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幸薄い伯爵令嬢
婚約破棄します
しおりを挟むわたくしロジーナは婚約を破棄します!
とロジーナは宣言した。ただし声にはできずに心の中で叫んだだけだけれど。
多分、恐らく、きっと、当然ロジーナでなくともそうする。だってロジーナは婚約者のデニスがお取り込み中の所に鉢合わせてしまったのだから。
しかもそれはロジーナの暮らす屋敷の一室で。付け加えればそこは事もあろうにロジーナの母親の部屋でデニスのお相手は言うまでもなく部屋の主だ。せめてもの救いはその母親は亡き父の再婚相手だからロジーナとの血の繋がりは無い事くらいじゃないだろうか?つまり母親は義母である。
普通この状況で婚約を破棄したいと言っても流石に誰も責めたりしないだろう。
問題はロジーナを取り巻く環境が普通と言えるかどうかであるが。
その時ロジーナはメイドに奥様の部屋から呻き声が聞こえると気味悪そうに言われ、仕方無しに部屋を覗いてみた。勿論何度もノックはしたけれど、返事が返って来なかったのだもの。心臓とか脳とか、そんな一刻を争う重大な疾患だったら……そうじゃなくてもぎっくり腰は言葉も出ない痛みだと聞くし、とにかく何かが起きていると思ったのだ。こんな時に限って義母の娘のイリセは見当たらず、私がやるしかないわよねとそぉっと少しだけドアを開け部屋を覗いた。しかしそんな気遣いなんかしないでがさつにバーンと開くべきだったのかも知れない。
だって間違いなく何かは起きていて、呆気に取られて口を開けて立ち尽くすロジーナに気が付かずに二人は日当たりの良い明るいその部屋の中で行為に没頭していらしたのだ。頭の中が真っ白になったロジーナは金縛りにあったように指一本も動かせずに黙ってそれを眺めていた。
どれだけの時間が過ぎたのかわからないけれど、いつの間にかすぐ側にイリセが居て……真っ赤なカオで目を釣り上げて睨みながら左手でロジーナの胸ぐらを掴んで、そして右手を振りかぶった。それでもロジーナは何をされるか理解できずにいたけれど、というよりもまさかまさか、まさか自分がそんなことされるはずがないと思い込んでいたのだけれど、世の中には不思議なことがまだまだあるらしい。イリセの右手は何の迷いもなくロジーナの頬を凄い力で打ち付けたのだから。
「お姉様の卑怯者、こっそり覗くなんて酷いわ!」
イリセは今度は両手でロジーナの胸元を掴んでブンブン振りながら喚いている。そしてその目からは次々と涙が溢れ頬を伝った。
「イリセさん、待って!」
ロジーナが必死に掛ける声なんて耳に入らないのか、イリセは泣きじゃくりながら酷い酷いと叫んでいる。あまりにも大きな声を出すものだから使用人達も何事かと集まって来たが誰もイリセを止めようとはしない。ロジーナも一か八か『待って』なんて言ってみてはいたけれど無理なのだ。暴れ馬みたいなイリセ止められるのは一人しかいないのだ。
私、殺されてしまうかも……とロジーナが壮絶な覚悟をし始めた頃になって、事の次第に気が付き身支度を整えたであろう義母が現れた。
「イリセ!」「お母様!」
二人は呼び合いひしっと抱き合いそしておいおい泣き出す。そしてイリセはまたキッとロジーナを睨んで怒鳴りつけた。
「お母様は何も悪くない、美し過ぎただけなの。お姉様がそんなだから、それも見た目だけじゃなくて陰気でつまらない人間だからデニス様は我が身の不幸に苦しんでいらしたのよ!優しくて暖かい陽だまりのようなお母様に心をひかれても仕方がないでしょう?その上こんなに美しいのですもの、デニス様に愛されるのは当然よ。こうなったのは全部至らないお姉様がいけないの!それなのに……こんなに酷い仕打ちをするなんて。お姉様は腐っているわ」
なるほど、イリセ曰くロジーナは腐っているそうだ。それはまぁ良いとして、ここ迄好き勝手に言われたからにはどうしても一つだけ言い返さねば気が済まないとロジーナも流石に考えた。
幸い母の腕に包まれてイリセは少しだけおとなしくなっている。このチャンスを逃すまいとロジーナはぐっと拳を握った。
「イリセさん!何度も言っていますが私はあなたのお姉様じゃないんです!!」
イリセはギロリとロジーナを睨み
「またその話なの?」
と頬を膨らませた。
もうしつこくてうんざりよ、そんな言葉が顔に書いてあるようだけれど、ロジーナにとってはとても大事な事なのだ。
「なんですかロジーナ、そんなにムキになって。お願いだからイリセを虐めないでくれないかしら?イリセもロジーナも私の娘。言うなれば姉妹でしょう?イリセは思いがけずあなたに会えて姉ができたようで嬉しかっただけなのに、目鯨を立てるなんて淑女らしくありませんよ」
義母はロジーナを咎めるようにそう言った。
前述の通り、この女性はロジーナの義母だ。父と再婚したのは一年程前でロジーナの母は彼女が9歳の時に亡くなっている。
一方イリセは義母と元夫との間に生まれた。つまり義母同様ロジーナとは血縁はない。因みにイリセの父親ならば今日も元気一杯張り切って働いているしイリセと父娘の縁を切ってもいない。ちょっとした父娘喧嘩でイリセが家を飛び出して母親のいるこの屋敷に転がり込んできただけだ。だから二人はどう転んでも姉妹ではない。しかもロジーナが不思議でならないのはイリセの方が彼女よりも二ヶ月歳上なのだ。だからどんなに考えてもロジーナはイリセの姉にはなるまい、お姉様と呼ばれる度にそう指摘するロジーナにイリセは不満気に言い返す。
「だって、私の方が無邪気で可愛らしい妹って感じがするでしょう?それにお姉様って呼ぶのにも憧れていたんだもの。二ヶ月位の差なんてどうでも良いじゃない。それともロジーナは私をお姉様って呼びたいの?」
確かにそんなこと思わないわ!!でもそういう話をしている訳じゃ無いのだけど……こんな時ロジーナはぐっと唇を引き結び声に出さぬように細心の注意を払いつつそう考える。そしてただ黙って俯く。
「ロジーナ。貴女がそんな風では亡くなったお父様が悲しまれるわよ。お父様は言葉にはせずとも貴女が淑女として立派に振る舞うことを望まれていらしたはずです。早くイリセに謝りなさい」
義母に言われロジーナは眉間を寄せた。どう考えても自分に咎があるとは思えなかったのだ。しかし義母は毅然とした態度でロジーナに謝罪を促している。そしてイリセはか弱くシクシクと涙を流している。と言うことは、やはりロジーナは謝罪するべきなのだろうか?
それでも釈然とせず首を傾げたが、二人は引き続きロジーナからの謝罪を待っている。
「申し訳ございません」
ロジーナはそう言って頭を下げた。そしてこれ以上ここに居ては身が持たないと溢れ出て来た涙を手の甲で拭いながら逃げるように足早に立ち去り自分の部屋に駆け込んだ。
ロジーナはベッドから枕をひとつ掴み取るとそれを抱えてソファに座った。頬を伝う涙が次々と枕に吸い込まれて行く。ロジーナだって本当は何一つ納得などしてはいないのだ。婚約者と義母の不貞の現場を押さえたのを卑怯だと言われた事も殴られた事も、義妹をいじめるなと言われた事も謝らされた事も、そして淑女らしくないと窘められた事も。
そうだ、よりにもよってロジーナは義娘の婚約者を寝取った義母から淑女らしくないと窘められたのだ。あの手の人をあばずれと言うのではないのか?どの口がロジーナを窘めるのだろう。お父様が悲しまれる?もし父が悲しむとしたら、それは確実に自分の為にではないのに。
ロジーナは枕に顔を押し付けて深い溜息をついた。彼女の部屋に唯一置かれていた兎のぬいぐるみは一昨日イリセが持って行った。義母によるもうすぐ人妻になる大人の女性がぬいぐるみを抱いて眠るなんて恥ずかしいと思わないのか?という教育的指導の元、人妻になる予定こそ無いが自分よりも二ヶ月歳上のイリセが。
イリセがこの屋敷に来てからというもの、ロジーナの部屋の僅かばかりの装飾品はことごとく持ち去られた。ソファに乗っていた少々くたびれてきている2つのクッションすらも、新品よりも使い込んだ物の方が身体に馴染むからという理由で今はイリセのムッチリした背中に押し潰されている。もうロジーナの涙を受け止める物は枕しか残っていないという現状なのだ。
いきなり乱暴に開けられたドアの音に、ひくひくとしゃくりあげていたロジーナは驚いて竦み上がった。恐る恐る振り向くと不機嫌そうなデニスが睨みつけるようにこちらを見ている。
だが、デニスが口にしたのはロジーナの予想とは違う言葉だった。加えて言うならロジーナの予想は『ロジーナすまない。一瞬の気の迷いだったんだ』というような謝罪ではない。『邪魔しやがって』とか『気が利かない女だ』とか所謂クズ男が吐くであろう言葉だ。
大凡お察しだろうがデニスは正真正銘のクズ男である。
そして結局デニスが口にしたのは
「助かった」
という感謝の思いが込められていると推察される言葉だった。だが所詮デニスはクズ男であるということを忘れてはいけない。
「誘われて試しに相手をしてみたけれどやっぱり年相応の婆さんだった。しかもやたらとがっついてしつこくてうんざりしていたところだ。お前のおかげで逃げられたよ」
ロジーナは首を傾げた。
何にがっついてしつこくてうんざりしたのかもわからなかったが、それよりもまだギリギリ三十代の義母は婆さんに該当するのだろうか?おばさんならまだしも?イリセの言い分にも一理あって義母は確かに美しいと思うのだ。暖かい陽だまり云々はさっぱり理解できないとしても。
「色んな奴に中々良いぞと勧められていたのに。アイツ等、絶対にわざと言いやがったんだ。会ったら文句をつけてやらんとな。それはそうとロジーナ」
「……はい?」
つまりそれは……と思考を巡らせ呆然としていたロジーナは、デニスに呼ばれて我に返った。デニスはカツカツとがさつな足音を立てながらロジーナの目の前まで来るとピタリと足を止めた。
「お前、婚約破棄するとか言うなよ。どうせ無駄なんだから余計な事はするな」
鼻先に突きつけられたデニスの指を見つめ、ロジーナは寄り目になった目を見開いた。
「俺たちはただの政略結婚だ。俺が何をしようとお前には関係ない」
何をしようとにも程がある、とロジーナは思った。けれどもその思いが彼女の口から語られる事はない。
ロジーナは溜息すらも押し殺し、デニスに向かって頷くのであった。
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