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Silent Heat ―夜風がまだ熱い―
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夜の港は湿った匂いを増し、滑走路のような直線の埠頭を薄く照らすナトリウム灯が、橙の帯を水面へ落としている。足裏に残るコンクリートのざらつき。肺の内壁をこする潮の粒子。新堂玲央は走るたび、心臓の鼓動が肋骨の内側で硬い音を立てるのを聞く。耳の奥で鳴るのはサイレンの余韻か、それとも自分の血の流れか。とにかく、街はまだ熱い。追手の足音は遠くへ薄まり、代わりに風が鳴る。南から吹く、夏を手放しきれない風。汗は塩になり、首筋に残る。
肩に預けた体重がわずかに重い。銀の髪が風を切るたび、淡い光を拾う。榊悠真の呼吸は整おうとして、時々、短く跳ねる。走るリズムは揃っている。揃っているのに、どこかにかすかな乱れ。乱れの正体は、たぶんあのサイレンの高さだ。スタジオの非常灯。破れたガラス。朱莉を抱え上げた腕の重さ。頭のどこかで、それがまだ鳴っている。
「――こっち」
声は荒げない。足音の切り返しだけで合図を出す。埠頭の端を離れ、海沿いの歩道橋をくぐり抜ける。夜中のトラックが数台、低くうなるエンジン音を背後に置いていく。倉庫街の外れ、フェンスの切れ目、草むらの湿り。靴の縁に水が染みて冷たく、気持ちは目を覚ます。暗い空洞のようなアーチを抜けると、波打ち際に面した古びたホテルが黒く口を開けていた。看板のネオンは壊れ、棟の上部の窓は半分が割れている。夏の終わりに取り残された外光が、壁の塗料の剥げに不揃いの銀を落とす。
「入れる」
悠真が短く言う。鍵の抜かれた非常扉。ドアの蝶番は錆びているが、押し出せば抵抗は小さい。鼻腔を満たす埃の匂い。絨毯に沈む足音。薄暗いロビーには、観光地のパンフレットが色褪せて散り、観葉植物の枯れた枝が影だけになって立っている。レセプションの台はひっそりと濡れ、上に置かれたベルは、触れられなかった時間のぶんだけ鈍い。
電気は通っていない。悠真はスマホのライトを最低にし、壁沿いに歩く。かつての豪勢な階段は埃の膜で白く、足跡が音の代わりになる。二階へ。長い廊下は海に直行し、誰もいない客室のドアが規則正しく並ぶ。ナンバープレートのいくつかは落ち、床に薄い四角い影だけ残している。端の部屋の前で止まり、ドアノブに指をかける。鍵はかかっていない。ひんやりした空気の仕切りが頬を撫で、波音が窓越しに強くなる。
薄闇の中、ベッドは二つ。白いはずのシーツは灰を被り、それでも横たわる形を選べる程度には清潔だ。窓辺のカーテンは海風に押され、呼吸をするように膨らんでは縮む。ガラスは半分開き、塩の匂いが薄く流れ込む。都会のネオンと違う、潮の光。玲央は背負っていたリュックを床に落とし、息を吐いた。肺の底から、荒い波がひとつ出ていく。
「朱莉は――」
「藤堂のアジト。倉庫街の裏。さっき連絡入れた。搬送は成功、意識はまだ」
「そうか」
重たい石が胸の中で一つ落ち、底に触れて止まる。その代わりに、別の熱が広がる。守れたものと、まだ守れていないもの。守れた重さは静かだ。守れていない重さは、尖っている。
「水」
部屋の隅、小さな備え付けの流し台。蛇口は固く、回すと最初に茶色い水が吐き出され、すぐに透明に変わる。冷たさは残っている。プラカップに水を汲み、玲央は一つを悠真へ渡す。指が触れた。冷たく乾いた皮膚。その奥で、脈がわずかに震える。震えは走ってきたせいだけじゃない。ここに来るまでに飲み込んだ言葉の数。吐き出せない音の重さ。
「助かった、さっきの――」
「礼はあと。今は、息整えろ」
押し込むような口調じゃない。ただ、音の置き方が揺れない。揺れない音に体の力が少し抜ける。カップの水を一気に半分飲む。喉の内側に冷たい線が下りる。胃のあたりが静かに温度を取り戻していく。
靴を脱ぐ。床板の冷たさが足の裏に直接入る。薄暗い明かりでも見えるほど、手首の皮膚はうっすら赤い。バンドの下の黙った装置。その輪郭を思い出すだけで、皮膚がきゅっと縮む。悠真が視線で問う。痛むか。玲央は小さく首を振る。痛みはない。ただ、熱が残っている。
「氷……があれば楽なんだが」
「ここ、たぶん製氷機死んでる」
「ま、そりゃそうだ」
軽口を一つだけはさみ、玲央は流し台の上の小さな棚を開ける。古いタオル。洗剤の薄い匂いがまだ残る。蛇口の水で濡らし、手で絞る。布の繊維が手の平に食い込み、ひやりとした重さに変わる。ベッドの端に腰を下ろし、首筋に当てた。冷たさが皮膚の表面から中へ沈み、細い熱の筋がゆっくり折れていく。呼吸が深くなる。深い息の長さが、安心の長さに比例するなら、いまはすこしだけ救われている。
「貸せ」
悠真が手を伸ばす。玲央はタオルを渡す。彼は玲央の襟を少しだけ指先でずらし、喉の右側、鼓動が浅く触れる場所へそっと当てる。力は入れない。皮膚に添わせるだけ。布越しの水の冷たさよりも、指の体温の薄さの方が強く感じるのはどういう理屈だろう。冷たいのに、落ち着く。落ち着くのに、鼓動は速くなる。
「熱、少しある」
「平気だ」
「平気って単語、いちばん信用しない」
「じゃあ、なんて言えばいい」
「ゆっくり落ちてる、くらい」
「……ゆっくり落ちてる」
「それで良し」
タオルを当てる手は丁寧で、リズムを持つ。一定の間隔で位置をわずかにずらす。ずらすたび、布が新しい冷たさを皮膚に置く。その間隔に呼吸を合わせる。合わせた呼吸が胸骨の下で幅を増す。空気が入り、出る。その繰り返しの中で、体の端にこびりついていた緊張が少しずつ剥がれていく。
窓の外の波音は、時々、拍を落とす。落とした拍は、すぐに次の波に拾われる。拾われると、音はやわらかくなる。やわらかくなった音は、体の隙間に入ってくる。騒がしいのは嫌いじゃない。だが、今日はこのやわらかさがちょうどいい。
「玲央」
「ん」
「――あの夜のこと。二年前の、最後」
言葉の角が丸い。丸くしなければ口にできない種類の話。玲央は視線を窓へ流す。夜の海は黒く、遠くに点々と続く漁船の灯りが星みたいに並ぶ。風は頬の汗を乾かし、乾いた皮膚の下で火照りだけ残す。
「言えなかった。言えば、お前も巻き込まれるから。言わないで消えるのが、あのときの正解だと思った」
「正解は、どっかにあるのかよ」
「あると思っていた」
「……」
沈黙は重くない。海の音が、間の密度を調整してくれる。悠真がわずかに笑う。笑いの音は出ない。目尻が少し和らぐだけ。
「いまは、違う。正解なんてない。選ぶしかない。で、選んだ結果を、殴って整えるしかない」
「言うじゃねぇか」
「お前がそう教えた」
「教えてねぇよ」
「殴ってくれた」
「それは、教えるのか?」
「俺にはそう響いた」
玲央はふっと息を漏らす。笑っていない。笑うにはまだ、喉の奥が熱い。けれど、胸の真ん中に硬かった結び目は、少しだけほどけている。言葉はヒントになる。ヒントは拳に変わる。拳が出る前の距離で、全部やる。
「俺もさ。消えたお前に、言いたいことは山ほどあった」
「知ってる」
「知ってんのかよ」
「顔に出る」
「出してねぇ」
「出てる」
短い言葉の往復は、むしろ静けさを増す。静けさは、殴り合いの相棒だ。殴るためには、音が要る。音は静けさの上で鳴る。
「……朱莉」
玲央が名前を口にすると、空気がほんの少し湿る。誰かの名前は、呼べば温度を持つ。悠真もその温度を受け、目線を落とす。
「眠ってる。藤堂なら護れる。あいつは皮肉屋だけど、守る時はわかりやすい」
「あいつの“盾”は、本当に堅い」
「うん」
「俺ら、あいつに何度も助けられてんな」
「お返しに、でかいもの壊そう」
「でかいもの、か」
言い終わると同時に、どこかの部屋でガラスが小さく鳴る。風が回り込み、空いた隙間を叩いたのだろう。海鳥の声が二度、短く。夜のホテルは、人のいない体のようだ。大きな器官が眠り、局所だけが微かに呼吸している。
「身体は?」
「平気」
「またそれ」
「……平気“にしてる”。と言えば?」
「まだ足りない」
「じゃあ、平気って言わねぇ」
「ならいい」
やりとりはそれで止まり、ふたりの間を波音が通る。窓辺のカーテンがふくらみ、ふくらんだ布の影が床に柔らかい山を作る。玲央はそこに視線を落とし、言葉の隙間を埋めない。埋めないでいると、別のものが浮いてくる。形にならなかった感情。沈黙の手触り。こぼれていく熱の質感。
「……なぁ、悠真」
「うん」
「お前の手、冷たいな」
「お前が熱い」
「そうか」
「うん」
「――怖くねぇのか。俺の、あれ。暴れたら」
暴れる、の一語に、自分の拳の中に棲む赤い波を思い出す。あれに飲まれる感覚は、形容しがたい。体の各部が別々の拍で鳴り、それらが突然ひとつに揃ってはぜる。一瞬の無敵と、次の瞬間の空虚。愛しいものを壊しかけた硝子の音。どれも、喉の奥に棲んでいる。
「怖いよ」
即答だった。優しさで間を置かない。置かないから嘘がない。
「でも、それより、お前がひとりで抱える方が怖い」
「……」
「だから触る。熱いの、分けてもらう。冷たいの、渡す」
「変な理屈だな」
「理屈じゃない。やり方」
手はまだ首筋のあたりにある。濡れたタオル越しの圧は軽い。軽いのに、内側の火がそれに寄っていく。寄り方は、相手の呼吸に似る。似るから落ち着く。落ち着くから、次の言葉が出る。
「なぁ、あの時、なんで消えた?」
やっと、真正面から聞く。二年前の決勝。あの最後の視線。会場の熱の中で、笑って、消えた背中。追いかけようとした足を止めたのは、観客の波か、自分の臆病か。どちらでもいい。あの瞬間、言葉は交わされなかった。だから、今必要だ。
「守りたかった」
「誰を」
「お前を。たぶん、それ以外に、言葉はない」
「守るために、黙ったのか」
「うん」
「それで、守れたか?」
「守れなかった」
静かな敗北宣言。自分に向けたものだ。玲央は息を吐く。吐きながら、身体のどこかがやわらかく崩れる。責めるために言ったんじゃない。確かめるため。確かめて、持ち直すため。
「だったらさ。もう離れんな。戦うなら、一緒に」
視線が絡む。絡み方は、拳の重なりに似ている。拳同士が当たる直前の、迷いの薄い角度。そこを選べるかどうかで、殴りの質は変わる。選ぶのは、いま。
「約束する」
言葉は短い。短い分、重い。重さは、海の湿気でさらに増す。増した言葉が、胸骨の裏に沈む。沈んだ場所は熱い。熱さが消えないのが、救いだ。
窓の外で、波がひとつ高く砕ける。風の向きがほんの少し変わる。南から来た熱が、頬の皮膚を撫で、乾いた塩をもう一度溶かす。部屋の隅、古いランプを見つける。電気は来ていない。引き出しには小さなロウソクが数本と、使いかけのマッチ。火を灯ける。白い芯が一瞬黒くなり、次いで小さな炎が立ち上がる。灯りは揺れ、ふたりの影を重ねる。影は大げさに伸び、壁の剥げを柔らかく覆う。
「……眠れそうか」
「分からん」
「じゃあ、寝る“ふり”だけでも」
「ふり、か」
「眠らない夜は、身体が壊れる」
「壊すのは舞台だけでいい」
「そう」
ベッドに背中を落とす。スプリングは死にかけているが、体重を預ければ最低限の反発を返す。枕は硬い。硬い枕に後頭部を置くと、耳に波音が近くなる。交互に入る高低、微かな鈴のような響き。窓の隙間から入る風が、ロウソクの火を少し揺らす。揺れは落ち着く。落ち着く揺れは、瞼に重みを乗せる。
ほんの短い眠りが訪れ、すぐに去る。身体は眠りたいのに、心は警戒を解かない。首筋の冷たさが残っていて、それが生き延びるための合図のように感じる。横で、呼吸が規則正しく上下している。悠真の息は深く、途中で引っかからない。眠っているのか、目を閉じているだけか、分からない。分からなくていい。隣で呼吸があることが、もう十分な情報だ。
――窓の外、波の比率が変わる。潮が満ちている。砂利の擦れる音が少し増える。どこかで金属がきしむ。遠くでバイクの音。夜の層に、微細な音が幾つも混ざる。すべてがこちらに届くわけではないが、届くぶんだけで充分に世界は濃い。
「なぁ、玲央」
目を閉じたまま、小さな声。寝言ではない。寝言は自分の耳を選ばない。これは、選んでいる。
「ん」
「お前といると、すぐ暑くなる」
「暑苦しいってことか」
「違う」
「違うのか」
「……生きてる感じが、うるさい」
「褒めてんのかそれ」
「うん」
「そっか」
ふたりは、静かに笑う。笑いは声にならない。肩の筋肉が少しゆるむだけ。笑いの波形は薄く、けれど持続する。胸の真ん中で揺れて、壁のひびに吸い込まれる。炎が小さくなり、もう一度強くなる。
「お前が消えた二年、俺は――」
言いかけて、言葉を飲む。飲み込んだものが喉の奥で重くなる。重さは嫌いじゃない。重さがあると、殴る場所を選びやすい。
「俺は、舞台に戻れなかった。嘘つきになりそうで」
「嘘」
「うん。殴り合いが好きで、音で勝負するのが好きで、それを全部お前に見せてきたのに、お前がいない舞台でそれをやるのが、嘘みたいで」
「……ごめん」
「謝るな」
「ごめん」
「だから、謝るなって」
言いながら、拳が布団の上で小さく握られる。握った拳の中に、数え切れない拍の欠片がある。拾い上げれば切れるだろう。切れてもいい。血の味は、まだ覚えている。
「戻ってきたのは、勝負のためだ」
「うん」
「で、俺の本音は、勝負“だけ”じゃない」
「知ってる」
「知ってんのかよ」
「顔に出る」
「だから、それやめろ」
笑いが波になって、床の傾きに沿ってゆっくり広がる。笑いが消えると、静けさが深くなる。深くなった静けさの底で、心臓が一定に鳴る。一定の拍は、よく出来たメトロノームのようだ。だが、目盛りはついていない。測るためじゃなく、生きるために鳴っている。
短い眠りがいくつか重なり、外の色がほんのわずか薄くなる。夜と朝の境目の匂い。湿度が一段落ち、風が水の匂いにアスファルトの粉を混ぜる。カーテンの裾が床に触れ、布の繊維が軽く擦れる。遠くで一台、始発のトラックがブレーキを鳴らす。ホテルの外壁がわずかに冷え、空気が肌に静電気のように貼り付く。
玲央は目を開ける。眠気は重くない。必要なだけ眠った。体の奥に、細い芯が立っている。芯は赤くない。橙だ。ゆっくり燃える色。燃えるのを急がない色。
隣を見る。悠真は仰向けのまま、目を閉じている。息は深い。目の下の陰は薄く、顎の線は昨日より柔らかい。彼の胸が上下するたび、シーツの皺がやわらかく移動する。音楽の中で、休符が一番好きだと言っていた彼の顔だ。沈黙に意味があることを、彼はよく知っている。
身体を起こし、窓まで歩く。朝の海は色を取り戻し始め、遠くの水平線は灰色から薄い青に変わる途中。砂浜には誰もいない。波打ち際に流れ着いた木片が一本、濡れて重そうに寝そべる。足を乗せたら簡単に折れそうな細さ。折らないでおく。折らない選択が今日の最初の殴りだ。
蛇口で水を出し、顔を洗う。冷たさが頬の皮膚をきゅっと縮め、目を覚ます。タオルを絞り、首の後ろを拭う。昨夜のロウソクは短くなり、芯は黒い粒になっている。窓から差し込む光が、床板の埃を浮かび上がらせる。埃は小さな星みたいに、ゆっくり落ちる。指を差し入れると、指先でひとつだけ踊り、また落ちる。
ベッドが軋む。悠真が起きる。目を開けるまでに、数秒。目覚めの波は浅い。起き上がると、背伸びをして肩を鳴らす。小さな音が、部屋の角で跳ねて消える。
「おはよう」
「おはよう」
短い挨拶の間に、朝の冷気がふたりの間を通り抜ける。窓の外、海面が薄い銀を返す。鳥の鳴き声がひとつ。生きている。こんな簡単な指標で、十分だ。
「――朱莉の様子」
「藤堂から、まだ連絡はない。昼までに一度、見に行く」
「行くのは俺だ。お前はここで休め」
「冗談だろ」
「本気」
「お前だけで行くのは、俺が嫌だ」
即答。拒絶ではない。選択。玲央は肩をすくめ、薄く笑う。
「分かった。じゃあ二手に分かれない。三人で動く。藤堂とも合流する」
「それがいい」
「休むのは、ここで移動の前だけだ」
「了解」
会話は短い。短い会話は、迷いを少なくする。迷いが少ないと、体が軽い。軽い体は、殴るときに狙いがぶれない。
ホテルの外に出る前、もう一度、部屋を見回す。ロウソクの火の痕。床の足跡。濡れたタオル。窓の塩の輪。ここで過ごした夜は、ひどく静かだった。静かだが、何もなかったわけじゃない。むしろ、たくさんあった。体の温度。音の交わし方。沈黙の持ち方。どれも、戦いの武器だ。
「行こう」
「行こう」
ドアを開ける。廊下の空気は夜より軽く、床板の軋みも小さい。階段を降り、ロビーを抜ける。レセプションのベルに触れない。鳴らされたくない音は、この世にいくつかある。潮の匂いが強くなり、外の光が目に刺さらない程度に白い。ホテルの扉を押すと、風が一度だけ頬を叩く。叩かれた皮膚の下で、血が流れる音がする。
海沿いの遊歩道を歩く。足音は軽く、しかし止まらない。釣りをしている老人がひとり、こちらをちらとも見ない。犬を散歩する少年が遠くに見え、犬は鼻を鳴らして足元の匂いに忙しい。日向シティは、何事もなかった顔で朝を始める。何事もあったくせに、何事もなかった顔をする。都市は擬態を覚えた生き物だ。その皮が、今日は薄く見える。
途中の売店はまだ閉まっている。自販機は働いている。水を二本。コインが落ちる音。缶ではなく、ペットボトルの軽い感触。キャップのねじ山が指に絡み、回転の摩擦が小さな音になる。一本を悠真に押しやる。彼は受け取り、口をつける。喉仏が上下し、首筋の血管が小さく脈打つ。それを見ると、安心する。生きている証拠は、まっすぐだ。
「玲央」
「ん」
「今日もたぶん、熱い」
「知ってる」
「俺の音は、お前に合わせる」
「いつもだろ」
「うん。いつも」
歩幅がそろう。そろった足音が、舗装の目地の上で小さな等間隔の音符になる。等間隔は美しいが、時々、外す。外し方を知っていると、音が自由になる。自由になった音は、殴りを強くする。強くなれば、壊す先を選べる。
倉庫街の角で曲がる。藤堂のアジトは、看板も表札もない。錆びたシャッター。片隅にだけ小さな鈴。鈴は鳴らさない。扉はロックされているが、玲央がノックすると、中から短い規則で叩き返す音がして、重たい鍵の音が三度鳴る。扉が開き、藤堂が顔を出す。眠っていない眼だが、濁っていない。
「おはようさん」
「おはよう」
「朱莉は?」
「奥で寝てる。体温は落ち着いた。脳波も乱れてねぇ」
「見てもいいか」
「静かに」
薄暗い倉庫の片隅。簡易ベッド。朱莉は横たわり、額に冷却ジェルが貼られている。呼吸は穏やかで、指先は静か。まつ毛が微かに震え、夢の底で誰かの名前を呼んでいるみたいに、唇が少しだけ動く。玲央はベッド脇に膝をつき、声を出さない。手を握らない。触れない距離がある。触れなければ守れる距離もある。
「すぐ目を覚ますさ」
藤堂の声は低く、肩の力を抜く配合を知っている。悠真が短く頷く。倉庫の高い天井に換気扇の低い音が回り、金属の匂いが薄く漂う。
「――で、これからだ」
藤堂は折り畳みのテーブルに広げた地図を指で叩く。SONIC DOMEまでの導線。裏の入り口。保守のシャフト。警備の巡回。昨夜の逃走で得た薄い隙。隙は、ある。あるが、刃は細い。
「行く前に決めとけ。燃やす熱と、温める熱は同じじゃない。混ぜると、壊す対象を間違える」
「分かってる」
「分かってない顔だ」
「またそれ」
「お前にだけは言う権利がある」
悠真がふっと笑う。笑いは短く、すぐ真顔に戻る。戻った顔には、昨夜より迷いが少ない。
「昨日の、海風。あれが、まだ残ってる」
玲央は自分の胸に指を当てる。指の先が骨に触れる。骨の向こうで、橙の火がゆっくり回る。回る速度は自分で決める。決められる。その実感が、体を軽くする。
「連れて行かれそうになっても、今度は行かせねぇ」
「それ、俺の台詞だ」
「なら、二人とも言っとけ」
藤堂が鼻で笑い、テーブルの上の黒い布袋を押し出す。中身は小さな遮断用のシール、簡易の耳栓、薄い防護布。使い方は短く。短い説明は体に早く入る。長い説明は足を重くする。
「朱莉が起きたら、俺がここを離れる。お前らは――」
「分かってる」
「舞台に戻る。殴る準備だけしろ」
倉庫を出る頃、日差しは斜めに傾き始めていた。昼の熱はいつの間にか薄まり、風の湿り気は残っている。まだ熱い。夜風になる前の、曖昧な時間。砂浜の砂は日中の熱を少しだけ保持し、靴底を通して皮膚の薄いところへ伝える。
ホテルへ戻る足は、行きより軽い。覚悟という名の筋肉が、少しついたのだろう。ホテルのドアを開ける。乾いた木の匂い。ロビーの影。階段を上がる。部屋に入る。窓は開けたまま。潮の匂い。ロウソクの小さな煤。すべてが、今朝の続き。続きがあることが救いだ。
「――なぁ、玲央」
「ん」
「もう離れない」
「おう」
「もう黙らない」
「おう」
「もう、勝負だけじゃないって、舞台の上で言う」
「それは、殴りじゃ言えねぇな」
「だから、音で」
「じゃあ俺は、拳で相槌」
「うん」
会話はそこで途切れる。途切れても、伝わるものは多い。多すぎるくらいだ。窓から南風。まだ熱い。まだ夏は完全には去らない。夜が来る。波は拍を変える。灯りが点く。街が別の音階に移る。舞台は向こうにある。拳はここにある。音は胸の中にある。ふたりはそれを確かめるように、手を重ねる。手の重さは軽い。軽いのに、底がある。底のある軽さは、信頼という名の質量を持つ。
静かな夜が始まる。
夜風は、まだ熱い。
それはたぶん、ここに置いていった誰かの鼓動が、まだ消えていないから。
そして、ふたりがいま重ねた拍が、新しい熱になって、この部屋の空気に混ざったから。
灯りを落とす。
余韻だけが、壁に、床に、呼吸に、残る。
決着の言葉はいらない。
必要なのは、次に鳴らす一拍。
それだけだ。
肩に預けた体重がわずかに重い。銀の髪が風を切るたび、淡い光を拾う。榊悠真の呼吸は整おうとして、時々、短く跳ねる。走るリズムは揃っている。揃っているのに、どこかにかすかな乱れ。乱れの正体は、たぶんあのサイレンの高さだ。スタジオの非常灯。破れたガラス。朱莉を抱え上げた腕の重さ。頭のどこかで、それがまだ鳴っている。
「――こっち」
声は荒げない。足音の切り返しだけで合図を出す。埠頭の端を離れ、海沿いの歩道橋をくぐり抜ける。夜中のトラックが数台、低くうなるエンジン音を背後に置いていく。倉庫街の外れ、フェンスの切れ目、草むらの湿り。靴の縁に水が染みて冷たく、気持ちは目を覚ます。暗い空洞のようなアーチを抜けると、波打ち際に面した古びたホテルが黒く口を開けていた。看板のネオンは壊れ、棟の上部の窓は半分が割れている。夏の終わりに取り残された外光が、壁の塗料の剥げに不揃いの銀を落とす。
「入れる」
悠真が短く言う。鍵の抜かれた非常扉。ドアの蝶番は錆びているが、押し出せば抵抗は小さい。鼻腔を満たす埃の匂い。絨毯に沈む足音。薄暗いロビーには、観光地のパンフレットが色褪せて散り、観葉植物の枯れた枝が影だけになって立っている。レセプションの台はひっそりと濡れ、上に置かれたベルは、触れられなかった時間のぶんだけ鈍い。
電気は通っていない。悠真はスマホのライトを最低にし、壁沿いに歩く。かつての豪勢な階段は埃の膜で白く、足跡が音の代わりになる。二階へ。長い廊下は海に直行し、誰もいない客室のドアが規則正しく並ぶ。ナンバープレートのいくつかは落ち、床に薄い四角い影だけ残している。端の部屋の前で止まり、ドアノブに指をかける。鍵はかかっていない。ひんやりした空気の仕切りが頬を撫で、波音が窓越しに強くなる。
薄闇の中、ベッドは二つ。白いはずのシーツは灰を被り、それでも横たわる形を選べる程度には清潔だ。窓辺のカーテンは海風に押され、呼吸をするように膨らんでは縮む。ガラスは半分開き、塩の匂いが薄く流れ込む。都会のネオンと違う、潮の光。玲央は背負っていたリュックを床に落とし、息を吐いた。肺の底から、荒い波がひとつ出ていく。
「朱莉は――」
「藤堂のアジト。倉庫街の裏。さっき連絡入れた。搬送は成功、意識はまだ」
「そうか」
重たい石が胸の中で一つ落ち、底に触れて止まる。その代わりに、別の熱が広がる。守れたものと、まだ守れていないもの。守れた重さは静かだ。守れていない重さは、尖っている。
「水」
部屋の隅、小さな備え付けの流し台。蛇口は固く、回すと最初に茶色い水が吐き出され、すぐに透明に変わる。冷たさは残っている。プラカップに水を汲み、玲央は一つを悠真へ渡す。指が触れた。冷たく乾いた皮膚。その奥で、脈がわずかに震える。震えは走ってきたせいだけじゃない。ここに来るまでに飲み込んだ言葉の数。吐き出せない音の重さ。
「助かった、さっきの――」
「礼はあと。今は、息整えろ」
押し込むような口調じゃない。ただ、音の置き方が揺れない。揺れない音に体の力が少し抜ける。カップの水を一気に半分飲む。喉の内側に冷たい線が下りる。胃のあたりが静かに温度を取り戻していく。
靴を脱ぐ。床板の冷たさが足の裏に直接入る。薄暗い明かりでも見えるほど、手首の皮膚はうっすら赤い。バンドの下の黙った装置。その輪郭を思い出すだけで、皮膚がきゅっと縮む。悠真が視線で問う。痛むか。玲央は小さく首を振る。痛みはない。ただ、熱が残っている。
「氷……があれば楽なんだが」
「ここ、たぶん製氷機死んでる」
「ま、そりゃそうだ」
軽口を一つだけはさみ、玲央は流し台の上の小さな棚を開ける。古いタオル。洗剤の薄い匂いがまだ残る。蛇口の水で濡らし、手で絞る。布の繊維が手の平に食い込み、ひやりとした重さに変わる。ベッドの端に腰を下ろし、首筋に当てた。冷たさが皮膚の表面から中へ沈み、細い熱の筋がゆっくり折れていく。呼吸が深くなる。深い息の長さが、安心の長さに比例するなら、いまはすこしだけ救われている。
「貸せ」
悠真が手を伸ばす。玲央はタオルを渡す。彼は玲央の襟を少しだけ指先でずらし、喉の右側、鼓動が浅く触れる場所へそっと当てる。力は入れない。皮膚に添わせるだけ。布越しの水の冷たさよりも、指の体温の薄さの方が強く感じるのはどういう理屈だろう。冷たいのに、落ち着く。落ち着くのに、鼓動は速くなる。
「熱、少しある」
「平気だ」
「平気って単語、いちばん信用しない」
「じゃあ、なんて言えばいい」
「ゆっくり落ちてる、くらい」
「……ゆっくり落ちてる」
「それで良し」
タオルを当てる手は丁寧で、リズムを持つ。一定の間隔で位置をわずかにずらす。ずらすたび、布が新しい冷たさを皮膚に置く。その間隔に呼吸を合わせる。合わせた呼吸が胸骨の下で幅を増す。空気が入り、出る。その繰り返しの中で、体の端にこびりついていた緊張が少しずつ剥がれていく。
窓の外の波音は、時々、拍を落とす。落とした拍は、すぐに次の波に拾われる。拾われると、音はやわらかくなる。やわらかくなった音は、体の隙間に入ってくる。騒がしいのは嫌いじゃない。だが、今日はこのやわらかさがちょうどいい。
「玲央」
「ん」
「――あの夜のこと。二年前の、最後」
言葉の角が丸い。丸くしなければ口にできない種類の話。玲央は視線を窓へ流す。夜の海は黒く、遠くに点々と続く漁船の灯りが星みたいに並ぶ。風は頬の汗を乾かし、乾いた皮膚の下で火照りだけ残す。
「言えなかった。言えば、お前も巻き込まれるから。言わないで消えるのが、あのときの正解だと思った」
「正解は、どっかにあるのかよ」
「あると思っていた」
「……」
沈黙は重くない。海の音が、間の密度を調整してくれる。悠真がわずかに笑う。笑いの音は出ない。目尻が少し和らぐだけ。
「いまは、違う。正解なんてない。選ぶしかない。で、選んだ結果を、殴って整えるしかない」
「言うじゃねぇか」
「お前がそう教えた」
「教えてねぇよ」
「殴ってくれた」
「それは、教えるのか?」
「俺にはそう響いた」
玲央はふっと息を漏らす。笑っていない。笑うにはまだ、喉の奥が熱い。けれど、胸の真ん中に硬かった結び目は、少しだけほどけている。言葉はヒントになる。ヒントは拳に変わる。拳が出る前の距離で、全部やる。
「俺もさ。消えたお前に、言いたいことは山ほどあった」
「知ってる」
「知ってんのかよ」
「顔に出る」
「出してねぇ」
「出てる」
短い言葉の往復は、むしろ静けさを増す。静けさは、殴り合いの相棒だ。殴るためには、音が要る。音は静けさの上で鳴る。
「……朱莉」
玲央が名前を口にすると、空気がほんの少し湿る。誰かの名前は、呼べば温度を持つ。悠真もその温度を受け、目線を落とす。
「眠ってる。藤堂なら護れる。あいつは皮肉屋だけど、守る時はわかりやすい」
「あいつの“盾”は、本当に堅い」
「うん」
「俺ら、あいつに何度も助けられてんな」
「お返しに、でかいもの壊そう」
「でかいもの、か」
言い終わると同時に、どこかの部屋でガラスが小さく鳴る。風が回り込み、空いた隙間を叩いたのだろう。海鳥の声が二度、短く。夜のホテルは、人のいない体のようだ。大きな器官が眠り、局所だけが微かに呼吸している。
「身体は?」
「平気」
「またそれ」
「……平気“にしてる”。と言えば?」
「まだ足りない」
「じゃあ、平気って言わねぇ」
「ならいい」
やりとりはそれで止まり、ふたりの間を波音が通る。窓辺のカーテンがふくらみ、ふくらんだ布の影が床に柔らかい山を作る。玲央はそこに視線を落とし、言葉の隙間を埋めない。埋めないでいると、別のものが浮いてくる。形にならなかった感情。沈黙の手触り。こぼれていく熱の質感。
「……なぁ、悠真」
「うん」
「お前の手、冷たいな」
「お前が熱い」
「そうか」
「うん」
「――怖くねぇのか。俺の、あれ。暴れたら」
暴れる、の一語に、自分の拳の中に棲む赤い波を思い出す。あれに飲まれる感覚は、形容しがたい。体の各部が別々の拍で鳴り、それらが突然ひとつに揃ってはぜる。一瞬の無敵と、次の瞬間の空虚。愛しいものを壊しかけた硝子の音。どれも、喉の奥に棲んでいる。
「怖いよ」
即答だった。優しさで間を置かない。置かないから嘘がない。
「でも、それより、お前がひとりで抱える方が怖い」
「……」
「だから触る。熱いの、分けてもらう。冷たいの、渡す」
「変な理屈だな」
「理屈じゃない。やり方」
手はまだ首筋のあたりにある。濡れたタオル越しの圧は軽い。軽いのに、内側の火がそれに寄っていく。寄り方は、相手の呼吸に似る。似るから落ち着く。落ち着くから、次の言葉が出る。
「なぁ、あの時、なんで消えた?」
やっと、真正面から聞く。二年前の決勝。あの最後の視線。会場の熱の中で、笑って、消えた背中。追いかけようとした足を止めたのは、観客の波か、自分の臆病か。どちらでもいい。あの瞬間、言葉は交わされなかった。だから、今必要だ。
「守りたかった」
「誰を」
「お前を。たぶん、それ以外に、言葉はない」
「守るために、黙ったのか」
「うん」
「それで、守れたか?」
「守れなかった」
静かな敗北宣言。自分に向けたものだ。玲央は息を吐く。吐きながら、身体のどこかがやわらかく崩れる。責めるために言ったんじゃない。確かめるため。確かめて、持ち直すため。
「だったらさ。もう離れんな。戦うなら、一緒に」
視線が絡む。絡み方は、拳の重なりに似ている。拳同士が当たる直前の、迷いの薄い角度。そこを選べるかどうかで、殴りの質は変わる。選ぶのは、いま。
「約束する」
言葉は短い。短い分、重い。重さは、海の湿気でさらに増す。増した言葉が、胸骨の裏に沈む。沈んだ場所は熱い。熱さが消えないのが、救いだ。
窓の外で、波がひとつ高く砕ける。風の向きがほんの少し変わる。南から来た熱が、頬の皮膚を撫で、乾いた塩をもう一度溶かす。部屋の隅、古いランプを見つける。電気は来ていない。引き出しには小さなロウソクが数本と、使いかけのマッチ。火を灯ける。白い芯が一瞬黒くなり、次いで小さな炎が立ち上がる。灯りは揺れ、ふたりの影を重ねる。影は大げさに伸び、壁の剥げを柔らかく覆う。
「……眠れそうか」
「分からん」
「じゃあ、寝る“ふり”だけでも」
「ふり、か」
「眠らない夜は、身体が壊れる」
「壊すのは舞台だけでいい」
「そう」
ベッドに背中を落とす。スプリングは死にかけているが、体重を預ければ最低限の反発を返す。枕は硬い。硬い枕に後頭部を置くと、耳に波音が近くなる。交互に入る高低、微かな鈴のような響き。窓の隙間から入る風が、ロウソクの火を少し揺らす。揺れは落ち着く。落ち着く揺れは、瞼に重みを乗せる。
ほんの短い眠りが訪れ、すぐに去る。身体は眠りたいのに、心は警戒を解かない。首筋の冷たさが残っていて、それが生き延びるための合図のように感じる。横で、呼吸が規則正しく上下している。悠真の息は深く、途中で引っかからない。眠っているのか、目を閉じているだけか、分からない。分からなくていい。隣で呼吸があることが、もう十分な情報だ。
――窓の外、波の比率が変わる。潮が満ちている。砂利の擦れる音が少し増える。どこかで金属がきしむ。遠くでバイクの音。夜の層に、微細な音が幾つも混ざる。すべてがこちらに届くわけではないが、届くぶんだけで充分に世界は濃い。
「なぁ、玲央」
目を閉じたまま、小さな声。寝言ではない。寝言は自分の耳を選ばない。これは、選んでいる。
「ん」
「お前といると、すぐ暑くなる」
「暑苦しいってことか」
「違う」
「違うのか」
「……生きてる感じが、うるさい」
「褒めてんのかそれ」
「うん」
「そっか」
ふたりは、静かに笑う。笑いは声にならない。肩の筋肉が少しゆるむだけ。笑いの波形は薄く、けれど持続する。胸の真ん中で揺れて、壁のひびに吸い込まれる。炎が小さくなり、もう一度強くなる。
「お前が消えた二年、俺は――」
言いかけて、言葉を飲む。飲み込んだものが喉の奥で重くなる。重さは嫌いじゃない。重さがあると、殴る場所を選びやすい。
「俺は、舞台に戻れなかった。嘘つきになりそうで」
「嘘」
「うん。殴り合いが好きで、音で勝負するのが好きで、それを全部お前に見せてきたのに、お前がいない舞台でそれをやるのが、嘘みたいで」
「……ごめん」
「謝るな」
「ごめん」
「だから、謝るなって」
言いながら、拳が布団の上で小さく握られる。握った拳の中に、数え切れない拍の欠片がある。拾い上げれば切れるだろう。切れてもいい。血の味は、まだ覚えている。
「戻ってきたのは、勝負のためだ」
「うん」
「で、俺の本音は、勝負“だけ”じゃない」
「知ってる」
「知ってんのかよ」
「顔に出る」
「だから、それやめろ」
笑いが波になって、床の傾きに沿ってゆっくり広がる。笑いが消えると、静けさが深くなる。深くなった静けさの底で、心臓が一定に鳴る。一定の拍は、よく出来たメトロノームのようだ。だが、目盛りはついていない。測るためじゃなく、生きるために鳴っている。
短い眠りがいくつか重なり、外の色がほんのわずか薄くなる。夜と朝の境目の匂い。湿度が一段落ち、風が水の匂いにアスファルトの粉を混ぜる。カーテンの裾が床に触れ、布の繊維が軽く擦れる。遠くで一台、始発のトラックがブレーキを鳴らす。ホテルの外壁がわずかに冷え、空気が肌に静電気のように貼り付く。
玲央は目を開ける。眠気は重くない。必要なだけ眠った。体の奥に、細い芯が立っている。芯は赤くない。橙だ。ゆっくり燃える色。燃えるのを急がない色。
隣を見る。悠真は仰向けのまま、目を閉じている。息は深い。目の下の陰は薄く、顎の線は昨日より柔らかい。彼の胸が上下するたび、シーツの皺がやわらかく移動する。音楽の中で、休符が一番好きだと言っていた彼の顔だ。沈黙に意味があることを、彼はよく知っている。
身体を起こし、窓まで歩く。朝の海は色を取り戻し始め、遠くの水平線は灰色から薄い青に変わる途中。砂浜には誰もいない。波打ち際に流れ着いた木片が一本、濡れて重そうに寝そべる。足を乗せたら簡単に折れそうな細さ。折らないでおく。折らない選択が今日の最初の殴りだ。
蛇口で水を出し、顔を洗う。冷たさが頬の皮膚をきゅっと縮め、目を覚ます。タオルを絞り、首の後ろを拭う。昨夜のロウソクは短くなり、芯は黒い粒になっている。窓から差し込む光が、床板の埃を浮かび上がらせる。埃は小さな星みたいに、ゆっくり落ちる。指を差し入れると、指先でひとつだけ踊り、また落ちる。
ベッドが軋む。悠真が起きる。目を開けるまでに、数秒。目覚めの波は浅い。起き上がると、背伸びをして肩を鳴らす。小さな音が、部屋の角で跳ねて消える。
「おはよう」
「おはよう」
短い挨拶の間に、朝の冷気がふたりの間を通り抜ける。窓の外、海面が薄い銀を返す。鳥の鳴き声がひとつ。生きている。こんな簡単な指標で、十分だ。
「――朱莉の様子」
「藤堂から、まだ連絡はない。昼までに一度、見に行く」
「行くのは俺だ。お前はここで休め」
「冗談だろ」
「本気」
「お前だけで行くのは、俺が嫌だ」
即答。拒絶ではない。選択。玲央は肩をすくめ、薄く笑う。
「分かった。じゃあ二手に分かれない。三人で動く。藤堂とも合流する」
「それがいい」
「休むのは、ここで移動の前だけだ」
「了解」
会話は短い。短い会話は、迷いを少なくする。迷いが少ないと、体が軽い。軽い体は、殴るときに狙いがぶれない。
ホテルの外に出る前、もう一度、部屋を見回す。ロウソクの火の痕。床の足跡。濡れたタオル。窓の塩の輪。ここで過ごした夜は、ひどく静かだった。静かだが、何もなかったわけじゃない。むしろ、たくさんあった。体の温度。音の交わし方。沈黙の持ち方。どれも、戦いの武器だ。
「行こう」
「行こう」
ドアを開ける。廊下の空気は夜より軽く、床板の軋みも小さい。階段を降り、ロビーを抜ける。レセプションのベルに触れない。鳴らされたくない音は、この世にいくつかある。潮の匂いが強くなり、外の光が目に刺さらない程度に白い。ホテルの扉を押すと、風が一度だけ頬を叩く。叩かれた皮膚の下で、血が流れる音がする。
海沿いの遊歩道を歩く。足音は軽く、しかし止まらない。釣りをしている老人がひとり、こちらをちらとも見ない。犬を散歩する少年が遠くに見え、犬は鼻を鳴らして足元の匂いに忙しい。日向シティは、何事もなかった顔で朝を始める。何事もあったくせに、何事もなかった顔をする。都市は擬態を覚えた生き物だ。その皮が、今日は薄く見える。
途中の売店はまだ閉まっている。自販機は働いている。水を二本。コインが落ちる音。缶ではなく、ペットボトルの軽い感触。キャップのねじ山が指に絡み、回転の摩擦が小さな音になる。一本を悠真に押しやる。彼は受け取り、口をつける。喉仏が上下し、首筋の血管が小さく脈打つ。それを見ると、安心する。生きている証拠は、まっすぐだ。
「玲央」
「ん」
「今日もたぶん、熱い」
「知ってる」
「俺の音は、お前に合わせる」
「いつもだろ」
「うん。いつも」
歩幅がそろう。そろった足音が、舗装の目地の上で小さな等間隔の音符になる。等間隔は美しいが、時々、外す。外し方を知っていると、音が自由になる。自由になった音は、殴りを強くする。強くなれば、壊す先を選べる。
倉庫街の角で曲がる。藤堂のアジトは、看板も表札もない。錆びたシャッター。片隅にだけ小さな鈴。鈴は鳴らさない。扉はロックされているが、玲央がノックすると、中から短い規則で叩き返す音がして、重たい鍵の音が三度鳴る。扉が開き、藤堂が顔を出す。眠っていない眼だが、濁っていない。
「おはようさん」
「おはよう」
「朱莉は?」
「奥で寝てる。体温は落ち着いた。脳波も乱れてねぇ」
「見てもいいか」
「静かに」
薄暗い倉庫の片隅。簡易ベッド。朱莉は横たわり、額に冷却ジェルが貼られている。呼吸は穏やかで、指先は静か。まつ毛が微かに震え、夢の底で誰かの名前を呼んでいるみたいに、唇が少しだけ動く。玲央はベッド脇に膝をつき、声を出さない。手を握らない。触れない距離がある。触れなければ守れる距離もある。
「すぐ目を覚ますさ」
藤堂の声は低く、肩の力を抜く配合を知っている。悠真が短く頷く。倉庫の高い天井に換気扇の低い音が回り、金属の匂いが薄く漂う。
「――で、これからだ」
藤堂は折り畳みのテーブルに広げた地図を指で叩く。SONIC DOMEまでの導線。裏の入り口。保守のシャフト。警備の巡回。昨夜の逃走で得た薄い隙。隙は、ある。あるが、刃は細い。
「行く前に決めとけ。燃やす熱と、温める熱は同じじゃない。混ぜると、壊す対象を間違える」
「分かってる」
「分かってない顔だ」
「またそれ」
「お前にだけは言う権利がある」
悠真がふっと笑う。笑いは短く、すぐ真顔に戻る。戻った顔には、昨夜より迷いが少ない。
「昨日の、海風。あれが、まだ残ってる」
玲央は自分の胸に指を当てる。指の先が骨に触れる。骨の向こうで、橙の火がゆっくり回る。回る速度は自分で決める。決められる。その実感が、体を軽くする。
「連れて行かれそうになっても、今度は行かせねぇ」
「それ、俺の台詞だ」
「なら、二人とも言っとけ」
藤堂が鼻で笑い、テーブルの上の黒い布袋を押し出す。中身は小さな遮断用のシール、簡易の耳栓、薄い防護布。使い方は短く。短い説明は体に早く入る。長い説明は足を重くする。
「朱莉が起きたら、俺がここを離れる。お前らは――」
「分かってる」
「舞台に戻る。殴る準備だけしろ」
倉庫を出る頃、日差しは斜めに傾き始めていた。昼の熱はいつの間にか薄まり、風の湿り気は残っている。まだ熱い。夜風になる前の、曖昧な時間。砂浜の砂は日中の熱を少しだけ保持し、靴底を通して皮膚の薄いところへ伝える。
ホテルへ戻る足は、行きより軽い。覚悟という名の筋肉が、少しついたのだろう。ホテルのドアを開ける。乾いた木の匂い。ロビーの影。階段を上がる。部屋に入る。窓は開けたまま。潮の匂い。ロウソクの小さな煤。すべてが、今朝の続き。続きがあることが救いだ。
「――なぁ、玲央」
「ん」
「もう離れない」
「おう」
「もう黙らない」
「おう」
「もう、勝負だけじゃないって、舞台の上で言う」
「それは、殴りじゃ言えねぇな」
「だから、音で」
「じゃあ俺は、拳で相槌」
「うん」
会話はそこで途切れる。途切れても、伝わるものは多い。多すぎるくらいだ。窓から南風。まだ熱い。まだ夏は完全には去らない。夜が来る。波は拍を変える。灯りが点く。街が別の音階に移る。舞台は向こうにある。拳はここにある。音は胸の中にある。ふたりはそれを確かめるように、手を重ねる。手の重さは軽い。軽いのに、底がある。底のある軽さは、信頼という名の質量を持つ。
静かな夜が始まる。
夜風は、まだ熱い。
それはたぶん、ここに置いていった誰かの鼓動が、まだ消えていないから。
そして、ふたりがいま重ねた拍が、新しい熱になって、この部屋の空気に混ざったから。
灯りを落とす。
余韻だけが、壁に、床に、呼吸に、残る。
決着の言葉はいらない。
必要なのは、次に鳴らす一拍。
それだけだ。
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