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一、いただきます
12.ごちそうさま
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息を切らして辿り着いたのは、幼い頃通い詰めていた森の中の神社──てんたるさんだった。
神社と呼ぶにはお粗末だが、それでも昔からこの地にある大切なものだと大人たちに教わってきた社だ。今もその社殿の前には誰かが置いたらしい杯と、小さな賽銭箱が残されている。
そしてその社殿の石段には、千歳が足を組みながら座っていた。
「……やあ、ひかり。どうしたの、そんなに慌てて」
息を乱した私を見て、千歳はいつものようにのんびりとした口調でそう言った。でも、その表情はいつもとは違って憂いを帯びているように見える。
「……千歳。どうして、ここにいるの?」
「どうしてって……逆に聞くけど、どうしてそんなことを聞くのかな」
「っ、ちゃんと答えて!」
思わず叫ぶと、千歳は困ったように笑いながら立ち上がる。そして、古びた社殿の柱をそっと撫でた。
「……懐かしいね。初めてひかりと会ったのは、もう何年前になるのかな」
ぽつりと呟かれたその言葉に、私は一瞬息をするのも忘れる。
千歳と初めて出会ったのは、あのビルの屋上だったはずだ。つらい激務と上司からの酷い仕打ちに耐え兼ね、死んでしまおうと思い至ったあの日、屋上から飛び降りようとした私を止めたのが千歳だった。
それなのに、もっと古い私の記憶の中に千歳がいたような気がするのだ。そしてその曖昧な記憶は、千歳の言葉で確信に変わった。
「きみが、まだ四つの頃だよ。暇つぶしに現世に降りてきた僕の姿を、うっかりきみに見られてしまった」
「よっ、つ……」
「そう。でも、今と大して変わらないよ。馬鹿正直で、怖がりなくせに変に気が強くて……そして、僕に教えてくれた」
千歳は社殿の傍から離れずに、どこか遠くを見ながら呟いた。その穏やかな笑みはいつもと変わらないはずなのに、どうしてこんなにも胸が騒ぐのだろう。
「教えてくれた、って……なにを?」
声を震わせそうになりながら、それでも私はしっかりと千歳を見据えて尋ねた。目を逸らしてはいけない気がした。一瞬でも目を逸らしたら、彼が私の前から消えてしまいそうな、そんな根拠のない予感がしたのだ。
でも、千歳は私を見ようとはせず、またぽつりと囁くような声で言った。
「味噌汁」
「……は?」
「きみは、家から温かい味噌汁を持ってきて、それを僕に食べさせてくれた。ひかりの、一番好きな食べ物なんだって言って」
「っ、あ……」
ひかりの、一番好きな食べ物。
そう聞いた瞬間、おぼろげだった記憶が急に鮮明になった。
幼い頃、一人で遊んでいるうちに迷い込んだこの社殿の前に、ぽつんと寂しげに座っていた千歳の姿。
千歳という名を教えてもらって、そして彼も私をひかりと呼んだ。
毎日がつまらないのだとぼやく彼に、少しでも幸せな気持ちになってもらいたくて、次の日私は家から一番好きな食べ物を持ってきて彼に差し出した。
温かい食べ物を食べるのは初めてだと言いながら、恐る恐るお椀に口をつけた千歳の表情。
そして、千歳は驚いたように呟いた。おいしい、と。
「それまで無為だった僕の時間を、ひかりが変えてくれた。人の願いを叶えることしかしてこなかった僕の願いを、きみだけが叶えようとしてくれた……それがどれだけ嬉しかったか、分かる?」
今にも泣きそうな表情で、千歳がそう言い募った。いつものらりくらりとしているくせに、今日の彼はなんだか違っていた。
感情を押し込めようとしているのか、時折きゅっと引き結ばれる口元。凛々しい眉も自信なさげに下がり、普段よりずっと儚く見える。
その姿は、まるで──。
「……ふふっ。こんな情けない顔、きみには見られたくなかったのに。まるで人間みたいだ」
人間みたい。そう思ったのは、千歳の表情が悲しみで満ちているせいだ。
どうしてそんな寂しげな顔をするのだろう。その理由に、考えなくとも簡単に辿り着いてしまう。
千歳は、きっと。
「……帰っちゃうの? 神様の、世界に」
「まあ……そんなところかな」
曖昧に答える千歳に、私は必死の表情で縋り付いた。いつの間に着替えたのか、私と一緒に買ったカッターシャツではなく、初めて出会った時と同じ白の狩衣に身を包んでいる。どうして今さらこれを着ているかなんて、怖くて聞けなかった。
「な……なんで? なんで、こんな急に帰らないといけないの!? だって、ずっと一緒にいるって……!」
「うん……ごめんね。でも、これでひかりは人間のままでいられるよ。家族と、仲直りできたんでしょう?」
「ちがうっ、そうじゃない! どうして、こんな急に帰ることになっちゃったの!?」
訳が分からなくて、私はここが外だということも忘れて叫んだ。
だって、千歳と私はずっと一緒にいられるはずだった。神である千歳とともにいることで、私は近いうちに神でも人間でもない半端な存在になる。でも、たとえ他の人には見えなくなったとしても、千歳がいてくれたらそれでいいと思っていたのだ。
それに、あのとき。海辺の掘立小屋で、二人して馬鹿みたいにびしょ濡れになりながら、確かに約束したはずだ。
「ずっと、大事にしてくれるって……っ、見捨てないで、一緒にいてくれるって、言った」
「……うん。そうだね。でも、無理みたい」
「そんな、そんなのっ……! 私を置いて帰っちゃうなんて、ひどいっ……!」
駄々をこねる子どものように、私は千歳の腕を掴んで叫んだ。
千歳は困った顔をして笑いながら、がたがたと震える私の拳にそっと手を添えて、またも残酷な事実を告げる。
「それがね、ひかり。僕があんまり言うことを聞かないから、神世のお偉いさんを怒らせちゃったらしいんだ。だから、神世には帰れない。現世にもいられない」
「えっ……? それなら、千歳はどこに……」
「どこにも行かない。ただ消えるだけだよ。この身も、意識も、記憶もすべて」
囁くような声で、千歳はそう言った。
その衝撃が大きすぎて、私は息を止めてただただ目を見開くことしかできなくなる。
「本当は、こんな風にずっと生身のままでいることも、自分の神域を離れることも重罪なんだって。ましてや、人間と体を繋げるなんてもってのほか」
「なっ……なんで、黙ってたのっ……?」
「だって言ってしまったら、ひかりは僕を受け入れてくれなかったでしょう? 僕は、神世で無意味に存在し続けるよりも、この一瞬をひかりと共に過ごしたかった。理由はそれだけだよ」
あの日、躊躇いがちに伸ばされた千歳の手を、私は振り払うべきだったのだろうか。千歳なんかに抱かれたくはないと、その体を突き飛ばしていたら、千歳はずっと私の隣にいてくれたのだろうか。
そもそも、自らの神域を離れることさえ罪だというのなら、千歳はこの旅を始めたときから既に罪を犯していたことになる。千歳の命と引き換えに、私が生きながらえたと言っても過言ではない。
「ちょっとくらいならここを離れてもいいかなって思ったけど、やっぱり駄目だったね。この辺りの農作物を見守るのも僕の役目だったけど、留守を狙われたみたいだ」
参ったな、なんて千歳は笑っているけれど、私はちっとも笑えなかった。
千歳には、ちゃんと役目がある。今はこんな風に寂れているけれど、てんたるさんは何百年も昔からこの地域を守ってきた社だ。私なんかと引き換えに失っていい存在ではない。
「……この前、別の神様が来たよね。あの人の言う通りにしてたら、千歳は消えなくて済んだの?」
聞かなくても分かる。あの時、彼女の言う通り神世に戻っていたなら、千歳が消える必要なんて無かったのだろう。それでもしこの先、一生千歳と会うことができなくとも、彼は神世のどこかで在り続くことができたのだ。
「うん、そうだね。あれが最終通告だったみたい」
「なっ……ば、ばかっ! なんであの時帰らなかったのよ!? そしたら消えなくて済んだんでしょ!?」
「そうだよ? でも、僕はそれよりもひかりとの旅を選んだ。それだけのことだよ」
「それだけって……っ! そんな、記憶も存在も消えるなんて、聞いてないっ……!」
落ち着いてよ、なんて千歳は言うけれど、落ち着けるわけがない。千歳がいなくなるなんて、考えただけで胸が張り裂けそうになる。
何も持たない私の手を引いて、ずっとそばにいてくれた千歳を、今さら突然奪われる。千歳の代わりなんてどこにもいないのに、神様はどうしてこんなに残酷なんだろう。
「……千歳が、いなくなるなら……っ、私、生きてたって何の意味もない……!」
いつの間にか、涙が溢れて頬を濡らしていた。これでは、本当に四つの頃と何も変わっていない。
千歳がいない世界で、ひとり生きていく。そんなこと、今の私にはできるわけがない。千歳が誰よりも一番よく分かっているはずなのに。
「……千歳が消えたら、私も死ぬ。今度こそ、死んでやる」
千歳と出会う前、屋上へ続く階段を上っていたときと同じ感情が押し寄せてくる。
生きていたって、良いことなんて一つもない。楽しいことなんてあるわけがない。苦しいことが続くだけならば、この世から消えてやる。
千歳が時間をかけて癒してくれたはずの心が、またみしみしと音を立てて壊れていくような気がした。
涙に濡れた瞳で千歳を見上げると、彼はまた困った顔をしながら私の肩にぽんと手を置いた。
「そんなこと言わないでよ。せっかく仲直りしたのに、親が悲しむよ」
「だって! だって、千歳、言ったじゃん! わたしがもう一度死にたくなったら、いつ死んでもいいって!」
「ああ……確かに、あの時はそう言った。でもね、ひかり」
追いすがる私の手に、千歳の手がそっと重なる。
そして身を屈めて、かさかさになった私の唇に口づけを落とす。それは一瞬触れるだけの、悲しくなるほど優しい口づけだった。
「ちと、せ……」
「あはっ、ひどい顔。みっともないなぁ」
「……いいもん。どうせ、もう死ぬんだから」
「だめだってば。いい? ひかり。そのみっともない顔のままでいいから、ちゃんと聞いて」
そんなふざけた言葉にも、今は言い返すことができなかった。私はひたすら千歳の赤い瞳をじっと見つめて、彼が消えないようにと服の裾をしっかりと握りしめていた。どこにも行かせない、消えるなら共にと、心に強く決めながら。
そして、ぼろぼろと涙を流す私の目をまっすぐ見据えて、千歳は言った。
「──生きて、ひかり。汚くも美しいこの現世で、みっともなく足掻いてみせて。僕は、そんなひかりを」
きっとどこかで、見ているから。
最後の言葉は、風に途切れて消えた。そして、瞬きをしているうちに千歳の姿も消えていた。
後に残ったのは、泣き崩れる私と、古びた社殿だけだった。
神社と呼ぶにはお粗末だが、それでも昔からこの地にある大切なものだと大人たちに教わってきた社だ。今もその社殿の前には誰かが置いたらしい杯と、小さな賽銭箱が残されている。
そしてその社殿の石段には、千歳が足を組みながら座っていた。
「……やあ、ひかり。どうしたの、そんなに慌てて」
息を乱した私を見て、千歳はいつものようにのんびりとした口調でそう言った。でも、その表情はいつもとは違って憂いを帯びているように見える。
「……千歳。どうして、ここにいるの?」
「どうしてって……逆に聞くけど、どうしてそんなことを聞くのかな」
「っ、ちゃんと答えて!」
思わず叫ぶと、千歳は困ったように笑いながら立ち上がる。そして、古びた社殿の柱をそっと撫でた。
「……懐かしいね。初めてひかりと会ったのは、もう何年前になるのかな」
ぽつりと呟かれたその言葉に、私は一瞬息をするのも忘れる。
千歳と初めて出会ったのは、あのビルの屋上だったはずだ。つらい激務と上司からの酷い仕打ちに耐え兼ね、死んでしまおうと思い至ったあの日、屋上から飛び降りようとした私を止めたのが千歳だった。
それなのに、もっと古い私の記憶の中に千歳がいたような気がするのだ。そしてその曖昧な記憶は、千歳の言葉で確信に変わった。
「きみが、まだ四つの頃だよ。暇つぶしに現世に降りてきた僕の姿を、うっかりきみに見られてしまった」
「よっ、つ……」
「そう。でも、今と大して変わらないよ。馬鹿正直で、怖がりなくせに変に気が強くて……そして、僕に教えてくれた」
千歳は社殿の傍から離れずに、どこか遠くを見ながら呟いた。その穏やかな笑みはいつもと変わらないはずなのに、どうしてこんなにも胸が騒ぐのだろう。
「教えてくれた、って……なにを?」
声を震わせそうになりながら、それでも私はしっかりと千歳を見据えて尋ねた。目を逸らしてはいけない気がした。一瞬でも目を逸らしたら、彼が私の前から消えてしまいそうな、そんな根拠のない予感がしたのだ。
でも、千歳は私を見ようとはせず、またぽつりと囁くような声で言った。
「味噌汁」
「……は?」
「きみは、家から温かい味噌汁を持ってきて、それを僕に食べさせてくれた。ひかりの、一番好きな食べ物なんだって言って」
「っ、あ……」
ひかりの、一番好きな食べ物。
そう聞いた瞬間、おぼろげだった記憶が急に鮮明になった。
幼い頃、一人で遊んでいるうちに迷い込んだこの社殿の前に、ぽつんと寂しげに座っていた千歳の姿。
千歳という名を教えてもらって、そして彼も私をひかりと呼んだ。
毎日がつまらないのだとぼやく彼に、少しでも幸せな気持ちになってもらいたくて、次の日私は家から一番好きな食べ物を持ってきて彼に差し出した。
温かい食べ物を食べるのは初めてだと言いながら、恐る恐るお椀に口をつけた千歳の表情。
そして、千歳は驚いたように呟いた。おいしい、と。
「それまで無為だった僕の時間を、ひかりが変えてくれた。人の願いを叶えることしかしてこなかった僕の願いを、きみだけが叶えようとしてくれた……それがどれだけ嬉しかったか、分かる?」
今にも泣きそうな表情で、千歳がそう言い募った。いつものらりくらりとしているくせに、今日の彼はなんだか違っていた。
感情を押し込めようとしているのか、時折きゅっと引き結ばれる口元。凛々しい眉も自信なさげに下がり、普段よりずっと儚く見える。
その姿は、まるで──。
「……ふふっ。こんな情けない顔、きみには見られたくなかったのに。まるで人間みたいだ」
人間みたい。そう思ったのは、千歳の表情が悲しみで満ちているせいだ。
どうしてそんな寂しげな顔をするのだろう。その理由に、考えなくとも簡単に辿り着いてしまう。
千歳は、きっと。
「……帰っちゃうの? 神様の、世界に」
「まあ……そんなところかな」
曖昧に答える千歳に、私は必死の表情で縋り付いた。いつの間に着替えたのか、私と一緒に買ったカッターシャツではなく、初めて出会った時と同じ白の狩衣に身を包んでいる。どうして今さらこれを着ているかなんて、怖くて聞けなかった。
「な……なんで? なんで、こんな急に帰らないといけないの!? だって、ずっと一緒にいるって……!」
「うん……ごめんね。でも、これでひかりは人間のままでいられるよ。家族と、仲直りできたんでしょう?」
「ちがうっ、そうじゃない! どうして、こんな急に帰ることになっちゃったの!?」
訳が分からなくて、私はここが外だということも忘れて叫んだ。
だって、千歳と私はずっと一緒にいられるはずだった。神である千歳とともにいることで、私は近いうちに神でも人間でもない半端な存在になる。でも、たとえ他の人には見えなくなったとしても、千歳がいてくれたらそれでいいと思っていたのだ。
それに、あのとき。海辺の掘立小屋で、二人して馬鹿みたいにびしょ濡れになりながら、確かに約束したはずだ。
「ずっと、大事にしてくれるって……っ、見捨てないで、一緒にいてくれるって、言った」
「……うん。そうだね。でも、無理みたい」
「そんな、そんなのっ……! 私を置いて帰っちゃうなんて、ひどいっ……!」
駄々をこねる子どものように、私は千歳の腕を掴んで叫んだ。
千歳は困った顔をして笑いながら、がたがたと震える私の拳にそっと手を添えて、またも残酷な事実を告げる。
「それがね、ひかり。僕があんまり言うことを聞かないから、神世のお偉いさんを怒らせちゃったらしいんだ。だから、神世には帰れない。現世にもいられない」
「えっ……? それなら、千歳はどこに……」
「どこにも行かない。ただ消えるだけだよ。この身も、意識も、記憶もすべて」
囁くような声で、千歳はそう言った。
その衝撃が大きすぎて、私は息を止めてただただ目を見開くことしかできなくなる。
「本当は、こんな風にずっと生身のままでいることも、自分の神域を離れることも重罪なんだって。ましてや、人間と体を繋げるなんてもってのほか」
「なっ……なんで、黙ってたのっ……?」
「だって言ってしまったら、ひかりは僕を受け入れてくれなかったでしょう? 僕は、神世で無意味に存在し続けるよりも、この一瞬をひかりと共に過ごしたかった。理由はそれだけだよ」
あの日、躊躇いがちに伸ばされた千歳の手を、私は振り払うべきだったのだろうか。千歳なんかに抱かれたくはないと、その体を突き飛ばしていたら、千歳はずっと私の隣にいてくれたのだろうか。
そもそも、自らの神域を離れることさえ罪だというのなら、千歳はこの旅を始めたときから既に罪を犯していたことになる。千歳の命と引き換えに、私が生きながらえたと言っても過言ではない。
「ちょっとくらいならここを離れてもいいかなって思ったけど、やっぱり駄目だったね。この辺りの農作物を見守るのも僕の役目だったけど、留守を狙われたみたいだ」
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千歳には、ちゃんと役目がある。今はこんな風に寂れているけれど、てんたるさんは何百年も昔からこの地域を守ってきた社だ。私なんかと引き換えに失っていい存在ではない。
「……この前、別の神様が来たよね。あの人の言う通りにしてたら、千歳は消えなくて済んだの?」
聞かなくても分かる。あの時、彼女の言う通り神世に戻っていたなら、千歳が消える必要なんて無かったのだろう。それでもしこの先、一生千歳と会うことができなくとも、彼は神世のどこかで在り続くことができたのだ。
「うん、そうだね。あれが最終通告だったみたい」
「なっ……ば、ばかっ! なんであの時帰らなかったのよ!? そしたら消えなくて済んだんでしょ!?」
「そうだよ? でも、僕はそれよりもひかりとの旅を選んだ。それだけのことだよ」
「それだけって……っ! そんな、記憶も存在も消えるなんて、聞いてないっ……!」
落ち着いてよ、なんて千歳は言うけれど、落ち着けるわけがない。千歳がいなくなるなんて、考えただけで胸が張り裂けそうになる。
何も持たない私の手を引いて、ずっとそばにいてくれた千歳を、今さら突然奪われる。千歳の代わりなんてどこにもいないのに、神様はどうしてこんなに残酷なんだろう。
「……千歳が、いなくなるなら……っ、私、生きてたって何の意味もない……!」
いつの間にか、涙が溢れて頬を濡らしていた。これでは、本当に四つの頃と何も変わっていない。
千歳がいない世界で、ひとり生きていく。そんなこと、今の私にはできるわけがない。千歳が誰よりも一番よく分かっているはずなのに。
「……千歳が消えたら、私も死ぬ。今度こそ、死んでやる」
千歳と出会う前、屋上へ続く階段を上っていたときと同じ感情が押し寄せてくる。
生きていたって、良いことなんて一つもない。楽しいことなんてあるわけがない。苦しいことが続くだけならば、この世から消えてやる。
千歳が時間をかけて癒してくれたはずの心が、またみしみしと音を立てて壊れていくような気がした。
涙に濡れた瞳で千歳を見上げると、彼はまた困った顔をしながら私の肩にぽんと手を置いた。
「そんなこと言わないでよ。せっかく仲直りしたのに、親が悲しむよ」
「だって! だって、千歳、言ったじゃん! わたしがもう一度死にたくなったら、いつ死んでもいいって!」
「ああ……確かに、あの時はそう言った。でもね、ひかり」
追いすがる私の手に、千歳の手がそっと重なる。
そして身を屈めて、かさかさになった私の唇に口づけを落とす。それは一瞬触れるだけの、悲しくなるほど優しい口づけだった。
「ちと、せ……」
「あはっ、ひどい顔。みっともないなぁ」
「……いいもん。どうせ、もう死ぬんだから」
「だめだってば。いい? ひかり。そのみっともない顔のままでいいから、ちゃんと聞いて」
そんなふざけた言葉にも、今は言い返すことができなかった。私はひたすら千歳の赤い瞳をじっと見つめて、彼が消えないようにと服の裾をしっかりと握りしめていた。どこにも行かせない、消えるなら共にと、心に強く決めながら。
そして、ぼろぼろと涙を流す私の目をまっすぐ見据えて、千歳は言った。
「──生きて、ひかり。汚くも美しいこの現世で、みっともなく足掻いてみせて。僕は、そんなひかりを」
きっとどこかで、見ているから。
最後の言葉は、風に途切れて消えた。そして、瞬きをしているうちに千歳の姿も消えていた。
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