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二、いただきますの、その前に
4.きみのねがい
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「いってきまーす! あ、今日は帰り遅くなるから! 夕飯はいらないよ!」
「はいはい、いってらっしゃーい」
慌ただしく玄関で靴を履いて、腕につけた時計を気にしながらひかりが出てくるのが見えた。その様子をじっと見つめて、僕は今日も笑みをこぼす。
ひかりと出会って、今年で十五回目の春を迎えた。
とはいえ、彼女とともに春を過ごせたのはその内の一度きりである。それ以降は彼女に話しかけることもせず、現世に降りることもなく、ただじっと神世からひかりを見守っている。こんな日々にも、もうすっかり慣れた。
ひかりは今年二十歳になったらしく、一丁前に化粧をして、流行りであるらしい踵の高い靴を履いて出かけていくことが増えた。短大という少し離れた学校に通っていて、それも今年卒業するようだ。
今日もひかりは、自転車で十五分ほどかかる駅に向かっていった。その道中、ひかりは僕の神社がある森の前を通るのだが、決まって毎日行うことがあった。
いつもと同じように、ひかりは今日も参道の入り口で自転車を止めた。そして自転車に乗ったままぱちんと手を合わせ、古びた鳥居に向かって小さな声でぼそぼそと何かをつぶやく。
「今日も、おいしいものを食べられますように!」
それだけ言って、ひかりはまた慌てて自転車を走らせた。時間が無いのならこんなことをしなければいいのに、それでも彼女は毎日こうして願っている。
傍から見れば、なんて食い意地の張った子供っぽい願い事をしているのかと笑われることだろう。実際、ひかりが十歳くらいの頃、友人にそうやってからかわれているのを見たことがある。
でも、僕だけは知っている。ひかり自身も分かっていない、その願いの本当の意味を。
だから僕は、今日もひかりを見守るのだ。彼女が僕を覚えていなくてもいい。触れられなくてもいい。この優しい願いが途切れぬようにと、僕は今日も願った。
最近、僕を苛立たせるものが二つある。一つ目は、ひかりが最近始めた就職活動というものだ。
幼い頃から、ひかりは実家の味噌蔵を継ぐと決められていた。本人もそれを受け入れていて、自分の家で作られた味噌の話を自慢げにしていたこともある。
しかしここ最近、ひかりは親に内緒でその就職活動とやらを行なっている。きっかけは何なのか僕にもよく分からないが、彼女は時たまスーツという堅苦しい服を着て遠くの地まで足を伸ばしているのだ。
ただ、ひかりには悪いけれど、どれだけ努力しようともその就職活動が成功に終わることは無いだろう。
なぜなら僕が、ひかりが出した履歴書とやらに細工をしたり、彼女の乗った電車を遅らせたりと、細々とした邪魔をしているせいだ。
それもすべて、ひかりをこの場所に留めておくためだ。僕の神域でもあるこの地にいる限り、彼女を守ることができる。深く干渉しすぎるとまた咎められてしまうかもしれないが、これくらいは許されるだろう。ひかりがこの地から離れてしまえば、彼女の「生きたい」という大きな願いを叶えることができないから。
「じゃあね、ひかり! あっ、もしかして今日はデート!?」
「えへへー、そうだよ。ドライブに連れてってくれるんだってー!」
「へえ、いいなー! 今度こそ長続きするといいね!」
「大きなお世話!」
友人と建物から出てきたひかりは、嬉しそうに手を振ってから歩き出した。その笑顔を眺めながら、僕は思ってもいないくせに「ごめんね」と謝った。きっと今度の恋人とも長続きしないよ、と鼻で笑って。
「あれー、おかしいな……ガソリン、入れてきたはずなんだけど……」
「え……車、動かないんですか?」
何度も鍵を回したり、車輪の様子を見に行ったりしている男を見て、ひかりが不安げに眉を下げた。今日もひかりは、似合いもしない踵の高い靴を履いている。
「ごめんね、ひかりちゃん。前もこんなことあったし……」
「い、いえ、私こそすみません……」
男は疲れたように大きくため息をついて、首を傾げながら小さな機械を弄っている。どうやら、どこかに電話をかけているようだ。ひかりはそんな男を見つめて、居づらそうに縮こまって立っている。
こうなったのは言うまでもなく、僕が邪魔をしたせいである。
もう一つ僕を苛立たせているのが、こいつのようにひかりに近付いてくる男共だ。
何を考えているのか、ひかりはこの男を「かっこいい」などと言っているけれど、こいつはひかりを獣のような目で見ているだけだ。決して愛おしく思っているわけではない。少なくとも、僕の目から見たらそうだ。
こうしてひかりの色恋を邪魔するのも、もう慣れたものだ。おかげでひかりは二十歳になってもまだ嫁の貰い手もなく、その純潔を保てている。これに関しては、ひかりの両親にも感謝されて然るべきだと恩着せがましく思っている。
逢瀬のたびにこんな目に遭うのだから、男たちはすぐにひかりから離れていく。所詮、その程度の想いなのだ。
僕はそれを証明する手助けをしているのだと、自分に言い聞かせていた。決して、嫉妬心から嫌がらせをしているわけではない。神である僕がそんな人間のような行いをするわけがないと、言い訳を重ねながら。
そんな僕の努力の甲斐あって、ひかりはそのうち自分から恋人を作ろうとはしなくなったし、他の土地で働くことも諦めかけていた。面接とやらに出かけていくこともめっきり減って、実家の仕事を手伝う日の方が多くなっていたのだ。
だからこそ、僕は油断していた。
神無月。
この国に在る神々が出雲に集うその月ばかりは、僕もひかりの傍にいられなくなる。しかし、神無月を迎えるより前にひかりの就職活動とやらは終わるはずだった。
だから僕は、安心してこの地を離れた。帰ってきてもまたひかりを見守る日々が続くことを楽しみにしながら、僕は何の不安もなく出雲に出掛けて行ったのだ。
「だからっ、蔵は継がないってば! もう就職先も決まったんだから、この家から出て行くの!!」
「そんな勝手なこと言って、許されると思ってるのか!? ひかりが継がなかったら、うちの蔵はどうなるんだ!!」
ひかりと父親の言い争う声が、今日も聞こえてくる。父親がどう説得してもひかりは聞く耳を持たず、「家を出て働く」の一点張りだ。そんな二人の様子を、母親が困惑しきった顔で見つめている。
僕がこの地を離れている隙に、ひかりはとある会社から就職の内定をもらってしまった。そしてその内定通知を両親に見せて、「もう内定もらったから、ここで働く」と言い放ったのだ。
家の味噌蔵を継いでくれるとばかり思っていた両親は寝耳に水で、当たり前のように猛反対した。僕もこの時ばかりは両親に同調して、聞こえもしないのにひかりに向かって叫んだ。遠くに行くな、ここにいてほしい、と。
しかし、そんな声がひかりに届くわけもない。意固地になったひかりは勝手に住む場所を決め、引越し業者を手配し、山の桜が咲く前にこの地を去って行ってしまった。
「おい、清里! 昨日言っといた資料、早く出せ!」
「えっ……あ、あの、それは明日までにやればいいって」
「馬鹿野郎、誰がそんなこと言った!? 今必要なんだから、今出せ!」
「す、すみません、今すぐ作りますっ」
「すみません、じゃねえ! 申し訳ありません、だろ!」
引き攣った顔のひかりが、慌てて「申し訳ありません」と頭を下げた。それを見た上司の男はほくそ笑んで、煙草をふかしながら部屋を出て行く。周りの人間たちは涙ぐんだ目で机に向かっているひかりを一瞥するのみで、声すらかけてやらない。関わりたくない、という意思が透けて見えるようだった。
ひかりが僕のいる地から去って、一年が経った頃。お目付役の女神が祭祀に呼び出されることを知った僕は、その留守を狙って土地から抜け出し、ようやくひかりの傍までやってくることができた。
僕のような特定の土地に留まる神は、こうして遠く離れた地にやってくることはまずできない。離れてしまうと、本来の役割である土地を見守ることができないからだ。
でも、僕はどうしてもひかりの元へ行きたかった。彼女が慣れない土地でどうやって暮らしているのか、誰かに傷つけられてはいないか、気になって仕方がなかったのだ。
「清里さん、可哀想に……部長の発注ミスの責任負わされて、今日土下座して回ってるらしいよ」
「えっ、マジか! 部長、清里さんには特に当たりが強いもんなぁ……あの子も、もっと歯向かえばいいのに」
「そんなこと言うなら、あなたが助けてあげなさいよ」
「無理だよ! 俺も同じ目に遭ったらたまったもんじゃない」
ひかりの同僚たちが小声でそんな話をしているのを聞きながら、僕は今まで感じたことのないほどの怒りを覚えていた。
彼女が勤めている会社は、お世辞にも良い環境とは言えない酷い有様だった。叩けばいくらでも埃が出るような、薄汚い欲にまみれた人間たちが牛耳っている場所だったのだ。
そんな碌でもない人間たちの下で、ひかりは何をやっているのだろう。ひかりの美しい命が、泥水のように汚い人間共に削られていく。千年の長きに渡り現世を見てきた僕でも、顔をしかめたくなるほど忌むべき光景だった。
「……もう、疲れたなぁ」
ぼそりと、ひかりが一人そう呟いたのは、もうすぐ日付が変わる頃だった。
他の社員たちはとっくに帰って行って、職場にはもうひかりしかいない。
早くこんな場所から逃げて僕のところへ来ればいいのにと、眉をひそめて彼女を眺めていると、ひかりはふいに立ち上がって窓の外をじいっと見つめた。
ひかりの目には、一体何が映っているのだろう。初めて出会ったとき、眩しいほどきらきらと輝いていた目は力無く燻んでいる。一緒に遊ぼう、と元気な声で僕に駆け寄ってきたひかりとは、まるで別人のような佇まいだった。
しばらくの間、ひかりはそのままぼうっと立ち竦んでいた。かと思うと、急に何かを思いついたように椅子に座りなおして、紙と封筒を取り出してさらさらと文字を書き始めた。そして書き終わるとすぐに立ち上がって、部屋の外へと出て階段を上っていく。
何をするのだろう、と僕はひかりの行動をじっと見張った。こうして僕に見られているなんて露ほども思っていないであろう彼女は、屋上に続く扉を開け、なんの迷いもなくその端までつかつかと歩いていった。そして、先ほど書いたばかりの封筒を地面に置いて、その上に靴を置き、錆びついた欄干に手をかける。
そこでようやく、僕は彼女の意図に気付いた。
死ぬつもりだ。
ひかりは、この汚い現世に見切りをつけて、黄泉に赴くつもりでいる。
そのことに気付いたとき僕の心に湧き上がったのは、喜びだった。
ひかりが黄泉に行けば、僕のいる神世に連れてくることができる。ただ見守ることしかできない、離れてしまえばそれすらままならないもどかしい距離ではなく、僕のすぐ傍にひかりが来てくれる。
そう思ったら飛び上がりそうなほどの喜びが込み上げてきて、僕はひかりがその身を投げ出す瞬間を待った。
それなのに、こんな時になって僕の脳裏に蘇ったのは、幼い彼女の声だった。
──生きたい。
その願いを、今のひかりは忘れてしまっている。それに、あの時と今では彼女を取り巻く環境はまったく違う。この現世で生きることを諦めたから、彼女はこうして死のうとしているのだ。
それに、今彼女が死んだらずっと傍に居られる。僕と過ごした記憶を呼び起こすのは簡単で、そうしたらひかりはきっとまた一緒にいてくれる。胸を掻き毟りたくなるようなもどかしさを、もう感じなくて済むのだ。
でも、落ちていくひかりの体が小さく震えていることに気付いた瞬間、そんな思いは一瞬で何処かに消えてしまった。
僕は咄嗟に神世から降りて、ひかりのその腕を掴んでいた。自らの神域以外に降り立ってはいけないという禁忌を犯して。
「ねえ、ちょっと待ってよ」
僕のその声にひかりが振り向いて、驚いたように目を見張る。久しぶりだね、と言いたくなるのを堪えて、僕は腹を括った。
この身がどうなろうが、もう知ったことか。
この汚い現世で、僕はひかりと生きる。行けるところまで行って、どんな罰であろうと甘んじて受けよう。
そして、今度は僕がひかりに教えてあげよう。たった一杯の味噌汁で僕の心が救われたように、燻んでしまったひかりの心を救える食べ物を探しに行こうと。
久しぶりに感じるひかりの温もりに目を細めながら、僕はそう決意した。
「はいはい、いってらっしゃーい」
慌ただしく玄関で靴を履いて、腕につけた時計を気にしながらひかりが出てくるのが見えた。その様子をじっと見つめて、僕は今日も笑みをこぼす。
ひかりと出会って、今年で十五回目の春を迎えた。
とはいえ、彼女とともに春を過ごせたのはその内の一度きりである。それ以降は彼女に話しかけることもせず、現世に降りることもなく、ただじっと神世からひかりを見守っている。こんな日々にも、もうすっかり慣れた。
ひかりは今年二十歳になったらしく、一丁前に化粧をして、流行りであるらしい踵の高い靴を履いて出かけていくことが増えた。短大という少し離れた学校に通っていて、それも今年卒業するようだ。
今日もひかりは、自転車で十五分ほどかかる駅に向かっていった。その道中、ひかりは僕の神社がある森の前を通るのだが、決まって毎日行うことがあった。
いつもと同じように、ひかりは今日も参道の入り口で自転車を止めた。そして自転車に乗ったままぱちんと手を合わせ、古びた鳥居に向かって小さな声でぼそぼそと何かをつぶやく。
「今日も、おいしいものを食べられますように!」
それだけ言って、ひかりはまた慌てて自転車を走らせた。時間が無いのならこんなことをしなければいいのに、それでも彼女は毎日こうして願っている。
傍から見れば、なんて食い意地の張った子供っぽい願い事をしているのかと笑われることだろう。実際、ひかりが十歳くらいの頃、友人にそうやってからかわれているのを見たことがある。
でも、僕だけは知っている。ひかり自身も分かっていない、その願いの本当の意味を。
だから僕は、今日もひかりを見守るのだ。彼女が僕を覚えていなくてもいい。触れられなくてもいい。この優しい願いが途切れぬようにと、僕は今日も願った。
最近、僕を苛立たせるものが二つある。一つ目は、ひかりが最近始めた就職活動というものだ。
幼い頃から、ひかりは実家の味噌蔵を継ぐと決められていた。本人もそれを受け入れていて、自分の家で作られた味噌の話を自慢げにしていたこともある。
しかしここ最近、ひかりは親に内緒でその就職活動とやらを行なっている。きっかけは何なのか僕にもよく分からないが、彼女は時たまスーツという堅苦しい服を着て遠くの地まで足を伸ばしているのだ。
ただ、ひかりには悪いけれど、どれだけ努力しようともその就職活動が成功に終わることは無いだろう。
なぜなら僕が、ひかりが出した履歴書とやらに細工をしたり、彼女の乗った電車を遅らせたりと、細々とした邪魔をしているせいだ。
それもすべて、ひかりをこの場所に留めておくためだ。僕の神域でもあるこの地にいる限り、彼女を守ることができる。深く干渉しすぎるとまた咎められてしまうかもしれないが、これくらいは許されるだろう。ひかりがこの地から離れてしまえば、彼女の「生きたい」という大きな願いを叶えることができないから。
「じゃあね、ひかり! あっ、もしかして今日はデート!?」
「えへへー、そうだよ。ドライブに連れてってくれるんだってー!」
「へえ、いいなー! 今度こそ長続きするといいね!」
「大きなお世話!」
友人と建物から出てきたひかりは、嬉しそうに手を振ってから歩き出した。その笑顔を眺めながら、僕は思ってもいないくせに「ごめんね」と謝った。きっと今度の恋人とも長続きしないよ、と鼻で笑って。
「あれー、おかしいな……ガソリン、入れてきたはずなんだけど……」
「え……車、動かないんですか?」
何度も鍵を回したり、車輪の様子を見に行ったりしている男を見て、ひかりが不安げに眉を下げた。今日もひかりは、似合いもしない踵の高い靴を履いている。
「ごめんね、ひかりちゃん。前もこんなことあったし……」
「い、いえ、私こそすみません……」
男は疲れたように大きくため息をついて、首を傾げながら小さな機械を弄っている。どうやら、どこかに電話をかけているようだ。ひかりはそんな男を見つめて、居づらそうに縮こまって立っている。
こうなったのは言うまでもなく、僕が邪魔をしたせいである。
もう一つ僕を苛立たせているのが、こいつのようにひかりに近付いてくる男共だ。
何を考えているのか、ひかりはこの男を「かっこいい」などと言っているけれど、こいつはひかりを獣のような目で見ているだけだ。決して愛おしく思っているわけではない。少なくとも、僕の目から見たらそうだ。
こうしてひかりの色恋を邪魔するのも、もう慣れたものだ。おかげでひかりは二十歳になってもまだ嫁の貰い手もなく、その純潔を保てている。これに関しては、ひかりの両親にも感謝されて然るべきだと恩着せがましく思っている。
逢瀬のたびにこんな目に遭うのだから、男たちはすぐにひかりから離れていく。所詮、その程度の想いなのだ。
僕はそれを証明する手助けをしているのだと、自分に言い聞かせていた。決して、嫉妬心から嫌がらせをしているわけではない。神である僕がそんな人間のような行いをするわけがないと、言い訳を重ねながら。
そんな僕の努力の甲斐あって、ひかりはそのうち自分から恋人を作ろうとはしなくなったし、他の土地で働くことも諦めかけていた。面接とやらに出かけていくこともめっきり減って、実家の仕事を手伝う日の方が多くなっていたのだ。
だからこそ、僕は油断していた。
神無月。
この国に在る神々が出雲に集うその月ばかりは、僕もひかりの傍にいられなくなる。しかし、神無月を迎えるより前にひかりの就職活動とやらは終わるはずだった。
だから僕は、安心してこの地を離れた。帰ってきてもまたひかりを見守る日々が続くことを楽しみにしながら、僕は何の不安もなく出雲に出掛けて行ったのだ。
「だからっ、蔵は継がないってば! もう就職先も決まったんだから、この家から出て行くの!!」
「そんな勝手なこと言って、許されると思ってるのか!? ひかりが継がなかったら、うちの蔵はどうなるんだ!!」
ひかりと父親の言い争う声が、今日も聞こえてくる。父親がどう説得してもひかりは聞く耳を持たず、「家を出て働く」の一点張りだ。そんな二人の様子を、母親が困惑しきった顔で見つめている。
僕がこの地を離れている隙に、ひかりはとある会社から就職の内定をもらってしまった。そしてその内定通知を両親に見せて、「もう内定もらったから、ここで働く」と言い放ったのだ。
家の味噌蔵を継いでくれるとばかり思っていた両親は寝耳に水で、当たり前のように猛反対した。僕もこの時ばかりは両親に同調して、聞こえもしないのにひかりに向かって叫んだ。遠くに行くな、ここにいてほしい、と。
しかし、そんな声がひかりに届くわけもない。意固地になったひかりは勝手に住む場所を決め、引越し業者を手配し、山の桜が咲く前にこの地を去って行ってしまった。
「おい、清里! 昨日言っといた資料、早く出せ!」
「えっ……あ、あの、それは明日までにやればいいって」
「馬鹿野郎、誰がそんなこと言った!? 今必要なんだから、今出せ!」
「す、すみません、今すぐ作りますっ」
「すみません、じゃねえ! 申し訳ありません、だろ!」
引き攣った顔のひかりが、慌てて「申し訳ありません」と頭を下げた。それを見た上司の男はほくそ笑んで、煙草をふかしながら部屋を出て行く。周りの人間たちは涙ぐんだ目で机に向かっているひかりを一瞥するのみで、声すらかけてやらない。関わりたくない、という意思が透けて見えるようだった。
ひかりが僕のいる地から去って、一年が経った頃。お目付役の女神が祭祀に呼び出されることを知った僕は、その留守を狙って土地から抜け出し、ようやくひかりの傍までやってくることができた。
僕のような特定の土地に留まる神は、こうして遠く離れた地にやってくることはまずできない。離れてしまうと、本来の役割である土地を見守ることができないからだ。
でも、僕はどうしてもひかりの元へ行きたかった。彼女が慣れない土地でどうやって暮らしているのか、誰かに傷つけられてはいないか、気になって仕方がなかったのだ。
「清里さん、可哀想に……部長の発注ミスの責任負わされて、今日土下座して回ってるらしいよ」
「えっ、マジか! 部長、清里さんには特に当たりが強いもんなぁ……あの子も、もっと歯向かえばいいのに」
「そんなこと言うなら、あなたが助けてあげなさいよ」
「無理だよ! 俺も同じ目に遭ったらたまったもんじゃない」
ひかりの同僚たちが小声でそんな話をしているのを聞きながら、僕は今まで感じたことのないほどの怒りを覚えていた。
彼女が勤めている会社は、お世辞にも良い環境とは言えない酷い有様だった。叩けばいくらでも埃が出るような、薄汚い欲にまみれた人間たちが牛耳っている場所だったのだ。
そんな碌でもない人間たちの下で、ひかりは何をやっているのだろう。ひかりの美しい命が、泥水のように汚い人間共に削られていく。千年の長きに渡り現世を見てきた僕でも、顔をしかめたくなるほど忌むべき光景だった。
「……もう、疲れたなぁ」
ぼそりと、ひかりが一人そう呟いたのは、もうすぐ日付が変わる頃だった。
他の社員たちはとっくに帰って行って、職場にはもうひかりしかいない。
早くこんな場所から逃げて僕のところへ来ればいいのにと、眉をひそめて彼女を眺めていると、ひかりはふいに立ち上がって窓の外をじいっと見つめた。
ひかりの目には、一体何が映っているのだろう。初めて出会ったとき、眩しいほどきらきらと輝いていた目は力無く燻んでいる。一緒に遊ぼう、と元気な声で僕に駆け寄ってきたひかりとは、まるで別人のような佇まいだった。
しばらくの間、ひかりはそのままぼうっと立ち竦んでいた。かと思うと、急に何かを思いついたように椅子に座りなおして、紙と封筒を取り出してさらさらと文字を書き始めた。そして書き終わるとすぐに立ち上がって、部屋の外へと出て階段を上っていく。
何をするのだろう、と僕はひかりの行動をじっと見張った。こうして僕に見られているなんて露ほども思っていないであろう彼女は、屋上に続く扉を開け、なんの迷いもなくその端までつかつかと歩いていった。そして、先ほど書いたばかりの封筒を地面に置いて、その上に靴を置き、錆びついた欄干に手をかける。
そこでようやく、僕は彼女の意図に気付いた。
死ぬつもりだ。
ひかりは、この汚い現世に見切りをつけて、黄泉に赴くつもりでいる。
そのことに気付いたとき僕の心に湧き上がったのは、喜びだった。
ひかりが黄泉に行けば、僕のいる神世に連れてくることができる。ただ見守ることしかできない、離れてしまえばそれすらままならないもどかしい距離ではなく、僕のすぐ傍にひかりが来てくれる。
そう思ったら飛び上がりそうなほどの喜びが込み上げてきて、僕はひかりがその身を投げ出す瞬間を待った。
それなのに、こんな時になって僕の脳裏に蘇ったのは、幼い彼女の声だった。
──生きたい。
その願いを、今のひかりは忘れてしまっている。それに、あの時と今では彼女を取り巻く環境はまったく違う。この現世で生きることを諦めたから、彼女はこうして死のうとしているのだ。
それに、今彼女が死んだらずっと傍に居られる。僕と過ごした記憶を呼び起こすのは簡単で、そうしたらひかりはきっとまた一緒にいてくれる。胸を掻き毟りたくなるようなもどかしさを、もう感じなくて済むのだ。
でも、落ちていくひかりの体が小さく震えていることに気付いた瞬間、そんな思いは一瞬で何処かに消えてしまった。
僕は咄嗟に神世から降りて、ひかりのその腕を掴んでいた。自らの神域以外に降り立ってはいけないという禁忌を犯して。
「ねえ、ちょっと待ってよ」
僕のその声にひかりが振り向いて、驚いたように目を見張る。久しぶりだね、と言いたくなるのを堪えて、僕は腹を括った。
この身がどうなろうが、もう知ったことか。
この汚い現世で、僕はひかりと生きる。行けるところまで行って、どんな罰であろうと甘んじて受けよう。
そして、今度は僕がひかりに教えてあげよう。たった一杯の味噌汁で僕の心が救われたように、燻んでしまったひかりの心を救える食べ物を探しに行こうと。
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