逃げる以外に道はない

イングリッシュパーラー

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炎編/因果の鎖

15.フォロー・ユー

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(一ヵ月か……)

 事務所の壁に掛けられたカレンダーに、俺は今日の分の印を書き込んだ。児童公園の従者と最初に対峙した日からチェックしている日付のバツ印は、既に二十九個。印は依然更新し続けている。
 従者にまだ動きは見られない。しかし観月が襲われるか否かに関わらず、もともと事務所に仕事として依頼された案件である以上、結果を出さないままずるずる引き延ばすのも限界がある。調査中という言い訳がいつまで通用するかだ。

「九流弥生の情報だ。確認しておくといい」

 ソファに座った俺の膝に、来が書類の束をバサリと放って寄越す。

「は? こんなにあるのか」
「上の一枚がプリントアウトした弥生のデータ。他は、未処理の書類だ」
「つまり、書類整理しとけと」

 普段は事務仕事を来に任せきりであっても、なにせ社員は二人。来の手が回らない時は、必然的に手伝うことになる。
 デスクワークが苦手な俺は、結構な分量の書類を見ただけで逃げ出したくなった。

「いい加減、事務員誰か雇えねえのかよ」
「なかなか応募者が来ない」

 来は別段困った素振りもなく、デスクに戻ってパソコンを開いた。公に求人募集をかけるわけにはいかないため、ツテはスポンサーからの紹介のみ。そこそこ好待遇の条件で事務員を募ったところで、邪神に関わる仕事など誰しも遠慮したいのだろう。
 仕方なく書類の山をテーブルに乗せると、九流弥生の写真がまず目に入った。ようやく情報が反映された信者リストには、現在に至るまでの経歴が事細かく記載されている。
 
「弥生は、炎の神性クトゥグアの信者。炎の精を操る可能性あり、だってよ。こりゃまた……」
「最悪だ」

 データを読み上げた時、珍しく来が嫌悪の表情を見せた。
 クトゥグアはナイアーラトテップの天敵。来自身は無自覚でも、クトゥグアに対する苦手意識が本能的に刷り込まれているのかもしれない。

「母親は、大手IT企業社長と再婚。すげえ、金持ちの社長令嬢じゃん」

 信者である父親とは弥生が子供の頃に離別していた。なのに、母親の再婚後も彼女が九流姓を名乗っていることが、何となく引っかかる。 

「口だけじゃなく、手も動かしてくれ」
「やってるって」

 来に見咎められ、書類と本格的に格闘開始。しばらくして事務所の電話が鳴り、来が応対に立った。黙々と仕事を続ける俺の目の前に、コードレスフォンが差し出される。

「お前にだ、視矢。九流弥生から」

 淡々と告げる来の言葉に、俺はごくりと息を飲む。嫌な予感しかしない。
 そして、その懸念は現実のものとなった。





 バイト先の建物の外で、思わぬ人が待っているのを見て小夜は目を瞬かせた。てっきりいつも通り視矢が迎えに来たと思っていたのに。

「私では、役不足だろうか」

 来がわずかに苦笑する。表情はあまり変わらないが、声のトーンに困ったような含みがあった。

「そんなことないよ! ただ、来さんが事務所から出るなんて、意外だっただけ」
「視矢が所用で来られないので、代わりに来た」
「そっか、ごめん」

 ボディガードは来の仕事ではない。小夜は感謝より申し訳ない気持ちの方が先に立った。

「あなたが謝る必要はない。今日はスーパーに寄る予定だと視矢から聞いている」

 寄りたい場所がある日は、あらかじめ伝えるよう言われている。視矢にはよく夕食の買い出しに一緒に行ってもらっていた。けれど仮にも事務所社長に買い物にまで付き合ってもらうのは抵抗がある。
 
「遠慮しないで欲しい。護衛である以上、好きに使ってもらっていい」
「なら……、お願いします」
 
 躊躇しつつ小夜はぺこりと頭を下げた。せっかく来てくれたのだから断る方が失礼だ。
 来が外へ出るのはスポンサーへの報告か、オーガストへ行くかのどちらかで、他の用事では滅多に外出しない。以前は意識の上に現れることさえなく、ナイの方が表に出ていたと視矢が言っていた。今でも引き籠りぶりは堂に入っている。

 スマホで時刻を確認すれば、ちょうど仕事帰りのOLや主婦でごった返す時間帯。地元の安売りスーパーは、夕方のタイムセールに買い物客が殺到する。
 この時間の食料品売り場はほぼ戦場で、人混みに耐性のない者には荷が重い。

 大丈夫だろうか、と小夜はそっと来の横顔を窺った。スーパーの店内は値引き商品を狙う人々で溢れ返り、案の定同行者は目を白黒させている。

「……人が多いんだな」
「この時間は特にね。来さんは、人が多い場所苦手?」
「苦手というより、慣れていない」

 来はネクタイを緩め、息を吐き出した。

(人嫌いってわけじゃないみたい)

 小夜はそんな観察をしながら、目当ての食材を手早く買い物カゴに入れる。長蛇のレジ列に並び、やっとのことで会計を済ませるまで小一時間。
 荷物はじゃがいも、玉ねぎ、肉類の他、オレンジ等で、結構重い。日頃武術で鍛えている小夜にとって苦になる程ではなかったものの、彼女が手に取る前に買い物袋は来の方に移っていた。

「私が持とう」
「大丈夫だよ。私、力あるし」
「荷物は男が持つものだろう」

 ごく自然にそんな台詞を口にする。世間に疎いはずなのに、来は天然のフェミニストらしい。

「オレンジが好きなのか?」

 何気なく彼の顔を眺めていた小夜は、急に振り向かれ狼狽えた。来の方は目が合ったことも気にせず、焦る彼女に平然と視線を向けている。

「その……、マーマレード作ろうと思って」
「あなたのマーマレードは美味しかった。この前食べられなかったことを、視矢が酷く悔しがっていたな」

 前回作ったマーマレードはナイが全部食べてしまい、視矢が事務所に戻った時には空き瓶だけが残されていた。小夜は視矢に隠れて事務所に行ったことを正直に視矢に謝り、また今度マーマレードを作って持って行くと約束した。
 来はナイと味覚を共有しているため、味見できなかったのは視矢だけになる。ナイはもちろん、来も視矢も甘い物が好きなので、事務所への手土産にはちょうど良い。

(視矢くんにはホットミルクに入れてあげた方がいいかも)

 以前ハチミツ入りのホットミルクを出した時の彼の嬉々とした顔を思い出し、小夜はくすりと笑った。

 これまでバイトの日は一日も欠かさず、視矢が小夜を迎えに来た。事前に連絡なく、来に代わったのは初めてのことだった。所用だと来は言うけれど、視矢に何かあったのかもしれない。
 寂しい気持ちと別に、漠然とした不安が彼女の心に影を落とした。
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