初恋の泥沼

エイ

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みっともない恰好

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 ***

 危うく寝過ごしそうになったが、夫に朝飯を作れと言われていたのを思い出し、慌てて着替えて台所に向かう。
 買い物をしていないので冷蔵庫には碌な食材が残っていない。ご飯を炊いている間になんとか冷凍品などを組み合わせてそれなりに見える朝食を作る。
 食卓に並べ終わったところで、夫がリビングにやってきた。もう身支度を済ませた後で、きちんと髪型もセットされている。

「なんだその格好は……。みっともない」

 そう言われて自分の格好を見下ろすが、シャツにジーンズというラフな格好だ。何がいけないのかと首をかしげたが、そういえば化粧もせず髪もひっつめただけだったと気付く。
 以前は朝からちゃんと化粧をして、スカートかワンピースなどの『キチンと』した服しか着なかった。

「朝から化粧をしないとみっともないって思う人、世の中に何人くらいいるのかしら」

 綺麗にしていないといけないと義母に教えられていたから、化粧をすることもスカートを履くことも当たり前みたいに思っていた。
 でも化粧をする必要があるのだろうかと一度疑問に思ってしまうともうダメだった。みっともないとはどうしても思えない。ズボンの快適さを知ってしまうと、朝っぱらからきついストッキングなんて履いてられない。

「……このあいだから、その態度はなんなんだ。嫌がらせのつもりか?」
「疑問に思うことが嫌がらせになるの?」

 お味噌汁持ってくるわと台所に逃げるとそれ以上は何も言ってこなかった。
 けれど夫は出勤前にスーツとワイシャツを数着持ってきて、菜緒の前にドサッと投げてよこした。

「このところ、クリーニングにも出していないだろう。靴も磨いていないじゃないか。俺に不満があるにしても、主婦の仕事を放棄していい理由にはならないからな」
「…………」

 クリーニングに出しておけ、と言い捨てて夫は出勤して行った。
 その態度に腹が立ったが、確かに今現在紘一に妻として専業主婦として養われている立場だから、反論できない。
 だが、主婦が最低限やらなくてはいけない仕事とはなんだろうと疑問に思う。
 以前は家じゅうを隅から隅まで綺麗に掃除して、花を飾り、庭を手入れして、夫の身の回りのものを綺麗に整えて、それこそお気に入りの整髪料の残量をチェックするほどに、気を遣っていたつもりだった。
 でもそもそも夫はほとんど家にいないし、花瓶の花にも気づいていない。それに庭なんて一度も見たことないのではなかろうか。
 夫が放棄した家庭で、菜緒がやらなくてはいけない仕事というものが果たして存在するのか。

「なんかもう、離婚したいな……」

 ポツリと独り言が漏れる。
 菜緒にとって今の生活は苦痛で仕方がない。でも、別に暴力を振るわれているわけでもないし、飢えて苦しいわけでもない。それどころか経済的には恵まれていて、生活水準で言えば上流階級にあたるはずだ。生活苦で毎日の食事に困る人たちから見れば、贅沢な悩みだろう。
 夫が奈緒との家庭に興味がないとしても、不満を抱く自分が間違っているのかもしれない。
 それでも、破綻したまま夫婦を続ける意味があるのかという思いと、不満を抱く自分が傲慢なのだろうかという考えが行ったり来たりしている。
 しばらくぼんやりと考えながらガランとしたリビングを眺めていたが、いくら考えても堂々巡りになる。

 気持ちを切り替えてクリーニングに出せと言われたものを持って家を出た。
 大量のスーツとシャツをクリーニング店に持ち込むと、顔なじみの店主に「最近お忙しいんですか?」と困り顔で問われた。
 普段はきちんと化粧をして綺麗な服を着て定期的に訪れていた客が、すっぴんにジーンズ姿で大量のクリーニング品を持って現れたから訝しく思ったようだ。
 しれっと、「そうですね」と流して素知らぬ顔で手続きをする。
 家に戻るとすぐ掃除を始めるが、しばらくさぼっていたため案外埃が溜まって汚れている。掃除機をかけ、拭き掃除をしただけであっという間に時間が経過してしまう。
 洗濯物は手洗いしないといけないものも多く、これに取り掛かる前にスマホを取り出す。

「今日は行けないって望くんに連絡しとこ……」

 このあと洗濯と買い出しに行かなくてはならないので、あちらのマンションに行く時間がとれそうにない。メッセージアプリでそう送ると、『了解』とだけ返ってきた。
 洗濯を干し終わるともう昼過ぎになっている。
 冷蔵庫に何もないので、買い物がてらお昼とどこかで食べようと、バックを持って家を出た。
 駅前の繁華街にあるパン屋はカフェスペースがあるので、そこで昼食を済ませる。昼時だからか店はにぎわっていて、菜緒は窓の外が見えるカウンター席に座って一人もそもそとパンをかじる。
 一人で食べるご飯は気楽でいい。
 会話のない夫と向き合って無言で食べる時間は、一人でいる時よりよっぽど孤独を感じていた。

「今日からまた夕食を作らなきゃいけないのか……」

 久しぶりに夫と食事をするのかと思うと気持ちが落ち込む。
 夕食と明日の朝食のメニューを考えなくてはならない。栄養バランスを考えて、見栄えするメニューをかつては毎日考えて作っていたはずなのに、今日は全く思い浮かばない。
 そう言えば、夫の嫌いな物は知っているが、好きな物は教えてくれなかった。
 別に好き嫌いはないと言っていたのに、作った食事に対して、これは好きじゃないとかこういう料理は嫌いだと文句ばかり言われていた。そのくせ美味しいとは一度も言ってくれたことがない。
 マズイと言われないだけマシなのか。けれど好きな物ひとつ知らないのに、何を作ればいいのか今更ながら分からなくなる。

 パンを食べ、コーヒーを飲み干すと、買い物するためにスーパーへと向かう。
 夕食と朝食の分の食材を買うだけなのに、あれもないこれもないと冷蔵庫の中身を思い浮かべながらカゴに入れていると、いつの間にかずっしりと重くなってしまった。
 会計して、重い袋を両手に下げ、ふうふう言いながら家へと帰る。
 家に帰れば干した洗濯物を取り込んでアイロンをかける作業が待っている。
 ワイシャツはクリーニングに出すと決まっているが、最近面倒くさくて適当に家でアイロンしたものをクローゼットにかけていた。厄介なことに、下着やTシャツにも紘一はアイロンをかけるのが決まりとなっている。
 ここ最近溜めてしまった洗濯物を見て、これ全部にアイロンをかけるのかと思うとうんざりしてしまった。

「……やめよ。面倒くさい」

 夫のボクサーパンツにアイロンをかける意味が分からない。別に皺にもなっていない。適当にたたんでそのままタンスに突っ込んだ。
 夕飯を作らなくてはならないから、のんびりアイロンなんてしている暇はないのだ。
 また手抜きだと文句を言われるのも嫌だから、嫌々ながら副菜を三品と主菜を作る。ようやく出来上がった頃には、もう七時を回っていた。
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