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三、ごちそうさまの、その後に
1.あきまつり
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「おーい、ひかりちゃーん! このスピーカーはどこに置くのー?」
「え? あ、えーっと、それはこっち側でお願いします! テントの下で!」
「ひかりちゃん、子どもたちに配るお菓子はこれでいいのかな?」
「あ、はい! たぶんそれで足りると思います!」
「ひかりさん! 手伝いに来たんですけど、何すればいいですか?」
「ありがとう! じゃあ、このダンボール運んでもらおうかな」
慌ただしく走り回りながら、あちこちから飛んでくる質問に答える。そんな私の胸には「実行委員 清里」という名札が付けられていて、それが表す通りこの催しの実行委員である私は、落ち着いて一息つく暇すらない。
豊かに実った稲もすっかり刈り取られ、民家の軒下には連なる柿が見られるようになった頃。
秋晴れの空の下、今日はこの天足穂神社で何十年ぶりかの秋祭りが開かれることとなった。
「よっ、清里! 久しぶりだな!」
「あ、小泉くん! 久しぶり、来てくれたんだね!」
数年ぶりに会う同級生の男の子が、私の姿を見つけて駆け寄ってくる。中学の時から随分と背が伸びたようだが、その明るい性格は変わっていなさそうでほっとした。
「まさか、清里が率先して祭り開くなんて思わなかったよ。こんな寂れた神社でさぁ」
「あはは、色んな人に言われるよ」
「しかも社殿と鳥居まで建て直すなんてな! 聞いたぞ、一番多く寄付したのは清里だって」
「あー、それは……まあ、色々と事情があって……」
彼の言った通り、この秋祭りを復活させようと声を上げたのは私だ。そして秋祭りの復活と同時に、朽ちかけていた社殿と十年前の巨大台風で倒れてしまった鳥居を建て直そうと寄付を募ったのも、私が言い出したことである。
そして、なぜ私がこの天足穂神社──てんたるさんの復興にここまで尽力するのかといえば、その理由はもちろん千歳にあった。
十年前。
千歳とともにこの故郷に帰ってきたあの日、彼は私の前から姿を消した。魔法にでもかかっていたのか、はたまた幻でも見ていたのかと思ってしまうくらいあっけなく、私は一瞬のうちに何よりも大切な彼を失ってしまったのだ。
あの時から、それこそ涙が枯れるほど泣いた。心配した両親が「病院に行った方がいいんじゃないか」と本気で相談するくらい、私は延々と泣き続けていた。
しかし皮肉なことに、どれほど失意のどん底にいても、健康そのものである私のお腹はぐうぐうと鳴って空腹を知らせるのだ。
いっそのこと何も食べずに死んでやろうか、なんて馬鹿なことも考えたけれど、そんな私を引き止めたのは千歳のあの言葉だった。
──生きて。
彼のその最後の願いを、私は無視することができなかった。
泣きながら、お母さんが作ってくれたおにぎりとお味噌汁をかっ込んで食べた。千歳のいない、その悲しい現実の中でも生き抜くことを誓って。
ただ、少しでも千歳がここにいたという事実を残したくて、私はこのてんたるさんの建て直しを思い付いたのだ。
「……ま、理由はなんでもいいけど。でも俺、この村で祭りができるなんて思わなかったからさ! 結構楽しみにしてたんだ」
「ほんとに? それならよかった。意外と屋台も増えたし、子どもたちも楽しんでくれるといいんだけど」
「ははっ、子どもと同じくらいじーさんばーさんたちも楽しんでそうだけどな」
そう言って笑う彼の視線の先には、和気藹々と話しながら祭りの準備を進める大人たちの姿があった。私の両親はもちろん、この地域に住んでいる人たちが集まって協力してくれているのだ。
農業をやっているお家がほとんどだから、みんな自分の家で獲れた野菜やお米なんかも持ち寄っている。今年も、この地域の農作物は豊作らしい。
じゃあまたな、と言って、小泉くんは法被を羽織ったおじさんたちの輪の中に入っていった。いつの間に揃えたのか、うちのお父さんは上から下まで祭り衣装に身を包んでいる。
「ひかりちゃん、ちょっといいかい? そろそろ社殿の方に供物を奉納したいんだけど」
「あ、はい! 今行きまーす!」
その声に応じて、真新しい社殿の前へ向かう。注連縄や鈴、賽銭箱も新調されて、建て直されたてんたるさんは小さくとも立派な神社になった。
「こんな感じで置けばいいかな? ここの扉も、今日は開けておけばいいよね」
「はい、そうですね! ありがとうございます」
この秋祭りの実行委員長でもある自治会長さんと一緒に、奉納された野菜やお米を運ぶ。誰が持ってきたのか、酒瓶や乾麺の束もあって、千歳と一緒にうどんを食べたときのことを思い出してふと笑みが漏れた。
「そういえばひかりちゃん、古い社殿を取り壊すときも立ち会ってくれたよね。その時、鏡が出てこなかったかい?」
「えっ? あー、えっと、はい。一つだけ……」
「やっぱり、一つだけだったかぁ。あれは本来、二面で一対の鏡なんだよ。どこに行っちゃったんだろうなぁ、もう一つは……」
本当ですねぇ、なんて適当に相槌を打ちながら、「神様本人が売り飛ばしました」と言いたくなるのをぐっと堪える。堪えながら、やっぱり可笑しくなってしまって咳払いをするふりをして一人で笑った。
こうして、千歳のことを思い出して笑えるようになったのはここニ、三年のことだ。それまでは、彼のことを思い出すたびに涙を流していたから。
「さて、じゃあ日が暮れたら太鼓の演奏と舞の奉納を始めようか。天気予報で、夜から雨が降ると言ってたからね」
「そうですね。私、子どもたちに声かけてきます」
空を見上げると、遠くの方に少しだけ灰色の雲が見える。だんだんと日も落ちてきたし、雨に降られる前に片付けまで終わらせたいところだ。
自治会長さんに一礼してから、小走りで境内を駆け抜ける。近所の小学生たちに舞を披露してもらう予定だから、そろそろその準備をしなければならない。
少し前までは雑草が生い茂り、立ち入られることもなかったこのてんたるさんの境内に、今日は大勢の人たちが集まっている。この光景を千歳が見たら、何と言っただろうか。彼のことだから、「今日はやかましいねぇ」なんて笑いながら食べ物の屋台を物珍しそうに見て回っていたに違いない。
そんな想像をしながら、揃いの衣装を着た子どもたちの元へ走った。
新しくなった社殿の前で、近所の子どもたちが習いたての舞を披露する。隣とぶつかったり、扇子を落としてしまったり、危なっかしい舞ではあるけれど大人たちは皆それを微笑ましく見つめている。少し離れた鳥居の下で、私もその姿をじっと眺めていた。
とうとう、あの日から十年も経ってしまった。
当たり前だが、千歳はあれから姿を現さない。記憶も存在も消えるという言葉通り、千歳は何も残さず消えていったのだ。
ただ、千歳が神社の鏡を売り払って得たお金だけは私のボストンバッグに残されていた。きっと、私の知らぬ間に彼が忍ばせていたのだろう。
でも、そのお金を自分のために使うことなんてできるはずもなく、私はずっとそれを部屋の引き出しにしまい込んでいた。そして今回、てんたるさんの社殿を建て直すことが決まった時に久々にそれを取り出したのだ。
そのお金と近所の人たちの寄付のおかげで、こうして無事社殿も鳥居も建て直せたし、秋祭りも開くことができた。
千歳はここで無為な時間を過ごしていたと言っていたけれど、こんな賑やかな日があれば少しくらい退屈を凌げたことだろう。もう神様のいない神社とは知らずに、皆それぞれ祭りを楽しんでいる。
「ひかりちゃん、お疲れさま。ちょっといいかい?」
「あ、はい。どうかしました?」
ぼうっと突っ立って千歳のことを思い出していた私に、自治会長さんが話しかけてくる。いつの間にか舞の奉納は終わって、次は青年会による太鼓の演奏が始まっていた。
「祭りの実行委員会の打ち上げなんだけど。雨が降りそうだから、ひかりちゃんのお店を借りてもいいかい? 途中で雨に降られたら困っちゃうからねぇ」
「あー、確かに……いいですよ。ちょっと狭いかもしれないんですけど」
「悪いねぇ、助かるよ! あ、もちろんお代は支払うから、ちょっとしたつまみなんか作ってもらえると嬉しいな」
「はい、分かりました。それじゃあ私、ちょっと抜けて準備してきてもいいですか?」
「ああ、後は任せてくれ! おじさんたちでやっておくよ」
後のことは自治会長さんたちに任せて、私は一足先に神社を出て家へと向かう。山道を抜けるとすぐに我が家の味噌蔵が見えて、私はそちらの方へ向かって一人歩いた。
結論から言うと、私は実家の味噌蔵を継がなかった。それは意地を張っているわけでもなんでもなく、ただ単に私よりもっと向いている人がいると思ったからだ。
両親ともきちんと相談してみたところ、意外にもすんなりと「分かった」と頷いてくれた。どうやら、私が戻ってこなかった場合のことを考えて、蔵で働いてくれている社員さんの中から継いでくれそうな人材を探していたらしい。お父さん曰く、「今さら世襲にこだわるのも馬鹿らしいからな」とのことだ。それを聞いて、私は拍子抜けするあまり笑ってしまったのをよく覚えている。
そして、代わりに私が選んだ道は、いつか千歳に語った夢物語を現実にすることだった。
「うーん……困ったな。そんなに良い食材残ってないんだけどなぁ」
一人ぼやきながら、ごそごそと業務用の冷蔵庫の中を漁る。残っていためぼしい食材だけを取り出して、どう調理しようかと首をひねった。
「キノコがいっぱいあるから、これで炊き込みご飯にしようかな。大葉もあるし、胡麻と一緒に散らしたら豪華に見えるかも」
ぶつぶつと呟いて、早速お米を研ぎ始める。まだ祭り囃子の音が風に乗って聞こえてくるから、みんなが来る前にはご飯も炊き上がるだろう。
「あ! イネさんが送ってくれたカレイ、まだ残ってたんだった! これ唐揚げにしようっと」
十年前の千歳との旅で知り合ったイネさんとは今でも交流があって、こうして魚を送ってくれたり、逆にこちらから味噌や野菜を送ったり、新しいメニューを作るときの相談相手にもなってもらっている。いつかまたイネさんのところに会いに行きたいけれど、なかなかその機会がなくて先延ばしにしてばかりだ。
カレイの鱗を刮げながら、私はイネさんの家で過ごしたあの日のことを思い出す。
あの日、千歳と一緒にイネさんの手料理をご馳走になって、暖かくて幸せなひと時を過ごした。そしてその夜、同じ布団に入りながら私は千歳にふと思いついた夢を語ったのだ。
──以前の私のように、一人でぼろぼろになっている誰かのために、温かい料理を作りたい。
千歳がいなくなって、何もかもを失くしてしまったように思っていたけれど、私の胸にはその小さな夢だけが残っていた。
それから私は、うちの味噌を使ってくれている料亭のご主人に頼み込み、アルバイト兼見習いとして雇ってもらうことになった。
そこで料理の基礎を叩き込んでもらい、調理師免許を取って、アルバイトから一社員に変わり、やっと「料理人」と名乗れるくらいになった頃。気付けば二十代を過ぎ、私は三十才になっていた。
そして一年前、私は夢を叶えるため、実家の味噌蔵の隣に小さな和食屋さんを開いたのだ。
「よし、完成! これだけあれば足りるかな」
味噌汁の入った鍋の火を止めて、汁をすくって味を見る。淡い色ながら濃いめの味噌汁は、おばあちゃんに教わった味付けを参考にしている。我ながら、今日もおいしい味噌汁ができた。
そろそろ自治会長さんたちが来る頃かな、と気にしながらテーブルを拭いていると、案の定外の方から声が聞こえてくる。台拭きを置いて、扉の方に向かってお客さんを迎える準備をした。
今日も、私の料理をおいしいと言ってもらえますように。
もう届かないとは知りながら、誰よりも食べることが好きなあの神様に向かって、私は今日も願った。
「え? あ、えーっと、それはこっち側でお願いします! テントの下で!」
「ひかりちゃん、子どもたちに配るお菓子はこれでいいのかな?」
「あ、はい! たぶんそれで足りると思います!」
「ひかりさん! 手伝いに来たんですけど、何すればいいですか?」
「ありがとう! じゃあ、このダンボール運んでもらおうかな」
慌ただしく走り回りながら、あちこちから飛んでくる質問に答える。そんな私の胸には「実行委員 清里」という名札が付けられていて、それが表す通りこの催しの実行委員である私は、落ち着いて一息つく暇すらない。
豊かに実った稲もすっかり刈り取られ、民家の軒下には連なる柿が見られるようになった頃。
秋晴れの空の下、今日はこの天足穂神社で何十年ぶりかの秋祭りが開かれることとなった。
「よっ、清里! 久しぶりだな!」
「あ、小泉くん! 久しぶり、来てくれたんだね!」
数年ぶりに会う同級生の男の子が、私の姿を見つけて駆け寄ってくる。中学の時から随分と背が伸びたようだが、その明るい性格は変わっていなさそうでほっとした。
「まさか、清里が率先して祭り開くなんて思わなかったよ。こんな寂れた神社でさぁ」
「あはは、色んな人に言われるよ」
「しかも社殿と鳥居まで建て直すなんてな! 聞いたぞ、一番多く寄付したのは清里だって」
「あー、それは……まあ、色々と事情があって……」
彼の言った通り、この秋祭りを復活させようと声を上げたのは私だ。そして秋祭りの復活と同時に、朽ちかけていた社殿と十年前の巨大台風で倒れてしまった鳥居を建て直そうと寄付を募ったのも、私が言い出したことである。
そして、なぜ私がこの天足穂神社──てんたるさんの復興にここまで尽力するのかといえば、その理由はもちろん千歳にあった。
十年前。
千歳とともにこの故郷に帰ってきたあの日、彼は私の前から姿を消した。魔法にでもかかっていたのか、はたまた幻でも見ていたのかと思ってしまうくらいあっけなく、私は一瞬のうちに何よりも大切な彼を失ってしまったのだ。
あの時から、それこそ涙が枯れるほど泣いた。心配した両親が「病院に行った方がいいんじゃないか」と本気で相談するくらい、私は延々と泣き続けていた。
しかし皮肉なことに、どれほど失意のどん底にいても、健康そのものである私のお腹はぐうぐうと鳴って空腹を知らせるのだ。
いっそのこと何も食べずに死んでやろうか、なんて馬鹿なことも考えたけれど、そんな私を引き止めたのは千歳のあの言葉だった。
──生きて。
彼のその最後の願いを、私は無視することができなかった。
泣きながら、お母さんが作ってくれたおにぎりとお味噌汁をかっ込んで食べた。千歳のいない、その悲しい現実の中でも生き抜くことを誓って。
ただ、少しでも千歳がここにいたという事実を残したくて、私はこのてんたるさんの建て直しを思い付いたのだ。
「……ま、理由はなんでもいいけど。でも俺、この村で祭りができるなんて思わなかったからさ! 結構楽しみにしてたんだ」
「ほんとに? それならよかった。意外と屋台も増えたし、子どもたちも楽しんでくれるといいんだけど」
「ははっ、子どもと同じくらいじーさんばーさんたちも楽しんでそうだけどな」
そう言って笑う彼の視線の先には、和気藹々と話しながら祭りの準備を進める大人たちの姿があった。私の両親はもちろん、この地域に住んでいる人たちが集まって協力してくれているのだ。
農業をやっているお家がほとんどだから、みんな自分の家で獲れた野菜やお米なんかも持ち寄っている。今年も、この地域の農作物は豊作らしい。
じゃあまたな、と言って、小泉くんは法被を羽織ったおじさんたちの輪の中に入っていった。いつの間に揃えたのか、うちのお父さんは上から下まで祭り衣装に身を包んでいる。
「ひかりちゃん、ちょっといいかい? そろそろ社殿の方に供物を奉納したいんだけど」
「あ、はい! 今行きまーす!」
その声に応じて、真新しい社殿の前へ向かう。注連縄や鈴、賽銭箱も新調されて、建て直されたてんたるさんは小さくとも立派な神社になった。
「こんな感じで置けばいいかな? ここの扉も、今日は開けておけばいいよね」
「はい、そうですね! ありがとうございます」
この秋祭りの実行委員長でもある自治会長さんと一緒に、奉納された野菜やお米を運ぶ。誰が持ってきたのか、酒瓶や乾麺の束もあって、千歳と一緒にうどんを食べたときのことを思い出してふと笑みが漏れた。
「そういえばひかりちゃん、古い社殿を取り壊すときも立ち会ってくれたよね。その時、鏡が出てこなかったかい?」
「えっ? あー、えっと、はい。一つだけ……」
「やっぱり、一つだけだったかぁ。あれは本来、二面で一対の鏡なんだよ。どこに行っちゃったんだろうなぁ、もう一つは……」
本当ですねぇ、なんて適当に相槌を打ちながら、「神様本人が売り飛ばしました」と言いたくなるのをぐっと堪える。堪えながら、やっぱり可笑しくなってしまって咳払いをするふりをして一人で笑った。
こうして、千歳のことを思い出して笑えるようになったのはここニ、三年のことだ。それまでは、彼のことを思い出すたびに涙を流していたから。
「さて、じゃあ日が暮れたら太鼓の演奏と舞の奉納を始めようか。天気予報で、夜から雨が降ると言ってたからね」
「そうですね。私、子どもたちに声かけてきます」
空を見上げると、遠くの方に少しだけ灰色の雲が見える。だんだんと日も落ちてきたし、雨に降られる前に片付けまで終わらせたいところだ。
自治会長さんに一礼してから、小走りで境内を駆け抜ける。近所の小学生たちに舞を披露してもらう予定だから、そろそろその準備をしなければならない。
少し前までは雑草が生い茂り、立ち入られることもなかったこのてんたるさんの境内に、今日は大勢の人たちが集まっている。この光景を千歳が見たら、何と言っただろうか。彼のことだから、「今日はやかましいねぇ」なんて笑いながら食べ物の屋台を物珍しそうに見て回っていたに違いない。
そんな想像をしながら、揃いの衣装を着た子どもたちの元へ走った。
新しくなった社殿の前で、近所の子どもたちが習いたての舞を披露する。隣とぶつかったり、扇子を落としてしまったり、危なっかしい舞ではあるけれど大人たちは皆それを微笑ましく見つめている。少し離れた鳥居の下で、私もその姿をじっと眺めていた。
とうとう、あの日から十年も経ってしまった。
当たり前だが、千歳はあれから姿を現さない。記憶も存在も消えるという言葉通り、千歳は何も残さず消えていったのだ。
ただ、千歳が神社の鏡を売り払って得たお金だけは私のボストンバッグに残されていた。きっと、私の知らぬ間に彼が忍ばせていたのだろう。
でも、そのお金を自分のために使うことなんてできるはずもなく、私はずっとそれを部屋の引き出しにしまい込んでいた。そして今回、てんたるさんの社殿を建て直すことが決まった時に久々にそれを取り出したのだ。
そのお金と近所の人たちの寄付のおかげで、こうして無事社殿も鳥居も建て直せたし、秋祭りも開くことができた。
千歳はここで無為な時間を過ごしていたと言っていたけれど、こんな賑やかな日があれば少しくらい退屈を凌げたことだろう。もう神様のいない神社とは知らずに、皆それぞれ祭りを楽しんでいる。
「ひかりちゃん、お疲れさま。ちょっといいかい?」
「あ、はい。どうかしました?」
ぼうっと突っ立って千歳のことを思い出していた私に、自治会長さんが話しかけてくる。いつの間にか舞の奉納は終わって、次は青年会による太鼓の演奏が始まっていた。
「祭りの実行委員会の打ち上げなんだけど。雨が降りそうだから、ひかりちゃんのお店を借りてもいいかい? 途中で雨に降られたら困っちゃうからねぇ」
「あー、確かに……いいですよ。ちょっと狭いかもしれないんですけど」
「悪いねぇ、助かるよ! あ、もちろんお代は支払うから、ちょっとしたつまみなんか作ってもらえると嬉しいな」
「はい、分かりました。それじゃあ私、ちょっと抜けて準備してきてもいいですか?」
「ああ、後は任せてくれ! おじさんたちでやっておくよ」
後のことは自治会長さんたちに任せて、私は一足先に神社を出て家へと向かう。山道を抜けるとすぐに我が家の味噌蔵が見えて、私はそちらの方へ向かって一人歩いた。
結論から言うと、私は実家の味噌蔵を継がなかった。それは意地を張っているわけでもなんでもなく、ただ単に私よりもっと向いている人がいると思ったからだ。
両親ともきちんと相談してみたところ、意外にもすんなりと「分かった」と頷いてくれた。どうやら、私が戻ってこなかった場合のことを考えて、蔵で働いてくれている社員さんの中から継いでくれそうな人材を探していたらしい。お父さん曰く、「今さら世襲にこだわるのも馬鹿らしいからな」とのことだ。それを聞いて、私は拍子抜けするあまり笑ってしまったのをよく覚えている。
そして、代わりに私が選んだ道は、いつか千歳に語った夢物語を現実にすることだった。
「うーん……困ったな。そんなに良い食材残ってないんだけどなぁ」
一人ぼやきながら、ごそごそと業務用の冷蔵庫の中を漁る。残っていためぼしい食材だけを取り出して、どう調理しようかと首をひねった。
「キノコがいっぱいあるから、これで炊き込みご飯にしようかな。大葉もあるし、胡麻と一緒に散らしたら豪華に見えるかも」
ぶつぶつと呟いて、早速お米を研ぎ始める。まだ祭り囃子の音が風に乗って聞こえてくるから、みんなが来る前にはご飯も炊き上がるだろう。
「あ! イネさんが送ってくれたカレイ、まだ残ってたんだった! これ唐揚げにしようっと」
十年前の千歳との旅で知り合ったイネさんとは今でも交流があって、こうして魚を送ってくれたり、逆にこちらから味噌や野菜を送ったり、新しいメニューを作るときの相談相手にもなってもらっている。いつかまたイネさんのところに会いに行きたいけれど、なかなかその機会がなくて先延ばしにしてばかりだ。
カレイの鱗を刮げながら、私はイネさんの家で過ごしたあの日のことを思い出す。
あの日、千歳と一緒にイネさんの手料理をご馳走になって、暖かくて幸せなひと時を過ごした。そしてその夜、同じ布団に入りながら私は千歳にふと思いついた夢を語ったのだ。
──以前の私のように、一人でぼろぼろになっている誰かのために、温かい料理を作りたい。
千歳がいなくなって、何もかもを失くしてしまったように思っていたけれど、私の胸にはその小さな夢だけが残っていた。
それから私は、うちの味噌を使ってくれている料亭のご主人に頼み込み、アルバイト兼見習いとして雇ってもらうことになった。
そこで料理の基礎を叩き込んでもらい、調理師免許を取って、アルバイトから一社員に変わり、やっと「料理人」と名乗れるくらいになった頃。気付けば二十代を過ぎ、私は三十才になっていた。
そして一年前、私は夢を叶えるため、実家の味噌蔵の隣に小さな和食屋さんを開いたのだ。
「よし、完成! これだけあれば足りるかな」
味噌汁の入った鍋の火を止めて、汁をすくって味を見る。淡い色ながら濃いめの味噌汁は、おばあちゃんに教わった味付けを参考にしている。我ながら、今日もおいしい味噌汁ができた。
そろそろ自治会長さんたちが来る頃かな、と気にしながらテーブルを拭いていると、案の定外の方から声が聞こえてくる。台拭きを置いて、扉の方に向かってお客さんを迎える準備をした。
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