初恋の泥沼

エイ

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大好きなもの

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「紘一さんは……夫はさ、食へのこだわりが結構強くて、無国籍料理とか創作料理とか嫌いって言ってた。あと、ファミレスとか居酒屋とかは、汚らしいから絶対行きたくないとも言ってたな」
「へえ。めんどくさ」
「作法とかもうるさくてね、ちょっと食器にフォークが当たって音が鳴ったりするとメチャクチャ不機嫌になるの。だから食事する時はいっつも緊張して、失敗しないように気を漬けなきゃいけないから、味わうどころじゃなかったなあ」

 食べるスピードも、夫より早すぎても遅すぎてもダメ。彼が食べ終わった少しあとくらいに食事を終えるのがちょうどいい。そんなことを常に考えながら食べていたら、美味しいと感じる余裕などなかった。

 愚痴ともつかない話をつらつらと喋っているうちに飲み物と前菜が運ばれてきて、望は乾杯などせず冷たいお茶に口をつける。
 菜緒も薄緑色の飲み物を一口飲むと、キウイの爽やかな酸味と甘みが口いっぱいに広がり、余りの美味しさに目を見開く。

「美味しい! これ美味しいよ望くん!」
「そりゃよかった。このハモンセラーノも美味いから食え」
「ん、生ハム? え、美味しい。生ハムってこんなに美味しい? 待って、このナッツのチーズ和えもピンチョスもすっごく美味しい! どうしよう無限に食べれそう」

 美味しい美味しいと連呼する菜緒を、望は面白そうに眺めている。菜緒は気付いていないが、皿を運ぶ店主もニコニコしながらこちらを見ていた。

「前菜で腹いっぱいにすんなよ。まだ色々頼んでっから」
「んーそっか。ねえ、このお皿可愛くない? 手作り感あって」
「陶芸もやってるんだよなこの店主。多趣味すぎ」

 食べながら飲みながら、とりとめのない話をする。
 色々頼んだと望が言ったとおり、どんどんお皿が運ばれてくる。こんなに食べれるの? と驚いていると、更に大きなパエリアが運ばれてきて、いくらなんでも頼みすぎだと笑ってしまう。
 グラスが空になるとメニューを渡され、これもお勧め、などと言われついつい注文してそれがまた美味しくて更に食が進んでしまう。
 酔いが回ってきて、何を喋ったか分からないけれどただただ楽しくて、菜緒は人生で一番お酒を飲んでお腹がはち切れそうなほど食べた。




「グッダグダじゃねーか。自分の酒の容量くらい把握しとけよ。ほら、もう帰るぞ」
「んーだって……楽しくて……」

 ニコニコ顔の店主に見送られながら菜緒はおぼつかない足取りで店を出る。駐車場まで続く庭園の中のレンガ道を歩く。
 庭を照らす小さなライトと月明かりだけで十分明るい。酔いのせいか、月明かりがキラキラと輝いて見えてめまいがしそうになる。
 火照った頬を湿った風が撫でていくのを感じて、菜緒は何故か急に泣きたくなった。

 見上げた月が綺麗だと思った。
 土の湿った匂いが好きだと感じた。
 レンガ敷の小道と靴が擦れて、ザリッと音がするだけで嬉しくなる。
 月明かりで違う色合いに見える花々が美しいと思うだけで胸がいっぱいになった。
 この世界はこんなにも大好きなものであふれているのに、いつの間にか見えなくなっていた。そのことに気づいて、ぐっと喉が苦しくなる。

「……望くん、私ね、昔は好きなものがいっぱいあったはずなんだ。アリの行列とか、月の満ち欠けとか、夏の朝顔とか野菜が実るところとか、食べて美味しいと思うこととか、色々、たくさんあったはずなんだ。でもいつの間にか好きなものが何もなくなっちゃった」

 料理だって好きなはずだった。野菜や果物が調理することで形を変えて美味しくなる肯定が純粋に面白いと感じていた。でも今は料理を楽しいと思えなくなってしまった。

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