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一、いただきます
11.ただいま
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二両編成の短い列車を降りて、エレベーターもエスカレーターもない古びた駅舎の通路を渡る。一年前、今と同じように小さなボストンバッグ一つを抱えてこの駅に来た時のことを思い出して、自然と表情が固くなった。
「……駅は、壊れてないんだね」
「そうだねぇ。周りの家も、そこまで酷いようには見えないけど」
電車がこの駅に近付くにつれて、地元かあまりにも酷い有様だったらどうしようかと不安になっていた。けれど、駅周辺を見る限りそこまで大きな被害は無さそうでほっとする。私の実家の周りだけ、局地的に被害が大きかったのだろうか。
駅前にタクシーが常駐しているような都会ではないので、私たちは実家へと続く道を並んで歩いた。
道中、辺りをきょろきょろと見渡してみたけれど、新聞に書いてあったような甚大な被害は見受けられない。しかし実り始めた稲穂は薙ぎ倒され、りんご畑の地面には赤く色づき始めたばかりの実がいくつも落ちていた。天候ばかりはどうしようもないとはいえ、苦労してここまで育てた農家さんたちのことを思うと胸が痛む。
そんな田んぼと畑ばかりが広がる中、こんもりと置かれたかのように小さな森が見える。この森の中には小さな神社があって、幼い頃からよくお参りをしていたことを思い出した。
「懐かしいな……この森の中にある神社ね、てんたるさんっていうんだ。どうしてか知らないけど、変なお参りの仕方をしなきゃいけないんだよ」
「……へえ。どんな?」
「蛇なんかが出るから、森の中にある社には近付いちゃいけないの。だから参道の入り口で手を合わせて……あれ?」
千歳にお参りの仕方を教えようとして、ふと立ち止まる。視線の先に現れた景色が、私の見慣れたものとは違っていたからだ。
「鳥居が、倒れちゃってる……」
小走りで近寄ると、参道の入り口には木で出来た鳥居が見るも無残に倒れていた。これも元々古びた鳥居だったけれど、私がこの町を出るときは確かにここに建っていたのに。
「……きっと、これも台風で倒れたんだろうねぇ」
「そうだね……あ、ここ寄ってみる?」
「ううん、いい」
「あ、そっか。よその家には興味ないんだもんね」
倒れた鳥居を後にして、私たちはまた歩き出した。そこまで思い入れがあるわけではないけれど、見慣れた景色が変わってしまうのは何とも寂しいものである。
そして少しすると、懐かしい我が家が遠くに見えてくる。途端に、泣きたいような安心するような、不思議な気分になった。
「……もう、帰ってこないはずだったのになぁ。おかしいよね、自分から出てったくせに」
「まあ、事情が事情だからね。でも、きっと大丈夫だと思うよ。行っておいで」
我が家が見えたところで、千歳は一人立ち止まる。つい「一緒に来て」と言いそうになるのを堪えて、私はぎこちなく頷いた。
「千歳はどうするの? この辺り、時間潰せるような場所なんてないけど」
「僕のことは気にしなくていいよ。その辺をぶらついてるから、ゆっくりしておいで」
「……ゆっくり、させてもらえればね」
引きつった顔のまま笑うと、千歳が私の体を引き寄せて抱きしめる。びっくりして顔を見上げると、「大丈夫だよ」ともう一度励まされた。こんな時ばっかり大人な対応をするから困る。
でも、千歳のおかげで家に帰る勇気が出た気がする。私は小さく頷いて、久しぶりに家路を辿ることにした。
「た……ただい、ま……?」
びくびくしながら玄関の戸を開けると、懐かしい我が家の匂いがした。味噌と木の入り混じったような、清里家ならではの香りだ。
しんと静まった家の中はあまり変わっていなくて、私はほっとして荷物を降ろす。誰も出てこないけれど、蔵の方にいるのだろうか。
「はいはーい、お客さん? お待たせして……え?」
「あっ」
私が身を翻すのと同時に、パタパタと足音を立てて誰かがやってきた。ばっちり目が合ったその人は、お母さんだった。
「あ……あの、ただいま」
「ひっ……ひ、ひか、ひかり? ひかりよね?」
「う、うん……そんなに変わった?」
緊張をごまかすようにへらへらと笑うと、お母さんは急に泣き出しそうな顔になる。そしてスリッパを脱ぎ捨ててわたしに近付いたかと思うと、ものすごい力で抱きしめられた。
「うっ!? ちょ、くるしっ……」
「ひかりっ、ひかり!! もう、あんた何してたの! こんなに心配かけて、本当にっ、あんたって子はっ……!」
「え……あ、ごめ」
「おとうさーん!! お父さん、早く来て! ひかりが、ひかりが帰ってきたー!!」
わんわんとすごい勢いで泣き始めたお母さんは、大声でお父さんを呼んだ。するとすぐに玄関の戸が開いて、作業着姿のお父さんが目を剥いてやってくる。やっぱり蔵の方にいたようだ。
そして私の姿を見留めると、お母さんと同じように私に向かって叫んだ。
「この、バカ娘っ!! 連絡の一つも寄越さないで、今まで何してた!!」
「えっ……だ、だって、二度と帰ってくるなって」
「馬鹿野郎、本気なわけあるか! しばらくは自由にやらせようと思って放っとけば、ニュースでお前の会社が倒産したって言ってるし、どれだけ心配したと思ってる!」
あの会社はやっぱり潰れたのか、なんて変に落ち着き払って考えていると、お父さんまでもが私に縋り付いて泣き始めた。
落ち着いてよ、と二人を宥めながらまさかの展開に戸惑ったけれど、私は安心して緩む口元を抑えきれなかった。
「ほら。これ、お前のだろう」
「え……あれっ!? これ、私のスマホ!?」
やっと落ち着きを取り戻したお父さんが差し出してきたのは、私がどこかで落としたはずのスマホだった。千歳と旅を始めてすぐ落としたから、こうして手に取るのは久しぶりである。
「お前の会社の社長が逮捕されたって見て、慌てて電話かけたら知らない人が出たんだ。道端でお前の携帯を拾ったらしい」
「あ……うん、確かに落とした……」
「親だって言ったら、わざわざ家に送ってくれたんだぞ。交番に届けるより早いって……それよりお前、今までどこにいたんだ?」
まさか見ず知らずの男とおいしいものを食べ歩いていたとは言えず、私はスマホを手にしたまま押し黙った。しかもその男と一線を越えて、もうすぐ人間でもなくなるなんて言えるわけがない。というか、言ったところで信じてもらえないだろう。
黙りこくった私を見て、お母さんが苦笑しながら湯呑みに入ったお茶を置いてくれる。私のお気に入りだった、桜柄の湯呑みだ。
「お父さんとお母さんね、それからひかりのアパートに行ったのよ。なのにあんたはいないし、どうしようもなかったんだから」
「えっ!? な、なんでアパートの場所知ってるの!?」
「あはは、馬鹿ねぇ。あんたアパート借りるとき、保証人の欄にここの住所書いたでしょ? 書類やら何やら、ちゃんと届くんだから」
お母さんに笑われて、私はその場で小さく縮こまった。しばらくは自由にやらせるつもりだったと言っていたし、一人で何とか生活できているつもりだったけれど、最初から家族に見守られていたということか。
「そ、それより、大丈夫なの? 新聞見たよ。うちの蔵、台風で壊れたって……」
「ああ、あれね! なんだ、それで帰ってきてくれたの? 大丈夫よ、味噌樽はほとんど移した後だったから」
「へ……移した? ど、どこに?」
「あれ、来るとき見なかった? あの蔵の裏手に、先月新しく蔵を建てたばかりだったのよ。それで古い蔵は取り壊す直前だったから、大した痛手にならずに済んだの! 運が良かったわぁ」
あっけらかんと言い放つお母さんに、私は気が抜けて大きなため息をついた。ここまで来る間、家族の安否や蔵の行く末を心配し続けていたというのに、当の本人たちは呑気なものである。
「まあ、この前の台風は確かにひどかったけどなぁ。でも、報道されてるほど甚大な被害ってほどでもなかったな」
「そうそう。でも、うちの蔵が派手な壊れ方したから取り上げられちゃったのよ。建物より、農作物の被害の方が困っちゃうわ」
「そ、そうだよ。原料とかどうするの? 契約してる農家さんは……」
「それも何とかなるさ。いつもより収穫量は少ないが、こうなった時のこともちゃんと想定してるからな、農家さんだって」
お父さんはそう言って、それ以上のことは私に語らなかった。大丈夫だと手放しで言えるような状況ではないにしても、蔵の存続に響くほど大きな被害では無いようだ。
「それにしても、よかったわぁ。蔵が壊れたおかげでひかりが帰ってきたんだもの! 新聞に載ったから、色んな人が心配してくれるし、宣伝にもなるし」
「そ、そんな不謹慎な……」
やっぱりお母さんは呑気なもので、夕飯にお寿司でも取ろうか、なんてうきうきと話している。
そういえば、どこかで待ってくれている千歳はどうしよう。友達だと言えば、家に呼んでもいいものだろうか。
「……あ、そういえば。来る途中に見たけど、てんたるさんの鳥居も壊れてたね。あれは誰が直すの?」
「ああ、あれなぁ。あそこは随分と前から手入れする人がいないから、鳥居を建て直すのは無理そうだな」
「そうなんだ……ずっとお参りしてたのに、なんか寂しいね」
少し温くなったお茶を啜って、ふうと息をつく。すっかり緊張が解けた私は、懐かしい話をするように両親に尋ねた。
「ねえねえ、てんたるさんって、どうしてあんなお参りの仕方しなきゃいけないの? 『今日もおいしいものを食べられますように』って、よく考えたらおかしいよね」
そういえばさっき千歳に話しかけて忘れていたけれど、てんたるさんにはそういった独特のお参り方法があるのだ。
本当は森の中にある社殿にお参りしなければならないけれど、草だらけで蛇が出るから、鳥居の前でお参りする。その時に必ず、「今日もおいしいものを食べられますように」と、そう神様にお願いするのだ。
おばあちゃんか誰かに教わったんだっけ、と記憶を辿っていると、話を聞いていたお母さんが不思議そうに首を傾げた。
「何言ってるの。そうやってお参りし始めたの、ひかりじゃない」
「……え? わ、私……?」
「そうよ。年長さんに上がる頃だったかなぁ、一人で毎日あの神社に遊びに行ってたのよ。私たちには秘密にしてね」
お母さんのその言葉を聞いた瞬間、どくんと心臓が大きく鼓動した。
解けたはずの緊張が再び襲ってくるのと同時に、私の奥底で眠っていた記憶たちが少しずつ溢れ出るように蘇ってくる。
『こうやって僕と遊んだこと、他の人に言ってはいけないよ。僕とひかりだけの、秘密だからね』
幼稚園の制服を着た私は、あの神社で誰かと秘密の約束をした。
幼い私はその秘密を大事に大事に胸にしまって、それから決して漏らそうとはしなかった。
一体、誰と?
社殿と鳥居しかない、遊具も何もないあの神社で、私は誰と何をしていたの?
「ああ、そんなこともあったなぁ。あの時のひかりは幼稚園児のくせに反抗期だったのか、危ないっていうのになかなか言うこと聞かなくて困ったもんだ」
「そうそう。蛇が出るから危ないのよって言って聞かせたら、ある日ぱったり行くのをやめたけど」
どくん、どくんと、おかしいくらい心臓が跳ねる。頭もがんがんと痛んできた。
痛む頭を押さえながら、溢れ出てくる記憶を必死で辿る。
『──で、いいよ。そう呼んで。きみだけ、特別にね』
知らない男の声が頭に響いて、私は俯いてその痛みに耐える。いや、知らない男じゃない。この声を、私は知っている。
お父さんとお母さんは私の変化に気付いていないのか、煎餅を齧りながら楽しそうに話し続けている。
「そういえば俺も初めて知ったけど、『てんたるさん』って正式名称じゃないらしいな。ここらじゃみんな、あの神社のことそうやって呼んでるけど」
「あら、そうなの? 私も知らないわ」
「なんだったかな、この前の役員会で聞いたんだけど……ああ、そうだ」
──天足穂神社。
「天、足、さん……」
ぽつりと口に出してみて、私はがたがたと全身が震えていることに気付いた。そして、ここに着く前から感じていた嫌な予感が消えていないことにも同時に気付いて、無言のまま立ち上がる。
「ひかり? どうしたの?」
「……ちょっと、出かけてくる」
「えっ? 出かけるってどこに……ちょっと、ひかり!」
お母さんが呼び止める声も聞かずに、私は家を飛び出した。行き先はもう決まっていて、私は無心でそこに向けて走る。走りながら、私はようやく答えに辿り着いた。
今日も、おいしいものを食べられますように。
その願いの本当の意味を知らずに、私は今までずっとあの神社にお参りをしていたのだ。
『ちとせ、あしたは何がたべたい?』
『そうだなぁ……この日ノ本の国にある、おいしいもの全部かな』
──千歳が、今日もおいしいものを食べられますように。
まだ幼い私と、今と変わらない姿形の千歳との会話を思い出して、私はあの神社へ向けてひたすらに走った。
「……駅は、壊れてないんだね」
「そうだねぇ。周りの家も、そこまで酷いようには見えないけど」
電車がこの駅に近付くにつれて、地元かあまりにも酷い有様だったらどうしようかと不安になっていた。けれど、駅周辺を見る限りそこまで大きな被害は無さそうでほっとする。私の実家の周りだけ、局地的に被害が大きかったのだろうか。
駅前にタクシーが常駐しているような都会ではないので、私たちは実家へと続く道を並んで歩いた。
道中、辺りをきょろきょろと見渡してみたけれど、新聞に書いてあったような甚大な被害は見受けられない。しかし実り始めた稲穂は薙ぎ倒され、りんご畑の地面には赤く色づき始めたばかりの実がいくつも落ちていた。天候ばかりはどうしようもないとはいえ、苦労してここまで育てた農家さんたちのことを思うと胸が痛む。
そんな田んぼと畑ばかりが広がる中、こんもりと置かれたかのように小さな森が見える。この森の中には小さな神社があって、幼い頃からよくお参りをしていたことを思い出した。
「懐かしいな……この森の中にある神社ね、てんたるさんっていうんだ。どうしてか知らないけど、変なお参りの仕方をしなきゃいけないんだよ」
「……へえ。どんな?」
「蛇なんかが出るから、森の中にある社には近付いちゃいけないの。だから参道の入り口で手を合わせて……あれ?」
千歳にお参りの仕方を教えようとして、ふと立ち止まる。視線の先に現れた景色が、私の見慣れたものとは違っていたからだ。
「鳥居が、倒れちゃってる……」
小走りで近寄ると、参道の入り口には木で出来た鳥居が見るも無残に倒れていた。これも元々古びた鳥居だったけれど、私がこの町を出るときは確かにここに建っていたのに。
「……きっと、これも台風で倒れたんだろうねぇ」
「そうだね……あ、ここ寄ってみる?」
「ううん、いい」
「あ、そっか。よその家には興味ないんだもんね」
倒れた鳥居を後にして、私たちはまた歩き出した。そこまで思い入れがあるわけではないけれど、見慣れた景色が変わってしまうのは何とも寂しいものである。
そして少しすると、懐かしい我が家が遠くに見えてくる。途端に、泣きたいような安心するような、不思議な気分になった。
「……もう、帰ってこないはずだったのになぁ。おかしいよね、自分から出てったくせに」
「まあ、事情が事情だからね。でも、きっと大丈夫だと思うよ。行っておいで」
我が家が見えたところで、千歳は一人立ち止まる。つい「一緒に来て」と言いそうになるのを堪えて、私はぎこちなく頷いた。
「千歳はどうするの? この辺り、時間潰せるような場所なんてないけど」
「僕のことは気にしなくていいよ。その辺をぶらついてるから、ゆっくりしておいで」
「……ゆっくり、させてもらえればね」
引きつった顔のまま笑うと、千歳が私の体を引き寄せて抱きしめる。びっくりして顔を見上げると、「大丈夫だよ」ともう一度励まされた。こんな時ばっかり大人な対応をするから困る。
でも、千歳のおかげで家に帰る勇気が出た気がする。私は小さく頷いて、久しぶりに家路を辿ることにした。
「た……ただい、ま……?」
びくびくしながら玄関の戸を開けると、懐かしい我が家の匂いがした。味噌と木の入り混じったような、清里家ならではの香りだ。
しんと静まった家の中はあまり変わっていなくて、私はほっとして荷物を降ろす。誰も出てこないけれど、蔵の方にいるのだろうか。
「はいはーい、お客さん? お待たせして……え?」
「あっ」
私が身を翻すのと同時に、パタパタと足音を立てて誰かがやってきた。ばっちり目が合ったその人は、お母さんだった。
「あ……あの、ただいま」
「ひっ……ひ、ひか、ひかり? ひかりよね?」
「う、うん……そんなに変わった?」
緊張をごまかすようにへらへらと笑うと、お母さんは急に泣き出しそうな顔になる。そしてスリッパを脱ぎ捨ててわたしに近付いたかと思うと、ものすごい力で抱きしめられた。
「うっ!? ちょ、くるしっ……」
「ひかりっ、ひかり!! もう、あんた何してたの! こんなに心配かけて、本当にっ、あんたって子はっ……!」
「え……あ、ごめ」
「おとうさーん!! お父さん、早く来て! ひかりが、ひかりが帰ってきたー!!」
わんわんとすごい勢いで泣き始めたお母さんは、大声でお父さんを呼んだ。するとすぐに玄関の戸が開いて、作業着姿のお父さんが目を剥いてやってくる。やっぱり蔵の方にいたようだ。
そして私の姿を見留めると、お母さんと同じように私に向かって叫んだ。
「この、バカ娘っ!! 連絡の一つも寄越さないで、今まで何してた!!」
「えっ……だ、だって、二度と帰ってくるなって」
「馬鹿野郎、本気なわけあるか! しばらくは自由にやらせようと思って放っとけば、ニュースでお前の会社が倒産したって言ってるし、どれだけ心配したと思ってる!」
あの会社はやっぱり潰れたのか、なんて変に落ち着き払って考えていると、お父さんまでもが私に縋り付いて泣き始めた。
落ち着いてよ、と二人を宥めながらまさかの展開に戸惑ったけれど、私は安心して緩む口元を抑えきれなかった。
「ほら。これ、お前のだろう」
「え……あれっ!? これ、私のスマホ!?」
やっと落ち着きを取り戻したお父さんが差し出してきたのは、私がどこかで落としたはずのスマホだった。千歳と旅を始めてすぐ落としたから、こうして手に取るのは久しぶりである。
「お前の会社の社長が逮捕されたって見て、慌てて電話かけたら知らない人が出たんだ。道端でお前の携帯を拾ったらしい」
「あ……うん、確かに落とした……」
「親だって言ったら、わざわざ家に送ってくれたんだぞ。交番に届けるより早いって……それよりお前、今までどこにいたんだ?」
まさか見ず知らずの男とおいしいものを食べ歩いていたとは言えず、私はスマホを手にしたまま押し黙った。しかもその男と一線を越えて、もうすぐ人間でもなくなるなんて言えるわけがない。というか、言ったところで信じてもらえないだろう。
黙りこくった私を見て、お母さんが苦笑しながら湯呑みに入ったお茶を置いてくれる。私のお気に入りだった、桜柄の湯呑みだ。
「お父さんとお母さんね、それからひかりのアパートに行ったのよ。なのにあんたはいないし、どうしようもなかったんだから」
「えっ!? な、なんでアパートの場所知ってるの!?」
「あはは、馬鹿ねぇ。あんたアパート借りるとき、保証人の欄にここの住所書いたでしょ? 書類やら何やら、ちゃんと届くんだから」
お母さんに笑われて、私はその場で小さく縮こまった。しばらくは自由にやらせるつもりだったと言っていたし、一人で何とか生活できているつもりだったけれど、最初から家族に見守られていたということか。
「そ、それより、大丈夫なの? 新聞見たよ。うちの蔵、台風で壊れたって……」
「ああ、あれね! なんだ、それで帰ってきてくれたの? 大丈夫よ、味噌樽はほとんど移した後だったから」
「へ……移した? ど、どこに?」
「あれ、来るとき見なかった? あの蔵の裏手に、先月新しく蔵を建てたばかりだったのよ。それで古い蔵は取り壊す直前だったから、大した痛手にならずに済んだの! 運が良かったわぁ」
あっけらかんと言い放つお母さんに、私は気が抜けて大きなため息をついた。ここまで来る間、家族の安否や蔵の行く末を心配し続けていたというのに、当の本人たちは呑気なものである。
「まあ、この前の台風は確かにひどかったけどなぁ。でも、報道されてるほど甚大な被害ってほどでもなかったな」
「そうそう。でも、うちの蔵が派手な壊れ方したから取り上げられちゃったのよ。建物より、農作物の被害の方が困っちゃうわ」
「そ、そうだよ。原料とかどうするの? 契約してる農家さんは……」
「それも何とかなるさ。いつもより収穫量は少ないが、こうなった時のこともちゃんと想定してるからな、農家さんだって」
お父さんはそう言って、それ以上のことは私に語らなかった。大丈夫だと手放しで言えるような状況ではないにしても、蔵の存続に響くほど大きな被害では無いようだ。
「それにしても、よかったわぁ。蔵が壊れたおかげでひかりが帰ってきたんだもの! 新聞に載ったから、色んな人が心配してくれるし、宣伝にもなるし」
「そ、そんな不謹慎な……」
やっぱりお母さんは呑気なもので、夕飯にお寿司でも取ろうか、なんてうきうきと話している。
そういえば、どこかで待ってくれている千歳はどうしよう。友達だと言えば、家に呼んでもいいものだろうか。
「……あ、そういえば。来る途中に見たけど、てんたるさんの鳥居も壊れてたね。あれは誰が直すの?」
「ああ、あれなぁ。あそこは随分と前から手入れする人がいないから、鳥居を建て直すのは無理そうだな」
「そうなんだ……ずっとお参りしてたのに、なんか寂しいね」
少し温くなったお茶を啜って、ふうと息をつく。すっかり緊張が解けた私は、懐かしい話をするように両親に尋ねた。
「ねえねえ、てんたるさんって、どうしてあんなお参りの仕方しなきゃいけないの? 『今日もおいしいものを食べられますように』って、よく考えたらおかしいよね」
そういえばさっき千歳に話しかけて忘れていたけれど、てんたるさんにはそういった独特のお参り方法があるのだ。
本当は森の中にある社殿にお参りしなければならないけれど、草だらけで蛇が出るから、鳥居の前でお参りする。その時に必ず、「今日もおいしいものを食べられますように」と、そう神様にお願いするのだ。
おばあちゃんか誰かに教わったんだっけ、と記憶を辿っていると、話を聞いていたお母さんが不思議そうに首を傾げた。
「何言ってるの。そうやってお参りし始めたの、ひかりじゃない」
「……え? わ、私……?」
「そうよ。年長さんに上がる頃だったかなぁ、一人で毎日あの神社に遊びに行ってたのよ。私たちには秘密にしてね」
お母さんのその言葉を聞いた瞬間、どくんと心臓が大きく鼓動した。
解けたはずの緊張が再び襲ってくるのと同時に、私の奥底で眠っていた記憶たちが少しずつ溢れ出るように蘇ってくる。
『こうやって僕と遊んだこと、他の人に言ってはいけないよ。僕とひかりだけの、秘密だからね』
幼稚園の制服を着た私は、あの神社で誰かと秘密の約束をした。
幼い私はその秘密を大事に大事に胸にしまって、それから決して漏らそうとはしなかった。
一体、誰と?
社殿と鳥居しかない、遊具も何もないあの神社で、私は誰と何をしていたの?
「ああ、そんなこともあったなぁ。あの時のひかりは幼稚園児のくせに反抗期だったのか、危ないっていうのになかなか言うこと聞かなくて困ったもんだ」
「そうそう。蛇が出るから危ないのよって言って聞かせたら、ある日ぱったり行くのをやめたけど」
どくん、どくんと、おかしいくらい心臓が跳ねる。頭もがんがんと痛んできた。
痛む頭を押さえながら、溢れ出てくる記憶を必死で辿る。
『──で、いいよ。そう呼んで。きみだけ、特別にね』
知らない男の声が頭に響いて、私は俯いてその痛みに耐える。いや、知らない男じゃない。この声を、私は知っている。
お父さんとお母さんは私の変化に気付いていないのか、煎餅を齧りながら楽しそうに話し続けている。
「そういえば俺も初めて知ったけど、『てんたるさん』って正式名称じゃないらしいな。ここらじゃみんな、あの神社のことそうやって呼んでるけど」
「あら、そうなの? 私も知らないわ」
「なんだったかな、この前の役員会で聞いたんだけど……ああ、そうだ」
──天足穂神社。
「天、足、さん……」
ぽつりと口に出してみて、私はがたがたと全身が震えていることに気付いた。そして、ここに着く前から感じていた嫌な予感が消えていないことにも同時に気付いて、無言のまま立ち上がる。
「ひかり? どうしたの?」
「……ちょっと、出かけてくる」
「えっ? 出かけるってどこに……ちょっと、ひかり!」
お母さんが呼び止める声も聞かずに、私は家を飛び出した。行き先はもう決まっていて、私は無心でそこに向けて走る。走りながら、私はようやく答えに辿り着いた。
今日も、おいしいものを食べられますように。
その願いの本当の意味を知らずに、私は今までずっとあの神社にお参りをしていたのだ。
『ちとせ、あしたは何がたべたい?』
『そうだなぁ……この日ノ本の国にある、おいしいもの全部かな』
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