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後日談
ふきげんなかみさま 5
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「すみません、注文いいですかー?」
「あっ、はーい! 千歳、行ってもらえる?」
「うん、分かったよ」
日曜日の昼。今日も店内はランチが目当てのお客さんでいっぱいだ。
忙しなく料理を作りながら、店内を駆け回る千歳に声を掛ける。注文を聞いて料理を運ぶところまで千歳一人に任せているから、きっと疲れも溜まってきた頃だろう。それでも彼は、文句一つ言わずに笑顔で頷いてくれる。先週の日曜日、一晩かけて私を甚振り尽くした男とは思えないほどその笑顔は爽やかである。
「おーい、ひかりちゃん。手が空いたらでいいからさ、そろそろコーヒー淹れてくれるかい?」
「はーい! ちょっと待っててくださいね」
今日もカウンター席に座る常連のおじさんに返事をして、出来上がった料理を千歳に渡す。それからコーヒーカップを取り出して準備をしていると、おじさんが何やらにやつきながら小さめの声で話しかけてきた。
「そういえば、今日はとっくりのセーターじゃないのかい? ひかりちゃん」
「は? とっくり?」
「今週はずっと着てただろ、今の流行りなんだとか言ってさ!」
「あー……ハイネックのことですか? とっくりって言われてもピンとこないですよ、おじさん」
「別にいいだろ! ……でも、どうせアレだろ? 千歳くんにキスマークでも付けられたんだろ! お熱いねえ!」
「だーかーら、違うって言ったじゃないですか! もう、セクハラされたって奥さんに言いつけますよ」
怒ったふりをすると、おじさんは「勘弁してくれ」と手を合わせた。苦笑しながら淹れ終えたコーヒーをカウンターに置くと、ははあ、なんて言いながらわざとらしく頭を下げてくる。
そんなおじさんに呆れつつ、少し心配になってこっそり厨房の隅にある鏡で自分の首元を確認する。まだ薄っすらと赤い傷跡が見えなくもないが、これくらいなら誰にも気付かれないだろう。
おじさんの言う通り、昨日までは首や胸元の隠れる服をわざわざ選んで着ていた。しかし、それはキスマークを隠すためではない。ただ、至る所に千歳の歯型がくっきりつけられていたせいなのだ。
「ひかり、どうしたの? 鏡なんか見て」
「……別に。傷がちゃんと消えたか確認してただけですぅー」
「あはっ、あれかぁ。ごめんごめん、次からは気をつけるってば。もっと優しく噛むよ」
噛むんかい、というツッコミは心の中に仕舞って、反省なんて微塵もしていなさそうな千歳を睨みつける。あのあと二、三日は体が怠かったというのに、この男はまるで悪びれていない。それどころか「やきもちを焼かせたひかりが悪いんだよ」なんてしれっと言ってくる始末だ。そう言われてしまうと、私はもう溜息をつくくらいしかできなかった。
「すみませーん! お兄さん、お会計お願いしまーす!」
「ああ、はいはい。今行くね」
二人組の女性客に呼ばれ、千歳はレジへと向かって行った。私にはあんなことを言っておきながら、千歳だって女の子たちからの熱視線を浴びているのだ。さすがにお客さん相手に嫉妬することは無いが、あんな幼い頃の発言を今さら責められたことを思えば釈然としない。
「はい、これおつり。ありがとう、また来てね」
「はいっ! あ、あの、お兄さんのお名前は?」
「え、僕? 千歳だけど」
「千歳さん! あのっ、今日のランチもとってもおいしかったです! 良かったら作り方とか教えてもらえますか? これ、私たちの連絡先書いておいたので!」
きゃあきゃあ言いながら千歳に何やらメモのようなものを渡している女の子たちを見て、私は表情を強張らせた。
先週に続き、今日も千歳に連絡先を渡してくるお客さんがいるとは。もしかしたら、先週のやり取りを見ていて「それなら私も」とでも思ったのかもしれない。
でも、そういった要望に対してはお客さんを傷付けない程度にやんわりと断ってほしい、とあれから千歳には言っておいた。私が千歳と彼女たちの間に割り込むのも難しいし、かと言ってその好意を受け取ってしまうのも問題だ。きっぱりと断ってほしいというのが私の本音だが、下手に断ってお客さんを失いたくないというのもまた本音なのである。
「えーっと……作ってるのはひかりだから、僕じゃないよ。だからごめんね?」
「そうなんですか? じゃあ、受け取ってくれるだけでいいです! あ、SNSとかやってますか? 友達になりましょうよ!」
「えす、えむ……? うーん、困ったなぁ……」
千歳がちらりと助けを求めるように私を見た。薄々分かってはいたけれど、「相手を傷つけないようにやんわり断る」なんて芸当は千歳には無理そうだ。
仕方なく私が間に入ろうと身を乗り出したそのとき、扉が開いて新しいお客さんが入ってきた。
「あっ、いらっしゃいませ……って、海くん!」
「よっ、ひかり! 今日はまだランチやってるか?」
「うん、まだあるよ。よかったらカウンターの方に」
どうぞ、と今日はランチを食べに来てくれたらしい海くんを案内しようとしたはずが、いつの間に移動したのか私と彼の間に千歳が立ちはだかっていた。レジ前で千歳に連絡先を渡そうとしていた女の子たちを放置して、険しい表情で海くんを睨みつけている。
そして、嫌な予感を察知した私が慌てて口を開くより前に、千歳が海くんに向かって言い放った。
「ひかりは、僕のものだから。お前なんかに渡さない」
その瞬間、店内が不気味なほどしんと静まり返った。
海くんは目を丸くしているし、レジ前で千歳に連絡先を渡そうとしていた女の子たちは口を開けたままだし、おしゃべりしながらランチを食べていたお客さんもこちらを黙って見つめている。
この場を凍りつかせた張本人である千歳は、固まったままの私を背後から抱きしめて「やらないよ」と念押しするように海くんに向かって言った。こちらとしてはとどめを刺された気分である。
この空気をどうすれば良いのか分からず、千歳に抱きしめられたまま口をぱくぱくさせていると、カウンター席に座っていた常連のおじさんがぽつりと呟いた。
「……まあ、俺はいつかこうなると思ってたよ。それにしてもお二人さん、お熱いねぇ」
その一言で、張り詰めていた空気が少し和らいだ……ような気がした。
千歳は未だに海くんを睨みつけているし、海くんは驚いたように目を剥いたままだけど、他のお客さんからは「やっぱりねぇ」とか「仲良さそうだったものねぇ」なんて言葉とともに生温かい視線が送られているのが分かる。
そして、先ほど千歳に話しかけていた女の子のうちの一人がおずおずと口を開いた。
「あのー……お二人は、お付き合いされてる、ってことですか……?」
その問いかけにいち早く答えたのは、私ではなく千歳だった。
「うん、そうだよ。そのうち夫婦になるつもり。ねえ、ひかり?」
名前を呼びながら千歳が私の顔を覗き込んでくる。にこにこと笑みをたたえている彼とは反対に、私は頭を抱えたくなった。これで千歳を目当てに来てくれていた女性客はきっと減ってしまうだろう。
その女の子たちは引きつった笑みを浮かべて、連絡先の書かれたメモ用紙をそーっと自分のポケットへ戻した。それから「あの、ごちそうさまでしたぁ」と気まずそうにぺこりと頭を下げて店を後にする。
「あー……ひかり? と、旦那さん、でいいのかな?」
その後ろ姿を見送って呆然と立ち尽くしていた私に、海くんが遠慮がちに声をかけてきた。私と、その背後にぴったりとくっついている千歳を交互に見ながら。
「え……あっ、いや、千歳とは確かに付き合ってはいるけど、旦那じゃなくて」
「旦那でいいよ。……何?」
ようやく口を開いた海くんは、居心地が悪そうにぽりぽりと頭を掻いている。そんな彼を睨みつけながら、千歳は警戒するように私を再び抱きしめた。
「そのー……なんかごめん。取らないから、敵意むき出しにするのやめてもらっていいか?」
「……嘘だ。僕は知ってるよ、ひかりの気を引きたくてお前がちょっかい出してたこととか、ひかりに『およめさんになる』って言われてまんざらでもない顔してたこととか」
「はっ!? まっ、待て待て待て! なんで知ってんだ!?」
その言葉を聞いた海くんは急に慌てふためいて、がしっと千歳の肩を掴んだ。
「え? 旦那さん、もしかして同級生? こんな奴いたっけ?」
「同級生じゃないよ。……とにかく、ひかりは僕のだから渡さない。仕方ないからごはんは食べてもいいけど、ひかりに触れたらお前の小さい頃の秘密を言いふらす」
「なんだそれ!? つーか、取らないから! 俺もう結婚して嫁さんいるし!!」
海くんに対してなかなか警戒を解かなかった千歳だが、その言葉を聞くなり表情が急に柔らかくなった。海くんもようやくほっと息をついて、なぜか私に意味ありげな視線を送ってくる。
「な、なに? ていうか海くん、結婚してたんだね。おめでとう」
「ああ、ありがとう……じゃなくて。……お前、すごいな。色んな意味で」
「なにそれ」
ぷっと吹き出すと、海くんもぎこちなく笑った。千歳は千歳で、海くんが既婚者だと知って安心したのか「ここに座ってもいいよ」なんて上から目線でカウンター席に彼を案内している。
その隣でコーヒーを啜っているおじさんが、「若いっていいねぇ」としみじみ呟いているのを聞きながら、私はやっと厨房に戻ることができた。
「さて、今週もお疲れ様。かんぱい!」
「うん。かんぱい」
千歳と二人きり、こたつに入りながら向かい合って一献傾ける。適当に見繕ったお酒とおつまみを広げて、私と千歳だけのささやかな宴の始まりだ。
「はあ……それにしても、今日はいろいろあったなぁ」
「そう? まあ、僕とひかりが夫婦になるって宣言できてよかったよね」
「よかった、のかな……? ていうか、まだ夫婦になれるかなんて分かんないのに」
「ふふっ、大丈夫だよ。……ねえ、ひかり。やっぱり隣に座ってもいい?」
言いながら、私の返事なんて待たずに千歳が隣にやってきて腰を下ろす。ぴたりとくっついたことで千歳の体温が直に伝わってきて、それが何よりも安心感を与えてくれた。
「……あのね、千歳。実を言うと、私もやきもち焼いてたの。千歳のこと見てる女の子、いっぱいいるから」
「へえ、そうだったの?」
「そうだよ。連絡先渡されるのとか、じっと見つめられるのとか、本当は嫌なの。千歳は私の恋人なのにって思っちゃう」
「ふふっ、わがままな子だねぇ。僕を客寄せに使うって言ってたのはどこの誰だったかな」
「そんなの、十年も昔の話でしょ」
昔の話を持ち出されて頬を膨らますと、千歳はふっと笑ってからその頬に唇を寄せた。何も言わずに目を閉じると、お酒のせいか少し熱くなった唇にもキスを落とされる。そのまま少しの間口づけあって、息が乱れそうになる直前で千歳は唇を離した。
「……やっぱり、明日あの女神の社に行こうか。それで頼んでみようよ、結婚できるようにしてくれって」
「そんなこと、できるのかな? そもそも社ってどこにあるの」
「ひかりも知ってると思うよ。僕のと違って大きくて立派な社だから」
「え、そうなの? まあ、行くだけ行ってみようか」
のんびりと返してから、イネさんから送ってもらったせんじ肉をつまみに日本酒を呷る。お父さんやお母さんには「年頃の女がそんな風に飲むもんじゃない」などと言われるが、今は千歳しかいないので何も気にしなくていい。千歳は千歳で、私の作った明太子入りのだし巻き卵を美味しそうに頬張っている。
「結婚、かあ……まさか、千歳にせっつかれるとは思わなかったなぁ」
「別にせっついたつもりは無いけど。でも、この前も言ったでしょう? 形だけのものだったとしても、結んでおけるものは結んでおきたいって」
「うん。私も、そう思うよ」
杯を置いて、隣にいる千歳にもたれかかる。そっと肩を抱かれたら、全身を千歳の匂いに包まれたような気がした。
こうして千歳がここにいてくれることだけで奇跡のようなものなのに、彼はまだその奇跡の先が見たいらしい。
そんな欲張りな恋人を、両の瞳でじっと見つめてみる。それから、ただただ幸せな気持ちで「好きだよ」と囁いたら、返事の代わりに蕩けるくらいに深い口づけを落とされた。
「あっ、はーい! 千歳、行ってもらえる?」
「うん、分かったよ」
日曜日の昼。今日も店内はランチが目当てのお客さんでいっぱいだ。
忙しなく料理を作りながら、店内を駆け回る千歳に声を掛ける。注文を聞いて料理を運ぶところまで千歳一人に任せているから、きっと疲れも溜まってきた頃だろう。それでも彼は、文句一つ言わずに笑顔で頷いてくれる。先週の日曜日、一晩かけて私を甚振り尽くした男とは思えないほどその笑顔は爽やかである。
「おーい、ひかりちゃん。手が空いたらでいいからさ、そろそろコーヒー淹れてくれるかい?」
「はーい! ちょっと待っててくださいね」
今日もカウンター席に座る常連のおじさんに返事をして、出来上がった料理を千歳に渡す。それからコーヒーカップを取り出して準備をしていると、おじさんが何やらにやつきながら小さめの声で話しかけてきた。
「そういえば、今日はとっくりのセーターじゃないのかい? ひかりちゃん」
「は? とっくり?」
「今週はずっと着てただろ、今の流行りなんだとか言ってさ!」
「あー……ハイネックのことですか? とっくりって言われてもピンとこないですよ、おじさん」
「別にいいだろ! ……でも、どうせアレだろ? 千歳くんにキスマークでも付けられたんだろ! お熱いねえ!」
「だーかーら、違うって言ったじゃないですか! もう、セクハラされたって奥さんに言いつけますよ」
怒ったふりをすると、おじさんは「勘弁してくれ」と手を合わせた。苦笑しながら淹れ終えたコーヒーをカウンターに置くと、ははあ、なんて言いながらわざとらしく頭を下げてくる。
そんなおじさんに呆れつつ、少し心配になってこっそり厨房の隅にある鏡で自分の首元を確認する。まだ薄っすらと赤い傷跡が見えなくもないが、これくらいなら誰にも気付かれないだろう。
おじさんの言う通り、昨日までは首や胸元の隠れる服をわざわざ選んで着ていた。しかし、それはキスマークを隠すためではない。ただ、至る所に千歳の歯型がくっきりつけられていたせいなのだ。
「ひかり、どうしたの? 鏡なんか見て」
「……別に。傷がちゃんと消えたか確認してただけですぅー」
「あはっ、あれかぁ。ごめんごめん、次からは気をつけるってば。もっと優しく噛むよ」
噛むんかい、というツッコミは心の中に仕舞って、反省なんて微塵もしていなさそうな千歳を睨みつける。あのあと二、三日は体が怠かったというのに、この男はまるで悪びれていない。それどころか「やきもちを焼かせたひかりが悪いんだよ」なんてしれっと言ってくる始末だ。そう言われてしまうと、私はもう溜息をつくくらいしかできなかった。
「すみませーん! お兄さん、お会計お願いしまーす!」
「ああ、はいはい。今行くね」
二人組の女性客に呼ばれ、千歳はレジへと向かって行った。私にはあんなことを言っておきながら、千歳だって女の子たちからの熱視線を浴びているのだ。さすがにお客さん相手に嫉妬することは無いが、あんな幼い頃の発言を今さら責められたことを思えば釈然としない。
「はい、これおつり。ありがとう、また来てね」
「はいっ! あ、あの、お兄さんのお名前は?」
「え、僕? 千歳だけど」
「千歳さん! あのっ、今日のランチもとってもおいしかったです! 良かったら作り方とか教えてもらえますか? これ、私たちの連絡先書いておいたので!」
きゃあきゃあ言いながら千歳に何やらメモのようなものを渡している女の子たちを見て、私は表情を強張らせた。
先週に続き、今日も千歳に連絡先を渡してくるお客さんがいるとは。もしかしたら、先週のやり取りを見ていて「それなら私も」とでも思ったのかもしれない。
でも、そういった要望に対してはお客さんを傷付けない程度にやんわりと断ってほしい、とあれから千歳には言っておいた。私が千歳と彼女たちの間に割り込むのも難しいし、かと言ってその好意を受け取ってしまうのも問題だ。きっぱりと断ってほしいというのが私の本音だが、下手に断ってお客さんを失いたくないというのもまた本音なのである。
「えーっと……作ってるのはひかりだから、僕じゃないよ。だからごめんね?」
「そうなんですか? じゃあ、受け取ってくれるだけでいいです! あ、SNSとかやってますか? 友達になりましょうよ!」
「えす、えむ……? うーん、困ったなぁ……」
千歳がちらりと助けを求めるように私を見た。薄々分かってはいたけれど、「相手を傷つけないようにやんわり断る」なんて芸当は千歳には無理そうだ。
仕方なく私が間に入ろうと身を乗り出したそのとき、扉が開いて新しいお客さんが入ってきた。
「あっ、いらっしゃいませ……って、海くん!」
「よっ、ひかり! 今日はまだランチやってるか?」
「うん、まだあるよ。よかったらカウンターの方に」
どうぞ、と今日はランチを食べに来てくれたらしい海くんを案内しようとしたはずが、いつの間に移動したのか私と彼の間に千歳が立ちはだかっていた。レジ前で千歳に連絡先を渡そうとしていた女の子たちを放置して、険しい表情で海くんを睨みつけている。
そして、嫌な予感を察知した私が慌てて口を開くより前に、千歳が海くんに向かって言い放った。
「ひかりは、僕のものだから。お前なんかに渡さない」
その瞬間、店内が不気味なほどしんと静まり返った。
海くんは目を丸くしているし、レジ前で千歳に連絡先を渡そうとしていた女の子たちは口を開けたままだし、おしゃべりしながらランチを食べていたお客さんもこちらを黙って見つめている。
この場を凍りつかせた張本人である千歳は、固まったままの私を背後から抱きしめて「やらないよ」と念押しするように海くんに向かって言った。こちらとしてはとどめを刺された気分である。
この空気をどうすれば良いのか分からず、千歳に抱きしめられたまま口をぱくぱくさせていると、カウンター席に座っていた常連のおじさんがぽつりと呟いた。
「……まあ、俺はいつかこうなると思ってたよ。それにしてもお二人さん、お熱いねぇ」
その一言で、張り詰めていた空気が少し和らいだ……ような気がした。
千歳は未だに海くんを睨みつけているし、海くんは驚いたように目を剥いたままだけど、他のお客さんからは「やっぱりねぇ」とか「仲良さそうだったものねぇ」なんて言葉とともに生温かい視線が送られているのが分かる。
そして、先ほど千歳に話しかけていた女の子のうちの一人がおずおずと口を開いた。
「あのー……お二人は、お付き合いされてる、ってことですか……?」
その問いかけにいち早く答えたのは、私ではなく千歳だった。
「うん、そうだよ。そのうち夫婦になるつもり。ねえ、ひかり?」
名前を呼びながら千歳が私の顔を覗き込んでくる。にこにこと笑みをたたえている彼とは反対に、私は頭を抱えたくなった。これで千歳を目当てに来てくれていた女性客はきっと減ってしまうだろう。
その女の子たちは引きつった笑みを浮かべて、連絡先の書かれたメモ用紙をそーっと自分のポケットへ戻した。それから「あの、ごちそうさまでしたぁ」と気まずそうにぺこりと頭を下げて店を後にする。
「あー……ひかり? と、旦那さん、でいいのかな?」
その後ろ姿を見送って呆然と立ち尽くしていた私に、海くんが遠慮がちに声をかけてきた。私と、その背後にぴったりとくっついている千歳を交互に見ながら。
「え……あっ、いや、千歳とは確かに付き合ってはいるけど、旦那じゃなくて」
「旦那でいいよ。……何?」
ようやく口を開いた海くんは、居心地が悪そうにぽりぽりと頭を掻いている。そんな彼を睨みつけながら、千歳は警戒するように私を再び抱きしめた。
「そのー……なんかごめん。取らないから、敵意むき出しにするのやめてもらっていいか?」
「……嘘だ。僕は知ってるよ、ひかりの気を引きたくてお前がちょっかい出してたこととか、ひかりに『およめさんになる』って言われてまんざらでもない顔してたこととか」
「はっ!? まっ、待て待て待て! なんで知ってんだ!?」
その言葉を聞いた海くんは急に慌てふためいて、がしっと千歳の肩を掴んだ。
「え? 旦那さん、もしかして同級生? こんな奴いたっけ?」
「同級生じゃないよ。……とにかく、ひかりは僕のだから渡さない。仕方ないからごはんは食べてもいいけど、ひかりに触れたらお前の小さい頃の秘密を言いふらす」
「なんだそれ!? つーか、取らないから! 俺もう結婚して嫁さんいるし!!」
海くんに対してなかなか警戒を解かなかった千歳だが、その言葉を聞くなり表情が急に柔らかくなった。海くんもようやくほっと息をついて、なぜか私に意味ありげな視線を送ってくる。
「な、なに? ていうか海くん、結婚してたんだね。おめでとう」
「ああ、ありがとう……じゃなくて。……お前、すごいな。色んな意味で」
「なにそれ」
ぷっと吹き出すと、海くんもぎこちなく笑った。千歳は千歳で、海くんが既婚者だと知って安心したのか「ここに座ってもいいよ」なんて上から目線でカウンター席に彼を案内している。
その隣でコーヒーを啜っているおじさんが、「若いっていいねぇ」としみじみ呟いているのを聞きながら、私はやっと厨房に戻ることができた。
「さて、今週もお疲れ様。かんぱい!」
「うん。かんぱい」
千歳と二人きり、こたつに入りながら向かい合って一献傾ける。適当に見繕ったお酒とおつまみを広げて、私と千歳だけのささやかな宴の始まりだ。
「はあ……それにしても、今日はいろいろあったなぁ」
「そう? まあ、僕とひかりが夫婦になるって宣言できてよかったよね」
「よかった、のかな……? ていうか、まだ夫婦になれるかなんて分かんないのに」
「ふふっ、大丈夫だよ。……ねえ、ひかり。やっぱり隣に座ってもいい?」
言いながら、私の返事なんて待たずに千歳が隣にやってきて腰を下ろす。ぴたりとくっついたことで千歳の体温が直に伝わってきて、それが何よりも安心感を与えてくれた。
「……あのね、千歳。実を言うと、私もやきもち焼いてたの。千歳のこと見てる女の子、いっぱいいるから」
「へえ、そうだったの?」
「そうだよ。連絡先渡されるのとか、じっと見つめられるのとか、本当は嫌なの。千歳は私の恋人なのにって思っちゃう」
「ふふっ、わがままな子だねぇ。僕を客寄せに使うって言ってたのはどこの誰だったかな」
「そんなの、十年も昔の話でしょ」
昔の話を持ち出されて頬を膨らますと、千歳はふっと笑ってからその頬に唇を寄せた。何も言わずに目を閉じると、お酒のせいか少し熱くなった唇にもキスを落とされる。そのまま少しの間口づけあって、息が乱れそうになる直前で千歳は唇を離した。
「……やっぱり、明日あの女神の社に行こうか。それで頼んでみようよ、結婚できるようにしてくれって」
「そんなこと、できるのかな? そもそも社ってどこにあるの」
「ひかりも知ってると思うよ。僕のと違って大きくて立派な社だから」
「え、そうなの? まあ、行くだけ行ってみようか」
のんびりと返してから、イネさんから送ってもらったせんじ肉をつまみに日本酒を呷る。お父さんやお母さんには「年頃の女がそんな風に飲むもんじゃない」などと言われるが、今は千歳しかいないので何も気にしなくていい。千歳は千歳で、私の作った明太子入りのだし巻き卵を美味しそうに頬張っている。
「結婚、かあ……まさか、千歳にせっつかれるとは思わなかったなぁ」
「別にせっついたつもりは無いけど。でも、この前も言ったでしょう? 形だけのものだったとしても、結んでおけるものは結んでおきたいって」
「うん。私も、そう思うよ」
杯を置いて、隣にいる千歳にもたれかかる。そっと肩を抱かれたら、全身を千歳の匂いに包まれたような気がした。
こうして千歳がここにいてくれることだけで奇跡のようなものなのに、彼はまだその奇跡の先が見たいらしい。
そんな欲張りな恋人を、両の瞳でじっと見つめてみる。それから、ただただ幸せな気持ちで「好きだよ」と囁いたら、返事の代わりに蕩けるくらいに深い口づけを落とされた。
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