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幸薄い伯爵令嬢
新しい朝が来たそうです
しおりを挟む「よく寝たわ……」
昨夜コロッと眠ってしまったロジーナは夜明け前に自然と目を覚まし、窓から森の向こうに昇ってくる朝日を見つめながらポツリと呟いた。
眠りの浅いロジーナは朝までに何度も目を覚ます。毎晩のように繰り返し見る悪夢に魘されるのだ。そうやって泣きながら何度も目覚める夜は母が亡くなった9歳の時から続いている。
それが昨夜は一度も無くこんなスッキリした目覚めは久し振りで何だかやたらと身体が軽く感じられた。
ノックに返事をすると顔を出したのはルイザだった。頭痛はしないか、吐き気はしないかと聞かれたがむしろ気分爽快だ。ちょっとだけ浮腫の引いた顔でそう答えるとルイザはほっとしたように笑顔になった。
「では湯浴みをしてからお支度をいたしましょうね」
バスタブに張ったお湯はバーベナのアロマオイルの爽やかな香りがする。ロジーナは不思議そうに手でお湯を掬っては顔を寄せて香りを確かめていた。
「アロマオイルをご存知無かったのですか?」
驚くルイザにロジーナが説明した伯爵家の屋敷での暮らしぶりは俄には信じがたいものだった。
ーー貴族令嬢が一人で入浴し洗濯石鹸で身体だけではなく髪まで洗っていたですって?洗いざらしの髪をタオルでゴシゴシ拭いて、手入れもせずに乾いたら一纏めに髪紐でぎゅっと結いて終わり?顔も身体も洗いっぱなし?化粧水も乳液も知らないなんて!!
行き届いた手入れの賜物で艶々とした黒髪と滑らかな肌をしたレイの婚約者が聞いたら気絶しそうな話だ。ロジーナと一つしか違わないのに宝物のように育てられたルシェとは月とスッポン程の乖離がある。しかもルシェはロジーナと同じ伯爵家の令嬢だが、一人娘のロジーナとは対照的に嫡男である兄の下に生まれた三姉妹の次女という実に微妙なポジションだ。それでもルシェは誰からも可愛がられ愛され大切にされてきた。
ルイザは燃えた。実際洗濯石鹸で洗っていたというのにロジーナの皮膚は滑らかできめ細やかだ。これは生まれ持っての肌の美しさによるものだろう。ということは、涙に被れたこのカサカサの顔だって手入れをすれば本来の美しさを取り戻すに違いないし、手をかければ掛けるほど輝きを増す可能性大。そして今はゴワゴワの銀髪もしっかりと櫛を入れ丁寧に扱えばするんとした手触りの良い髪になり艶も出てくるだろう。
ぞんざいに扱われてきたロジーナ様を必ずや自分の手で蘇らせるのだ。ルイザの瞳はギラギラと怪しい光を湛えていた。
「ロジーナ様、新しい朝が来たんですのよ」
「新しい朝、ですか?」
ルイザはロジーナの髪を漉きながら頷いた。
「ええ、希望の朝ですの。これからロジーナ様はよろこびに胸を開いて、それから大空を仰ぐのですわ。もう俯くのは禁止です」
「??」
昨夜よりは多少腫れが引き若干開きが広くなっている目をシバシバとさせ、健気に何を言われたのかを考えているロジーナにルイザは優しく声を掛けた。
「ロジーナ様の今までとは違う日々が始まったということですわ。でもね、無理なさらずにゆっくりと新しい暮らしに慣れてくださればそれで良いのです。焦る必要はありませんし、上手くいかなくたって誰も困らず迷惑もしませんわ。ここにいる誰も彼もがロジーナ様に構いたくてウズウズしておりますの。それが彼らの望みなんですから受け入れてやって下さいませね」
「本当にそれが原因となって後に叱責されたり解雇になったりはしませんか?」
「はい。どうぞご安心なさいませ」
穏やかに微笑むルイザの顔を見てロジーナは心底安心したようだった。デキる女ルイザ、ロジーナの扱い方の要領を得たらしい。
髪の手入れが終わった頃若いメイドがやってきた。
「ジェニーです。ロジーナ様と同じ歳なのですよ。ヘアメイクは彼女が担当いたしますわ。今の流行りをよく勉強しておりますからね」
お辞儀をするジェニーにロジーナはおずおずと声を掛けた。
「ロジーナです。人に髪を整えて貰った事がないので……その、こうして欲しいということはどんどん教えて下さるとありがたいのだけれど。私、何もわからないので……」
ルイザは目を見張った。
戸惑いつつもロジーナは自分から声を掛けた。つまり自分の立ち位置を正確に理解しどう振舞えば良いか的確に判断したということだ。そうでなければメイドであるジェニーはいつまでもロジーナに何か言われるのを待たなければならないのだから。
ジェニーは安心したようににこりと笑った。
「ジェニーと申します。髪型のご希望はございますでしょうか?それと、メイクは肌荒れが改善なさってからになさいますか?」
「お任せしても良いですか?」
ジェニーは承知いたしましたと返事をするとブラシで髪を漉き始めたが、不意にその手を止め目を丸くしてルイザを見つめた。そしてルイザはそうなのよ、とでも言うように目配せを返した。手の平に乗った髪は鋏でザクザクと刈り取ったかのように歪で不揃いなのだ。
「お嬢様、御髪はどなたが切っていらしたのですか?」
「伸びて洗ったり乾かしたりしにくいなと思ったら自分で切っておりました」
「「自分で?!」」
ルイザとジェニーが同時に叫んだのでロジーナは慌てて涙ぐんだ。
「いけませんでしたか?そのせいで作業に支障が出ているのでしょうか?でしたら余計な事をしてごめんなさい。でも伸びた髪が父の気に触ると結局切られてしまいますので早め早めを心掛けていたんです」
「それってまさか、お父様が自ら鋏を握ってジョキジョキと乱暴に切ってしまうのではありませんわよね?」
返事を聞くまでは冷静であらねばと自分に言い聞かせるルイザの表情は、残念ながら既にお怒りモードになっている。ロジーナは恐る恐る返事をした。
「ジョキジョキ……なのかしら?髪を後ろで一掴みにして鋏で切っておりましたけれど、何分にも私からは見えないので詳しいことは……」
ルイザは天井を見上げジェニーは目眩を覚え足元がふらついた。
ルイザは一旦この話題から逸れた方が良いと判断し、ジェニーに編み込んで結い上げて欲しいと指示をした。このままロジーナのろくでもない父親の話を聞き続けたらドカンと爆発しかねない。そうなればロジーナは自分のせいだと泣く、絶対に泣く。それよりも先ずはロジーナに穏やかな生活とはどんな物かを教えるのが先だ。ルイザが編み込んで結い上げて欲しいと指示をするとジェニーは心得たとばかりにブラシを動かしはじめた。
「今日は足りないお洋服を誂える為にドレスサロンのマダムが参りますのでアヒルのお世話は明日からになります。外出用のワンピースを何枚か仕立てて貰いますからね」
ルイザに鏡越しにそう言われたロジーナは、くるりと振り向いた。
「外出?」
「はい。アヒルのお世話がしやすいような物を予め何枚かご用意いたしましたけれど、あれでは何処にも出掛けられませんもの」
何気なく答えたルイザだったが落ち着け落ち着けと言い聞かせるように大きな呼吸を繰り返し上下するロジーナの肩を目にしてギョっとした。更に両手を組み合わせ鳩尾を押さえるようにして身体を丸めてしまったロジーナの様子に息を呑んだ。
こ、これは……心臓発作?それとも過呼吸?!それなら処置はどうすれば……と素早く考えを巡らせたルイザであったが、ロジーナはしなった枝が元に戻るように丸めていた背筋をシュッと伸ばしグスンと鼻を啜ると失礼しましたと頭を軽く下げて鏡に向き直った。
ーー多分、多分だけれど、涙を堪えたのよね?
「ロジーナ様。もしかして……外出が何たるか、ご存知ない……かしら?」
精一杯優しく、そして恐る恐る尋ねるルイザに鏡越しのロジーナはブンと首を横に振った。しかしルイザの安堵の溜息は続けられたロジーナの言葉に引っ込んだ。
「父や義母や義母の娘さんは外出しておりましたわ。私が屋敷から出るのは領地に送られる時だけですし、領地では領主館の敷地から出るのは禁じられていましたので経験は無いのですが」
外出を、まるでどんな物か聞いたことはあるが食べた事はない珍味のように語るロジーナはそれまでと打って変わって飄々としていた。羨ましいとか自分も外に出てみたい等と思ったことすら無かったのか?この様子だとどうやらそのようだ。
ルイザは密かに拳を固めた。マダムにせっついてワンピースの仕上がりを早めさせよう。そして一刻も早くロジーナに外出の楽しさを教えなければ。
ジェニーは不揃いな毛先が目立たぬように髪を編み込んで結い上げた。その間にルイザは落ち着いた水色のワンピースを選び、ヘアセットを終えたロジーナを着替えさせた。すっきり纏められた髪型はロジーナのほっそりとした首筋を際立てる。この優雅に伸び上がるような頭の上げ方は何度見ても際立って美しく、もう既に後ろ姿美人としては十二分のクオリティだわ、とロジーナの背後でルイザは思わずニヤついた。
丁度その時シャファルアリーンベルドとレイが朝食の時間だと呼びにきたのでロジーナを任せようとしたのだが、ルイザはもう一度ニヤつき、そして表情を消してからシャファルアリーンベルドに話しかけた。
「昨日のご案内だけでは不十分でしょうからもう一度おさらいしながらダイニングに参ります。シャファルアリーンベルド様は後ろから付いて来て下さいませ。さ、ロジーナ様」
ロジーナは僅かに首を傾げたもののおさらいするからにはしっかり覚えねばと心したようでさっさと歩き出したルイザをトトトッと追いかけた。そしてその後ろからは思いっきり大きく首を傾げるシャファルアリーンベルドとレイが続く。
「見てみろ、あのか細い首を。絞められて毛を毟られ調理を待つ鶏のような細さではないか。当然身体は鳥ガラであって然るべきだろうに、それなのにどうしてああもふわふわするんだ?」
残念ながらルイザの思惑通りにはならずシャファルアリーンベルドはヒソヒソと失礼極まりない疑問をレイに呈していた。ロジーナの立ち居振る舞いの美しさは確かに際立つ見事さだったのだが、なんてったってシャファルアリーンベルドは気高き王妃である母の元に生まれた王子様。物心つく前から名実共にクイーンオブ立ち居振る舞いである母の所作をなんの気無しに何気なーく眺めて育つというちょっと特殊な経歴の持ち主なのだ。見慣れているから美しい所作に何かを感じたりはしないがその分ちょっとでもガサツだと相手の評価が急降下する。そしてそれこそが婚約者が決められない最大の要因になっていて、目下無自覚に周りを悩ませているのである。
ルイザの狙った成果はあげられぬまま一行はダイニングに入り席についた。
朝食が運ばれて来るとルイザがウキウキと話し始めた。
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