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Soul Resonance ―魂、再び燃ゆ―
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夜明けはすでに過ぎ、日向シティの空は白から薄い群青へ移ろっている。陽光はまだやわらかいのに、街の肌は熱を覚えている。南の風が路地を抜けるたび、鉄と潮とアスファルトの匂いが撫でてきて、肺の奥に細い刺激を残す。新堂玲央は、包帯の端を歯で引き、左の拳に巻き直した布の軋みを指先で確かめる。布の摩擦音が、胸骨の裏側で拍の準備になる。
榊悠真は連れて行かれた。階段で足音が折れ、廊下で扉が吸い込まれ、車のドアが金属の音を残して閉じた。その一連の音が、まだ耳のどこかに張り付いている。冷たい印象で、熱い記憶だ。目を閉じると、昨夜のロウソクの火の名残と、あの短い言葉が重なる。
――大丈夫。お前が俺を見つけてくれる。
胸の奥の橙は、いま、赤に傾く。だが、跳ねない。跳ねないように、呼吸を長くする。橙のまま殴れるように、拳の中に余白を作る。余白は暴力の逆側にある。殴る前に、余白を選べるのが強さだと、昨夜の静けさが教えた。
錆びたシャッターの隙間から、影が一つ伸びてきて、倉庫内へ滑り込む。藤堂颯真だ。手首に巻いた簡易端末のランプが、青い点を一度だけ灯して消える。
「目が覚めたか」
「起きた。……昨日よりは、まっすぐだ」
「顔に書いてある。殴る場所が見えてる顔だ」
「行ける」
「行く。けど、段取りは守れ。今日は“世界の首根っこ”を殴りに行く日だ。握りしめる手の汗まで管理されてる箱の中に突っ込む。拳だけじゃ足りない」
「分かってる」
「わかってない顔だ」
「……それ、好きだなお前」
「効く台詞は何度でも使う」
倉庫の隅、白い布の下で静かに眠っていた影がかすかに動く。まつ毛が震え、息が少し深くなる。椅子を引く軋み。小さな気配が近づく。白い布はめくられず、ただ声が落ちる。
「……玲央」
朱莉の声だった。水をもらったばかりの花のように弱いが、音の芯は迷わない。玲央は歩幅を整え、ベッドの脇に膝をつく。触れない距離を守りながら、視線を同じ高さに落とす。彼女の瞳は濡れて、しかし曇っていない。
「起きたか」
「うん。……ごめん、驚かせて。あの夜、私、何もできなくて」
「謝るな」
「ううん、言わせて。……ありがとう、守ってくれて。ねぇ、玲央」
声が少しだけ明るくなる。一度目を閉じ、開いたとき、頬の力は戻っている。
「悠真くん、取り返して」
「取り返す」
「絶対に」
「絶対に」
朱莉は小さく笑って、指先で胸を押さえる仕草をした。心臓のところ。そこに何をしまっておくのか、言葉にしない。言葉にしないから伝わる。藤堂が袖をまくり、端末に短い指示を打ち込んだ。テーブルの上の地図が開かれ、白いペンで数本の矢印が引かれた。
「ターゲットは“SONIC DOME”。新運営〈SonicEdge〉の本社兼コア制御拠点。内部は白一色、機械音が常に回ってる。セキュリティはドローンと人の混合。ルートは三つ」
藤堂の指が、図の上で軽く跳ねた。
「表のゲートは捨てる。正面は派手に見えて、実は“見せるための罠”だ。俺たちは東棟の保守シャフトから。三階機械室を抜け、中央ホールへ。朱莉はモニター室に入って“音の鍵”を奪う。玲央、お前はホールで装置の中心に行け。悠真がいる」
「……見える」
「見えるだけでいい。飛び込む前に、踏む」
足の裏を床に押しつけた。木の節が皮膚に当たり、確かな反発が返る。地面の硬さは、殴る力の根拠になる。根拠がないパンチは空を裂くだけで、相手の骨には届かない。
「それから。〈Burn Mode〉」
「制御する」
「深呼吸の話はもういらない。今日の“制御”は、呼吸でもイメージでもない。“誰の音を食うか”だ。外からの拍が来たら、お前の拳に入れる前に、“青い糸”を混ぜろ。混ざった瞬間に、相手の武器はお前の弾になる」
「わかる」
「分かってない顔だ」
「やめろ」
朱莉がくすっと笑い、眉を少し上げる。
「二人とも、それ、好きだよね」
「効くからな」
「効くのよ」
短い笑いが落ち、空気が同じ方向を見る。準備は、音の向きを揃える行為だ。揃った瞬間、部屋の温度が一度だけ下がる。汗が引き、指先の震えが止まる。
「行くぞ、玲央」
「行く」
倉庫のシャッターを押し上げる。朝の光が直線で入り、金属の粉塵が細かい星のように浮く。外の空気はドライヤーみたいに乾いていて、風は南から。息を吸うと、舌の上に塩が少し残る。藤堂が古いバンのエンジンをかけ、低い振動が座席に伝わる。リアシートに朱莉。膝の上で指を組んでいる。組んだ指の関節が白い。怖さも、焦りも、全部そこに畳んでいる。
街路は朝の顔を続けている。通勤の自転車、開店準備のシャッター、学校へ急ぐ足。誰も彼も、同じ風に髪を揺らされ、同じ太陽に肩甲骨を温められている。その中に、自分たちの車の振動が割り込んで、すぐに紛れていく。紛れながら、目は遠くの白い箱を探す。
SONIC DOME。街の中心に立つ白い塔。球形のガラスに覆われた中央が太陽を反射し、周囲の直方体の棟は継ぎ目なく滑らかで、音がどこにも引っかからない。音が滑る建物。音が吸われる場所。人の鼓動が数字に分解され、意味だけが抽出される箱。
「……音が、生きてねぇ」
玲央の口から、ふっと漏れる。車内がわずかに揺れ、朱莉が窓に指先を当てる。
「ここから先は、私が誘導する。内部の同期装置、ログの穴は見つけた。いちばん薄いところ」
「助かる」
「ありがとう。でも、お願いがひとつ」
「なんだ」
「戻ってきて。二人で」
「おう」
東棟の外周路へバンを滑り込ませる。保守車両に紛れるための磁気プレートが、番号を一瞬だけ偽装する。ゲートの監視カメラは、レンズに貼られた薄いフィルムで波形をずらされ、映像の縁がにじむ。そのにじみの間に、車は入る。入ってしまえば、後は足だ。
地下の搬入口。鉄の匂い。階段は幅が狭く、足音が響く。藤堂が先頭、朱莉が中、玲央が最後尾。息は合わせる。合わせているのに、誰も喋らない。喋らない会話のほうが、今日はいくつも意味を持つ。
第一関門、保守シャフト。縦の穴に打ち込まれた金属の梯子は冷たく、掌から汗を吸う。滑らないように指を食い込ませ、降りる。降りるたび、風の流れが変わる。下へ行く空気が、鼻の粘膜を通る音を残す。足が床に着く。機械室の床はグリッド状。通電の微かな唸り声。体の内側の拍と、床の振動の拍がずれる。このずれが続くと気分が悪くなる。悪くなる前に、合わせる。合わせるのは、ここでは相手に譲ることだ。
ドローンのプロペラ音。低い蜂の群れのような震え。藤堂が指で合図。柱の陰に体を寄せ、通過を待つ。ドローンは青いライトを点滅させ、センサーの三角形が壁を舐める。撫でられれば終わりだが、撫でられない角度はある。角度は経験が教える。教えてくれた先輩の背中が、いま目の前にある。
機械室を抜ける扉の先、白い廊下。壁は艶を持ち、靴の音が吸われる。遠くで、電子的なベルが一度鳴り、すぐ消える。空調の低音。一定の温度。一定の湿度。ここには、偶然がない。偶然の代わりに、設計された熱がある。熱は数字に管理され、危険にならない形で供給される。それは、音の死だ。
「右、監視端末。私が行く」
朱莉が前に出る。指先がキーボードに触れ、爪が軽く路面を叩くような音が続く。画面を二つ外部ログへ偽装し、同期の基点を一つずらす。ずらした基点は、監視の目を一瞬遅らせる。その遅れが、ドア一枚ぶんの距離になる。
「ナイス」
「後で褒めて」
「いま褒める。助かる」
中央ホールへ向かう通路は、曲率が緩く、遠近感が狂う。歩幅が合っているのに、距離が伸びたり縮んだりする。床に薄く光るラインが走り、脳波とリズムを誘導する微弱な信号が、皮膚を撫でる。撫でられて、皮膚の上の毛が立つ。立つ前に、呼吸を変える。深く、ゆっくり。眉間を軽く指で押し、目を細める。空気の層が一枚変わる。
――扉。中央ホール。白。光。天井から吊られた巨大な輪。輪の下に、結晶のような台座。台座の中心に、青い光。青の中で、彼が浮いている。両腕は拘束されているのに、ただそこに立っているみたいに見える。榊悠真。目は閉じているが、呼吸は乱れていない。音を奪われているのに、音の中心にいる。矛盾が、ここでは構造だ。
「悠真」
名前を口から出した瞬間、胸骨が内側から鳴った。鳴った拍が、床のグリッドに伝わる。伝わった拍が、青い光の縁を揺らす。揺れは小さい。小さいが、そこに届く。それがわかった。だから、叫ばない。歩く。拳を握らない。掌を少し開き、指先で空気を押しながら進む。
白いスーツの男が一歩、輪の下から出てくる。背は高く、目は笑っていない。声は乾いていて、冷えたガラスのように薄い。
「歓迎する。BRAVE BEAT。君たちの“共鳴”は、都市の資産だ」
「資産、ね」
「人は熱を欲しがる。熱は管理しなければ焼ける。だから我々が管理する。君たちは“素材”として最高だった」
藤堂が一歩進み、肩をわずかに傾ける。皮肉屋の笑いが浮かぶが、音にはしない。音にしない笑いほど、相手に効く。
「素材の扱いを間違えたな。俺たちは腐ると爆発するタイプだ」
「爆発は設計に入っている」
「じゃあ、設計の外側を見せる」
玲央は、白いスーツの男を見ない。見るのは、青。青の中心。そこにいる彼の唇の形。呼吸の間隔。肋骨の下の動き。手首の角度。すべてが音だ。音を奪われても、体は音を持っている。体が音でできている。だから、呼び戻せる。
「悠真」
もう一度。名を呼ぶ音は息の延長。息は拳の予告。予告があれば、拳は迷わない。青の中で彼のまぶたが震え、わずかに持ち上がる。視線が合う。合った瞬間、胸の奥の橙が、熱を増す。増すが、跳ねない。跳ねないように、彼の目が制動をかける。視線はそれをやれる。理不尽だが、やれる。
「……来るな」
かすかに形になった唇が、空気を震わせる。声は届かないはずなのに、耳が拾う。耳が拾ったのか、胸が拾ったのか、判断がつかない。どちらでもいい。玲央は笑う。笑いは声にならない。唇の端が少しだけ上がる。それだけで、足の裏に力が入る。
「うるさい」
白いスーツの男が、指で合図を出す。ホールの壁から、細いドローンが四つ、無音で滑り出る。丸いレンズがこちらを見、刃のように細いアームが伸びる。アームの先は金属だが、触れる前に“音”が刺さる種類の武器。刺されるわけにはいかない。
「藤堂、右を」
「心得た」
藤堂の足が床を蹴り、青い盾の音が肩の前に展開する。〈ビート・シールド〉。空気の密度が局所的に高まり、ドローンの刃がそこで鈍る。鈍った瞬間、玲央の体が勝手に動く。勝手に、ではない。“選んだ勝手”。拳が前へ。拳は赤を持たない。橙。橙のまま、刃の根元だけを叩く。叩いた音が金属を伝い、モーターの心臓に届く。届いた音が相手の拍子をずらし、回転が歪む。歪みは、落下を招く。一機、落ちる。床に触れる音は軽く、すぐに吸われる。
左右から二機。朱莉の指が、袖の中の端末を叩く。ドローンの目の三角形が一瞬だけ“目を瞑る”。その瞬間に、玲央の足が入り、膝が持ち上がり、軸が崩れる。崩した先に、掌打。掌の中の橙で、刃の基部の“音”を摘む。摘んで、捻る。捻れば、切れる。二機、落ちる。
「やるじゃん、私」
「最高だ」
「もっと褒めて」
「終わってから。今日はまだ始まったばかりだ」
白いスーツの男の眉が、ほんの少し動く。動きは抑えられている。抑えられている表情ほど、昂ぶりが露呈する。露呈は、音で言えば余韻だ。余韻は尾を引く。そこを、踏めばいい。
「……君たちの共鳴は、美しい。だから利用価値がある」
「利用、ね」
「市場は熱を欲している。君たちは燃料になれる」
玲央は、正面へ三歩。台座の下に踏み込む。青い光が頬に当たり、皮膚が薄く冷える。この冷えは嫌いじゃない。熱の輪郭が見えるから。輪郭が見えれば、殴る先を選べる。
「悠真」
彼の目が、もう一度開く。今度は完全に。視線が合う。青の中の虹彩は薄く、光を返す。そこに色が混じる。青と赤。交わった瞬間の紫。紫は一瞬、すぐに透明になる。透明になった空間に、彼の声が出る。
「玲央、俺を信じろ――音で返せ!」
その言葉が、胸骨の奥で爆ぜた。合図。拳の中の橙が、彼の青を求める。求める衝動を、今日だけは肯定する。肯定して、拳を前へ。拳は空気を殴らない。音を殴る。赤の境目で止め、橙で押し、青の糸に絡ませる。絡んだ瞬間、刹那に“合う”。合ったところから、円が広がる。広がりは輪。それが輪へ重なる。天井の巨大な輪。装置の音階に、拳の音階が噛む。噛んだ歯車が、逆回転を始める。
ホールの照明が、一度だけ明滅する。中央の青が、脈を持つ。脈は彼の心拍ではない。装置の拍でもない。“ふたりの拍”。混ざった拍は、装置のアルゴリズムにとってノイズだ。ノイズは排除される。排除のために、装置は自らの出力を上げる。上がった出力が、逆に過負荷になる。過負荷の手前で、白いスーツの男が声を張る。
「出力制御、レベル五に移行。外部同期を切断しろ」
スタッフの動き。白衣の影。操作卓の上で光が走る。走った光が壁を沿い、天井の輪に吸い込まれる。吸い込まれた先で、青が濃くなる。濃くなる瞬間、玲央の拳は一度だけ熱を持つ。赤い縁。だが、跳ねない。跳ねないように、青が引く。引いた青に、赤が巻き付く。巻き付いた赤は、青に色を奪われ、透明になる。透明になった力だけが、残る。力は方向を持つ。方向は中心。中心には、彼。
「――お前の音を、俺に返せ!」
叫んだ声が、金属の梁に触れて返る。返った声が二人の間で増幅し、青の中心がひときわ震える。拘束の帯が、一枚、ほどける。ほどけた帯は音もなく落ち、床で消える。白いスーツの男の顎がわずかに上がる。
「切れ。切れ」
命令は早い。が、拍はもっと早い。玲央の拳が二度、三度、空気を叩く。叩いた空気に、橙の層が重なり、青の糸が編まれていく。編まれた織り目に、装置の同期波が絡む。絡んだ同期波は逃げ場を失い、自分自身を食いはじめる。食い合いは、ふつうは破滅を呼ぶ。だが、今日だけは違う。破滅するのは“支配の波”だ。
「藤堂!」
「受ける!」
藤堂の両腕が広がり、〈ビート・シールド〉が半透明の壁となって前に立つ。装置が吐く余波がぶつかり、壁の表面で花火みたいな粒が散る。散った粒が床に落ちる。床は白いが、いまは熱の色が混ざっている。白は熱を嫌う。嫌いなはずなのに、今日の白は音を吸いきれない。
朱莉の指が、操作卓の端末を走る。右手でタイピング、左手でスライダー。音の鍵は三つ。観客の脳波同期、選手のリズム補正、会場総合熱量。三つの鍵のうち、ふたつをゼロに落とし、一つを“解放”に振る。解放は制御軸の消失。消失は恐怖だが、今日は希望だ。希望は制度を壊す。
「玲央、今!」
「行く!」
拳が最後の一打を求める。求める先は、青。青へ、橙を重ねる。重ねながら、赤の縁で装置の“喉”を叩く。喉は、音の通り道。通り道を一瞬だけ塞ぎ、すぐ開ける。塞がれた音は圧を持ち、開いた瞬間に洪水のように溢れる。溢れた音は、ふたりの拍に乗り換える。乗り換えた音が、輪へ戻る。輪は、共鳴を始める。
――赤と青のリズムが、交差する。
炎と光が、絡み合う。
ふたりの魂は、同じ拍で鳴る。
中央ホールの壁面が、波紋のように歪む。天井の輪の内側から光の粒がこぼれ、空中で弾ける。観客席はない。それでも、都市全体の“リズムセンサー”がこの瞬間だけ、ここに繋がっている。繋がるように設計されている。だから、広がる。共鳴は室内に留まらず、ガラスの皮膚を抜け、街へ流れる。交差点の信号音が一瞬だけ同じ高さで鳴り、コンビニの自動ドアが同時に開いて閉じる。子どもの笑い声が段を飛び越えるみたいに跳ね、犬の吠え声が低音と高音の間を行き来する。海は拍を増やし、南風は熱を抱く。
「止めろ! 出力を……!」
白いスーツの男の声が、天井で切れる。切れるより早く、中央の青が破片になり、光の粉に戻る。拘束の帯がすべて外れ、悠真の体が膝から落ちる。落ちる前に、玲央の腕がそこにある。ずるいくらいのタイミング。抱き留めた体は軽く、しかし重みは確かにある。
「……遅い」
悠真が息の合間に、くすっと笑う。笑いは小さいのに、胸に残る面積が広い。
「お前が俺を見つけるの、遅い」
「うるせぇ」
「うん。うるさい」
額が触れる距離。息が混ざる。混ざった息の温度が、喉の奥で同じになる。彼の腕が玲央の背に回る。熱は戻っていない。けれど、拍は戻っている。戻った拍は、ふたりでひとつになる。ひとつになった拍が、装置の最後の命を止める。
ホールに静寂が落ちる。静寂は音の一部だ。だから怖くない。床に転がったドローンがまだ微かに痙攣している。白いスーツの男は後ずさり、スタッフたちの顔色が一斉に白くなる。白さの中で、朱莉の頬だけが少し赤い。走ってきたのだ。駆け寄る足音。
「二人とも!」
「無事だ」
「良かった……っ!」
朱莉が泣き笑いみたいな顔で、両手を胸の前で合わせる。藤堂が肩を回し、〈ビート・シールド〉を解く。解かれた空気は軽くなる。軽くなった空気に、街の音が一拍遅れて入ってくる。遠くのクラクション。海鳥。風鈴の音。どれも、いまはうるさくない。
「さて。後始末だ」
藤堂が白いスーツの男へ視線を投げる。男は口を開く。言い訳の形をした音が出かかる。出る前に、玲央の声が先に置かれる。
「数字で縛って、熱を管理して、音を売った。……ここで終わりだ」
「君たちに、それを終わらせる資格は――」
「資格? 舞台は“資格”で鳴らねぇよ」
言葉の刃は、今日は深く差し込む必要がない。刺した感触が、相手の目に出る。出れば十分だ。その上で、静かに背を向ける。
悠真が、玲央の腕から離れる。離れるのは、短い一瞬だけにする。離れた瞬間、彼は微笑む。筋が一本、口角から頬へ。穏やかな笑顔。二年前、決勝のあとに見せた、あの笑顔に似ている。似ていて、違う。違う部分は、今の熱だ。
「……お前といると、世界がうるせぇくらい生きてる」
「だったら、ずっと隣で聞いてろ」
「うん。聞く」
拳と拳が、同時に上がる。打ち合わない。合わせる。合わせた瞬間、ふたりの手の中で、赤と青の残り火が静かに重なる。重なった火は、色を持たない透明に変わり、空気へ溶けていく。溶けた透明は、天井を通り抜け、ガラスを抜け、空へ出る。空は受け皿を広げ、日向シティ全体へ、薄い拍の布をかける。
静寂が一度、深く落ちる。
落ちた底から、ゆっくりと、街の音が戻る。
誰かの笑い、靴の音、潮の粒、信号の電子音、遠いミキサーの回転。
どれも、少しだけ新しい。
玲央は、掌をひらく。指の間を風が抜ける。南の風はまだ熱い。肩に触れ、首筋を撫で、背中を押す。その押し方は優しい。優しさが、今日の戦いの後味になる。
結論は置かない。
置かないかわりに、拍をひとつだけ、胸の中に確かに置く。
名前を呼ぶための拍。
次の一歩へ移るための拍。
――「悠真」
――「玲央」
ふたりの名前が、同じ高さで響き、同じ長さで余韻を残す。
光の粉が、まだ白い天井のどこかで、目に見えないまま漂っている。
南風が、ホールを通り抜ける。
その風の温度と匂いだけが、いま、真実を持っている。
榊悠真は連れて行かれた。階段で足音が折れ、廊下で扉が吸い込まれ、車のドアが金属の音を残して閉じた。その一連の音が、まだ耳のどこかに張り付いている。冷たい印象で、熱い記憶だ。目を閉じると、昨夜のロウソクの火の名残と、あの短い言葉が重なる。
――大丈夫。お前が俺を見つけてくれる。
胸の奥の橙は、いま、赤に傾く。だが、跳ねない。跳ねないように、呼吸を長くする。橙のまま殴れるように、拳の中に余白を作る。余白は暴力の逆側にある。殴る前に、余白を選べるのが強さだと、昨夜の静けさが教えた。
錆びたシャッターの隙間から、影が一つ伸びてきて、倉庫内へ滑り込む。藤堂颯真だ。手首に巻いた簡易端末のランプが、青い点を一度だけ灯して消える。
「目が覚めたか」
「起きた。……昨日よりは、まっすぐだ」
「顔に書いてある。殴る場所が見えてる顔だ」
「行ける」
「行く。けど、段取りは守れ。今日は“世界の首根っこ”を殴りに行く日だ。握りしめる手の汗まで管理されてる箱の中に突っ込む。拳だけじゃ足りない」
「分かってる」
「わかってない顔だ」
「……それ、好きだなお前」
「効く台詞は何度でも使う」
倉庫の隅、白い布の下で静かに眠っていた影がかすかに動く。まつ毛が震え、息が少し深くなる。椅子を引く軋み。小さな気配が近づく。白い布はめくられず、ただ声が落ちる。
「……玲央」
朱莉の声だった。水をもらったばかりの花のように弱いが、音の芯は迷わない。玲央は歩幅を整え、ベッドの脇に膝をつく。触れない距離を守りながら、視線を同じ高さに落とす。彼女の瞳は濡れて、しかし曇っていない。
「起きたか」
「うん。……ごめん、驚かせて。あの夜、私、何もできなくて」
「謝るな」
「ううん、言わせて。……ありがとう、守ってくれて。ねぇ、玲央」
声が少しだけ明るくなる。一度目を閉じ、開いたとき、頬の力は戻っている。
「悠真くん、取り返して」
「取り返す」
「絶対に」
「絶対に」
朱莉は小さく笑って、指先で胸を押さえる仕草をした。心臓のところ。そこに何をしまっておくのか、言葉にしない。言葉にしないから伝わる。藤堂が袖をまくり、端末に短い指示を打ち込んだ。テーブルの上の地図が開かれ、白いペンで数本の矢印が引かれた。
「ターゲットは“SONIC DOME”。新運営〈SonicEdge〉の本社兼コア制御拠点。内部は白一色、機械音が常に回ってる。セキュリティはドローンと人の混合。ルートは三つ」
藤堂の指が、図の上で軽く跳ねた。
「表のゲートは捨てる。正面は派手に見えて、実は“見せるための罠”だ。俺たちは東棟の保守シャフトから。三階機械室を抜け、中央ホールへ。朱莉はモニター室に入って“音の鍵”を奪う。玲央、お前はホールで装置の中心に行け。悠真がいる」
「……見える」
「見えるだけでいい。飛び込む前に、踏む」
足の裏を床に押しつけた。木の節が皮膚に当たり、確かな反発が返る。地面の硬さは、殴る力の根拠になる。根拠がないパンチは空を裂くだけで、相手の骨には届かない。
「それから。〈Burn Mode〉」
「制御する」
「深呼吸の話はもういらない。今日の“制御”は、呼吸でもイメージでもない。“誰の音を食うか”だ。外からの拍が来たら、お前の拳に入れる前に、“青い糸”を混ぜろ。混ざった瞬間に、相手の武器はお前の弾になる」
「わかる」
「分かってない顔だ」
「やめろ」
朱莉がくすっと笑い、眉を少し上げる。
「二人とも、それ、好きだよね」
「効くからな」
「効くのよ」
短い笑いが落ち、空気が同じ方向を見る。準備は、音の向きを揃える行為だ。揃った瞬間、部屋の温度が一度だけ下がる。汗が引き、指先の震えが止まる。
「行くぞ、玲央」
「行く」
倉庫のシャッターを押し上げる。朝の光が直線で入り、金属の粉塵が細かい星のように浮く。外の空気はドライヤーみたいに乾いていて、風は南から。息を吸うと、舌の上に塩が少し残る。藤堂が古いバンのエンジンをかけ、低い振動が座席に伝わる。リアシートに朱莉。膝の上で指を組んでいる。組んだ指の関節が白い。怖さも、焦りも、全部そこに畳んでいる。
街路は朝の顔を続けている。通勤の自転車、開店準備のシャッター、学校へ急ぐ足。誰も彼も、同じ風に髪を揺らされ、同じ太陽に肩甲骨を温められている。その中に、自分たちの車の振動が割り込んで、すぐに紛れていく。紛れながら、目は遠くの白い箱を探す。
SONIC DOME。街の中心に立つ白い塔。球形のガラスに覆われた中央が太陽を反射し、周囲の直方体の棟は継ぎ目なく滑らかで、音がどこにも引っかからない。音が滑る建物。音が吸われる場所。人の鼓動が数字に分解され、意味だけが抽出される箱。
「……音が、生きてねぇ」
玲央の口から、ふっと漏れる。車内がわずかに揺れ、朱莉が窓に指先を当てる。
「ここから先は、私が誘導する。内部の同期装置、ログの穴は見つけた。いちばん薄いところ」
「助かる」
「ありがとう。でも、お願いがひとつ」
「なんだ」
「戻ってきて。二人で」
「おう」
東棟の外周路へバンを滑り込ませる。保守車両に紛れるための磁気プレートが、番号を一瞬だけ偽装する。ゲートの監視カメラは、レンズに貼られた薄いフィルムで波形をずらされ、映像の縁がにじむ。そのにじみの間に、車は入る。入ってしまえば、後は足だ。
地下の搬入口。鉄の匂い。階段は幅が狭く、足音が響く。藤堂が先頭、朱莉が中、玲央が最後尾。息は合わせる。合わせているのに、誰も喋らない。喋らない会話のほうが、今日はいくつも意味を持つ。
第一関門、保守シャフト。縦の穴に打ち込まれた金属の梯子は冷たく、掌から汗を吸う。滑らないように指を食い込ませ、降りる。降りるたび、風の流れが変わる。下へ行く空気が、鼻の粘膜を通る音を残す。足が床に着く。機械室の床はグリッド状。通電の微かな唸り声。体の内側の拍と、床の振動の拍がずれる。このずれが続くと気分が悪くなる。悪くなる前に、合わせる。合わせるのは、ここでは相手に譲ることだ。
ドローンのプロペラ音。低い蜂の群れのような震え。藤堂が指で合図。柱の陰に体を寄せ、通過を待つ。ドローンは青いライトを点滅させ、センサーの三角形が壁を舐める。撫でられれば終わりだが、撫でられない角度はある。角度は経験が教える。教えてくれた先輩の背中が、いま目の前にある。
機械室を抜ける扉の先、白い廊下。壁は艶を持ち、靴の音が吸われる。遠くで、電子的なベルが一度鳴り、すぐ消える。空調の低音。一定の温度。一定の湿度。ここには、偶然がない。偶然の代わりに、設計された熱がある。熱は数字に管理され、危険にならない形で供給される。それは、音の死だ。
「右、監視端末。私が行く」
朱莉が前に出る。指先がキーボードに触れ、爪が軽く路面を叩くような音が続く。画面を二つ外部ログへ偽装し、同期の基点を一つずらす。ずらした基点は、監視の目を一瞬遅らせる。その遅れが、ドア一枚ぶんの距離になる。
「ナイス」
「後で褒めて」
「いま褒める。助かる」
中央ホールへ向かう通路は、曲率が緩く、遠近感が狂う。歩幅が合っているのに、距離が伸びたり縮んだりする。床に薄く光るラインが走り、脳波とリズムを誘導する微弱な信号が、皮膚を撫でる。撫でられて、皮膚の上の毛が立つ。立つ前に、呼吸を変える。深く、ゆっくり。眉間を軽く指で押し、目を細める。空気の層が一枚変わる。
――扉。中央ホール。白。光。天井から吊られた巨大な輪。輪の下に、結晶のような台座。台座の中心に、青い光。青の中で、彼が浮いている。両腕は拘束されているのに、ただそこに立っているみたいに見える。榊悠真。目は閉じているが、呼吸は乱れていない。音を奪われているのに、音の中心にいる。矛盾が、ここでは構造だ。
「悠真」
名前を口から出した瞬間、胸骨が内側から鳴った。鳴った拍が、床のグリッドに伝わる。伝わった拍が、青い光の縁を揺らす。揺れは小さい。小さいが、そこに届く。それがわかった。だから、叫ばない。歩く。拳を握らない。掌を少し開き、指先で空気を押しながら進む。
白いスーツの男が一歩、輪の下から出てくる。背は高く、目は笑っていない。声は乾いていて、冷えたガラスのように薄い。
「歓迎する。BRAVE BEAT。君たちの“共鳴”は、都市の資産だ」
「資産、ね」
「人は熱を欲しがる。熱は管理しなければ焼ける。だから我々が管理する。君たちは“素材”として最高だった」
藤堂が一歩進み、肩をわずかに傾ける。皮肉屋の笑いが浮かぶが、音にはしない。音にしない笑いほど、相手に効く。
「素材の扱いを間違えたな。俺たちは腐ると爆発するタイプだ」
「爆発は設計に入っている」
「じゃあ、設計の外側を見せる」
玲央は、白いスーツの男を見ない。見るのは、青。青の中心。そこにいる彼の唇の形。呼吸の間隔。肋骨の下の動き。手首の角度。すべてが音だ。音を奪われても、体は音を持っている。体が音でできている。だから、呼び戻せる。
「悠真」
もう一度。名を呼ぶ音は息の延長。息は拳の予告。予告があれば、拳は迷わない。青の中で彼のまぶたが震え、わずかに持ち上がる。視線が合う。合った瞬間、胸の奥の橙が、熱を増す。増すが、跳ねない。跳ねないように、彼の目が制動をかける。視線はそれをやれる。理不尽だが、やれる。
「……来るな」
かすかに形になった唇が、空気を震わせる。声は届かないはずなのに、耳が拾う。耳が拾ったのか、胸が拾ったのか、判断がつかない。どちらでもいい。玲央は笑う。笑いは声にならない。唇の端が少しだけ上がる。それだけで、足の裏に力が入る。
「うるさい」
白いスーツの男が、指で合図を出す。ホールの壁から、細いドローンが四つ、無音で滑り出る。丸いレンズがこちらを見、刃のように細いアームが伸びる。アームの先は金属だが、触れる前に“音”が刺さる種類の武器。刺されるわけにはいかない。
「藤堂、右を」
「心得た」
藤堂の足が床を蹴り、青い盾の音が肩の前に展開する。〈ビート・シールド〉。空気の密度が局所的に高まり、ドローンの刃がそこで鈍る。鈍った瞬間、玲央の体が勝手に動く。勝手に、ではない。“選んだ勝手”。拳が前へ。拳は赤を持たない。橙。橙のまま、刃の根元だけを叩く。叩いた音が金属を伝い、モーターの心臓に届く。届いた音が相手の拍子をずらし、回転が歪む。歪みは、落下を招く。一機、落ちる。床に触れる音は軽く、すぐに吸われる。
左右から二機。朱莉の指が、袖の中の端末を叩く。ドローンの目の三角形が一瞬だけ“目を瞑る”。その瞬間に、玲央の足が入り、膝が持ち上がり、軸が崩れる。崩した先に、掌打。掌の中の橙で、刃の基部の“音”を摘む。摘んで、捻る。捻れば、切れる。二機、落ちる。
「やるじゃん、私」
「最高だ」
「もっと褒めて」
「終わってから。今日はまだ始まったばかりだ」
白いスーツの男の眉が、ほんの少し動く。動きは抑えられている。抑えられている表情ほど、昂ぶりが露呈する。露呈は、音で言えば余韻だ。余韻は尾を引く。そこを、踏めばいい。
「……君たちの共鳴は、美しい。だから利用価値がある」
「利用、ね」
「市場は熱を欲している。君たちは燃料になれる」
玲央は、正面へ三歩。台座の下に踏み込む。青い光が頬に当たり、皮膚が薄く冷える。この冷えは嫌いじゃない。熱の輪郭が見えるから。輪郭が見えれば、殴る先を選べる。
「悠真」
彼の目が、もう一度開く。今度は完全に。視線が合う。青の中の虹彩は薄く、光を返す。そこに色が混じる。青と赤。交わった瞬間の紫。紫は一瞬、すぐに透明になる。透明になった空間に、彼の声が出る。
「玲央、俺を信じろ――音で返せ!」
その言葉が、胸骨の奥で爆ぜた。合図。拳の中の橙が、彼の青を求める。求める衝動を、今日だけは肯定する。肯定して、拳を前へ。拳は空気を殴らない。音を殴る。赤の境目で止め、橙で押し、青の糸に絡ませる。絡んだ瞬間、刹那に“合う”。合ったところから、円が広がる。広がりは輪。それが輪へ重なる。天井の巨大な輪。装置の音階に、拳の音階が噛む。噛んだ歯車が、逆回転を始める。
ホールの照明が、一度だけ明滅する。中央の青が、脈を持つ。脈は彼の心拍ではない。装置の拍でもない。“ふたりの拍”。混ざった拍は、装置のアルゴリズムにとってノイズだ。ノイズは排除される。排除のために、装置は自らの出力を上げる。上がった出力が、逆に過負荷になる。過負荷の手前で、白いスーツの男が声を張る。
「出力制御、レベル五に移行。外部同期を切断しろ」
スタッフの動き。白衣の影。操作卓の上で光が走る。走った光が壁を沿い、天井の輪に吸い込まれる。吸い込まれた先で、青が濃くなる。濃くなる瞬間、玲央の拳は一度だけ熱を持つ。赤い縁。だが、跳ねない。跳ねないように、青が引く。引いた青に、赤が巻き付く。巻き付いた赤は、青に色を奪われ、透明になる。透明になった力だけが、残る。力は方向を持つ。方向は中心。中心には、彼。
「――お前の音を、俺に返せ!」
叫んだ声が、金属の梁に触れて返る。返った声が二人の間で増幅し、青の中心がひときわ震える。拘束の帯が、一枚、ほどける。ほどけた帯は音もなく落ち、床で消える。白いスーツの男の顎がわずかに上がる。
「切れ。切れ」
命令は早い。が、拍はもっと早い。玲央の拳が二度、三度、空気を叩く。叩いた空気に、橙の層が重なり、青の糸が編まれていく。編まれた織り目に、装置の同期波が絡む。絡んだ同期波は逃げ場を失い、自分自身を食いはじめる。食い合いは、ふつうは破滅を呼ぶ。だが、今日だけは違う。破滅するのは“支配の波”だ。
「藤堂!」
「受ける!」
藤堂の両腕が広がり、〈ビート・シールド〉が半透明の壁となって前に立つ。装置が吐く余波がぶつかり、壁の表面で花火みたいな粒が散る。散った粒が床に落ちる。床は白いが、いまは熱の色が混ざっている。白は熱を嫌う。嫌いなはずなのに、今日の白は音を吸いきれない。
朱莉の指が、操作卓の端末を走る。右手でタイピング、左手でスライダー。音の鍵は三つ。観客の脳波同期、選手のリズム補正、会場総合熱量。三つの鍵のうち、ふたつをゼロに落とし、一つを“解放”に振る。解放は制御軸の消失。消失は恐怖だが、今日は希望だ。希望は制度を壊す。
「玲央、今!」
「行く!」
拳が最後の一打を求める。求める先は、青。青へ、橙を重ねる。重ねながら、赤の縁で装置の“喉”を叩く。喉は、音の通り道。通り道を一瞬だけ塞ぎ、すぐ開ける。塞がれた音は圧を持ち、開いた瞬間に洪水のように溢れる。溢れた音は、ふたりの拍に乗り換える。乗り換えた音が、輪へ戻る。輪は、共鳴を始める。
――赤と青のリズムが、交差する。
炎と光が、絡み合う。
ふたりの魂は、同じ拍で鳴る。
中央ホールの壁面が、波紋のように歪む。天井の輪の内側から光の粒がこぼれ、空中で弾ける。観客席はない。それでも、都市全体の“リズムセンサー”がこの瞬間だけ、ここに繋がっている。繋がるように設計されている。だから、広がる。共鳴は室内に留まらず、ガラスの皮膚を抜け、街へ流れる。交差点の信号音が一瞬だけ同じ高さで鳴り、コンビニの自動ドアが同時に開いて閉じる。子どもの笑い声が段を飛び越えるみたいに跳ね、犬の吠え声が低音と高音の間を行き来する。海は拍を増やし、南風は熱を抱く。
「止めろ! 出力を……!」
白いスーツの男の声が、天井で切れる。切れるより早く、中央の青が破片になり、光の粉に戻る。拘束の帯がすべて外れ、悠真の体が膝から落ちる。落ちる前に、玲央の腕がそこにある。ずるいくらいのタイミング。抱き留めた体は軽く、しかし重みは確かにある。
「……遅い」
悠真が息の合間に、くすっと笑う。笑いは小さいのに、胸に残る面積が広い。
「お前が俺を見つけるの、遅い」
「うるせぇ」
「うん。うるさい」
額が触れる距離。息が混ざる。混ざった息の温度が、喉の奥で同じになる。彼の腕が玲央の背に回る。熱は戻っていない。けれど、拍は戻っている。戻った拍は、ふたりでひとつになる。ひとつになった拍が、装置の最後の命を止める。
ホールに静寂が落ちる。静寂は音の一部だ。だから怖くない。床に転がったドローンがまだ微かに痙攣している。白いスーツの男は後ずさり、スタッフたちの顔色が一斉に白くなる。白さの中で、朱莉の頬だけが少し赤い。走ってきたのだ。駆け寄る足音。
「二人とも!」
「無事だ」
「良かった……っ!」
朱莉が泣き笑いみたいな顔で、両手を胸の前で合わせる。藤堂が肩を回し、〈ビート・シールド〉を解く。解かれた空気は軽くなる。軽くなった空気に、街の音が一拍遅れて入ってくる。遠くのクラクション。海鳥。風鈴の音。どれも、いまはうるさくない。
「さて。後始末だ」
藤堂が白いスーツの男へ視線を投げる。男は口を開く。言い訳の形をした音が出かかる。出る前に、玲央の声が先に置かれる。
「数字で縛って、熱を管理して、音を売った。……ここで終わりだ」
「君たちに、それを終わらせる資格は――」
「資格? 舞台は“資格”で鳴らねぇよ」
言葉の刃は、今日は深く差し込む必要がない。刺した感触が、相手の目に出る。出れば十分だ。その上で、静かに背を向ける。
悠真が、玲央の腕から離れる。離れるのは、短い一瞬だけにする。離れた瞬間、彼は微笑む。筋が一本、口角から頬へ。穏やかな笑顔。二年前、決勝のあとに見せた、あの笑顔に似ている。似ていて、違う。違う部分は、今の熱だ。
「……お前といると、世界がうるせぇくらい生きてる」
「だったら、ずっと隣で聞いてろ」
「うん。聞く」
拳と拳が、同時に上がる。打ち合わない。合わせる。合わせた瞬間、ふたりの手の中で、赤と青の残り火が静かに重なる。重なった火は、色を持たない透明に変わり、空気へ溶けていく。溶けた透明は、天井を通り抜け、ガラスを抜け、空へ出る。空は受け皿を広げ、日向シティ全体へ、薄い拍の布をかける。
静寂が一度、深く落ちる。
落ちた底から、ゆっくりと、街の音が戻る。
誰かの笑い、靴の音、潮の粒、信号の電子音、遠いミキサーの回転。
どれも、少しだけ新しい。
玲央は、掌をひらく。指の間を風が抜ける。南の風はまだ熱い。肩に触れ、首筋を撫で、背中を押す。その押し方は優しい。優しさが、今日の戦いの後味になる。
結論は置かない。
置かないかわりに、拍をひとつだけ、胸の中に確かに置く。
名前を呼ぶための拍。
次の一歩へ移るための拍。
――「悠真」
――「玲央」
ふたりの名前が、同じ高さで響き、同じ長さで余韻を残す。
光の粉が、まだ白い天井のどこかで、目に見えないまま漂っている。
南風が、ホールを通り抜ける。
その風の温度と匂いだけが、いま、真実を持っている。
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