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二、いただきますの、その前に
3.にんげんとかみさま
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「ひかり、毎日こんな所まで来てたの? 草ぼうぼうじゃない!」
「本当だなあ。蛇なんかも出そうだし、わざわざこんな所で遊ばなくてもいいだろ」
「……だいじょうぶだもん」
そろそろひかりが来る頃だと思って社殿の外で待っていると、聞き覚えのない人間の声が聞こえてきた。それも一人ではなく、大人の男女の声がする。それに、なんだか元気のないひかりの声も。
「お前、ちゃんとひかりの行動くらい把握しておけよ。仕事が忙しいのは分かるが……」
「だって、いつも神社のお兄ちゃんと遊んでるって言うから、すぐそこの家のアキラくんが遊んでくれてると思ってたのよ。お礼にと思ってお味噌持って行ったのに知らないって言うんだもの、驚いたのはこっちよ」
「そうやって他人任せにしておくからいけないんだろ。今まで何も無かったからよかったけど……ひかりも、もうこんなところに一人で来るんじゃないぞ」
慌てて社殿の裏に隠れて聞き耳をたてる。話を聞いている限り、どうやらこの人間たちはひかりの両親らしい。母親に手を繋がれたひかりは、話も聞かずにきょろきょろと辺りを見回している。きっと、僕の姿を探しているのだろう。
「ひかり、聞いてるの? まったく、嘘ついてこんな危ない場所で遊んでたなんて!」
「……うそ、ついてないもん」
「じゃあ、その神社のお兄ちゃんって誰なのよ? 人攫いだったらどうするの!」
「っ、人さらいじゃないもん! おかあさんとおとうさんなんかに教えないっ!」
両親に叱られて、ひかりは目にいっぱい涙を溜めてそう叫んだ。小さいながらも一丁前に反抗するその姿に、両親は驚いたように目を剥く。
「ひかりっ、いつからそんなに悪い子になったの! お手伝いもしないで遊んでばっかりいて、そのうえ嘘までついて!」
「わるい子でいいもん! ひかり、もうおうちにかえらないっ! ずっとここにいる!」
「なっ……もう、口ばっかり達者になって!」
今にも泣きそうな顔をして、ひかりはぐっと拳を握って耐えている。泣くもんか、というひかりの意思がその姿から伝わってくるようだった。
今すぐにでもその体を抱きしめてやりたい衝動に駆られながら、それでもさすがに大人たちに姿を見られてはいけないと理性が働く。そして、困った顔をした父親がひかりに問いかけた。
「……ひかり。ひかりは、うちの蔵を継いでくれるんだろう?」
「……うん」
「それなのに、お父さんとお母さんの言うことを聞かないで危ないことしてたら駄目じゃないか。いいか、もうここには来るんじゃないぞ。分かったか?」
「それは、いやっ! ぜったい来るもん! おとうさんの言うことなんてきかないっ!」
「っ、ひかりっ!」
ひかりが叫んだ直後、父親は振り上げた拳骨をその小さな頭に思いきり落とした。ごつん、という鈍い音は僕の耳にも届いて、次の瞬間にはひかりの大きな泣き声が森の中に響き渡る。
「うわあああん!!」
「ちょっと! 拳骨落とせなんて言ってないわよ!」
「わ、悪い。あんまり言うこと聞かないもんだから……ほら、もう帰るぞ! 良い子にしてたら、新しい靴買ってやるから!」
わんわんと泣き続けるひかりの体を何とか抱き上げて、父親は神社を後にしようとする。ひかりは抱きかかえられながらも社殿の方をじいっと見つめて、助けを求めるかのように手を伸ばした。
──僕が。僕が、助けないと。
ひかりは、ここにいたいと言った。それなのにあの人間たちは、僕とひかりを引き離そうとしている。
そんなの、嫌だ。許さない。
ひかりがいないと、限りなく続く無意味な日々がまた戻ってきてしまう。ひかりがいないと、僕の存在する意味など無いのだ。
伸ばされた手を掴みたくて、僕はひかりに駆け寄った。しかし、僕の手がひかりに届くより前に、突然現れた黒い影が行く手を遮った。
「──待て。天足穂よ、お前は何をしようとしている?」
黒い影はみるみるうちに姿を変え、目の前に降り立ったのは見覚えのある女神だった。僕より神格が上の、言うなればこの辺りの土地神を仕切るお目付役である。
「……退いてよ。ひかりを助けるんだ」
「助ける? 馬鹿を言うな。ただ親に叱られて泣いているだけの子をか? お前が干渉することではない」
「でも、ひかりはここにいたいって言ったんだよ。その願いを叶えてやらないといけないんだ。あなたには関係ない」
苛立ちながらそう返すと、女神はキッと目を吊り上げた。そして彼女が手を振り上げた途端、目に見えぬ強い力によって、僕の体は三間ほど離れた大木の幹に打ち付けられる。
「ぐっ……」
「頭を冷やせ、馬鹿者。人間の子供一人に執着しおって。お前の役目は他にあるだろう」
「……無いよ。いらない。ひかり以外、僕はもう何もいらないんだ」
何百年ぶりかに感じる痛みに悶えながら、僕はそう返した。そんな僕を険しい顔で見つめる女神は、呆れたように吐き捨てる。
「……お前は知らぬようだから教えてやろう。あの子供、そのうち他の人間に感知されなくなるぞ。自らの親にさえもな」
「え……?」
「この半年の間、曲がりなりにも神であるお前の近くに居過ぎたのだ。このままでいれば、神にも人間にも属さぬ不調和な存在になる」
訝しむような視線を向けると、女神は「本当だ」と念押しした。嘘や冗談を嫌う彼女の性質は知っているから、僕はその言葉を信じざるを得なくなる。
「……過去にも、お前のように一人の人間に拘泥する浅はかな神がいた。しかし、お前も知るように人間は業の深い生き物だ。神でさえ簡単に裏切りおる」
「……でも、ひかりは」
「お前がその子供に執着する理由など知らぬが、よく考えろ。お前自身の存在すら危うくなるようなことは、努々すまいぞ」
どういう意味かと問う前に、女神は既に姿を消していた。しんと静まった神域には、もう虫の音しか聞こえない。
一人立ち上がり服に付いた土埃を払いながら、僕は女神が言い残していった言葉を思い返した。
これ以上僕と一緒にいたら、ひかりは親にも感知されなくなる。つまり、人間でなくなるというわけだ。
そして、このままひかりに執着し続けると、僕自身の存在すら消えかねない。そういう意味だろう。
「……そんなの、どうだっていいよ」
でも、女神の言葉はどれも僕を止める杭にはなり得なかった。
ひかりは僕の傍にいればいい。あんな風に幼いひかりに手をあげるような親になど、渡してやるものか。
そして、ひかりが手に入らないのなら、僕が存在し続ける意味もない。ひかりに触れられないのなら、消えたとしても何の心残りもない。
あとは、ひかりの意志次第だ。
そして僕は、また社殿の中でひかりが来るのを待った。ひかりはきっと僕を選んでくれると信じて疑わないまま、彼女が来るのをひたすら待ち続けた。
「ちとせー! ちとせ、どこー!?」
その声が聞こえたとき、僕は胸の底から沸き起こってくる喜びを堪えきれなかった。
すぐに起き上がって社殿の扉を開け放つと、意外なことに外は暗闇に包まれていた。月の位置を見る限り、亥の刻あたりだ。
そして朽ちかけた鳥居の下には、寝間着姿のまま、今にも泣きそうな顔をしているひかりがいた。
「ちとせ、いたっ!」
「もちろんいるよ。おいで、ひかり」
名を呼ぶとひかりは嬉しそうに駆け寄ってきて、僕はその体をしっかりと受け止めた。相変わらず温かいその体はやっぱり愛おしくて、離してなるものかという思いを強くする。
「あのね、ひかり、もうここにきちゃいけないって言われたの。おとうさんとおかあさんに」
「うん、知ってるよ。でも、来てくれたんだ」
「うん! だってひかり、ちとせといっしょにいたいもん」
ひかりの様子を見る限り、どうやら親の目を盗んで家を抜け出してきたらしい。やっぱり、親より自分を選んでくれたのだと思うとさらに喜びが込み上げてくる。
きっとひかりは、何よりも僕と共にいることを選んでくれる。そんな自信を得た僕は、ひかりの体を強く抱きしめたまま問いかけた。
「ねえ、ひかり。このまま、ずっと僕と一緒にいよう。そうしたら、ひかりはお父さんお母さんから見えなくなるんだって。ずっとここにいても、誰にも叱られないよ」
「え……? どういうこと?」
「うーんとね、ひかりも神様みたいな存在になるんだよ。他の人間には見えない。だからどこで何をしようが、誰も文句を言ってこないんだ」
ひかりにも分かるように丁寧にそう教えると、彼女の顔は見るからに曇っていった。てっきり二つ返事で「そうしよう」と言ってもらえるとばかり思っていた僕は、思わぬひかりの反応に困惑する。
「え……ひかり、嬉しくないの? ずっと、僕と一緒にいられるんだよ?」
「それは、うれしい……でも、おとうさんとおかあさんに、もうあえないの?」
「会えるよ。ただ、お父さんお母さんからひかりは見えないってだけ」
それだけだよ、と優しく言っても、ひかりは笑顔を見せてはくれなかった。どうしたのかと思ってひかりの言葉を待つと、眉を下げながらおずおずと口を開く。
「ちとせといっしょにいたい、けど、おとうさんおかあさんとも、離れたくない……」
「……どうして? あの人間たちは、ひかりのことを信じようともせずに傷付けるよ。僕は絶対、そんなことしない」
「で、でも、でもね? おとうさんのゲンコツ痛いけど、いつもはやさしいの! おかあさんも、いつもおいしいごはん作ってくれるし、ひかりのこと大すきって言ってくれる」
ひかりは慌てたように両親の良いところをいくつも挙げるけれど、僕には一つも響かなかった。それどころか、思うような言葉を返してくれないひかりに苛立ちすら覚えて、僕は彼女の体をさらに強く抱きすくめて、ある提案をした。
「……分かった。じゃあひかり、こうしようか」
「な、なに……? ちとせ、いたいよ……っ」
「ひかり、一緒に神世に行こう。そうしたら、どこにも属さない半端な存在なんかじゃなく、ひかりも神の端くれになれる。それならいい?」
早口でそう言い募ると、ひかりは不安げな顔で僕を見つめて首を傾げた。なぜ僕を見つめてそんな怯えた顔をするのかと、また苛立ちが募っていく。
「みよ、って、どうやっていくの……?」
「簡単だよ。一度死んで、黄泉に行けばいい。そうしたらすぐに僕が迎えにいくから」
とびきりの笑顔でそう言ったはずなのに、ひかりは真ん丸な目をさらに大きくして、次の瞬間にはぼろぼろと泣き出してしまった。
「ひかり? どうして泣くの?」
「や、やだぁ……ひかり、死にたくないっ、死ぬのこわい……っ」
「え……」
思ってもみなかった反応に、僕は困惑した。僕と一緒にいることを選んでくれると信じて疑わなかったけれど、ひかりは「死にたくない」と泣き続けている。
戸惑いながら、僕は必死にひかりを説得しようとした。ひかりはよく分かっていないだけなのだと、都合よく解釈していた。
「……ひかり? 大丈夫だよ、僕が殺してあげるから。一つも痛くないんだよ」
「で、でも、やだぁ……! おとうさんと、おかあさんにも、おともだちにも、あえなくなるんでしょ……?」
「うん。でも、僕がずっと一緒にいる。……それじゃあ、駄目なの?」
何がいけないのか。何が足りないのか。
そんな疑問を全部込めてそう聞くと、ひかりはしゃくりあげながらも一生懸命僕に訴える。
「ちとせと、いっしょにいたい……けど、おとうさんおかあさんとも、おばあちゃんとも離れたくないし、ようちえんのおともだちとも、もっとあそびたいの」
そんなひかりの願いを聞いて、頭がくらくらする。なんと願いの多いことか。あの女神に人間の業の深さを説かれたばかりだというのに、僕はすっかり忘れていた。
ひかりは、人間だ。子供とはいえ欲だってあるし、未来もある。神である僕とは、存在する意味がまったく違うのだ。
そんな当たり前のことに今さら気付いて、僕は自分自身に笑った。そして、未だひくひくと泣きじゃくっているひかりに、今度こそ優しく問いかける。
「……ひかり。ひかりは、どうしたい? 僕が、ひかりのお願いを叶えてあげる」
ゆっくりと穏やかな声でそう言うと、ひかりはやっと泣き止んで僕を見つめた。
そして、乾いた唇を開いて、ひかりは僕に願った。
「生きたい」
はっきりと紡がれたその一言に、僕は静かに頷いた。
叶えてあげると、約束したわけではない。僕はしがない土地神で、できることと言えば作物の実りを良くする手伝いくらいだ。人間の生き死にに関しては、力の及ばないことの方が多い。
ただ。
ただ、僕の力で出来得る限り、ひかりを守ろうと思った。
僕の願いを叶えようとしてくれたその優しい気持ちが、いつまでも絶えぬようにと。この小さな人間の子が、人の悪意によって傷付くことのないようにと。
神であるくせに誰に願うのか、僕は心からそれだけを願った。
「……分かったよ。さっきのことは、忘れて」
「え……うん……?」
「じゃあね、ひかり。気をつけて生きるんだよ」
「う、うん……あ、ちとせ、あしたは何がたべたい?」
「うーん、そうだなぁ……この日ノ本の国にある、おいしいもの全部かな」
そう言うと、ひかりは「なにそれ」と甲高い声で笑った。それに釣られて笑いながら、ひかりの額に手をかざす。そして彼女の中から僕に関する記憶だけを消し去ると、僕自身も逃げるようにその場から消えて、神世からひかりを見下ろした。
「ひかりーっ? ひかり、そこにいるの!?」
「あれ……おかあさん?」
少しして、ぼうっと立ち尽くしていたひかりの元に両親が走ってやってきた。ひかりがいなくなったことに気付いて、この辺りを探し回っていたのだろう。
「もう、心配かけて! 何してたの!」
「……わかんない。なんで、おそとにいるんだろ……」
「はあ、よかった……悪かったよ、昼間は拳骨なんかして。でもな、お父さんもお母さんもひかりが心配なんだから」
「うん……ごめんなさい」
素直に謝ったひかりに、両親は苦笑してから頭を撫でた。そして父親がひかりの体を抱き上げて、日曜日はどこかに出かけようか、なんて話しながら鳥居をくぐって去っていく。
その姿を、僕はただじっと遠くから眺めていた。
「本当だなあ。蛇なんかも出そうだし、わざわざこんな所で遊ばなくてもいいだろ」
「……だいじょうぶだもん」
そろそろひかりが来る頃だと思って社殿の外で待っていると、聞き覚えのない人間の声が聞こえてきた。それも一人ではなく、大人の男女の声がする。それに、なんだか元気のないひかりの声も。
「お前、ちゃんとひかりの行動くらい把握しておけよ。仕事が忙しいのは分かるが……」
「だって、いつも神社のお兄ちゃんと遊んでるって言うから、すぐそこの家のアキラくんが遊んでくれてると思ってたのよ。お礼にと思ってお味噌持って行ったのに知らないって言うんだもの、驚いたのはこっちよ」
「そうやって他人任せにしておくからいけないんだろ。今まで何も無かったからよかったけど……ひかりも、もうこんなところに一人で来るんじゃないぞ」
慌てて社殿の裏に隠れて聞き耳をたてる。話を聞いている限り、どうやらこの人間たちはひかりの両親らしい。母親に手を繋がれたひかりは、話も聞かずにきょろきょろと辺りを見回している。きっと、僕の姿を探しているのだろう。
「ひかり、聞いてるの? まったく、嘘ついてこんな危ない場所で遊んでたなんて!」
「……うそ、ついてないもん」
「じゃあ、その神社のお兄ちゃんって誰なのよ? 人攫いだったらどうするの!」
「っ、人さらいじゃないもん! おかあさんとおとうさんなんかに教えないっ!」
両親に叱られて、ひかりは目にいっぱい涙を溜めてそう叫んだ。小さいながらも一丁前に反抗するその姿に、両親は驚いたように目を剥く。
「ひかりっ、いつからそんなに悪い子になったの! お手伝いもしないで遊んでばっかりいて、そのうえ嘘までついて!」
「わるい子でいいもん! ひかり、もうおうちにかえらないっ! ずっとここにいる!」
「なっ……もう、口ばっかり達者になって!」
今にも泣きそうな顔をして、ひかりはぐっと拳を握って耐えている。泣くもんか、というひかりの意思がその姿から伝わってくるようだった。
今すぐにでもその体を抱きしめてやりたい衝動に駆られながら、それでもさすがに大人たちに姿を見られてはいけないと理性が働く。そして、困った顔をした父親がひかりに問いかけた。
「……ひかり。ひかりは、うちの蔵を継いでくれるんだろう?」
「……うん」
「それなのに、お父さんとお母さんの言うことを聞かないで危ないことしてたら駄目じゃないか。いいか、もうここには来るんじゃないぞ。分かったか?」
「それは、いやっ! ぜったい来るもん! おとうさんの言うことなんてきかないっ!」
「っ、ひかりっ!」
ひかりが叫んだ直後、父親は振り上げた拳骨をその小さな頭に思いきり落とした。ごつん、という鈍い音は僕の耳にも届いて、次の瞬間にはひかりの大きな泣き声が森の中に響き渡る。
「うわあああん!!」
「ちょっと! 拳骨落とせなんて言ってないわよ!」
「わ、悪い。あんまり言うこと聞かないもんだから……ほら、もう帰るぞ! 良い子にしてたら、新しい靴買ってやるから!」
わんわんと泣き続けるひかりの体を何とか抱き上げて、父親は神社を後にしようとする。ひかりは抱きかかえられながらも社殿の方をじいっと見つめて、助けを求めるかのように手を伸ばした。
──僕が。僕が、助けないと。
ひかりは、ここにいたいと言った。それなのにあの人間たちは、僕とひかりを引き離そうとしている。
そんなの、嫌だ。許さない。
ひかりがいないと、限りなく続く無意味な日々がまた戻ってきてしまう。ひかりがいないと、僕の存在する意味など無いのだ。
伸ばされた手を掴みたくて、僕はひかりに駆け寄った。しかし、僕の手がひかりに届くより前に、突然現れた黒い影が行く手を遮った。
「──待て。天足穂よ、お前は何をしようとしている?」
黒い影はみるみるうちに姿を変え、目の前に降り立ったのは見覚えのある女神だった。僕より神格が上の、言うなればこの辺りの土地神を仕切るお目付役である。
「……退いてよ。ひかりを助けるんだ」
「助ける? 馬鹿を言うな。ただ親に叱られて泣いているだけの子をか? お前が干渉することではない」
「でも、ひかりはここにいたいって言ったんだよ。その願いを叶えてやらないといけないんだ。あなたには関係ない」
苛立ちながらそう返すと、女神はキッと目を吊り上げた。そして彼女が手を振り上げた途端、目に見えぬ強い力によって、僕の体は三間ほど離れた大木の幹に打ち付けられる。
「ぐっ……」
「頭を冷やせ、馬鹿者。人間の子供一人に執着しおって。お前の役目は他にあるだろう」
「……無いよ。いらない。ひかり以外、僕はもう何もいらないんだ」
何百年ぶりかに感じる痛みに悶えながら、僕はそう返した。そんな僕を険しい顔で見つめる女神は、呆れたように吐き捨てる。
「……お前は知らぬようだから教えてやろう。あの子供、そのうち他の人間に感知されなくなるぞ。自らの親にさえもな」
「え……?」
「この半年の間、曲がりなりにも神であるお前の近くに居過ぎたのだ。このままでいれば、神にも人間にも属さぬ不調和な存在になる」
訝しむような視線を向けると、女神は「本当だ」と念押しした。嘘や冗談を嫌う彼女の性質は知っているから、僕はその言葉を信じざるを得なくなる。
「……過去にも、お前のように一人の人間に拘泥する浅はかな神がいた。しかし、お前も知るように人間は業の深い生き物だ。神でさえ簡単に裏切りおる」
「……でも、ひかりは」
「お前がその子供に執着する理由など知らぬが、よく考えろ。お前自身の存在すら危うくなるようなことは、努々すまいぞ」
どういう意味かと問う前に、女神は既に姿を消していた。しんと静まった神域には、もう虫の音しか聞こえない。
一人立ち上がり服に付いた土埃を払いながら、僕は女神が言い残していった言葉を思い返した。
これ以上僕と一緒にいたら、ひかりは親にも感知されなくなる。つまり、人間でなくなるというわけだ。
そして、このままひかりに執着し続けると、僕自身の存在すら消えかねない。そういう意味だろう。
「……そんなの、どうだっていいよ」
でも、女神の言葉はどれも僕を止める杭にはなり得なかった。
ひかりは僕の傍にいればいい。あんな風に幼いひかりに手をあげるような親になど、渡してやるものか。
そして、ひかりが手に入らないのなら、僕が存在し続ける意味もない。ひかりに触れられないのなら、消えたとしても何の心残りもない。
あとは、ひかりの意志次第だ。
そして僕は、また社殿の中でひかりが来るのを待った。ひかりはきっと僕を選んでくれると信じて疑わないまま、彼女が来るのをひたすら待ち続けた。
「ちとせー! ちとせ、どこー!?」
その声が聞こえたとき、僕は胸の底から沸き起こってくる喜びを堪えきれなかった。
すぐに起き上がって社殿の扉を開け放つと、意外なことに外は暗闇に包まれていた。月の位置を見る限り、亥の刻あたりだ。
そして朽ちかけた鳥居の下には、寝間着姿のまま、今にも泣きそうな顔をしているひかりがいた。
「ちとせ、いたっ!」
「もちろんいるよ。おいで、ひかり」
名を呼ぶとひかりは嬉しそうに駆け寄ってきて、僕はその体をしっかりと受け止めた。相変わらず温かいその体はやっぱり愛おしくて、離してなるものかという思いを強くする。
「あのね、ひかり、もうここにきちゃいけないって言われたの。おとうさんとおかあさんに」
「うん、知ってるよ。でも、来てくれたんだ」
「うん! だってひかり、ちとせといっしょにいたいもん」
ひかりの様子を見る限り、どうやら親の目を盗んで家を抜け出してきたらしい。やっぱり、親より自分を選んでくれたのだと思うとさらに喜びが込み上げてくる。
きっとひかりは、何よりも僕と共にいることを選んでくれる。そんな自信を得た僕は、ひかりの体を強く抱きしめたまま問いかけた。
「ねえ、ひかり。このまま、ずっと僕と一緒にいよう。そうしたら、ひかりはお父さんお母さんから見えなくなるんだって。ずっとここにいても、誰にも叱られないよ」
「え……? どういうこと?」
「うーんとね、ひかりも神様みたいな存在になるんだよ。他の人間には見えない。だからどこで何をしようが、誰も文句を言ってこないんだ」
ひかりにも分かるように丁寧にそう教えると、彼女の顔は見るからに曇っていった。てっきり二つ返事で「そうしよう」と言ってもらえるとばかり思っていた僕は、思わぬひかりの反応に困惑する。
「え……ひかり、嬉しくないの? ずっと、僕と一緒にいられるんだよ?」
「それは、うれしい……でも、おとうさんとおかあさんに、もうあえないの?」
「会えるよ。ただ、お父さんお母さんからひかりは見えないってだけ」
それだけだよ、と優しく言っても、ひかりは笑顔を見せてはくれなかった。どうしたのかと思ってひかりの言葉を待つと、眉を下げながらおずおずと口を開く。
「ちとせといっしょにいたい、けど、おとうさんおかあさんとも、離れたくない……」
「……どうして? あの人間たちは、ひかりのことを信じようともせずに傷付けるよ。僕は絶対、そんなことしない」
「で、でも、でもね? おとうさんのゲンコツ痛いけど、いつもはやさしいの! おかあさんも、いつもおいしいごはん作ってくれるし、ひかりのこと大すきって言ってくれる」
ひかりは慌てたように両親の良いところをいくつも挙げるけれど、僕には一つも響かなかった。それどころか、思うような言葉を返してくれないひかりに苛立ちすら覚えて、僕は彼女の体をさらに強く抱きすくめて、ある提案をした。
「……分かった。じゃあひかり、こうしようか」
「な、なに……? ちとせ、いたいよ……っ」
「ひかり、一緒に神世に行こう。そうしたら、どこにも属さない半端な存在なんかじゃなく、ひかりも神の端くれになれる。それならいい?」
早口でそう言い募ると、ひかりは不安げな顔で僕を見つめて首を傾げた。なぜ僕を見つめてそんな怯えた顔をするのかと、また苛立ちが募っていく。
「みよ、って、どうやっていくの……?」
「簡単だよ。一度死んで、黄泉に行けばいい。そうしたらすぐに僕が迎えにいくから」
とびきりの笑顔でそう言ったはずなのに、ひかりは真ん丸な目をさらに大きくして、次の瞬間にはぼろぼろと泣き出してしまった。
「ひかり? どうして泣くの?」
「や、やだぁ……ひかり、死にたくないっ、死ぬのこわい……っ」
「え……」
思ってもみなかった反応に、僕は困惑した。僕と一緒にいることを選んでくれると信じて疑わなかったけれど、ひかりは「死にたくない」と泣き続けている。
戸惑いながら、僕は必死にひかりを説得しようとした。ひかりはよく分かっていないだけなのだと、都合よく解釈していた。
「……ひかり? 大丈夫だよ、僕が殺してあげるから。一つも痛くないんだよ」
「で、でも、やだぁ……! おとうさんと、おかあさんにも、おともだちにも、あえなくなるんでしょ……?」
「うん。でも、僕がずっと一緒にいる。……それじゃあ、駄目なの?」
何がいけないのか。何が足りないのか。
そんな疑問を全部込めてそう聞くと、ひかりはしゃくりあげながらも一生懸命僕に訴える。
「ちとせと、いっしょにいたい……けど、おとうさんおかあさんとも、おばあちゃんとも離れたくないし、ようちえんのおともだちとも、もっとあそびたいの」
そんなひかりの願いを聞いて、頭がくらくらする。なんと願いの多いことか。あの女神に人間の業の深さを説かれたばかりだというのに、僕はすっかり忘れていた。
ひかりは、人間だ。子供とはいえ欲だってあるし、未来もある。神である僕とは、存在する意味がまったく違うのだ。
そんな当たり前のことに今さら気付いて、僕は自分自身に笑った。そして、未だひくひくと泣きじゃくっているひかりに、今度こそ優しく問いかける。
「……ひかり。ひかりは、どうしたい? 僕が、ひかりのお願いを叶えてあげる」
ゆっくりと穏やかな声でそう言うと、ひかりはやっと泣き止んで僕を見つめた。
そして、乾いた唇を開いて、ひかりは僕に願った。
「生きたい」
はっきりと紡がれたその一言に、僕は静かに頷いた。
叶えてあげると、約束したわけではない。僕はしがない土地神で、できることと言えば作物の実りを良くする手伝いくらいだ。人間の生き死にに関しては、力の及ばないことの方が多い。
ただ。
ただ、僕の力で出来得る限り、ひかりを守ろうと思った。
僕の願いを叶えようとしてくれたその優しい気持ちが、いつまでも絶えぬようにと。この小さな人間の子が、人の悪意によって傷付くことのないようにと。
神であるくせに誰に願うのか、僕は心からそれだけを願った。
「……分かったよ。さっきのことは、忘れて」
「え……うん……?」
「じゃあね、ひかり。気をつけて生きるんだよ」
「う、うん……あ、ちとせ、あしたは何がたべたい?」
「うーん、そうだなぁ……この日ノ本の国にある、おいしいもの全部かな」
そう言うと、ひかりは「なにそれ」と甲高い声で笑った。それに釣られて笑いながら、ひかりの額に手をかざす。そして彼女の中から僕に関する記憶だけを消し去ると、僕自身も逃げるようにその場から消えて、神世からひかりを見下ろした。
「ひかりーっ? ひかり、そこにいるの!?」
「あれ……おかあさん?」
少しして、ぼうっと立ち尽くしていたひかりの元に両親が走ってやってきた。ひかりがいなくなったことに気付いて、この辺りを探し回っていたのだろう。
「もう、心配かけて! 何してたの!」
「……わかんない。なんで、おそとにいるんだろ……」
「はあ、よかった……悪かったよ、昼間は拳骨なんかして。でもな、お父さんもお母さんもひかりが心配なんだから」
「うん……ごめんなさい」
素直に謝ったひかりに、両親は苦笑してから頭を撫でた。そして父親がひかりの体を抱き上げて、日曜日はどこかに出かけようか、なんて話しながら鳥居をくぐって去っていく。
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