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三、ごちそうさまの、その後に
2.ねがいのさきに
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洗い終わったお皿を拭きながら、ぐるりと首を回す。今日はさすがに疲れたな、と息をついて時計を見上げると、もうすぐ夜中の十二時を回ろうとしていた。
こんなに遅くまで仕事をするのは久しぶりで、あのブラック企業で働いていたときのことを思い出して思わず苦笑いが漏れる。でも、あの時と今を比べたら、仕事に対する満足感や達成感は天と地ほど差があるだろう。今日もみんなに「おいしかったよ」と言ってもらえたし、今は仕事が楽しくて仕方ないのだ。
明日は定休日だし、これといって予定もないし、午前中はゆっくり休んで午後は買い出しに出かけよう。輸入食材のお店を見に行くのもいいし、久しぶりに服を買いに行くのもいいかもしれない。
「……あ、そうだ。てんたるさんに、お味噌汁持って行かなきゃ」
ごそごそと食器棚を漁って、保温機能付きのスープジャーを取り出す。さっき作ったお味噌汁の残りをそこに注いで、固く蓋を閉めた。
定休日の前日、日曜日の夜はいつもこうして私の作った料理を神社に持って行ってお参りをすることにしているのだ。もうこんな時間だけど、今日は秋祭りもあったし、千歳にいろんな話をしたい。もちろん、返事なんて返ってこないのは百も承知だ。
急いでエプロンを脱いで、その上にパーカーを羽織る。雨が降る前に行って帰ってこようと思いながら、私は店を出た。
薄暗い参道を、私の持つ懐中電灯の光と月明かりだけが照らしている。つい数時間前までたくさんの人の声がこの境内に溢れていたが、今はただ虫たちの声が響き渡っているだけだ。
夜中の神社は昼間とはまた違って不気味な雰囲気さえ感じるけれど、てんたるさんだけは別だ。お母さんにはよく「若い娘が夜中に一人で出歩くんじゃない」なんて言われるが、この境内は気持ちを落ち着けるのにうってつけの場所なのだ。そもそも、もう「若い娘」に分類されるような年でもないし。
そんな自虐的なことを思いながら社殿の前に辿り着いて、持ってきたお味噌汁をスープジャーごと置く。一応お箸も持ってきたので、それも一緒に置いてから真新しい紅白の鈴緒を持って揺らした。夜中だから、近所迷惑にならない程度に控えめに。
そして微かに鈴が鳴る音を聞いてから、これまた控えめに柏手を鳴らして手を合わせた。
──千歳。
今日は、秋祭りだったんだよ。千歳の神社にたくさんの人が集まって、今年の豊作を感謝して、太鼓や舞を見せてくれた。それよりも千歳は、奉納された食べ物や屋台の方に興味津々だったかもしれないけど。
目を瞑りながら心の中で千歳に話しかけていると、突然ぽつりと頬に水滴が落ちてきた。やばい、と思って慌てて目を開けたけれど、みるみるうちに雨足は強くなり、土の地面は一瞬で水浸しになっていった。
「うそっ、こんないきなり……!?」
確かに天気予報でも夜から雨が降るとは言っていたが、ここまで急に強い雨になるなんて。すぐに帰ってくればいいやと油断していたから、傘も持ってきていない。
「……どうしよう。雨が弱まるまで待つか、ずぶ濡れ覚悟で家まで走るか」
ひとまず社殿の軒下に入って、空を見上げながら考える。家までは全速力で走れば五分くらいで着くだろうけど、この雨では確実に全身ずぶ濡れになるだろう。でも、ここで雨宿りしていてもすぐに勢いが弱まるとは限らないし、帰ったらお風呂場に直行すればいいだけの話だ。
よし、と一人呟いて、パーカーのフードを被る。あまり意味はないかもしれないが、無いよりましだ。
そして、軒下から出て走り出そうとした、その瞬間のことだった。辺りが一瞬光に包まれ、そのすぐ後に耳をつんざくような轟音が響き渡る。
「ひいぃっ!?」
思わず大声で叫んで、両手で耳を塞いだ。バリバリという激しい音からすると、どうやら近くに雷が落ちたらしい。
その雷にすっかり怯んでしまった私は、頭を抱えてしゃがみ込んだ。しかし、よく考えたらこうして軒先で雨宿りしている方が危険かもしれない。木の下や軒先にいて雷に打たれた人がいるという話を聞いたことがある。でも、雷鳴が轟く中を飛び出していく勇気はなくて、私はちらりと社殿の扉を横目で見た。
「……き、緊急事態だから。お邪魔するけど、怒らないでね」
誰に言うわけでもないけれど一応断りを入れて、そろそろと社殿の扉を開ける。薄暗い社殿の中には、今日奉納したばかりのお米や野菜がずらりと並んでいた。
靴を脱いでから、社殿の中へと入ってさっと扉を閉める。格子窓の隙間から外を覗くと、さっきよりも大粒の雨が降り注いでいた。
これは本当に困った。三十路を過ぎてこんなことを言うのも恥ずかしいが、私は雷というものが苦手なのだ。急に空が光るのも怖いし、大きな音も嫌だし、それが自分に落ちる可能性があると思ったら恐ろしくて仕方ない。
早くやまないかな、とびくびくしながら外を伺っていると、ふと背後でぎしりと床が軋む音がした。
「えっ……?」
激しい雨のせいで床板が軋んだのかと思ったけれど、違う。その音は少しずつ私の方に近づいてくるのだ。ぎし、ぎし、と、まるで誰かが歩いているかのように。
「だ、誰か、いるの……?」
恐る恐る振り向いて、暗闇の中でじっと目を凝らす。だんだんと近づいてくる足音を聞きながら、私は自分でも気付かないうちに息を止めていた。
そして、足音は私のすぐそばまで来て止まった。格子戸の隙間から漏れる月明かりを頼りに足音の主を確かめようとして、私は目を見開いた。
「ち……と、せ……?」
そこに立っていたのは、もう二度と会えないと思っていた、千歳だった。
「……ひかり?」
「あ……っ、なん、で? 千歳、だよね……?」
夢や幻にしては現実味があり過ぎる。私と同じように目を見開いている千歳は、十年前私が買ったカッターシャツに黒のパンツ姿という出で立ちで確かにここに佇んでいる。その姿を見ただけで彼との旅がありありと思い出されて、私は自然と千歳に向かって手を伸ばしていた。
「ちと、せ? 本当の本当に、千歳なの? 夢じゃない……?」
「うーん……たぶん。僕にも、何がどうなってるのかよく分からないんだけど」
千歳も私も互いから目を逸らさないまま、じりじりと少しずつ近寄った。そしてようやく手が触れるところまで近付いて、その手のひらにそっと触れる。その手は確かに温かくて、微かに震えていた。
「……どう、なったんだろう。ていうかひかり、なんか変わった?」
「かっ……変わったよ! だって、あれから十年も経ったんだよ!?」
「え……十年? 本当に?」
そう言って首を傾げる千歳を見たらなぜか涙が出てきて、私は彼の胸に縋ってわんわん泣いた。千歳は困惑した様子だったけれど、落ち着きなよ、と言いながら泣き続ける私の背をさすってくれる。その手のひらはやっぱり温かくて、これが夢ではないことを確信した。
「ちっ、千歳は、なんで戻ってこれたの? 消えちゃったんじゃなかったの!?」
「うーん……僕自身も、消えたつもりでいたんだけど。急に祭囃子が聞こえてきて、その音を頼りに歩いてみたらここに着いたんだ。そもそも、ここはどこなの?」
「どこって、千歳の神社だよ! てんたるさん! 建て直したから、新しくなってるけど」
ずず、と鼻をすすりながら答えると、千歳はまた驚いて目を剥いた。
「建て直した、って……まさか、鳥居も?」
「うん、最近完成したの。それで今日は、ここで秋祭りを開いたんだよ」
目尻から溢れる涙を拭いて、私は胸を張ってそう答えた。千歳は私の背をさすりながらきょろきょろと社殿の中を見渡すと、もう一度私に尋ねる。
「僕の社と鳥居、直してくれたの? ひかりが?」
「言い出したのは私だけど、この辺の人たちみんなが寄付してくれたんだよ。てんたるさんが、このまま無くなっちゃうのは寂しいからって」
「ふうん……そっか……」
「あ、あと千歳が鏡売ったときのお金も使っちゃった。でも、あれがあったから鳥居まで直せたんだよ」
「そっか……そういうことか」
涙ぐみながら説明すると、千歳は何やら一人で納得して頷いた。
「ちとせ……? どうしたの?」
「いや。僕が今ここにいられるのは、そのおかげかな、と思ったんだ」
「そのおかげ、って……社殿を建て直したから?」
「うん。それと、その秋祭りだよ。祭祀に呼び出された神は、何があろうと出向かなければならないからね」
言いながら、千歳は社殿の床に並べられた供物に目を落とす。この地で採れた野菜や果物、お米、それに酒や乾麺などたくさんの供物だ。
「……ってことは、秋祭りを開いたから、千歳は生き返ったの? それだけのことで……?」
「あはっ、生き返ったって。そもそも死んではいないんだけど」
「お、同じようなことでしょ!?」
「そう? まあ、僕も信じがたいけど……きっと、今日の一夜だけはこの地に降りることを赦されたんじゃないかな」
千歳と会えたことで浮かれていた私は、その言葉を聞いてまた息を詰める。
今日の、一夜だけ。
千歳と再び会えることができたのに、この時間はたった一晩だけで終わってしまうのか。
「今日、だけ……?」
「うん、きっとね。ふふっ、まるで織姫と彦星みたいだねぇ」
「そんなっ、呑気なことっ……!」
神様というものは、なぜこうも残酷なことを思いつくのだろう。
さっき流した嬉し涙はすぐ悲しみに変わり、私は千歳の胸に顔を押し付けて泣いた。千歳はそんな私の肩に手を置いて、優しく抱きしめてくれる──かと思いきや、逆に引き剥がして真正面から私の瞳を覗き込んだ。あの旅の中で何度も見た、好奇心に満ちた目をして。
「泣いている場合じゃないよ、ひかり。僕たちに与えられたのが一夜しか無いのなら、その一瞬を楽しまないと」
「ひっ、う……そんな、私、聞き分けよくない……っ」
「ふふっ、そうだったね。ところで、ひかり。さっきから良い匂いがしてくるんだけど、あれはきみが僕のために作ってくれたの?」
あれ、と言って千歳が指差したのは、私が持ってきたスープジャーだ。蓋を開けておいたけれど、そこからはまだ湯気が立ち上っている。
「う、ん……そうだよ。余ったやつ、だけど」
「なんだ、余り物かぁ。まあいいか、きみが作ったものなら」
千歳はちょっと不満そうだったけれど、早速床にしゃがみ込んでスープジャーと箸を手に取った。ひかりも座りなよ、と促されて、私は涙を拭いながらその隣に座る。
「すごいねぇ、この器。これなら、熱々の椀をそうっと持ってこなくて済むね」
「……それ、私のこと言ってるの?」
「ああ、それも思い出した? 僕もあの日のこと、忘れていなくてよかった」
目を細めてそう言ってから、千歳はスープジャーを口元に寄せて、ふう、と息を吹きかける。それから一口、私の作った味噌汁をごくりと飲み込んだ。
「……千歳?」
味噌汁を啜ったかと思うと、千歳は何も言わずに俯いてしまった。
まだ熱かったのか、それとも味が気に入らなかったのだろうか。不安になりながらじっと待っていると、少ししてから千歳はようやく顔を上げる。そして、ただ一言を絞り出すように呟いた。
「おいしい」
その言葉とともに、千歳の目から一筋の涙が流れた。
それを見た私の目からも、また大量の涙が溢れてくる。涙腺が壊れてしまったかのようだ。
「……どうして、ひかりが泣くの」
「だっ、だって……! 千歳がっ、泣くからっ……!」
「うん……ごめん。おいしいよ、とっても。今まで食べてきた、どんなものよりも」
千歳は、一口一口をとても大切そうに口に運んで、噛みしめるように食べてくれた。その器が空になるまで、私はその隣でずっと彼を見つめていた。
こんなに遅くまで仕事をするのは久しぶりで、あのブラック企業で働いていたときのことを思い出して思わず苦笑いが漏れる。でも、あの時と今を比べたら、仕事に対する満足感や達成感は天と地ほど差があるだろう。今日もみんなに「おいしかったよ」と言ってもらえたし、今は仕事が楽しくて仕方ないのだ。
明日は定休日だし、これといって予定もないし、午前中はゆっくり休んで午後は買い出しに出かけよう。輸入食材のお店を見に行くのもいいし、久しぶりに服を買いに行くのもいいかもしれない。
「……あ、そうだ。てんたるさんに、お味噌汁持って行かなきゃ」
ごそごそと食器棚を漁って、保温機能付きのスープジャーを取り出す。さっき作ったお味噌汁の残りをそこに注いで、固く蓋を閉めた。
定休日の前日、日曜日の夜はいつもこうして私の作った料理を神社に持って行ってお参りをすることにしているのだ。もうこんな時間だけど、今日は秋祭りもあったし、千歳にいろんな話をしたい。もちろん、返事なんて返ってこないのは百も承知だ。
急いでエプロンを脱いで、その上にパーカーを羽織る。雨が降る前に行って帰ってこようと思いながら、私は店を出た。
薄暗い参道を、私の持つ懐中電灯の光と月明かりだけが照らしている。つい数時間前までたくさんの人の声がこの境内に溢れていたが、今はただ虫たちの声が響き渡っているだけだ。
夜中の神社は昼間とはまた違って不気味な雰囲気さえ感じるけれど、てんたるさんだけは別だ。お母さんにはよく「若い娘が夜中に一人で出歩くんじゃない」なんて言われるが、この境内は気持ちを落ち着けるのにうってつけの場所なのだ。そもそも、もう「若い娘」に分類されるような年でもないし。
そんな自虐的なことを思いながら社殿の前に辿り着いて、持ってきたお味噌汁をスープジャーごと置く。一応お箸も持ってきたので、それも一緒に置いてから真新しい紅白の鈴緒を持って揺らした。夜中だから、近所迷惑にならない程度に控えめに。
そして微かに鈴が鳴る音を聞いてから、これまた控えめに柏手を鳴らして手を合わせた。
──千歳。
今日は、秋祭りだったんだよ。千歳の神社にたくさんの人が集まって、今年の豊作を感謝して、太鼓や舞を見せてくれた。それよりも千歳は、奉納された食べ物や屋台の方に興味津々だったかもしれないけど。
目を瞑りながら心の中で千歳に話しかけていると、突然ぽつりと頬に水滴が落ちてきた。やばい、と思って慌てて目を開けたけれど、みるみるうちに雨足は強くなり、土の地面は一瞬で水浸しになっていった。
「うそっ、こんないきなり……!?」
確かに天気予報でも夜から雨が降るとは言っていたが、ここまで急に強い雨になるなんて。すぐに帰ってくればいいやと油断していたから、傘も持ってきていない。
「……どうしよう。雨が弱まるまで待つか、ずぶ濡れ覚悟で家まで走るか」
ひとまず社殿の軒下に入って、空を見上げながら考える。家までは全速力で走れば五分くらいで着くだろうけど、この雨では確実に全身ずぶ濡れになるだろう。でも、ここで雨宿りしていてもすぐに勢いが弱まるとは限らないし、帰ったらお風呂場に直行すればいいだけの話だ。
よし、と一人呟いて、パーカーのフードを被る。あまり意味はないかもしれないが、無いよりましだ。
そして、軒下から出て走り出そうとした、その瞬間のことだった。辺りが一瞬光に包まれ、そのすぐ後に耳をつんざくような轟音が響き渡る。
「ひいぃっ!?」
思わず大声で叫んで、両手で耳を塞いだ。バリバリという激しい音からすると、どうやら近くに雷が落ちたらしい。
その雷にすっかり怯んでしまった私は、頭を抱えてしゃがみ込んだ。しかし、よく考えたらこうして軒先で雨宿りしている方が危険かもしれない。木の下や軒先にいて雷に打たれた人がいるという話を聞いたことがある。でも、雷鳴が轟く中を飛び出していく勇気はなくて、私はちらりと社殿の扉を横目で見た。
「……き、緊急事態だから。お邪魔するけど、怒らないでね」
誰に言うわけでもないけれど一応断りを入れて、そろそろと社殿の扉を開ける。薄暗い社殿の中には、今日奉納したばかりのお米や野菜がずらりと並んでいた。
靴を脱いでから、社殿の中へと入ってさっと扉を閉める。格子窓の隙間から外を覗くと、さっきよりも大粒の雨が降り注いでいた。
これは本当に困った。三十路を過ぎてこんなことを言うのも恥ずかしいが、私は雷というものが苦手なのだ。急に空が光るのも怖いし、大きな音も嫌だし、それが自分に落ちる可能性があると思ったら恐ろしくて仕方ない。
早くやまないかな、とびくびくしながら外を伺っていると、ふと背後でぎしりと床が軋む音がした。
「えっ……?」
激しい雨のせいで床板が軋んだのかと思ったけれど、違う。その音は少しずつ私の方に近づいてくるのだ。ぎし、ぎし、と、まるで誰かが歩いているかのように。
「だ、誰か、いるの……?」
恐る恐る振り向いて、暗闇の中でじっと目を凝らす。だんだんと近づいてくる足音を聞きながら、私は自分でも気付かないうちに息を止めていた。
そして、足音は私のすぐそばまで来て止まった。格子戸の隙間から漏れる月明かりを頼りに足音の主を確かめようとして、私は目を見開いた。
「ち……と、せ……?」
そこに立っていたのは、もう二度と会えないと思っていた、千歳だった。
「……ひかり?」
「あ……っ、なん、で? 千歳、だよね……?」
夢や幻にしては現実味があり過ぎる。私と同じように目を見開いている千歳は、十年前私が買ったカッターシャツに黒のパンツ姿という出で立ちで確かにここに佇んでいる。その姿を見ただけで彼との旅がありありと思い出されて、私は自然と千歳に向かって手を伸ばしていた。
「ちと、せ? 本当の本当に、千歳なの? 夢じゃない……?」
「うーん……たぶん。僕にも、何がどうなってるのかよく分からないんだけど」
千歳も私も互いから目を逸らさないまま、じりじりと少しずつ近寄った。そしてようやく手が触れるところまで近付いて、その手のひらにそっと触れる。その手は確かに温かくて、微かに震えていた。
「……どう、なったんだろう。ていうかひかり、なんか変わった?」
「かっ……変わったよ! だって、あれから十年も経ったんだよ!?」
「え……十年? 本当に?」
そう言って首を傾げる千歳を見たらなぜか涙が出てきて、私は彼の胸に縋ってわんわん泣いた。千歳は困惑した様子だったけれど、落ち着きなよ、と言いながら泣き続ける私の背をさすってくれる。その手のひらはやっぱり温かくて、これが夢ではないことを確信した。
「ちっ、千歳は、なんで戻ってこれたの? 消えちゃったんじゃなかったの!?」
「うーん……僕自身も、消えたつもりでいたんだけど。急に祭囃子が聞こえてきて、その音を頼りに歩いてみたらここに着いたんだ。そもそも、ここはどこなの?」
「どこって、千歳の神社だよ! てんたるさん! 建て直したから、新しくなってるけど」
ずず、と鼻をすすりながら答えると、千歳はまた驚いて目を剥いた。
「建て直した、って……まさか、鳥居も?」
「うん、最近完成したの。それで今日は、ここで秋祭りを開いたんだよ」
目尻から溢れる涙を拭いて、私は胸を張ってそう答えた。千歳は私の背をさすりながらきょろきょろと社殿の中を見渡すと、もう一度私に尋ねる。
「僕の社と鳥居、直してくれたの? ひかりが?」
「言い出したのは私だけど、この辺の人たちみんなが寄付してくれたんだよ。てんたるさんが、このまま無くなっちゃうのは寂しいからって」
「ふうん……そっか……」
「あ、あと千歳が鏡売ったときのお金も使っちゃった。でも、あれがあったから鳥居まで直せたんだよ」
「そっか……そういうことか」
涙ぐみながら説明すると、千歳は何やら一人で納得して頷いた。
「ちとせ……? どうしたの?」
「いや。僕が今ここにいられるのは、そのおかげかな、と思ったんだ」
「そのおかげ、って……社殿を建て直したから?」
「うん。それと、その秋祭りだよ。祭祀に呼び出された神は、何があろうと出向かなければならないからね」
言いながら、千歳は社殿の床に並べられた供物に目を落とす。この地で採れた野菜や果物、お米、それに酒や乾麺などたくさんの供物だ。
「……ってことは、秋祭りを開いたから、千歳は生き返ったの? それだけのことで……?」
「あはっ、生き返ったって。そもそも死んではいないんだけど」
「お、同じようなことでしょ!?」
「そう? まあ、僕も信じがたいけど……きっと、今日の一夜だけはこの地に降りることを赦されたんじゃないかな」
千歳と会えたことで浮かれていた私は、その言葉を聞いてまた息を詰める。
今日の、一夜だけ。
千歳と再び会えることができたのに、この時間はたった一晩だけで終わってしまうのか。
「今日、だけ……?」
「うん、きっとね。ふふっ、まるで織姫と彦星みたいだねぇ」
「そんなっ、呑気なことっ……!」
神様というものは、なぜこうも残酷なことを思いつくのだろう。
さっき流した嬉し涙はすぐ悲しみに変わり、私は千歳の胸に顔を押し付けて泣いた。千歳はそんな私の肩に手を置いて、優しく抱きしめてくれる──かと思いきや、逆に引き剥がして真正面から私の瞳を覗き込んだ。あの旅の中で何度も見た、好奇心に満ちた目をして。
「泣いている場合じゃないよ、ひかり。僕たちに与えられたのが一夜しか無いのなら、その一瞬を楽しまないと」
「ひっ、う……そんな、私、聞き分けよくない……っ」
「ふふっ、そうだったね。ところで、ひかり。さっきから良い匂いがしてくるんだけど、あれはきみが僕のために作ってくれたの?」
あれ、と言って千歳が指差したのは、私が持ってきたスープジャーだ。蓋を開けておいたけれど、そこからはまだ湯気が立ち上っている。
「う、ん……そうだよ。余ったやつ、だけど」
「なんだ、余り物かぁ。まあいいか、きみが作ったものなら」
千歳はちょっと不満そうだったけれど、早速床にしゃがみ込んでスープジャーと箸を手に取った。ひかりも座りなよ、と促されて、私は涙を拭いながらその隣に座る。
「すごいねぇ、この器。これなら、熱々の椀をそうっと持ってこなくて済むね」
「……それ、私のこと言ってるの?」
「ああ、それも思い出した? 僕もあの日のこと、忘れていなくてよかった」
目を細めてそう言ってから、千歳はスープジャーを口元に寄せて、ふう、と息を吹きかける。それから一口、私の作った味噌汁をごくりと飲み込んだ。
「……千歳?」
味噌汁を啜ったかと思うと、千歳は何も言わずに俯いてしまった。
まだ熱かったのか、それとも味が気に入らなかったのだろうか。不安になりながらじっと待っていると、少ししてから千歳はようやく顔を上げる。そして、ただ一言を絞り出すように呟いた。
「おいしい」
その言葉とともに、千歳の目から一筋の涙が流れた。
それを見た私の目からも、また大量の涙が溢れてくる。涙腺が壊れてしまったかのようだ。
「……どうして、ひかりが泣くの」
「だっ、だって……! 千歳がっ、泣くからっ……!」
「うん……ごめん。おいしいよ、とっても。今まで食べてきた、どんなものよりも」
千歳は、一口一口をとても大切そうに口に運んで、噛みしめるように食べてくれた。その器が空になるまで、私はその隣でずっと彼を見つめていた。
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