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アンネリーゼ

少女の涙

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 ふるんと首を振った私は三人の心配そうな視線に気が付いた。

 「妃殿下、大丈夫ですか?お顔が真っ青ですわ……」
 「あぁ……平気よ。もう平気」
 「すみません。わたくしが余計な口を挟んだりしたからですわ……」
 「違うの……リリアのせいじゃないわ。今の私には箱から溢れたものが重すぎて……受け入れられないのよ……」

 あの時わたしが抱いた気持ちはなんだったんだろう?いつもそうだ。箱の中身は全部は出てきてくれない。箱の中にわたしの気持ちを置き去りにしたまま溢れ出してくるのだ。

 「兄さまが聞いた通り、殿下が持っていたのは友情じゃなかったのかも」
 「そうだね。だから殿下はリセを王太子妃にと望まれた」

 やっと落ち着いた兄さまはもうキリッとした冷静さを戻していて、心なしかジェローデル侯爵が脱力して見える。

 「大国の王族相手においそれと手出しは出来ない上に殿下は鏡で心を操られていて思うように動けない。それなのに王女がフリードリヒ王太子と手を組んだことに気が付き衝撃を受けたアルブレヒトは平静さを失くして突っ走ってしまった。この危険な状況下で完全な丸腰になったリセを守る為に先代のお抱え魔法使いエタイである侯爵の力を貸りたい。それにリセが遠慮せずに頼れる存在を側に置きたいと俺にも頭を下げられた。この兄さま以上にうってつけの人物なんて他に居ないだろう?殿下は見る目がおありになるな!」
 「だけど兄さま……」

 私が顔を曇らせると兄さまの腕が伸びてきて頭をくしゃくしゃと撫で、明るい声を上げた。

 「あぁ、テレーゼだったら心配するな。俺はずっとここに詰めている訳じゃないしもしも屋敷から連絡が来たら直ぐに戻るよ」
 「そうね…………そうしてくれなきゃだめよ?」

 また兄さまにわざとらしくくしゃりと頭を撫でられながら私は大きな違和感を覚えていた。

 本当に、本当にそんな単純な事なのだろうか?

 「無理があり過ぎると思わない?」

 ポソリと口にした私の声に兄さまの手がピタリと止まる。

 「オードバルの言いなりになってエレナ様を連れ帰ったのも追い詰められている私を黙って見ていたのも、これまで誰にも打ち明けず一人で抱え込んだのも……。兄さまは殿下の話で全部納得できた?」

 きっと殿下は何かを隠している……とっても重要な何かを。
 
 力なく腕を降ろした兄さまが『リセちゃん……』と私を呼んだ。小さな頃、宥める時、甘やかす時に呼んだその呼び方で。

 「プロイデン伯爵家は求められるままにリセを王室に差し出した。俺達は貴族だ。領民を守る責任と義務がある。従う他に選択肢は無く、聡明なお前は誰に何を言われずともそれを理解してくれていた」
 「……そうね」

 私は短く答え口を結んだ。

 「さしたる権力を持つ訳でもないプロイデン伯爵家ですらそうなんだ。殿下はね、自分の感情を抜きにしてどちらかを選択し優先順位を付けなければならない運命を背負って生まれた方だ。大切な一人と託された大勢の人々とを。解るね?」

 私は迷わず頷いた。

 前世の歴史の中でも家康や信玄は息子を殺し信長や正宗は弟を殺した。一国の頂に立つということはきらびやかで華々しいだけではない。その裏で非情で冷酷な顔も持たなければならない。

 何よりも、リードにはファルシアという国の未来が託されているのだから。
 
 「具体的な話はできないようだがオードバルは何かを画策し、殿下はそれを食い止める為にオードバルの反対勢力に秘密裏に協力されている。完全に操られている振りをして王女を連れ帰り、アシュールとの同盟締結を先送りにさせているのはその為だ」
 
 私の喉がコクリと音を立てた。

 「……どうやら小規模な領土の拡大ではなさそうね」
 「倅が聞いたら流石は俺の教え子だと小躍りしたでしょうね」

 ジェローデル侯爵が含みのある笑顔を浮かべている。私はその笑顔に呼応するように微笑んだけれど侯爵の笑顔は蒸発でもしてしまったように消え、無機質なものみたいに固められた。けれどもその視線だけは鋭く深く、私の心の奥を探るように静かに私に向けられている。私がその可能性を持つ者かどうかを見極めるように。

 多分答えは出ているのだろう。それでも私は問い掛けた。

 「その為にも殿下は一刻も早く『悪魔の鏡』を消し去らなければならないと焦燥されていらっしゃるのではないですか?」
 「そうです。可能な限り早急に王女の支配下から抜け出し本来の御自分に戻られねばなりませんから」
 「侯爵は……鏡を取り除く方法をご存知?」
 「はい。プロイデン卿からお聞きしましたので」
 「それならば……おわかりでしょう?」

 今度は私が侯爵の視線を捉え重苦しい空気を和らげるように口の端を引き上げ、そして言った。

 「わたくしには不可能です」
 
 兄さまがソファの背もたれに身体を預けぐったりと上を見上げている。きっと兄さまは私がなんて答えるか解っていたと思う。それでも唯一の打開策に賭けて私に会いに来たのだろう。

 私は溜息を押し殺して微笑んだ。少し寄ってしまう眉間とへにゃりと下がる眉尻はどうにもできなかったから、凄く情けない笑顔だとは思うけれど仕方がない。

 「あ、お断りしておきますが、決して殿下が憎くて拒んでいるのではないのですよ?」
 「それは……重々承知いたしております」

 私の心苦しさを慮ってか、侯爵はまた優しい笑顔を取り戻した。

 「少なくとも今のわたくしには到底無理です。心臓に刺さった『悪魔の鏡』を溶かしたのは少年を愛する少女の涙なのですから。でもわたくしの中に殿下を想う気持ちは見つからないのです。どんなに探しても……」
 
 泣いてすむことならばいくらでもやってみせる。でも私の目から溢れる涙ではリードの心臓に刺さった鏡の欠片は消えはしない。

 だから私にはリードを救うことなどできないのだ。

 
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