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二、いただきますの、その前に
1.めしあがれ
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「ねえ、おにいちゃん。ここでなにしてるの?」
ふと聞こえてきた無邪気なその声に、僕は気付かないふりをするのも忘れて振り向いてしまった。
そこにいたのは僕の腰ほどもない背丈の少女で、好奇心からかきらきらと目を輝かせてこちらを見つめている。
「……しまった。見られちゃったか。これだから生身は面倒なんだよねぇ」
「なまみ?」
こてん、と首を傾げる幼い仕草に苦笑しながら、もう見られてしまったものは仕方ないと諦めることにする。本来、こうして人間に姿を見せることはあまり褒められたことではないのだ。
「まあ、きみにならいいか。いくつ?」
「えっと、ひかりはね、このまえよんさいになったの!」
「ふうん。ひかりっていうのは、きみの名前?」
「そうだよ! おにいちゃんのおなまえは?」
古びた社殿の石段に座っていた僕の隣に、ひかりがごく当たり前のように腰を下ろす。警戒心は皆無のようで、僕と彼女の距離はほぼ無いに等しい。幼児らしい、花の蜜のような甘い匂いがした。
「……名前、か。僕はこれでも、千歳を生きる神世の者だからね。そう簡単には教えられないなぁ」
ちょっとした悪戯心で、僕はそんな答えを返した。まだ四つのひかりはその言葉の意味が理解できないようで、またこてんと首を傾げる。
別に名を教えたところで何の問題も無いのだが、この幼い少女が口にするにはいささか難しいだろう。だから適当に誤魔化したつもりだったけれど、ひかりは少し考えるような素振りを見せてから、明るい口調で僕に言った。
「じゃあ、ちとせ!」
「……え?」
「だって、よくわかんないんだもん。ちとせってよんでいい?」
「なにそれ。適当すぎない?」
「そう? じゃあ、ミヨにする? でも、おともだちにもミヨちゃんっているからなぁ」
困ったなあ、なんて呟きながら、ひかりがその小さな顎に手を当てて考え込む。
大人びたそんな仕草がなんだかおかしくて、僕は思わず笑った。
「千歳でいいよ。そう呼んで」
「いいの?」
「うん。きみだけ、特別にね」
ひかりは目を輝かせながら、もう一度僕の名を呼んだ。ちとせ、と、確認するように。
「ちとせは、ここで何してたの?」
「別に何も。暇だから、神世……えーと、神がいる世界から降りてきたんだ。でも、現世も特に面白くないね」
「かみ? かみって、神様のこと?」
「うん、そう。僕はその神様ってやつだよ、末端もいいところだけど」
農業がさかんなこの土地にあり、人々の五穀豊穣の願いを叶えるために存在するのが僕だ。少し前まではこの古びた社殿にも人間たちが日参し、供物を捧げ、秋の収穫が終われば祭りなんかも開かれていたけれど、いつの間に忘れ去られたのか、今では信心深い老人が時折訪れるばかりになった。ひかりのような幼い人間がやってくるのも、久方ぶりのことであった。
そしてその久しぶりの来訪者は、僕の言葉を聞いてさらに目を輝かせた。まるで冬の夜空に輝く星のようだと、思わず目を細めてしまうほどに。
「すごい! ちとせ、神様なの!?」
「うん。驚いた?」
「うん! ひかり、はじめて会った! すごいすごい、神様ってやっぱりきれいなんだね!」
甲高い声でそう言うひかりがなんだかおかしくて、僕はぷっと笑い声を漏らした。彼女がどんな神様を想像していたかは知らないけれど、「やっぱり」ということは、僕はそれなりに彼女の想像通りの神様らしい姿をしていたらしい。
「……きれい、かあ。まあ、欲深い人間たちに比べたらまだ綺麗かもしれないね」
「ん? よく分かんないけど、ちとせはとってもきれいだよ! いいなあ、神様って」
「ちっともよくないよ。僕みたいな土地神は決められた場所から動けないし、つまらない時間を過ごすだけ。今じゃ人間の願いを叶える機会も減ったしね」
あからさまな愚痴を零すと、ひかりは首を傾げながら「ふうん」とだけ言った。よく分かっていないようだが、こうして誰かに愚痴を零すことなんて初めてだった僕は、たったそれだけのことで気を良くしていた。
「ちとせは、おねがいを叶えてくれるの?」
「うん、まあね。何でもできるわけじゃないけど」
「うわあ、すごい! じゃあね、ひかり、おねがいがあるの」
そう言うとひかりは、着ていた服の内懐から何やら取り出して手のひらに乗せた。それは小さな紫色の花で、彼女が付けたであろう赤いリボンでまとめられている。しかし、その花たちはどれも萎れかけていた。
「これ、ようちえんのにわに咲いてたの。おかあさんにあげようと思ってたのに、しわしわになっちゃった……」
「そりゃ、そんな所に入れておいたらそうなるだろうねぇ」
「うん……ちとせ、なおせる? おねがいしたいの」
手に持った花と同じようにしょんぼりしているひかりを見て、思わず笑いが漏れた。これまで人間たちのありとあらゆる願いを聞いてきたが、これほど無欲な願いなら目をつぶっていても叶えられる。
分かったよ、と頷くと、ひかりはぱあっと顔を輝かせた。そして、花を持ったひかりの手のひらに自分の手を重ねると、次の瞬間にはもう紫色の花弁が生き生きとした姿に変わっていた。
「わあっ……! すごい! お花、なおった!」
「うん。あんまり握り締めたら、また萎れるよ」
「あっ、そっか……そーっともたなきゃ」
力いっぱい握り締めていた手を慌てて緩めるひかりを見て、僕はまた笑みをこぼした。人間の願いを叶えることが僕の存在する意味ではあるけれど、こんな風に笑顔を見せてもらえるとやり甲斐があるというものだ。
「さて、もうすぐ日が暮れるよ。早く帰って、その花を見せてあげたら?」
「うん! ちとせ、ありがとう!」
本当に嬉しそうに礼を言って、ひかりはくるりと踵を返した。そして手を振って走って行ったかと思うと、少ししたところで立ち止まってこちらを振り返った。
「あっ、そうだ! ちとせ、何かおねがいごとある?」
「え……僕?」
「うん! お花なおしてくれたから、こんどはひかりがちとせのおねがい叶えてあげる!」
きらきらと輝いた瞳をして、ひかりがそう叫んだ。そんな彼女とは対照的に、僕はそのとき呆けた顔をしていたように思う。なぜなら、神である自分の願いを叶えようとしてくる人間なんて初めて見たからだ。
僕がこの世に生まれ出でてから、それこそ千年近くの年月が経つ。これまでも、こんな風に時たま人間に姿を見せることはあったけれど、皆自身の願いが叶えば早々に僕の前から去って行った。でも、それが当たり前だと思っていたし、見返りを求めようなんて考えたことも無かったのだ。
「ちとせ? ……おねがい、ないの?」
寂しげなひかりの声に、僕ははっとして顔を上げた。しばしの間、考え込んでいたらしい。
願い事なんてない、と返そうと思ったはずなのに、眉を下げて僕の返事を待っているひかりを見たら、ふと頭に浮かんだ願いが口を突いて出てしまった。
「温かいものが、食べたい」
「……え? あったかいもの? あったかかったら、なんでもいいの?」
「あ……うん」
我ながらおかしなことを言ってしまったと後悔したが、もう遅い。僕の答えを聞いたひかりは、嬉しそうに笑って大きく頷いた。
「わかった! ひかりのいちばん好きなたべもの、たべさせてあげる!」
「一番好きなもの?」
「うん! あした、もってくるから! ちとせ、あしたもここにいてね! ぜったいだからね!」
しつこく念を押してくるひかりに、僕は苦笑いしながらも頷いた。そしてひかりは大きく手を振りながら帰って行って、やっと普段通りの静寂が戻ってくる。
「……一番好きな食べ物か。本当に持ってくるつもりかな、あの子」
ひかりの去って行った方向を見つめながら、ぽつりと独り言を零す。あんなことを言ってはいたけれど、人間というものは総じて気まぐれだ。特に、あんな幼子ならなおさら。
でも、それでいい。こうしてほんの一時でも、あの子供は僕の無為な時間を埋めてくれた。
久しぶりに楽しい時間を過ごした僕は、上機嫌で社殿の中へと戻り、ぎしぎしと軋む床に寝転んだ。
「ちとせー! ちとせ、どこー!?」
ふと聞こえた甲高い声に、僕はぱっと目を開けた。そして起き上がって辺りを見回すと、格子の隙間からは明るい光が差し込んでいる。どうやら、社殿の中で寝転がったまま朝を迎えてしまったらしい。
のろのろと立ち上がって扉を開けると、そこには黄色い帽子を被ったひかりが目を輝かせて立っていた。
「あっ、ちとせいた! おはよう!」
「……おはよう。本当に来たんだ、きみ」
「もちろん! それで、これ! ひかりのいちばん好きなたべもの!」
ずいっと目の前に差し出されたのは、木で出来た椀だ。そこからは白い湯気が立ち上っていて、ほのかに味噌の香りが漂ってくる。
「……なにこれ?」
「おみそしる! あのね、ひかりんちで作ったおみそなの! 今日はね、あぶらげとねぎとにんじんとじゃがいもが入ってるよ!」
「ふうん……」
味噌汁という名前は聞いたことがあるけれど、こうして目にするのは初めてだった。人間たちが供物として奉納する食べ物といえば、酒や野菜、果物、それに味気ない団子ばかりで、こういった汁物は口にしたことがない。そもそも、こうして肉体を得ていなければ腹が減ることすら無いのだ。
僕は食べ物というものに興味があったから、昔からよくこうして生身の体に降りてきては奉納されたものを食べてみたり、野山に生えた実なんかを齧ってみたりもしていた。けれど、こんな風に湯気の立つくらい温かい食べ物は長い年月の中でも食べたことが無い。
「ちとせ? おみそしる、いやだった……?」
「いや……こんなに温かい食べ物は、食べたことが無いから」
「えっ、そうなの!?」
ひかりは僕の言葉に驚くと、持ってきた熱々の椀を平らな石段の上に置いた。そして内懐から半分飛び出していた箸を取り出して、それを僕に手渡す。
「あのね、ふーふーして食べればやけどしないよ!」
「ふーふー?」
「うん! ひかりもよくおかあさんにね、あっついからふーふーして食べなって言われるの。ここにね、ふーふーって息かけるんだよ」
食べてみて、と促され、僕は味噌汁の入った椀を手に取った。それは少し驚くくらい熱くて、幼いひかりがこれをわざわざ家から持ってきたのかと、もう一度驚いた。
そしてひかりに教わったとおり、椀に口を寄せて息を吹きかけてみる。そうしていると、隣に座ったひかりも同じようにふーふーと口を尖らせて息をしていた。
そんな彼女を見てふっと笑ってから、少し冷めたであろう椀に口をつける。そして、椀を傾けてその汁をごくりと飲み込んだ。
「……おいしい」
口に入れた瞬間、程よい温かさと塩気が舌に伝わった。そして飲み込んだ後は味噌の香りが鼻まで抜けて、僕は思わず声を漏らしていた。
「ね、おいしいでしょ! あぶらげも食べて! あと、ひかりはじゃがいもも好き! にんじんは、ちょっときらいだけど」
言われたとおり、油揚げを掬って食べてみる。それもやっぱりおいしくて、僕は夢中になって箸を動かした。そんな僕を、隣に座るひかりがにこにこと見つめている。
そして、なみなみと盛られていた味噌汁はあっという間に空になった。平らげた僕より満足そうな顔をしているひかりは、椀と箸を受け取ると何かを思い出したかのようにぱっと目を見開いた。
「もういかなきゃ! ようちえんのバスきちゃう! じゃあね、ちとせ!」
どうやら、もう「ようちえん」とやらに行く時間になってしまったようだ。慌てて立ち上がったひかりは、僕に手を振って神社を出て行こうとする。
黙って見送ろうとしたはずなのに、僕はなぜかその小さな手を掴んで引き留めていた。
「ちとせ……? どうしたの?」
「……あれ。どうしたんだろう……」
自分でしたくせに、その行動の意味が分からず首を傾げる。ひかりも不思議そうに僕を見つめていて、早く離してあげなくてはと分かってはいるけれど、何故かその手を離すことができない。
内心戸惑いながら、それでもひかりの手を握ったままでいると、彼女はにっこりと笑って僕に言った。
「だいじょうぶだよ! また来るから!」
「また……?」
「うん! ようちえんおわったら、また来る! いっしょにあそぼう!」
「……うん。分かった」
その言葉にほっとして、僕は握っていた手をようやく離した。そして、ひかりは今度こそ鳥居をくぐって走り去っていった。何度も僕の方を振り返っては、手を振りながら。
「また、来る……か」
先ほどまでひかりの手を握り締めていた自分の手をじっと見つめる。どうしてあんな風に彼女を引き留めたのか、理由は分からない。
でも、ひかりはまた来ると言った。それがこの上なく嬉しくて、僕は今まで感じたことのない幸福感の中にいた。
ふと聞こえてきた無邪気なその声に、僕は気付かないふりをするのも忘れて振り向いてしまった。
そこにいたのは僕の腰ほどもない背丈の少女で、好奇心からかきらきらと目を輝かせてこちらを見つめている。
「……しまった。見られちゃったか。これだから生身は面倒なんだよねぇ」
「なまみ?」
こてん、と首を傾げる幼い仕草に苦笑しながら、もう見られてしまったものは仕方ないと諦めることにする。本来、こうして人間に姿を見せることはあまり褒められたことではないのだ。
「まあ、きみにならいいか。いくつ?」
「えっと、ひかりはね、このまえよんさいになったの!」
「ふうん。ひかりっていうのは、きみの名前?」
「そうだよ! おにいちゃんのおなまえは?」
古びた社殿の石段に座っていた僕の隣に、ひかりがごく当たり前のように腰を下ろす。警戒心は皆無のようで、僕と彼女の距離はほぼ無いに等しい。幼児らしい、花の蜜のような甘い匂いがした。
「……名前、か。僕はこれでも、千歳を生きる神世の者だからね。そう簡単には教えられないなぁ」
ちょっとした悪戯心で、僕はそんな答えを返した。まだ四つのひかりはその言葉の意味が理解できないようで、またこてんと首を傾げる。
別に名を教えたところで何の問題も無いのだが、この幼い少女が口にするにはいささか難しいだろう。だから適当に誤魔化したつもりだったけれど、ひかりは少し考えるような素振りを見せてから、明るい口調で僕に言った。
「じゃあ、ちとせ!」
「……え?」
「だって、よくわかんないんだもん。ちとせってよんでいい?」
「なにそれ。適当すぎない?」
「そう? じゃあ、ミヨにする? でも、おともだちにもミヨちゃんっているからなぁ」
困ったなあ、なんて呟きながら、ひかりがその小さな顎に手を当てて考え込む。
大人びたそんな仕草がなんだかおかしくて、僕は思わず笑った。
「千歳でいいよ。そう呼んで」
「いいの?」
「うん。きみだけ、特別にね」
ひかりは目を輝かせながら、もう一度僕の名を呼んだ。ちとせ、と、確認するように。
「ちとせは、ここで何してたの?」
「別に何も。暇だから、神世……えーと、神がいる世界から降りてきたんだ。でも、現世も特に面白くないね」
「かみ? かみって、神様のこと?」
「うん、そう。僕はその神様ってやつだよ、末端もいいところだけど」
農業がさかんなこの土地にあり、人々の五穀豊穣の願いを叶えるために存在するのが僕だ。少し前まではこの古びた社殿にも人間たちが日参し、供物を捧げ、秋の収穫が終われば祭りなんかも開かれていたけれど、いつの間に忘れ去られたのか、今では信心深い老人が時折訪れるばかりになった。ひかりのような幼い人間がやってくるのも、久方ぶりのことであった。
そしてその久しぶりの来訪者は、僕の言葉を聞いてさらに目を輝かせた。まるで冬の夜空に輝く星のようだと、思わず目を細めてしまうほどに。
「すごい! ちとせ、神様なの!?」
「うん。驚いた?」
「うん! ひかり、はじめて会った! すごいすごい、神様ってやっぱりきれいなんだね!」
甲高い声でそう言うひかりがなんだかおかしくて、僕はぷっと笑い声を漏らした。彼女がどんな神様を想像していたかは知らないけれど、「やっぱり」ということは、僕はそれなりに彼女の想像通りの神様らしい姿をしていたらしい。
「……きれい、かあ。まあ、欲深い人間たちに比べたらまだ綺麗かもしれないね」
「ん? よく分かんないけど、ちとせはとってもきれいだよ! いいなあ、神様って」
「ちっともよくないよ。僕みたいな土地神は決められた場所から動けないし、つまらない時間を過ごすだけ。今じゃ人間の願いを叶える機会も減ったしね」
あからさまな愚痴を零すと、ひかりは首を傾げながら「ふうん」とだけ言った。よく分かっていないようだが、こうして誰かに愚痴を零すことなんて初めてだった僕は、たったそれだけのことで気を良くしていた。
「ちとせは、おねがいを叶えてくれるの?」
「うん、まあね。何でもできるわけじゃないけど」
「うわあ、すごい! じゃあね、ひかり、おねがいがあるの」
そう言うとひかりは、着ていた服の内懐から何やら取り出して手のひらに乗せた。それは小さな紫色の花で、彼女が付けたであろう赤いリボンでまとめられている。しかし、その花たちはどれも萎れかけていた。
「これ、ようちえんのにわに咲いてたの。おかあさんにあげようと思ってたのに、しわしわになっちゃった……」
「そりゃ、そんな所に入れておいたらそうなるだろうねぇ」
「うん……ちとせ、なおせる? おねがいしたいの」
手に持った花と同じようにしょんぼりしているひかりを見て、思わず笑いが漏れた。これまで人間たちのありとあらゆる願いを聞いてきたが、これほど無欲な願いなら目をつぶっていても叶えられる。
分かったよ、と頷くと、ひかりはぱあっと顔を輝かせた。そして、花を持ったひかりの手のひらに自分の手を重ねると、次の瞬間にはもう紫色の花弁が生き生きとした姿に変わっていた。
「わあっ……! すごい! お花、なおった!」
「うん。あんまり握り締めたら、また萎れるよ」
「あっ、そっか……そーっともたなきゃ」
力いっぱい握り締めていた手を慌てて緩めるひかりを見て、僕はまた笑みをこぼした。人間の願いを叶えることが僕の存在する意味ではあるけれど、こんな風に笑顔を見せてもらえるとやり甲斐があるというものだ。
「さて、もうすぐ日が暮れるよ。早く帰って、その花を見せてあげたら?」
「うん! ちとせ、ありがとう!」
本当に嬉しそうに礼を言って、ひかりはくるりと踵を返した。そして手を振って走って行ったかと思うと、少ししたところで立ち止まってこちらを振り返った。
「あっ、そうだ! ちとせ、何かおねがいごとある?」
「え……僕?」
「うん! お花なおしてくれたから、こんどはひかりがちとせのおねがい叶えてあげる!」
きらきらと輝いた瞳をして、ひかりがそう叫んだ。そんな彼女とは対照的に、僕はそのとき呆けた顔をしていたように思う。なぜなら、神である自分の願いを叶えようとしてくる人間なんて初めて見たからだ。
僕がこの世に生まれ出でてから、それこそ千年近くの年月が経つ。これまでも、こんな風に時たま人間に姿を見せることはあったけれど、皆自身の願いが叶えば早々に僕の前から去って行った。でも、それが当たり前だと思っていたし、見返りを求めようなんて考えたことも無かったのだ。
「ちとせ? ……おねがい、ないの?」
寂しげなひかりの声に、僕ははっとして顔を上げた。しばしの間、考え込んでいたらしい。
願い事なんてない、と返そうと思ったはずなのに、眉を下げて僕の返事を待っているひかりを見たら、ふと頭に浮かんだ願いが口を突いて出てしまった。
「温かいものが、食べたい」
「……え? あったかいもの? あったかかったら、なんでもいいの?」
「あ……うん」
我ながらおかしなことを言ってしまったと後悔したが、もう遅い。僕の答えを聞いたひかりは、嬉しそうに笑って大きく頷いた。
「わかった! ひかりのいちばん好きなたべもの、たべさせてあげる!」
「一番好きなもの?」
「うん! あした、もってくるから! ちとせ、あしたもここにいてね! ぜったいだからね!」
しつこく念を押してくるひかりに、僕は苦笑いしながらも頷いた。そしてひかりは大きく手を振りながら帰って行って、やっと普段通りの静寂が戻ってくる。
「……一番好きな食べ物か。本当に持ってくるつもりかな、あの子」
ひかりの去って行った方向を見つめながら、ぽつりと独り言を零す。あんなことを言ってはいたけれど、人間というものは総じて気まぐれだ。特に、あんな幼子ならなおさら。
でも、それでいい。こうしてほんの一時でも、あの子供は僕の無為な時間を埋めてくれた。
久しぶりに楽しい時間を過ごした僕は、上機嫌で社殿の中へと戻り、ぎしぎしと軋む床に寝転んだ。
「ちとせー! ちとせ、どこー!?」
ふと聞こえた甲高い声に、僕はぱっと目を開けた。そして起き上がって辺りを見回すと、格子の隙間からは明るい光が差し込んでいる。どうやら、社殿の中で寝転がったまま朝を迎えてしまったらしい。
のろのろと立ち上がって扉を開けると、そこには黄色い帽子を被ったひかりが目を輝かせて立っていた。
「あっ、ちとせいた! おはよう!」
「……おはよう。本当に来たんだ、きみ」
「もちろん! それで、これ! ひかりのいちばん好きなたべもの!」
ずいっと目の前に差し出されたのは、木で出来た椀だ。そこからは白い湯気が立ち上っていて、ほのかに味噌の香りが漂ってくる。
「……なにこれ?」
「おみそしる! あのね、ひかりんちで作ったおみそなの! 今日はね、あぶらげとねぎとにんじんとじゃがいもが入ってるよ!」
「ふうん……」
味噌汁という名前は聞いたことがあるけれど、こうして目にするのは初めてだった。人間たちが供物として奉納する食べ物といえば、酒や野菜、果物、それに味気ない団子ばかりで、こういった汁物は口にしたことがない。そもそも、こうして肉体を得ていなければ腹が減ることすら無いのだ。
僕は食べ物というものに興味があったから、昔からよくこうして生身の体に降りてきては奉納されたものを食べてみたり、野山に生えた実なんかを齧ってみたりもしていた。けれど、こんな風に湯気の立つくらい温かい食べ物は長い年月の中でも食べたことが無い。
「ちとせ? おみそしる、いやだった……?」
「いや……こんなに温かい食べ物は、食べたことが無いから」
「えっ、そうなの!?」
ひかりは僕の言葉に驚くと、持ってきた熱々の椀を平らな石段の上に置いた。そして内懐から半分飛び出していた箸を取り出して、それを僕に手渡す。
「あのね、ふーふーして食べればやけどしないよ!」
「ふーふー?」
「うん! ひかりもよくおかあさんにね、あっついからふーふーして食べなって言われるの。ここにね、ふーふーって息かけるんだよ」
食べてみて、と促され、僕は味噌汁の入った椀を手に取った。それは少し驚くくらい熱くて、幼いひかりがこれをわざわざ家から持ってきたのかと、もう一度驚いた。
そしてひかりに教わったとおり、椀に口を寄せて息を吹きかけてみる。そうしていると、隣に座ったひかりも同じようにふーふーと口を尖らせて息をしていた。
そんな彼女を見てふっと笑ってから、少し冷めたであろう椀に口をつける。そして、椀を傾けてその汁をごくりと飲み込んだ。
「……おいしい」
口に入れた瞬間、程よい温かさと塩気が舌に伝わった。そして飲み込んだ後は味噌の香りが鼻まで抜けて、僕は思わず声を漏らしていた。
「ね、おいしいでしょ! あぶらげも食べて! あと、ひかりはじゃがいもも好き! にんじんは、ちょっときらいだけど」
言われたとおり、油揚げを掬って食べてみる。それもやっぱりおいしくて、僕は夢中になって箸を動かした。そんな僕を、隣に座るひかりがにこにこと見つめている。
そして、なみなみと盛られていた味噌汁はあっという間に空になった。平らげた僕より満足そうな顔をしているひかりは、椀と箸を受け取ると何かを思い出したかのようにぱっと目を見開いた。
「もういかなきゃ! ようちえんのバスきちゃう! じゃあね、ちとせ!」
どうやら、もう「ようちえん」とやらに行く時間になってしまったようだ。慌てて立ち上がったひかりは、僕に手を振って神社を出て行こうとする。
黙って見送ろうとしたはずなのに、僕はなぜかその小さな手を掴んで引き留めていた。
「ちとせ……? どうしたの?」
「……あれ。どうしたんだろう……」
自分でしたくせに、その行動の意味が分からず首を傾げる。ひかりも不思議そうに僕を見つめていて、早く離してあげなくてはと分かってはいるけれど、何故かその手を離すことができない。
内心戸惑いながら、それでもひかりの手を握ったままでいると、彼女はにっこりと笑って僕に言った。
「だいじょうぶだよ! また来るから!」
「また……?」
「うん! ようちえんおわったら、また来る! いっしょにあそぼう!」
「……うん。分かった」
その言葉にほっとして、僕は握っていた手をようやく離した。そして、ひかりは今度こそ鳥居をくぐって走り去っていった。何度も僕の方を振り返っては、手を振りながら。
「また、来る……か」
先ほどまでひかりの手を握り締めていた自分の手をじっと見つめる。どうしてあんな風に彼女を引き留めたのか、理由は分からない。
でも、ひかりはまた来ると言った。それがこの上なく嬉しくて、僕は今まで感じたことのない幸福感の中にいた。
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