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アンネリーゼ

同じ月

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 「やっぱりな。泣いていると思った」

 わたしは急いでゴシゴシと目を擦った。誰にも見られたくないから一人でテラスに居たのだ。それなのにわざわざ来るなんて、ホントにもう、リードったらなんてデリカシーが無いのかしら!

 「泣いてなんか……いないわ」
 「そうかなぁ?」

 わたしの隣に立ったリードはそれ以上何も言わずに黙って夜空を見上げた。

 新しい涙が溢れないようにわたしも同じ夜空を見上げる。それでも頭上からわたし達を明るく照らしている白く輝く満月はぼんやりと滲んで霞んだ。

 「ほら、やっぱり泣いている」

 すっと伸びてきたリードの指がわたしの頬を撫で涙を拭う。

 「家に帰りたくなった?」
 「違う、そうじゃなくて……」
 「疲れたかな?沢山の人が集まってくれたからね」
 「疲れてなんかいないわ。ただわたし……恐ろしくて……」

 署名式を終えたわたし達を待ち受けていた広場を埋め尽くす民衆。舞い散る紙吹雪と割れるような大歓声に包まれながら、わたしは恐怖に足が竦んでいた。

 いつかこの国に生きる人々、その一人ひとりの幸せがわたし達に託される。

 わたしで良いの?
 わたしにできるの?
 
 わたしに、こんなわたしに王太子妃が務まるの?

 その責任のあまりの重さを改めて目の前に突き付けられたようで、わたしは今もまだ身体の震えを抑えられなかった。

 「リセ、ごめんね。全部僕のせいだ」
 
 リードがわたしの左手に指を絡めてきた。

 「どうして?どうしてリードが謝るの?」
 「それは…………まぁ色々と……」

 口ごもったリードは目を反らして月を見上げている。きっと本当の名前を教えてくれなかったから気が咎めているのね、とわたしは思った。
 
 リードが誰かを知った時、どうして教えてくれなかったのかとわたしがものすごく怒ったから。

 「それなのに僕はリセの側に居てやれない……励ますことも支えることも、慰めることもできない」
 
 俯いたわたしはゆっくりと首を横に振った。

 「手紙を書くよ。毎日ね」
 「そんなにいらないわ。返事を書くのが大変だから週に一度で十分よ。どうしても書きたいなら受け取るけれど、一々返事を書くのは無理ですからね」

 『冷たいなぁ』と言いながらリードは喉を震わせるように笑うけれど、わたしはとっても忙しいんだもの。

 お勉強にお稽古に公務、難しい書類に目を通してサインだってしなくちゃならない。さしたる能力もないわたしには婚約内定からのお妃教育でさえあっぷあっぷで毎日寝不足だったのに。

 自信なんて少しもなくて今にも押し潰されてしまいそうで、溢れそうになった涙に慌てて見上げた空に浮かぶ月は、やっぱりぼんやりと霞んで見えたけれども柔らかな優しい光を放っている。

 「お月さまが見ているわね」
 「…………月が?」
 「そうよ、世界中の色んなことをお月さまが見ているの。革命で死んだ勇敢な少年や北の国の住人と北極熊、こうのとりの話をする子ども達、それに群れからはぐれた一羽の白鳥。お月さまは見てきたことを絵描きに話して聞かせるのよ」
 「あぁ、リセが読んだ童話の話か」

 リードは絡めた指にキュッと力を込めてホッとしたようにわたしを見下ろした。

 「わたしのことも、そしてリードのこともきっとお月さまは見ていてくれる。夜空に雲が垂れ込めてしまえば目隠しされたように何も見えなくなってしまうけれど、ほんの少しの雲の切れ間からもお月さまはちゃんと見ているの。だからわたしは頑張るわ。精一杯努力する」
 「そうだね。リセの頑張りを見た月に情けないヤツだと思われないように、僕もしっかり勉強するよ。リセに余計な告げ口をされたら困るからね」

 わたし達は顔を見合せお互いのおでこをコツンとくっ付けて笑った。

 「ねぇリセ?」
 
 リードは風に吹かれて乱れたわたしの髪を耳に掛けてそのまま頬に手を添えながらわたしを見下ろしている。そして何を言うのかと首を傾けたわたしの瞳を真っ直ぐに見つめた。

 「今日は満月だ」
 「そうね」
 「次に月が満ちた時、僕はもうオードバルの夜空の下に居る」
 「そうね……」

 急に心細くなったわたしの声が少し震えた。

 「でも僕はこの時間に夜空の月を見上げるよ。だからリセもここから月を見上げてくれる?そうしたら月の高さは違っても、僕らの見上げているのは同じ月だ。僕は月を見ながらリセを想う。次の満月もその次の満月も夜空を見上げてリセを想うよ。だからリセも……リセも僕のことを考えてくれる?」
 「そうね…………遠く離れていてもわたし達が見上げているのは同じ月だわ。この月の光はわたしと同じようにリードを照らしている。月の光に照らされながら、わたしはリードを、リードのことだけを想うわ」

 わたし達が同じ月を見上げているなんて当たり前のことなのに、何だか嬉しくなってわたしはにっこりと笑った。リードと離れる寂しさも心細さも決して消えたりはしない。それでも一本の細く、けれども力強い糸が、わたしとリードを結んでくれているような気がしたから。

 リードも優しい微笑みを浮かべた。そして頬から離した手を肩に掛け耳元に顔を近づけた。

 「僕は、リセが好きだ……」

 『わたしも好きよ』

 わたしが告げようとした答えは声に出せないまま消えてしまった。だってわたしの唇はリードのキスで塞がれてしまったから。

 そしてわたしは知ったのだ。

 リードの『好き』が友情ではないのだということを。

 
 
 わたしが封印してしまったもの。

 それは14歳だったわたしがリードに愛されていたという記憶。

 リードの心変わりに傷付いた心は止めどなく赤い血を流し、その傷口を塞ぐ為にわたしは記憶を閉じ込めた。

 それならわたしは、わたしの気持ちはどうだったんだろう?

 「見つからないわ……」

 私の中にはあるべき答えが見当たらなかった。

 
 


 
 
 
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