、舞台が要る。
夕方。Rhythm Arena周辺の空気が熱を取り戻し、街灯がひとつ、またひとつと灯る。雲の切れ目から薄い宵の星が覗く。人の流れが濃くなり、場内の湿度が上がる。Tシャツにプリントされたロゴ、腕の同期バンド、光るアクセサリー。若い体温がホールに溜まる。体温は匂いとなって立ち上がり、天井の梁に沿って流れ、また降りる。循環。循環の輪の中心にステージ。
本番。照明が落ち、暗転。スモークが薄く流れ、レーザーが空中に細い線を描く。イントロのベースが、底から這い上がってくる。玲央の足は、階段を上る前のように軽い。軽いから、重く置ける。重く置くための軽さ。重心が腹の奥に集まり、呼吸が縦に伸びる。伸びきる前に、一歩、床へ。
踏む。返る。拳。観客の声。すべてが一拍ずつ遅れて追いかけてくる。追いかけてくるうねりの前に、また一歩。悠真の音が透明な檻を立て、玲央のステップの端をやさしく包む。包まれた端が、驚くほど自由。自由は、信頼の別名。
〈Noise Hunters〉は、昨日より速い。速さは焦りではなく、戦略。押し切る自信。自信の匂いは、少し甘い。甘い匂いは、舌に残る。残るから、対処できる。玲央は、ステップの端を意図的に崩し、あえて小さなミスを基点にする。ミスは浪費ではない。呼吸の穴。穴から、新しい風を吸う。吸った風は熱を運び、拳の内側を膨らませる。
ラストのキメ。拳が、空気の膜を割って深く入る。その瞬間、会場の上に浮かぶスコアパネルが、昨日と同じ色の変化を見せる。白、赤、黒。警告。観客のざわつき。デジャヴ。だけど違う。違うのは、胸の中の拍の柔らかさ。柔らかい拍は、怒りの刃物に布を巻く。布を巻いた刃は殺さない。切り離す。切り離すのは、恐れだ。
パネルの青帯が、また消える。悠真の音が、点数上では無効になる。だが、会場の空気は無効にならない。客席の皮膚は震えている。震えを数字は拾えない。拾えないなら、拾わせる。
「止めんな」
玲央は、拡声器へ手を伸ばさない。代わりに、拳を胸に当て、観客席へ向き直る。胸骨を叩く。ドン。会場に低い音が落ちる。ドン。二発目。ドンドン。三つ。観客が、無言で続く。四つ目は、勝手に鳴る。客席の手のひらが胸を叩く音が波となり、ステージへ押し寄せる。波の位相は揃い、数字より強い揺れを作る。スコアパネルの裏、観客センサーの数値が跳ね上がる。跳ね上がったばかりの数列に、オペブースの若いスタッフが目を見開く。驚きの音は小さいが、確かだ。
審判は困惑し、オペレーターは指示を待ち、三嶋は笑顔を崩さない。崩さない顔の奥で、こめかみの血管が薄く脈打つ。浅い拍。浅い拍は、薄い音。薄い音は、壊れる。
宣告が下りる前に、曲は終わる。終わりを自分たちで決める。決める権利は、舞台に立つ者にある。ある程度は。ある程度。残りは、奪うしかない。奪うなら、音で。
審判が口を開く。スピーカーの音量は控えめ。宣告は聞こえる。〈Noise Hunters〉の勝利。会場はざわめきを飲み込んだまま、吐き出さない。吐き出さない沈黙が、天井に薄い膜を作る。薄い膜は、鋭い音で裂ける。裂ける音を出す準備は、もう済んでいる。
舞台袖。スタッフが申し訳なさそうに視線を逸らす。逸らす視線は、罪悪感の形。罪のなさを主張するための動き。動きのぎこちなさが、逆に真実の匂いを濃くする。玲央は拳を握り、開き、汗を払う。汗は塩。塩は保存。今日の怒りを長持ちさせるための味。
控室に戻る途中、ドアの向こうの影が動く。開ける。覗く。誰もいない。鏡台の上に、古いメトロノームが置かれている。誰のものでもない。昔の大会で置き忘れられた備品か。それとも、誰かのメッセージ。振り子は止まっている。止まっている振り子に、指でそっと触れる。触れた瞬間、僅かに揺れる。揺れは誰にも見えないほど小さい。小さいのに、音がする。耳の奥で。心の奥で。
夕焼けの屋上に戻る。風は昼より冷え、鉄の手すりの温度が指から熱を奪う。奪われた熱は肩甲骨の間に戻り、震えに変わる。震えは、泣きに似るが泣きではない。泣きは、今日は要らない。
「――全部、仕組まれてる」
「知ってた」
「やっぱり、そうか」
「だから戻ってきた」
「言わなかったのは」
「言えば、壊れるものがあった」
「壊してでも、言うべきだった」
「その通りだ」
短い。短さの中に、二年分の重さがある。その重さを刻むには、拳では足りない。拳は、別のために使う。使い方を間違えると、失う。失いたくないものが、いま増えすぎた。
沈黙。沈黙は、風の音で満たされる。風の音は言葉に似る。似ているだけで、言葉ではない。言葉で届かない層に、届く。
玲央は、拳ではなく掌で、彼の胸元を掴む。額を少し傾け、距離を測る。測る行為は、殴り合いと同じだ。中心までの距離。届く角度。戻るための足場。全部、同じ。
唇が触れる。触れた瞬間、世界の輪郭がやわらぐ。やわらぎは、逃げではない。戦いのための休符。休符は、音楽の半分。休符のない音楽は、ただの騒音。
離れる。視線が絡む。絡んだ視線の中に、次の殴り方の設計図が浮かぶ。浮かんだ図面に、数字はない。線と、陰影と、余白。余白が広い。広い図面は、強い建物を立てられる。
「俺たちの音は、数字より強い」
「証明する」
「舞台の上で」
「舞台の外でも」
夜が本物になる。Rhythm Arenaのライトがすべて落ち、スタッフの笑い声が遠ざかる。街は別のリズムに変わる。深く、遅く、丸い拍。丸い拍に、胸の中の火は静かに答える。静かな火は、消えない。
――風が吹く。南から。夏の匂いをまだわずかに含み、過去の熱と未来の熱を一緒に運んでくる。頬を撫で、髪を揺らし、舌の上で塩を残す。塩は甘い。甘さを舌の端で確かめ、玲央は目を閉じる。耳は開いている。遠くの海。近くの街。すぐ横の呼吸。全部が重なり、ひとつの拍になる。
その拍は、名前を要らないまま、確かに鳴り続ける。
ホール名はリズム・アリーナ。湿った木材と鉄と、香水と汗が混ざった匂い。ステージ裏の通路にはケーブルが這い、黒いガムテープが小さな山脈を作っている。遠くでスタッフの合図が飛び交う。数字が並ぶ声。秒単位の段取り。数字の正確さは頼もしいが、頼りすぎると足が硬くなる。硬くなった足は、床の反応を取りこぼす。玲央は鼻の奥に刺激を集め、ゆっくり吐く。匂いが、神経の表面を磨く。
ベンチに腰掛け、足首をぐるりと回す。靴底のグリップが床のゴムに軽く吸い付く音。指先で汗を拭う。鏡はない。鏡はいらない。いま必要なのは、内側に貼った鏡の角度を正すこと。そこに映るのは、額に汗を光らせた少年でも、背伸びした大人でもない。ただの、拍。拍を刻む器官としての自分。そこへ、柔らかな影が落ちる。
「結ぶよ」
榊悠真が無言で膝を折り、玲央の手を取り、包帯の端を整える。巻き方は丁寧で、呼吸の邪魔をしない強さ。指が触れるたび、皮膚の上に薄い電気が走る。電気は熱に変わり、背骨を伝って胸骨の裏に集まる。集まった熱が、鼓動を一拍、押し上げる。押し上がった拍が、彼の指先の動きと同期する。やわらかな共鳴。言葉の要らない確認。
「緊張してる」
「してねぇよ。お前のせいでな」
口の端に乗る軽さは、ほんの飾りだ。実際には、胸の奥の拍が少しだけ速い。速さは、不安の速さじゃない。スタートラインに靴を置いた直後の、前に倒れ始めるあの瞬間の速さ。彼は結び目を指で押さえ、視線で問いかける。緩くないか。痛くないか。言葉にせずに尋ねる手つき。うなずく。うなずきは、彼の肩の奥の筋肉をほんの少しだけ緩める。
対戦相手は〈Noise Hunters〉。電子音を基調にした細かいフェイントと、足元のビートを乱すノイズの壁。かなり厄介な連中。だが、やりがいはある。乱されるほどに、芯の深さが測れる。測れた芯は、殴れる。
「――行こう」
扉が開く。照明の白が滑り込み、汗の膜が一瞬透ける。舞台袖に足を置いた瞬間、客席のざわめきが塊のままぶつかってきて、破れて霧になる。霧の微粒子が皮膚に貼り付き、温度が半度上がる。ライトマンの合図。スモークが薄く流れる。ビートのテスト。スネアが一度だけ鳴り、空気が跳ねる。
ステージへ。踏み出した足に、床が返す。返すタイミングが早すぎず遅すぎず、ちょうどいい。床の木の芯と、自分の足の骨の芯が、一瞬だけ触れ合って離れる。離れた余韻に、客席からの息が乗る。玲央は視線をまっすぐ前へ向ける。それだけで、胸の奥の火は形を整え、拳の中に収まる準備を始める。
アナウンスは短く、無駄がない。ルールの確認。センサーの校正。名前が呼ばれる。声の抑揚が、客席の一角で小さく上ずるのが聞こえる。期待が揺れる。揺れは栄養。栄養は、消化しすぎると眠くなる。眠くならない範囲で噛み砕く。
向かい側に〈Noise Hunters〉。黒いフード。低く構えた上体。足首に光る同期バンドのLEDが青く点滅している。視線が合う。挑発はない。油断もない。プロの顔。プロの顔は、殴りがいがある。
ビートが落ちる。最初の一拍は、床が沈む。二拍目で弾む。三拍目で空気が薄くなる。四拍目で息が増える。その四拍の間に、足が三本の線を描き、拳が二つの円を切る。円の中心に、悠真の音が入る。透明な枠が空中に立ち上がり、玲央のステップの縁を撫で、逸れそうな動きをわずかに押し返す。押し返し過ぎない。自由は奪わない。奪わない枠組みだけが、信頼に変わる。
〈Noise Hunters〉は、低いノイズを床から吹き上げる。足の裏が痺れるほどの波。痺れは恐怖に似るが違う。恐怖は縮こまる。痺れは感覚を研ぎ澄ます。玲央は、膝のばねで波をいなす。波の合間に拳を入れる。拳は、空気の皮膚を裂き、熱い血潮の代わりに残響だけを滲ませる。滲んだ残響に、客席の呼気が絡む。絡み方が滑らか。滑らかさは幸福の最小単位。
「いける」
視線の端に、悠真の口が小さく動く。音にしない言葉。口の動きだけで伝える短い合図。いける。その一文字が、骨髄に効く。いけるとは、殴れるということ。殴って届くということ。届いた先に、相手の核があるということ。
〈Noise Hunters〉の一人が、右足で速い三連を刻み、上半身で別の拍を乗せてくる。ずらし。ずらしは厄介だが、甘い。甘さは舌の両脇で痺れに変わる。玲央は、右のジャブを短く二度、リズムの隙間に差し込み、左のストレートを遅らせて落とす。落とす瞬間に、悠真のサウンド・バインドが薄い膜を敵の足首に掛ける。動きが半拍だけ鈍る。その半拍に、拳が刺さる。剣ではない。刺すのは、拍。刺さった拍は、相手の中で反響して、自分の方へ薄い返歌を返す。返歌に、笑いが混じる。楽しい。楽しいは、危険。危険は、音を太くする。
一気にラッシュを仕掛ける。ステップで前へ、斜めへ、また前へ。床の摩擦がほどよい抵抗を与え、脚の筋肉が芯から熱を出す。喉は乾かない。乾かないのは、水を飲んだからじゃない。呼吸がうまく働いているからだ。鼻から入れる空気に塩気が混じる。観客の汗と照明の熱と、ステージの古い木材の匂いが、舌の奥に薄く触れる。
「っ――」
〈Noise Hunters〉の二人目が、低い電子音の壁を張る。張られた壁は、感情を鈍らせる。鈍らされると、拳が重くなる。重くなった拳は、鈍器のように強いが、狙いが甘くなる。甘さを嫌って、玲央は一度引く。引く足裏に、床が優しく着いてくる。着いてきた床を踏み、真上へ跳ねる。空中で半回転。着地の瞬間に、悠真の音が真横から細い支えを差し入れる。支えが、足の震えを吸う。吸った震えは、彼の肩の奥で熱に変わる。その熱が、玲央の背中へ戻ってくる気がした。目が合う。瞬きの長さが、ほんのわずか短くなる。短い瞬きは、約束のしるし。
スコアパネルが、視界の隅でやわらかく変わる。数字はいい。だが、数字を見すぎると、音が細くなる。細くなった音は、相手に届かない。届かない拳は、美しいだけで役に立たない。役に立たない美しさは、嫌いだ。嫌いなら、壊す。壊すのは、相手ではない。自分の臆病だ。
後半。汗が目の周りに集まり、塩がまぶたの縁を薄く差す。差す痛みが意識をここに留める。足の裏の皮膚が熱を帯び、指の付け根が床を捉える。捉えた瞬間、世界の向きが揃う。揃った向きに沿って、拳を出す。拳の速度に、観客の声が追い付いてこない。遅れた歓声が、ステージの上で甘く揺れる。
「ラスト入る」
悠真の低い声。息の隙間。声に纏う僅かな震えが、玲央の肘から指先へ電光のように走る。走った電光は、拳に宿る。ふたりの間に張られた透明な線が、一瞬だけ太くなる。太くなった線は、相手のリズムの中心へまっすぐ向かう。中心は、殴るためにある。殴られた中心は、別の中心を呼び寄せる。呼び寄せられた中心同士が、刹那に重なる。重なったとき、世界は静かになる。
――その静けさの直後だった。
スコアパネルが、点滅した。白から赤へ、赤から黒へ。警告の三角形が、パネルの隅に踊る。SonicEdge SYSTEM WARNING。観客のざわめきが一段音程を下げ、ざらりとした不安の粒が空気に混ざる。玲央は、半歩引いて構え直し、客席の上に浮かぶ数字を斜めに見る。波形が、一つ、消えた。青い帯。悠真の音を示すトラック。表示外へ落ちる。落ちた瞬間、スコアの合算が一気に痩せる。数字が細る。細った数字に、客席がざわめきを足す。
「おい、なんだ」
声は喉で生まれ、歯の裏に当たって弾んだ。悠真は一瞬だけ自分の手首のバンドを見る。ディスプレイは正常に点滅している。心拍も、呼吸も、波形も表示されている。表示は、ねじ曲げられていない。だが、会場のスコアからは消えた。消えたことが事実。事実は、音より重い。
審判の手が、なぜか落ち着きなく動く。イヤモニに手を添え、裏からの指示を聞いている。〈Noise Hunters〉は、戸惑いながらも攻めを少し緩める。緩んだ敵の隙間に入るのは簡単だ。だが、その勝ちは鈍い。鈍い勝ちは、喉に刺さる。呑み込めない。
スコアパネルが黒から白へ、白から赤へ。繰り返し。次の瞬間、審判の拡声器が唸る。
「技術的エラーにより、BRAVE BEATの敗北とする」
一拍、二拍、三拍。空気が凍る。凍った空気が、胸の中で割れる。割れ目から熱が噴き出す。
「ふざけんな」
喉が燃える。声はマイクより先に客席の皮膚を叩く。玲央は足で床を一度強く踏み、身体の中心を前へ押し出す。審判へ歩く。歩く速度は、走る直前の獣のそれ。周囲のスタッフが慌てた気配で手を伸ばす。伸ばされた手の指先に迷い。迷いは、押し返せる。押し返しながら、玲央は拡声器を掴む寸前で止まり、自分の声を丸ごと使って会場に投げる。
「俺たちは数字で戦ってねぇ」
胸骨の裏にある熱が、言葉の背骨になる。背骨の通った声は、天井の梁にぶつかって跳ね返り、客席の一番端の耳を震わせる。震えが連鎖する。連鎖の音は、拍手に似るが違う。まだ拍手にならない。まだ殴りたい。殴りたい気持ちが、喉の奥に籠る。
スタッフの手が肩に掛かる。振りほどく。振りほどいた肩の皮膚が擦れて熱を帯びる。熱は怒りの味だ。怒りに味があることを忘れていた。味を思い出すと、舌が疼く。疼く舌は、次の言葉に鋭さを与える。与えすぎると刃になる。刃は血を呼ぶ。血は嫌いじゃないが、今日の舞台に似合わない。
背中から、腕が回る。肩甲骨の内側に、冷たいものが触れる。抱き止める力。悠真。彼の腕は細いが、支点の見つけ方が正確だ。正確さは力になる。力で押し留められる。押し留められた胸の中の火が、彼の皮膚の温度で少し落ち着く。
「やめろ。今は、まだ」
耳のすぐ近くで、低く、短く。息が耳介をかすめる。皮膚が反射的に震える。震えが、怒りの波を一瞬だけ分散させる。
「なん」でだよ」
歯ぎしりはしない。歯をぶつける音は、無駄だ。無駄を嫌う訓練はしてきた。訓練の成果が、今ここで邪魔になる。邪魔な冷静が、熱を薄める。薄められた熱は、刃にならず、拳で残る。
客席の奥。薄い影の中に、藤堂颯真の横顔が見える。顎の線は以前より少し鋭く、目尻の皺は深く。腕を組み、何かを見透かすように、しかし安易に断じない視線。彼は知っている。知っている顔だ。だが、声を出さない。出さない態度が、より多くを語る。
場内のざわめきは収束しない。マイクのハウリングが一瞬尖り、審判が声を絞り出すように繰り返す。技術的エラー。判定は覆らない。覆らないことに、言葉は要らない。要らないからこそ、拳が疼く。
試合後。夕焼け。屋上。風は少し涼しく、照り返しの熱はまだ残る。手すりは冷え、掌に鉄の線が写る。玲央は、目の前の水平線の上にうっすらと雲を見やり、胃の奥の熱を唾で押し返す。喉は乾いているが、飲み物は要らない。乾きが、怒りの輪郭を保つ。
「全部、仕組まれてる」
夕日の白で洗われた声は、生のまま出る。やわらかい飾りをつけない。つける余裕もない。
「知ってた」
悠真は手すりに片肘を置き、目を細くする。まぶしさのせいだけじゃない。見たくないものの輪郭を、視界の端に追いやる手つき。追いやっても、消えない。消えないことを、彼は知っている。知っている顔をしている。
「だから戻ってきた」
「なんで言わなかった」
言葉は短い。短いから刺さる。刺さる場所は、あの夏から変わっていない。刺さったところが熱を持つ。その熱が目に上がる。上がった熱を、拳に落とす。拳が、風を切る。
頬に骨の硬さ。軽い。軽く当てた。なのに、世界が一瞬横へ傾く。一発。悠真の唇がかすかに切れ、血の味が空気に混ざる。混ざった鉄の匂いに、喉の奥の熱が一瞬甘くなり、吐き気が遠のく。
「言えるわけない」
返ってくる拳。頬を受ける。衝撃は短い。皮膚の下で火花が散り、耳の奥で小さな破裂音。殴り合いは会話だ。会話は殴り合いだ。どちらも、相手の中心を探るための手段でしかない。中心に触れたい。触れさせたくない。矛盾が、拳の速度を決める。
二発、三発。数えるのはやめる。数え始めると、拳は遅くなる。遅くなった拳は、後悔を生む。後悔は、未来のリズムを狂わせる。狂わせないために、いまを濃くする。濃くして殴る。殴られ、殴る。背中に夕風。頬に熱。口の中に塩。鉄。舌先に、少しだけ甘い味。甘味は筋肉を柔らかくする。柔らかくなった筋肉が、次の拳を滑らかにする。
拳が止まる。止めたのは、どちらか。たぶん、同時。肩で息をし、視線が絡む。絡んだ視線の中に、互いの過去と、いまの温度と、何も言えなかった二年間が薄く層になって見える。層を指で剥がせば、真ん中に何があるか。触れたい。触れてはいけない。触れないと、前に進まない。いや、進むために触れるものじゃない。確かめるために触れるものだ。
玲央は、先に手を伸ばした。拳ではない。掌。掌で、彼のシャツの胸元を掴む。布の感触が、汗で重い。引き寄せる。抵抗はない。ないのは、受け入れではない。選択。選んで、動かない。
額と額が、近づく。鼻先で彼の息が触れる。触れた息は、薄いミントと、血の鉄と、汗の塩。塩は甘い。甘いと感じる自分に驚かない。驚かない余裕が、いまはある。唇が、触れる。触れた瞬間、風が屋上の縁を駆け抜け、鉄の手すりが冷たい音を鳴らす。音は短い。短いのに、残る。
音が、消える。消えたのに、鳴っている。胸の中で。皮膚の下で。骨の中心で。数字にならない拍が、はっきりと輪郭を持って立ち上がる。立ち上がった拍が、二人の間で重なる。重なったところに、名前は要らない。名前がつくと、壊れる気がする。壊れたら、また作ればいいのかもしれない。けれど、いまは作り直したくない。
唇が離れる。離れ方は丁寧で、未練を残さない。未練は、別の場所に置く。置いた場所は、胸骨の裏。そこなら、誰にも見えない。
「……どうせ、俺たち、やることは同じ」
悠真の声は掠れ、しかし芯は折れていない。折れない芯は、無敵ではない。折れないために、いつも軋んでいる。それを知っている顔。
「真実を、舞台の上に引きずり出す」
「引きずるより、鳴らす」
「鳴らした音が真実なら、それでいい」
「数字が邪魔をしても」
「音で踏み潰す」
夕焼けの色は濃く、街の輪郭が黒くなっていく。遠く、港の方角で船の汽笛が鳴る。低い音。海の底で眠る巨体の呼吸。その低音に、胸の中の拍が重なる。重なり方は自然だ。自然すぎて、怖くない。怖くないことが少し怖い。怖さを、風が頬から奪う。
屋上の扉が開き、朱莉が立っている。目は赤くない。泣いていない。泣けない場所で泣かない技術。彼女も、訓練を重ねている。
「下、ざわついてる。早めに出た方がいい」
「わかった」
玲央は頷き、手すりから掌を離す。鉄の冷たさが皮膚に残り、少し遅れて熱に変わる。変わった熱が、背中を押す。押された背中で扉を潜る。階段の踊り場は、汗とコンクリートの匂いが混じり、天井の蛍光灯が薄い白を落とす。ひとつ降りるごとに、熱が脚から抜ける。抜けた熱は、視界の端で小さな明かりになる。
廊下に出ると、スタッフの声、ケーブルを巻く音、マイクのオンオフのクリック。日常の終わりと、夜の始まりの間の雑音。雑音は、音楽の母親だ。母親の手が、子を黙らせるときの優しさ。優しい雑音に身を預ける。
出口へ向かう途中、控室の扉が少し開いているのが見える。中から、低い声。SonicEdgeのスタッフらしき男が数人、タブレットの画面を覗き込んでいる。言葉が切れ切れに耳へ入る。回線。障害。無効化。意図的、という単語は使わない。使わない言葉ほど、濃い。
藤堂が廊下の端に背中を預け、腕を組んで立っていた。目が合う。彼は顎で小さく合図するだけで、近づいてはこない。近づけば、誰かに見られる。見られれば、匂いがつく。匂いは便利だが、今日は邪魔だ。
「――続きは、明日」
悠真が短く言う。明日のことは、明日の音で決める。決めるために、眠る。眠りは、武器の整備だ。
会場の外に出ると、夜の湿気が喉にまとわりつく。電柱に貼られたポスターが風に揺れ、角が少しめくれて音を立てる。自動販売機の冷気が足首を撫で、道路を渡る車のライトが白い帯を引きながら消える。遠くの海は見えないが、波の反響が建物の隙間から薄く聞こえる。音の層が重なり、街は一曲のように鳴る。
「なぁ」
歩きながら、玲央は声をかける。目線は前。横顔の存在を、視界の端の影と体温で捉える。
「どうしても、言えねぇのか」
「今は」
「今は、か」
「言うと、誰かが死ぬ可能性がある」
「誰だ」
「俺かもしれないし、お前かもしれない。朱莉かもしれない。藤堂かもしれない。あるいは、名前も知らない誰か」
「……」
沈黙は、重い。重いけれど、嫌いじゃない。重さが筋肉を強くする。強くなった筋肉は、次の殴りを美しくする。美しさは、強さと矛盾しない。
信号が赤に変わる。立ち止まる。風が背中から前へ回り込む。背中で温めた熱を、胸の前で吸い込む。不思議な循環。循環の輪が、ふたりを囲む。囲まれているのに、閉じ込められている感じがない。囲いは透明だ。透明な壁に、手を軽く当てる。割れない。割れないは、安心だ。
「明日、練習」
「朝から」
「遅れるな」
「お前が先に」
「考える」
「考えんな」
短い、いつものやりとり。いつものは、救いだ。救いの形は、日常にしかない。日常の中に、非日常を少しだけ混ぜる。混ぜる匙加減が、愛の技術。
角を曲がり、別れ際。悠真は、ほんの半歩だけ近づく。街灯の光が銀髪の中で小さく跳ねる。瞼の影が深くなり、口角がわずかに上がる。
「玲央」
「ん」
「俺は、逃げてない」
「知ってる」
「逃げたように見えたとしても」
「見えなくなった」
「よかった」
言葉の終わりには、句点がない。句点を打てば、そこが終わりになる。終わらせたくないところに、句点は似合わない。
夜が深くなる。街の音は少しずつ低く、大きく、丸くなる。丸くなった音の中で、胸の拍は一定を保ちつつ、どこかで微かに速度を上げる。上がるのは、怖さではない。期待だ。期待は、殴る前の笑いに似る。笑いに似ているのに、違う。違うもの同士が隣り合うところに、舞台が生まれる。
――翌朝、灰色がかった青空。Rhythm Arenaの裏口に、早すぎる涼しさ。荷捌き場に停まるトラックから機材が降ろされ、スタッフが黙々と運ぶ。彼らの足音は一定で、無駄がない。その一定の中に、わずかな乱れ。乱れは悪ではない。人である証拠。玲央はそれを心地よいと感じ、同時に不穏の種として胸の隅に置く。
体育館ではなく、今日は本会場での最終調整。ステージの板は厚く、跳ね返りは少し鈍い。鈍い反発は、拳に余計な力を要求する。余計な力は、怪我に繋がる。繋げないための工夫。足の置き方、膝の角度、腰の抜き方。細部を丁寧に運び、呼吸の隙間を深くする。深くなった隙間に、悠真の音が入る。
「さっきの停止、システム障害だってアナウンスされたよ」
朱莉が配線図のコピーを手に、眉を寄せずに言う。寄せないのは、表情筋の節約。無駄な動きは疲労を呼ぶ。彼女は疲れない。
「障害ね」
悠真が短く笑う。笑いというより、息の形を変えただけ。息の形が皮肉を帯びる。
「障害が都合よく、俺のトラックだけ消す」
「偶然って言葉は便利だな」
玲央はステージの端に立ち、客席の空間を眺める。昨日のざわめきの残渣がまだ浮かんでいる。見えないが、匂いで分かる。音は匂いを抱く。抱いた匂いが、床の隙間に残る。
「――今日は、やる」
「やる」
「数字がどう出ても」
「関係ない」
「関係ないなら、壊す必要すらない」
「鳴らすだけ」
二人の会話は短く、端的で、余白が広い。余白の広さは、信頼の広さ。広い余白に、朱莉が小さく笑みを落とす。落ちた笑みが床に溶け、空気の湿度が一度上がる。
午前の公開リハ。観客はまばら。だが、空席にも耳がある。空席は、拍手の準備をしている。準備の気配に励まされるのは少し滑稽で、少し愛おしい。愛おしさは力になる。力は、拳の速度を上げるだけじゃない。視線の柔らかさを増す。柔らかい視線は、相手の弱さを刺さずに撫でる。撫でることで、相手の強さを引き出す。
音を合わせ、ステップを刻み、最後の一撃の直前、会場上部のスクリーンが一瞬だけちらつく。デジャヴ。だが、今日は落ちない。落ちない代わりに、別の違和感。床の下に微かな振動。機械室からの共振だ。共振の周期が、ステージの固有振動に意図的に合わせられている。合わせたやつの、心拍の浅さ。浅い拍の匂い。
「感じる」
悠真が目だけで問う。玲央は顎で小さく返す。感じる。感じたなら、合わせない。合わせさせない。固有振動に逆位相の小さな踏み込み。一拍遅らせた呼吸。間をあけた拳。三つの手で、揺さぶりに抗う。抗うたび、装置の波は歪む。歪みが、向こう側の苛立ちを引きずり出す。苛立ちの音は低い。低いが、濁っている。濁りは汚れ。汚れは、戦いの燃料になる。
公開リハは滑らかに終わる。終わった瞬間、三嶋がステージ袖に来て、笑顔で短くお辞儀をする。笑顔の奥に薄い影。影に色がある。色は灰。灰は火が消えたあとの残滓。火は消えていない。消したふりをして、風を待っている。
「本番で、観客センサーの試験も入れます。盛り上がりを正確に可視化して、演出に活かすため」
「可視化」
玲央は言葉を反芻する。可視化されたものだけが現実ではない。不可視の層を切り落とせば、音は痩せる。痩せた音は、心を持たない。
「楽しみにしています」
悠真は短く、それ以上言わない。言わないことと、何もないことは違う。違いを分かるやつは、少ない。少ないからこそ、舞台が要る。
夕方。Rhythm Arena周辺の空気が熱を取り戻し、街灯がひとつ、またひとつと灯る。雲の切れ目から薄い宵の星が覗く。人の流れが濃くなり、場内の湿度が上がる。Tシャツにプリントされたロゴ、腕の同期バンド、光るアクセサリー。若い体温がホールに溜まる。体温は匂いとなって立ち上がり、天井の梁に沿って流れ、また降りる。循環。循環の輪の中心にステージ。
本番。照明が落ち、暗転。スモークが薄く流れ、レーザーが空中に細い線を描く。イントロのベースが、底から這い上がってくる。玲央の足は、階段を上る前のように軽い。軽いから、重く置ける。重く置くための軽さ。重心が腹の奥に集まり、呼吸が縦に伸びる。伸びきる前に、一歩、床へ。
踏む。返る。拳。観客の声。すべてが一拍ずつ遅れて追いかけてくる。追いかけてくるうねりの前に、また一歩。悠真の音が透明な檻を立て、玲央のステップの端をやさしく包む。包まれた端が、驚くほど自由。自由は、信頼の別名。
〈Noise Hunters〉は、昨日より速い。速さは焦りではなく、戦略。押し切る自信。自信の匂いは、少し甘い。甘い匂いは、舌に残る。残るから、対処できる。玲央は、ステップの端を意図的に崩し、あえて小さなミスを基点にする。ミスは浪費ではない。呼吸の穴。穴から、新しい風を吸う。吸った風は熱を運び、拳の内側を膨らませる。
ラストのキメ。拳が、空気の膜を割って深く入る。その瞬間、会場の上に浮かぶスコアパネルが、昨日と同じ色の変化を見せる。白、赤、黒。警告。観客のざわつき。デジャヴ。だけど違う。違うのは、胸の中の拍の柔らかさ。柔らかい拍は、怒りの刃物に布を巻く。布を巻いた刃は殺さない。切り離す。切り離すのは、恐れだ。
パネルの青帯が、また消える。悠真の音が、点数上では無効になる。だが、会場の空気は無効にならない。客席の皮膚は震えている。震えを数字は拾えない。拾えないなら、拾わせる。
「止めんな」
玲央は、拡声器へ手を伸ばさない。代わりに、拳を胸に当て、観客席へ向き直る。胸骨を叩く。ドン。会場に低い音が落ちる。ドン。二発目。ドンドン。三つ。観客が、無言で続く。四つ目は、勝手に鳴る。客席の手のひらが胸を叩く音が波となり、ステージへ押し寄せる。波の位相は揃い、数字より強い揺れを作る。スコアパネルの裏、観客センサーの数値が跳ね上がる。跳ね上がったばかりの数列に、オペブースの若いスタッフが目を見開く。驚きの音は小さいが、確かだ。
審判は困惑し、オペレーターは指示を待ち、三嶋は笑顔を崩さない。崩さない顔の奥で、こめかみの血管が薄く脈打つ。浅い拍。浅い拍は、薄い音。薄い音は、壊れる。
宣告が下りる前に、曲は終わる。終わりを自分たちで決める。決める権利は、舞台に立つ者にある。ある程度は。ある程度。残りは、奪うしかない。奪うなら、音で。
審判が口を開く。スピーカーの音量は控えめ。宣告は聞こえる。〈Noise Hunters〉の勝利。会場はざわめきを飲み込んだまま、吐き出さない。吐き出さない沈黙が、天井に薄い膜を作る。薄い膜は、鋭い音で裂ける。裂ける音を出す準備は、もう済んでいる。
舞台袖。スタッフが申し訳なさそうに視線を逸らす。逸らす視線は、罪悪感の形。罪のなさを主張するための動き。動きのぎこちなさが、逆に真実の匂いを濃くする。玲央は拳を握り、開き、汗を払う。汗は塩。塩は保存。今日の怒りを長持ちさせるための味。
控室に戻る途中、ドアの向こうの影が動く。開ける。覗く。誰もいない。鏡台の上に、古いメトロノームが置かれている。誰のものでもない。昔の大会で置き忘れられた備品か。それとも、誰かのメッセージ。振り子は止まっている。止まっている振り子に、指でそっと触れる。触れた瞬間、僅かに揺れる。揺れは誰にも見えないほど小さい。小さいのに、音がする。耳の奥で。心の奥で。
夕焼けの屋上に戻る。風は昼より冷え、鉄の手すりの温度が指から熱を奪う。奪われた熱は肩甲骨の間に戻り、震えに変わる。震えは、泣きに似るが泣きではない。泣きは、今日は要らない。
「――全部、仕組まれてる」
「知ってた」
「やっぱり、そうか」
「だから戻ってきた」
「言わなかったのは」
「言えば、壊れるものがあった」
「壊してでも、言うべきだった」
「その通りだ」
短い。短さの中に、二年分の重さがある。その重さを刻むには、拳では足りない。拳は、別のために使う。使い方を間違えると、失う。失いたくないものが、いま増えすぎた。
沈黙。沈黙は、風の音で満たされる。風の音は言葉に似る。似ているだけで、言葉ではない。言葉で届かない層に、届く。
玲央は、拳ではなく掌で、彼の胸元を掴む。額を少し傾け、距離を測る。測る行為は、殴り合いと同じだ。中心までの距離。届く角度。戻るための足場。全部、同じ。
唇が触れる。触れた瞬間、世界の輪郭がやわらぐ。やわらぎは、逃げではない。戦いのための休符。休符は、音楽の半分。休符のない音楽は、ただの騒音。
離れる。視線が絡む。絡んだ視線の中に、次の殴り方の設計図が浮かぶ。浮かんだ図面に、数字はない。線と、陰影と、余白。余白が広い。広い図面は、強い建物を立てられる。
「俺たちの音は、数字より強い」
「証明する」
「舞台の上で」
「舞台の外でも」
夜が本物になる。Rhythm Arenaのライトがすべて落ち、スタッフの笑い声が遠ざかる。街は別のリズムに変わる。深く、遅く、丸い拍。丸い拍に、胸の中の火は静かに答える。静かな火は、消えない。
――風が吹く。南から。夏の匂いをまだわずかに含み、過去の熱と未来の熱を一緒に運んでくる。頬を撫で、髪を揺らし、舌の上で塩を残す。塩は甘い。甘さを舌の端で確かめ、玲央は目を閉じる。耳は開いている。遠くの海。近くの街。すぐ横の呼吸。全部が重なり、ひとつの拍になる。
その拍は、名前を要らないまま、確かに鳴り続ける。
0
あなたにおすすめの小説
青龍将軍の新婚生活
蒼井あざらし
BL
犬猿の仲だった青辰国と涼白国は長年の争いに終止符を打ち、友好を結ぶこととなった。その友好の証として、それぞれの国を代表する二人の将軍――青龍将軍と白虎将軍の婚姻話が持ち上がる。
武勇名高い二人の将軍の婚姻は政略結婚であることが火を見るより明らかで、国民の誰もが「国境沿いで睨み合いをしていた将軍同士の結婚など上手くいくはずがない」と心の中では思っていた。
そんな国民たちの心配と期待を背負い、青辰の青龍将軍・星燐は家族に高らかに宣言し母国を旅立った。
「私は……良き伴侶となり幸せな家庭を築いて参ります!」
幼少期から伴侶となる人に尽くしたいという願望を持っていた星燐の願いは叶うのか。
中華風政略結婚ラブコメ。
※他のサイトにも投稿しています。
何故よりにもよって恋愛ゲームの親友ルートに突入するのか
風
BL
平凡な学生だったはずの俺が転生したのは、恋愛ゲーム世界の“王子”という役割。
……けれど、攻略対象の女の子たちは次々に幸せを見つけて旅立ち、
気づけば残されたのは――幼馴染みであり、忠誠を誓った騎士アレスだけだった。
「僕は、あなたを守ると決めたのです」
いつも優しく、忠実で、完璧すぎるその親友。
けれど次第に、その視線が“友人”のそれではないことに気づき始め――?
身分差? 常識? そんなものは、もうどうでもいい。
“王子”である俺は、彼に恋をした。
だからこそ、全部受け止める。たとえ、世界がどう言おうとも。
これは転生者としての使命を終え、“ただの一人の少年”として生きると決めた王子と、
彼だけを見つめ続けた騎士の、
世界でいちばん優しくて、少しだけ不器用な、じれじれ純愛ファンタジー。
聖者の愛はお前だけのもの
いちみりヒビキ
BL
スパダリ聖者とツンデレ王子の王道イチャラブファンタジー。
<あらすじ>
ツンデレ王子”ユリウス”の元に、希少な男性聖者”レオンハルト”がやってきた。
ユリウスは、魔法が使えないレオンハルトを偽聖者と罵るが、心の中ではレオンハルトのことが気になって仕方ない。
意地悪なのにとても優しいレオンハルト。そして、圧倒的な拳の破壊力で、数々の難題を解決していく姿に、ユリウスは惹かれ、次第に心を許していく……。
全年齢対象。
孤毒の解毒薬
紫月ゆえ
BL
友人なし、家族仲悪、自分の居場所に疑問を感じてる大学生が、同大学に在籍する真逆の陽キャ学生に出会い、彼の止まっていた時が動き始める―。
中学時代の出来事から人に心を閉ざしてしまい、常に一線をひくようになってしまった西条雪。そんな彼に話しかけてきたのは、いつも周りに人がいる人気者のような、いわゆる陽キャだ。雪とは一生交わることのない人だと思っていたが、彼はどこか違うような…。
不思議にももっと話してみたいと、あわよくば友達になってみたいと思うようになるのだが―。
【登場人物】
西条雪:ぼっち学生。人と関わることに抵抗を抱いている。無自覚だが、容姿はかなり整っている。
白銀奏斗:勉学、容姿、人望を兼ね備えた人気者。柔らかく穏やかな雰囲気をまとう。
手紙
ドラマチカ
BL
忘れらない思い出。高校で知り合って親友になった益子と郡山。一年、二年と共に過ごし、いつの間にか郡山に恋心を抱いていた益子。カッコよく、優しい郡山と一緒にいればいるほど好きになっていく。きっと郡山も同じ気持ちなのだろうと感じながらも、告白をする勇気もなく日々が過ぎていく。
そうこうしているうちに三年になり、高校生活も終わりが見えてきた。ずっと一緒にいたいと思いながら気持ちを伝えることができない益子。そして、誰よりも益子を大切に想っている郡山。二人の想いは思い出とともに記憶の中に残り続けている……。
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
王様の恋
うりぼう
BL
「惚れ薬は手に入るか?」
突然王に言われた一言。
王は惚れ薬を使ってでも手に入れたい人間がいるらしい。
ずっと王を見つめてきた幼馴染の側近と王の話。
※エセ王国
※エセファンタジー
※惚れ薬
※異世界トリップ表現が少しあります
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる