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三、ごちそうさまの、その後に
0.きゆるとき
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体が宙に浮かんでいることに気付く。僕はいつの間にやら、ひかりのいた世界とは違う何もない空間に移されていて、周囲でぱちぱちと閃光が走るのをぼんやりと眺めていた。
ひかりは今頃、あの社殿の前で泣いているだろうな。
僕が消えてもなお、あのみっともない顔のまま僕を求めて泣きじゃくる彼女の姿を想像したら、つきんと胸が痛むような気がした。もう身体を失ったのだから、痛みなど感じるはずがないのに。
「目が覚めたか? この、ならず者めが」
声のした方を振り返ると、長い黒髪を結わえた女神が冷たい視線を僕に寄越して立っていた。
「どうも、手間をかけさせて悪かったね」
「相変わらず礼儀がなっておらぬな。だが、その無礼もここまで……潔く消えてもらおう」
「はいはい。とっととやっちゃってよ、覚悟はとうにできてるし」
普段と変わらぬ口調でそう言うと、女神は眉をぴくりと動かしてから顎を上げ、一つの質問を僕に寄越した。
「現世は、どうだった」
「え? どう、と聞かれてもねぇ。あなたの方がよく分かってるでしょう? 小さなことで嘆いて、馬鹿みたいなことで争って、しようのない人間たちがわんさかいたよ。……ただ」
言いながら、ひかりとの旅の中で出会った人間たちのことを思い返す。
現世で過ごしてみたところで、人間は総じて欲深いものだという認識は変わっていない。しかし、その「欲」にも実に様々な種類があったように思う。
誰かの役に立ちたい。
困っている人を助けたい。
旅を楽しんでもらいたい。
受けた恩を返したい。
自分の作ったものを、おいしいと言ってもらいたい。
欲とは汚いものばかりだと思っていたけれど、そんなことはなかった。現に、僕とひかりはそんな見ず知らずの人間たちの「欲」に何度も助けられたのだ。
もちろん、ひかりを追い詰めた人間がいることは事実だし、利己的な欲しか持たない人間もいる。でも、すべてが「汚い」の一言で済ませられるほど簡単なものではないのだと、僕はこの旅で初めて思ったのだ。
そして、何よりも。
無機質なビルの屋上から、真っ暗な闇へ身を投げ出そうとしたあの小さな体。
僕を訝しがって、拾われた猫のように分かりやすく警戒していたあの瞳。
なにそれ、と可笑しそうに、無防備に僕に見せたあの笑顔。
小さく震えながら、それでも健気に僕を受け入れてくれた、あの柔い肌。
そして、僕のような出来損ないの神のために流してくれた、あの美しい涙。
その愛おしいすべてを思い出しながら、僕は女神を見つめ返して答えた。
「悪くなかったよ」
ひかりは、僕の言葉通りにあの現世を生き抜いてくれるだろうか。もう彼女に触れることができなくなった身からすれば、これでひかりが自ら命を絶ってしまっても、それはそれで彼女のさだめだったのだと思うしかない。
ただ、願はくは。
この先も生きながらえて、出来たばかりの夢を叶え、現世のありとあらゆるおいしいものを食べて、そして安らかに永遠の眠りについてほしい。僕を愛したことを忘れずに、変わらず僕を愛したまま死んでほしい。
そんな大それた願いは、さすがの僕でも彼女に伝えることができなかったけれど。
「……悪くなかった、か。少しは成長したと見える」
「成長って。親みたいなことを言うんだね」
「ふん、お前のような阿呆を産んだ覚えなど無いわ」
「僕だって勘弁してほしいよ。それより、さっさと終わらせてくれないかな。いつまでもあなたと話してると疲れるからね」
ぶっきらぼうな態度でそう言うと、女神は短く嘆息してから、鋭い目線を僕に向けた。そして、その不気味なほど白い手をすっと伸ばす。周囲に散らばっていた光たちが、意思を持ったかのように女神のその手に集まってきた。
「どうせ消える身だ。最後くらい、おまえの気に入りの名で呼んでやろう」
ふわふわと宙を漂っていた身が、いつの間にかぴくりとも動かせないようになっていた。いよいよ自分が消える時が来たようだ。
涙の一滴でも溢れるかと思ったが、それすらももうできない。ただ、脳裏に浮かんだのはやはり、いとおしいひかりの姿だった。
「──千歳よ。おまえの度重なる背約と無礼、消えるまでの一瞬でも悔いて恥じるがよい」
その声を黙って聞きながら、そっと目を閉じる。ただ、僕はひかりと過ごしたあの時間を後悔するつもりも、恥じるつもりもなかった。
長い時間を生きてきたけれど、ひかりと共にあったあの一瞬だけ、僕は本当の意味で生きているような気がしていた。
「いざや、千歳。二度と神世に来るでないぞ」
当たり前だ。もう消えるのだから。
最後までそんな生意気なことを思いながら、僕はその声に鼻で笑って返した。
──そういえば。
後悔なんて全くないつもりでいたが、一つだけ思い出した。
この旅の中でひかりと色んなものを食べてきたけれど、僕は彼女自身の手で作ったものを何一つ食べていなかったのだ。
「……あーあ。惜しいことをしたなぁ」
ひかりが作ってくれたものを食べて、僕が「おいしい」と言ったら、ひかりはどんな表情を見せてくれただろう。
見てみたかった。もう二度と見る機会などないのだと思うと、どうしようもなく口惜しくなる。
そんな僕の感情など問答無用で、閃光はさらに強くなる。女神の姿はいつしか消えていた。
そして僕は、小さな後悔と、ひかりとの思い出だけを胸に、眩しい光の中に消えていった。
ひかりは今頃、あの社殿の前で泣いているだろうな。
僕が消えてもなお、あのみっともない顔のまま僕を求めて泣きじゃくる彼女の姿を想像したら、つきんと胸が痛むような気がした。もう身体を失ったのだから、痛みなど感じるはずがないのに。
「目が覚めたか? この、ならず者めが」
声のした方を振り返ると、長い黒髪を結わえた女神が冷たい視線を僕に寄越して立っていた。
「どうも、手間をかけさせて悪かったね」
「相変わらず礼儀がなっておらぬな。だが、その無礼もここまで……潔く消えてもらおう」
「はいはい。とっととやっちゃってよ、覚悟はとうにできてるし」
普段と変わらぬ口調でそう言うと、女神は眉をぴくりと動かしてから顎を上げ、一つの質問を僕に寄越した。
「現世は、どうだった」
「え? どう、と聞かれてもねぇ。あなたの方がよく分かってるでしょう? 小さなことで嘆いて、馬鹿みたいなことで争って、しようのない人間たちがわんさかいたよ。……ただ」
言いながら、ひかりとの旅の中で出会った人間たちのことを思い返す。
現世で過ごしてみたところで、人間は総じて欲深いものだという認識は変わっていない。しかし、その「欲」にも実に様々な種類があったように思う。
誰かの役に立ちたい。
困っている人を助けたい。
旅を楽しんでもらいたい。
受けた恩を返したい。
自分の作ったものを、おいしいと言ってもらいたい。
欲とは汚いものばかりだと思っていたけれど、そんなことはなかった。現に、僕とひかりはそんな見ず知らずの人間たちの「欲」に何度も助けられたのだ。
もちろん、ひかりを追い詰めた人間がいることは事実だし、利己的な欲しか持たない人間もいる。でも、すべてが「汚い」の一言で済ませられるほど簡単なものではないのだと、僕はこの旅で初めて思ったのだ。
そして、何よりも。
無機質なビルの屋上から、真っ暗な闇へ身を投げ出そうとしたあの小さな体。
僕を訝しがって、拾われた猫のように分かりやすく警戒していたあの瞳。
なにそれ、と可笑しそうに、無防備に僕に見せたあの笑顔。
小さく震えながら、それでも健気に僕を受け入れてくれた、あの柔い肌。
そして、僕のような出来損ないの神のために流してくれた、あの美しい涙。
その愛おしいすべてを思い出しながら、僕は女神を見つめ返して答えた。
「悪くなかったよ」
ひかりは、僕の言葉通りにあの現世を生き抜いてくれるだろうか。もう彼女に触れることができなくなった身からすれば、これでひかりが自ら命を絶ってしまっても、それはそれで彼女のさだめだったのだと思うしかない。
ただ、願はくは。
この先も生きながらえて、出来たばかりの夢を叶え、現世のありとあらゆるおいしいものを食べて、そして安らかに永遠の眠りについてほしい。僕を愛したことを忘れずに、変わらず僕を愛したまま死んでほしい。
そんな大それた願いは、さすがの僕でも彼女に伝えることができなかったけれど。
「……悪くなかった、か。少しは成長したと見える」
「成長って。親みたいなことを言うんだね」
「ふん、お前のような阿呆を産んだ覚えなど無いわ」
「僕だって勘弁してほしいよ。それより、さっさと終わらせてくれないかな。いつまでもあなたと話してると疲れるからね」
ぶっきらぼうな態度でそう言うと、女神は短く嘆息してから、鋭い目線を僕に向けた。そして、その不気味なほど白い手をすっと伸ばす。周囲に散らばっていた光たちが、意思を持ったかのように女神のその手に集まってきた。
「どうせ消える身だ。最後くらい、おまえの気に入りの名で呼んでやろう」
ふわふわと宙を漂っていた身が、いつの間にかぴくりとも動かせないようになっていた。いよいよ自分が消える時が来たようだ。
涙の一滴でも溢れるかと思ったが、それすらももうできない。ただ、脳裏に浮かんだのはやはり、いとおしいひかりの姿だった。
「──千歳よ。おまえの度重なる背約と無礼、消えるまでの一瞬でも悔いて恥じるがよい」
その声を黙って聞きながら、そっと目を閉じる。ただ、僕はひかりと過ごしたあの時間を後悔するつもりも、恥じるつもりもなかった。
長い時間を生きてきたけれど、ひかりと共にあったあの一瞬だけ、僕は本当の意味で生きているような気がしていた。
「いざや、千歳。二度と神世に来るでないぞ」
当たり前だ。もう消えるのだから。
最後までそんな生意気なことを思いながら、僕はその声に鼻で笑って返した。
──そういえば。
後悔なんて全くないつもりでいたが、一つだけ思い出した。
この旅の中でひかりと色んなものを食べてきたけれど、僕は彼女自身の手で作ったものを何一つ食べていなかったのだ。
「……あーあ。惜しいことをしたなぁ」
ひかりが作ってくれたものを食べて、僕が「おいしい」と言ったら、ひかりはどんな表情を見せてくれただろう。
見てみたかった。もう二度と見る機会などないのだと思うと、どうしようもなく口惜しくなる。
そんな僕の感情など問答無用で、閃光はさらに強くなる。女神の姿はいつしか消えていた。
そして僕は、小さな後悔と、ひかりとの思い出だけを胸に、眩しい光の中に消えていった。
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