初恋の泥沼

エイ

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九相図

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 あの当時、突然本家がつぶれてしばらくして、その倒産には望が関わっていると両親が罵り混じりに話しているのを聞いた。
 子どもの頃から望が本家の人間を憎んでいるのは知っていたけれど、実際に彼らの人生を破滅させたいほどの恨みを抱いていたとまでは思わなくて、あの頃とても驚いたのを覚えている。
 あの家にどうしてそれだけ憎悪を抱いたのか分からないが、それほど憎いなら一族のひとりである菜緒のこともきっと憎んでいたのだろうと思い、連絡する勇気が出なくて以来ずっと疎遠にしていた。
 本家倒産後、菜緒の父親の会社も倒産の危機に陥り、両親から望とは二度と関わるなと言われたのも疎遠になっていた理由のひとつである。

 望は、元々は一族本家長男の息子だった。
 長男といっても実子ではなく、跡取りがいない本家へ養子と貰われてきた子であった。
 だが望が中学三年生の時、突然本家から籍を抜かれ家から追い出されている。
 優秀だった彼がいきなり後継から外された理由は、そもそも彼は遠縁からもらった養子だったから、最初から彼に家を継がせる気がなかったらしい。
 彼が本家にもらわれてきたのは、男が生まれなかった場合の保険に過ぎなかった。

 本家の長男にはその後無事男子に恵まれ、下の弟が育ちあがった時点で養子の長男と後継を交代させ、長男には弟のサポート役に回って支えてもらおうと親は考えていたらしいが、誤算だったのが、望が優秀過ぎたことだ。

 小学生のうちからその鬼才ぶりを発揮していたが、中学生でネットビジネスの事業を起こして成功させたあたりで、本家の両親は、これでは弟のサポートどころか会社を乗っ取られるかもしれないと不安を抱き、望を家から追い出した。
 菜緒がその事実を知ったのは、本家の会社が倒産した後だった。
 養子縁組解消後、行方をくらましていた望はある日突然反逆を起こし、本家の事業を瓦解させ倒産に追い込んだ。
 そのやり方は実に巧妙で、急に本家の事業が傾き始め本格的に倒産の危機に直面するまで望が裏で糸を引いているとは誰も気づかなかった。
 ようやく望が表に顔を出した時には、元両親は無一文どころか多額の負債を抱えて自己破産するまで追いこまれていた。
 本家を追い込むのに、望は利用したい人たちの弱みを握り思いのままに動かしていた。
 この辺りの事情は、菜緒の両親や親戚たちが夜な夜な集まって情報を擦り合わせてようやく判明した事実である。
 本家の人間が、今どこで何をしているのか、誰も知らない。
 弟は母方の遠い親戚に引き取られたとだけ聞いている。
 大勢の人間を破滅に追いやった恐ろしい人物だが、菜緒の事情をきいて同情してくれたらしく、一気に態度が軟化した。

「菜緒の今の状況に、少なからず俺も責任を感じるからお詫びに協力してやるよ。それで菜緒はどうしたい? 相手の女に退場してもらいたい? 別れさせ屋とか、追い出し屋いう手もあるけど、どうする?」

 伝手ならあるけど、ととんでもない提案をしてきたので菜緒は慌てて手を振った。

「し、しなくていい! そんなこと頼んでないって! ……ていうか、やっぱりよく考えてみると、その人は別に悪くないし……私がどうかしていた」
「そりゃそうだ。じゃあ旦那に復讐したいのか? てかお前がどうしたいのかはっきりしねーとこっちも動けねえんだけど」
「えっと……いや……なんか、自分でも何がしたいのか分からなくなっちゃった。ちょっと落ち着いてもう一度よく考えてみる……。ごめん、急に押しかけて勝手なこと言って」

 夫に復讐したいのかと問われれば、そうでもない気がする。
 もとより政略結婚で、お互い愛があったわけではない。けれど、自分が妻として正しくあろうとしているのに、夫だけ好き勝手やっている現状がどうにも許せないだけなのかもしれない。
 でも夫に言い返せないのは、今の生活を失うのが怖かったからだ。だから彼女に離れてもらって、原状回復したいというズルい気持ちが働いていただけだ。

(……本当に、私は卑怯でズルくてくだらない人間だわ)

 夫との関係は、このままでいいわけがないけれど、望と話しているうちにいろんなことに気が付いて、自分でもどうしたいのか分からなくなってしまった。

「あー、まあとりあえず、自由な時間があんだから、好きなことしながらゆっくり考えりゃいんじゃね? とりあえず漫画なら書庫に色々あるから、好きなの貸してやるよ」

 落ち込む菜緒に、望は先ほどより柔らかい声で話しかける。

「ありがと……て、いうか、久しぶりの再会なのに、最低なお願い事してごめん……」
「そうだな。数年ぶりに懐かしいいとこが訪ねてきたと思ったら、金握りしめながら女の弱みを調べる方法教えろ! だもんな。驚いたわ。まー俺も最低な部類の人間だから、それは別にいいけど」

 かなり最低なことをしたはずだが、男は笑って許してくれた。
 それから書庫へ行って、お勧めだという漫画をさくさくと選び出し、適当な紙袋に詰めて菜緒に持たせた。
 とりあえず今日は帰れと言われ、重い紙袋とともに菜緒は家を追い出される。

「あ、えっと、今日はありがとう。なんか目が覚めた。今度ちゃんとお礼するから」

 玄関を閉められる前に声をかけると、男は少し真面目な顔なって釘を刺すように言った。

「礼とかいいから、お前はもうここにくんな。用があるなら外で会うから、そん時はまた連絡してこい」

 荒れ果てた玄関先に立つと、最新機器で埋め尽くされた部屋の中との落差に違和感を覚える。門扉の前は古い枯れ葉が堆積したままで、庭は雑草が生え放題である。外壁は苔むして、パッと見廃墟のようだ。
 警備システムが全くの無駄になりそうな問題だらけのようなこの家を見て、菜緒はずっと感じていた疑問を口にした。

「望くんは、なんでこの家に住み続けるの?」

 男は質問を受けてしばらく黙っていたが、やがて片頬だけで笑いながらこう言った。

「俺はね、本家の九相図を作ってんだよ」
「く……?なに?」
「九相図。死体の朽ちていく様を九つの場面に分けて描いた仏教絵だよ。俺はこの家が朽ちていく様を見ていたくて、住んでいる」

 望の目は底の見えない沼のように真っ黒で、菜緒は背筋に冷たいものが走る。
 本家が一家離散したのは七年も前のことなのに、彼のなかではなにひとつ終わっていないのだ。彼はまだこの家に囚われたまま、どこにも行けないでいる。

 家を出たあとはすっかり毒気を抜かれて、来る前にあった夫への怒りはどこかへ消えていた。


 ***


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