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65.契約の終わり(5)
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「えーっと、ここが堀川通だからー……もう少し西かな?」
京都市内に到着した私は、スマホの地図を頼りにぶつぶつと独り言をこぼしながら目的地を目指す。寿々音さんのいる池芳軒は市街地のちょうど真ん中へんにあるらしく、複雑な通り名に首を傾げながら街中を歩いていた。
地図を傾けたりひっくり返したりしながら進んでいくと、ようやく目当てである『池芳軒』の看板が見えてきた。ほっと一安心して、古いながらも立派な造りをしたその店に足を踏み入れた。
「あのー、すみません。柳町寿々音さんと約束しているのですが、こちらにいらっしゃいますか……?」
池芳軒は、まさに老舗という言葉がぴったりの歴史ある建物だった。その店の中へ恐る恐る入った私は、店頭に立っていた店員さんに声をかける。すると彼女は、優しげな笑みを見せながら「少々お待ちください」と言って店の奥へ下がっていった。
待っている間、ショーケースに並ぶ美しい和菓子や趣のある調度品をしげしげと眺める。するとすぐに、聞き覚えのある高い声が奥から聞こえてきた。
「あらあら。ほんまに来はったんやねぇ、伊勢山美雨さん?」
「あ……寿々音、さん」
店の奥から現れたのは、春らしい華やかな桜柄の着物に身を包んだ寿々音さんだった。
彼女はゆったりとした動作で私に近づくと、「こちらへどうぞ」とこれまたゆったりとした口調で私を店の奥へと誘った。彼女の後に着いていきながら、靴を脱ぎ木造の廊下を進んでいく。その先には、綺麗に整えられた前栽を眺められるように造られた広い座敷があった。
「すごい……お店の奥に、こんな日本庭園があるんですね」
「日本庭園て。こぉんな小さい坪庭、ごまんとあるえ。あなた、京都は初めて来はったん?」
「えっと、修学旅行で来ただけです。今日も、こちらに来るまでに迷子になりそうで……」
「ふふ、せやろねぇ。特にうちは、西陣のややこしいとこにあるから」
心なしか自慢げな口ぶりで言うと、寿々音さんは座敷の中へと入り、準備してあった座布団に座る。私もその向かいに座ると、タイミングを見計らっていたかのように年配の女性が二人分のお茶を運んできた。
ぺこりと頭を下げ、寿々音さんにならうようにそっとそのお茶に口を付ける。緊張していてあまり味がわからないが、たぶん高級な緑茶なのだろう。それにこの湯呑み茶碗だって、値段を聞いたら震え上がるような代物に違いない。
「――それで? わざわざここまで来はったいうことは、やっと晶さんと離婚する気ぃにならはったん?」
湯呑みを置いた寿々音さんが、鋭い眼差しでこちらを見つめながら口を開いた。
その視線に少し怖気付きながらも、私も姿勢を正してまっすぐ彼女を見据える。
「……はい。近いうちに、晶とは離婚しようと思ってます」
震えそうになるのを堪えながら、私ははっきりと言い切った。
ここに来るまでの間、ずっと心の中でこの言葉を唱えてきた。やっぱりまだ晶と一緒にいたい、と心が揺れそうになったが、その気持ちを押し込めながらやっとの思いでここに辿り着いたのだ。口に出しても、もう後悔はない。
しかし、そんな私の決死の答えを聞いて、寿々音さんはこれでもかというほど目を丸くした。
「は……はあ!? どういうこと!? 離婚します、て! あなた、この前は私が何を言うても『あかん』の一点張りやったやないの!!」
突然大声を上げた寿々音さんに、私も目を丸くする。
予想とは違った彼女の反応に困惑していると、彼女もまた戸惑ったように私を問い詰めてくる。
「ちょお、このひと月の間に何があったん? 晶さんと仲違いでもしはったん?」
「えっ……いえ、そういうわけではなくて」
「ほな何があったん!? びっくりするわ! 今日かて、『晶は渡さへん!』て啖呵切るためにうちまで乗り込んでくるんやー思うてたのに!」
寿々音さんはそう捲し立てると、「叫んだら喉乾いたわ」とぶつぶつ言いながらお茶を飲んでいる。寿々音さんの反応には私も驚いたが、かといって決意が揺らぐことはない。彼女がふうと息をついたところで、私はもう一度背筋を伸ばして彼女に告げた。
「さっき言った通り、私は晶と離婚します。でも、寿々音さんには、晶との結婚を諦めていただきたいんです」
「は……? それは、どういうこと?」
眉根を寄せる寿々音さんに、私は今日までの出来事を順々に話すことにした。
晶を守るために「離婚しない」とは言ったが、彼には他に好きな人がいるということ。その本当に好きな人と結ばれてほしいから離婚はするが、寿々音さんにはもう晶に近づかないでほしいということ。
たどたどしく説明する私を、寿々音さんはじっと険しい顔で見つめている。そして話を終えると、彼女は低い声でぼそりと言った。
「……なんなん、それ。晶さんはあなたの気持ちを弄んでた、いうことやんか!」
「えっ」
「そうやろ!? 自分から偽装結婚なんて提案しておきながら、他に好きな人ができたやなんてどういうこと!? そこはお互いに気持ちを自覚してから、『ほんまの夫婦になろう』いうのが王道の展開と違うん!?」
「えっ……え? す、寿々音さん……?」
京都市内に到着した私は、スマホの地図を頼りにぶつぶつと独り言をこぼしながら目的地を目指す。寿々音さんのいる池芳軒は市街地のちょうど真ん中へんにあるらしく、複雑な通り名に首を傾げながら街中を歩いていた。
地図を傾けたりひっくり返したりしながら進んでいくと、ようやく目当てである『池芳軒』の看板が見えてきた。ほっと一安心して、古いながらも立派な造りをしたその店に足を踏み入れた。
「あのー、すみません。柳町寿々音さんと約束しているのですが、こちらにいらっしゃいますか……?」
池芳軒は、まさに老舗という言葉がぴったりの歴史ある建物だった。その店の中へ恐る恐る入った私は、店頭に立っていた店員さんに声をかける。すると彼女は、優しげな笑みを見せながら「少々お待ちください」と言って店の奥へ下がっていった。
待っている間、ショーケースに並ぶ美しい和菓子や趣のある調度品をしげしげと眺める。するとすぐに、聞き覚えのある高い声が奥から聞こえてきた。
「あらあら。ほんまに来はったんやねぇ、伊勢山美雨さん?」
「あ……寿々音、さん」
店の奥から現れたのは、春らしい華やかな桜柄の着物に身を包んだ寿々音さんだった。
彼女はゆったりとした動作で私に近づくと、「こちらへどうぞ」とこれまたゆったりとした口調で私を店の奥へと誘った。彼女の後に着いていきながら、靴を脱ぎ木造の廊下を進んでいく。その先には、綺麗に整えられた前栽を眺められるように造られた広い座敷があった。
「すごい……お店の奥に、こんな日本庭園があるんですね」
「日本庭園て。こぉんな小さい坪庭、ごまんとあるえ。あなた、京都は初めて来はったん?」
「えっと、修学旅行で来ただけです。今日も、こちらに来るまでに迷子になりそうで……」
「ふふ、せやろねぇ。特にうちは、西陣のややこしいとこにあるから」
心なしか自慢げな口ぶりで言うと、寿々音さんは座敷の中へと入り、準備してあった座布団に座る。私もその向かいに座ると、タイミングを見計らっていたかのように年配の女性が二人分のお茶を運んできた。
ぺこりと頭を下げ、寿々音さんにならうようにそっとそのお茶に口を付ける。緊張していてあまり味がわからないが、たぶん高級な緑茶なのだろう。それにこの湯呑み茶碗だって、値段を聞いたら震え上がるような代物に違いない。
「――それで? わざわざここまで来はったいうことは、やっと晶さんと離婚する気ぃにならはったん?」
湯呑みを置いた寿々音さんが、鋭い眼差しでこちらを見つめながら口を開いた。
その視線に少し怖気付きながらも、私も姿勢を正してまっすぐ彼女を見据える。
「……はい。近いうちに、晶とは離婚しようと思ってます」
震えそうになるのを堪えながら、私ははっきりと言い切った。
ここに来るまでの間、ずっと心の中でこの言葉を唱えてきた。やっぱりまだ晶と一緒にいたい、と心が揺れそうになったが、その気持ちを押し込めながらやっとの思いでここに辿り着いたのだ。口に出しても、もう後悔はない。
しかし、そんな私の決死の答えを聞いて、寿々音さんはこれでもかというほど目を丸くした。
「は……はあ!? どういうこと!? 離婚します、て! あなた、この前は私が何を言うても『あかん』の一点張りやったやないの!!」
突然大声を上げた寿々音さんに、私も目を丸くする。
予想とは違った彼女の反応に困惑していると、彼女もまた戸惑ったように私を問い詰めてくる。
「ちょお、このひと月の間に何があったん? 晶さんと仲違いでもしはったん?」
「えっ……いえ、そういうわけではなくて」
「ほな何があったん!? びっくりするわ! 今日かて、『晶は渡さへん!』て啖呵切るためにうちまで乗り込んでくるんやー思うてたのに!」
寿々音さんはそう捲し立てると、「叫んだら喉乾いたわ」とぶつぶつ言いながらお茶を飲んでいる。寿々音さんの反応には私も驚いたが、かといって決意が揺らぐことはない。彼女がふうと息をついたところで、私はもう一度背筋を伸ばして彼女に告げた。
「さっき言った通り、私は晶と離婚します。でも、寿々音さんには、晶との結婚を諦めていただきたいんです」
「は……? それは、どういうこと?」
眉根を寄せる寿々音さんに、私は今日までの出来事を順々に話すことにした。
晶を守るために「離婚しない」とは言ったが、彼には他に好きな人がいるということ。その本当に好きな人と結ばれてほしいから離婚はするが、寿々音さんにはもう晶に近づかないでほしいということ。
たどたどしく説明する私を、寿々音さんはじっと険しい顔で見つめている。そして話を終えると、彼女は低い声でぼそりと言った。
「……なんなん、それ。晶さんはあなたの気持ちを弄んでた、いうことやんか!」
「えっ」
「そうやろ!? 自分から偽装結婚なんて提案しておきながら、他に好きな人ができたやなんてどういうこと!? そこはお互いに気持ちを自覚してから、『ほんまの夫婦になろう』いうのが王道の展開と違うん!?」
「えっ……え? す、寿々音さん……?」
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