影の正男と月光の姫 ― 正しさが人を殺す世界を生きる姫 ―

冴月練

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第一夜:影の正男と猫の漱石

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 忍耐。
 それが俺の座右の銘だ。
 好む好まざるの問題じゃない。忍耐がなければ生きてこられなかった。

 俺――正男まさおは戦時中に生まれた。
 親父は戦地から帰ってきたが、兄貴は戦死した。
 戦中戦後を何とか生き延び、世の中が明るくなり出した。俺も希望を持った。
 だが、職場の上司が最悪だった。上には媚びへつらうくせに、下には威張り散らかす。大嫌いだった。そんな俺の気持ちが表に出ていたのか、野郎の標的にされた。毎日毎日理不尽な目に遭わされていた。

 鬱屈していた。だからあんなことをしてしまった。
 あの日、中華料理屋で夕飯を食べた。女店主が一人で切り盛りしている店だった。旦那は戦死したそうだ。
 自分よりも弱い相手だと思い、不条理を押しつけた。最低だ。あの上司と同じことをした。ずっと恥じている。
 料理が不味いと難癖をつけた。特にチャーハンが最低だと。女だから火を怖がっていると言った。金も払わずに店を出た。
 少しの間は清々した気分だった。それから自己嫌悪に苦しんだ。

 だけど思わないだろ? あの中華料理屋の女店主が、“炎の魔女”だなんて。



 影を渡り歩き、旅をした。
 長い時間が流れた。昭和が終わり、平成が終わり、令和になった。
 呪いを解くために旅をしてきた。だが、最近はこう思う。俺は――死ねるのだろうか?



* * *



 俺は東京の下町の古いアパートにいた。
 ぼろアパートではない。中身はきれいに改装されていた。リノベーションとかいうやつだろうか?
 人に取り憑き、移動しながら生きてきて、今は若い会社員の男に取り憑いていた。この男も稼ぎは悪くなさそうだ。
 男はスマホで女と話を始めた。少し聞いていたが、ありきたりで面白みのない話だった。



 外に出ることにした。
 月光に照らされたアパートが影を作っていた。その影の中を移動した。
 影の終わりにたどり着いた。これ以上は動けない。ふと、猫を見つけた。動物は行動が読みづらいから注意が必要なのだが、猫の影に入った。

 猫の動きに合わせて移動した。
 いい感じだ。この猫は活発だ。このまま遠くへ移動しよう。
 そう思ったのに、猫はおかしな動きを始めた。酔っている? またたびか? それとも酒か? まずい。やはり行動の読めない動物に取り憑いたのは失敗だった。

 そして、案の定猫はアパートにある古井戸に突っ込みやがった。
 俺と猫は井戸に落ちた。まだ水はあった。おかげで猫の転落死は免れたが、溺死の可能性が急浮上だ。
 昔取り憑いた男が読んでいた「我が輩は猫である」を思い出した。面白い小説だった。あの小説の結末。猫が溺死した。状況は違うが同じだ。

 かつて取り憑いた男が山で遭難死し、三年近く発見されず、動けなかったことが脳裏をよぎった。あれは悪夢だった。気が狂うかと思った。
 猫が井戸で溺死して、もし誰も気づかなかったらどうしよう? 絶望に沈んでいくような気分だ。

 空を見ると、月がちょうど井戸の真上にあった。
 月明かりが井戸の中を照らしていた。
 誰か気づいてくれないだろうか?
 そんな望みの薄いことを考えた。

漱石そうせき!」
 若い女の声が聞こえた。
 女は梯子を持ってくると、自分が濡れるのも構わず猫を助けた。
 このアホ猫、漱石って名前なのか……。あの小説の猫は名前なんてなかったのに。ずいぶん大層な名前をつけられてやがる。
「ああ、よかった」
 女が猫を抱きしめた。猫はジタバタしていた。少しは感謝しろよ。

 猫に取り憑いているのは危険と判断し、女の影に移動した。
 女はアパートの部屋に戻ると、タオルで身体を拭いた。
 女を観察した。おそらく学生だ。素朴というか、田舎者っぽい。だが、数々の女を見てきた俺にはわかる。こいつは磨けば光るタイプだ。

 女が取り出した物を見て驚愕した。
 古くなり、錆びも見えるが、あれは魔女の婆のオルゴールだ! なぜこいつが持っている?
 女がオルゴールのネジを回すと、音楽が流れ始めた。錆びて劣化はしていたが間違いない。あの時の曲だ!

 猫の漱石が部屋に入ってきた。邪魔だな。今は考えなくてはならないことがある!
「あっち行け! アホ猫!」
 無駄だと知りつつ声に出したら、信じられないことが起こった。
「誰? 誰なの?」
 女が俺の声に反応し、立ち上がって部屋を見回した。漱石も俺を見ていた。
 こんなことは、呪いをかけられてから初めてだ。

 この女、もしくはオルゴールには何かある!
 俺は女に取り憑いて、徹底的に調べることに決めた。
 呪いを解けるかもしれない!



 女に取り憑いて半月ほどが経った。
 その間にわかったことは、女の名前は月野瀬つきのせほたる。
 都内の名の知れた大学に通う、理工学部化学科一年生。
 アルバイトはしていないが、生活には余裕がある。実家が太いのだろう。育ちの良さも感じられた。
 彼氏はおらず、友人の高橋たかはしみのりと一緒にいることが多かった。
 授業にはきちんと出席し、意欲的に勉強に取り組んでいた。真面目な学生という感じだ。

 一番重要なのは、ほたるが俺に気づいたことなのだが、それについて俺は悩んでいた。
 ほたるがオルゴールを鳴らしていても、俺に気づく日と気づかない日があった。オルゴールに不思議な力があるわけではないのだろうか? 気づく日は、猫の漱石まで俺を認識した。
 ほたるは頭が良くて臆病だ。俺の存在とオルゴールを結び付け始めていた。最近はオルゴールを持つが、鳴らすことを躊躇している姿を見るようになった。早いところ謎を解かないと、ほたるはオルゴールを使うのを止めてしまうかもしれない。焦りを感じていた。

 そのほたるには、見ていると問題が見えてきた。断るのが異様に下手だ。断れないから、我慢して合わせていた。
 みのりに合コンに誘われるが、本心では行きたくないのが見て取れた。なのに、みのりが楽しそうだから断らない。その結果、帰宅してから疲れ果てていた。
 いるよな、こういうやつ。



 ある晩、そんな風に疲れたほたるが、窓際でオルゴールを鳴らし始めた。ほたるはオルゴールをとても大事に扱っていた。なぜだろう?
 オルゴールから曲が流れ出した。音は悪くなっているが、あの日に聞いた美しい曲だ。
 ほたるは目を閉じ、曲に聞き入っていた。俺はその姿を見ながら、同じように曲に耳を傾けていた。

 少しして変化が起きた。
 窓際で月明かりに照らされたほたるが、うっすらと輝きだした。本人は気づいていないが、漱石がほたるにすり寄った。そして俺を見た。
 月明かり――そういえば、天気の悪い日は、ほたるは俺に気づかなかった。魔女が俺に呪いをかけたあの時も、月が出ていた。そうか、月が出ていることが必要だったんだ!
 謎が解けたことが嬉しくて、わずかに声を出してしまった。
 ほたるがゆっくりと目を開けた。そして俺を見た。しばらくそのままだったが、突然目を丸くした。
「ヒッ! なんですか、あなた?」ほたるは壁にしがみついた。

 さて、どう説明したら良いのだろうか?
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