初恋の泥沼

エイ

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やりたかったこと・諦めたこと

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 現在、夫はただ友人として彼女を助けているだけであって、彼女と夫に非はないと主張できる。そんな状況で彼女を脅迫するような行為に及んだら、菜緒が完全に悪者だ。
 そもそも二人は愛し合っていたのに、引き裂かれて親から好きでもない女をあてがわれた。嫌々結婚した菜緒のことなど、夫側の味方からすれば最初から憎しみの対象だろう。
 この先、夫が菜緒と離婚したとしても、菜緒が悪いことにされるのが目に見えている。

「え……じゃあ私どうしたらいいの? 夫が他の人を好きになっても我慢するしかないの? 黙って夫が帰ってくるのを待ち続けなきゃいけないの? 私、こんな生活もう嫌だよ……」

 菜緒はもう限界だった。あの広い家に一人でいると、一体自分の存在価値はなんなのかと叫びたくなる。
 あんなファミレスの食事よりよっぽど手間暇かけて栄養バランスを考えたものを作っていたのに、夫は菜緒の食事に対し『美味しい』と言ってくれたことは一度もない。
 どんなに奇麗な恰好をしても、何の興味も示してくれない。
 部屋を塵一つないほど綺麗に掃除しても、花を美しく生けても、それらに対し夫が何か感想を言ったことも一度もない。
 あの女性と子供に向けたような笑顔を、菜緒にはただの一度だって見せたことはなかった。

 そんな恨みとも妬みともつかない言葉を感情のままに吐き捨てると、望は冷たい瞳で観察するように菜緒を眺めていた。
 黙って見つめる彼の視線に耐え切れなくなり、崩れ落ちるように床に突っ伏した。
 床に蹲る菜緒をしばらく見下ろしていたが、望は何も言わないまま頭を掴んでやや乱暴に上を向かせてきた。

「なっ、なに……怖いよ」

 涙目で震える菜緒の顔を指で摘まむと、ムニムニと揉んで遊び始めた。

「……はは、ぶっさいくな顔」

 ケラケラと笑う望の顔には先ほどまでの怒りは感じられない。

「別に夫を待ってろなんて誰も言ってねーし、好きなことして生活してりゃいーじゃん。金も時間もあるんだろ? 過干渉な両親もいないんだし、うるさい旦那もいないし最高な環境じゃん。ガキの頃、自由になって好きなことして暮らしたいって言ってたじゃん。今がその時だと思えばいんじゃね?」
「え……?好きなこと? え? 何の話……?」

 子どもの頃、望とはいろんな話をした。
 お互い家族に不満を持っていて、他の人に言えないその悩みを二人の秘密として共有していた。菜緒は過干渉な親が苦手で、確かにあの頃、自由になりたいみたいなことを言ったかもしれない。けれど古い記憶すぎてほとんど思い出せない。
 菜緒がきょとんとしていると、望が思い出せと言わんばかりに言い募ってくる。

「覚えてねーの? 菜緒、家で禁止されてることが多すぎて息がつまるとか言ってただろ。テレビダメ、漫画ダメ、ゲームダメ、駄菓子ダメ、ファストフードダメ、外遊びダメ、友達と遊びに行くのダメ。あとなんだっけ、ジーンズダメとか無かったっけ? そういう禁止されていたこと全部、今ならできるじゃん。旦那に付きまとうより、そういうやりたかったことすれば?」
「やりたかったこと……」
「うん、なんかあんだろ。何でもいいから言ってみろよ」

 意外な問いかけに菜緒は目を瞬かせる。望に言われるまで、当時そんなことを想っていたことすら忘れていた。
 菜緒の両親は理想が高い人たちで、自分の思う正しさから菜緒がはみ出すのを非常に嫌って幼い頃から厳しく躾けられてきた。テレビはニュースか教育番組意外は見せてもらえなかったし、漫画なんて馬鹿のみるものだと言ってはばからない人たちだったため、菜緒は娯楽や趣味などから縁遠い人生を送ってきた。
 言われてみれば、もう昔禁止されていたものを我慢する必要はないのだ。いつのまにか菜緒の中で禁止されていたことは『いけないこと』として刷り込まれていて、それを破ろうとも思わずにいた。

 今ならやりたいことをやれる。そんなこと、自分では思いつきもしなかった。

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