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暗雲
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夕方の電車は、学生で混みあっていた。
菜緒はドアにもたれかかり、ペンを握りすぎたせいでしびれた感覚が残る腕をさすりながら、今日一日を振り返る。
絵を描きたいと言ってから、こんなことになるなんて思ってもみなかった。
流されすぎている気がするが、嫌ではない。昔に感じていた、何かを始める時のワクワクしていた気持ちが思い出されて、疲労感すら心地よい。
電車に揺られながら、菜緒は久しぶりに幸せな気持ちに包まれていた。
家に着いた時はまだ十九時前だったので、今日は夫と鉢合わせすることがないだろうと油断していたが、ドアを開けるとすでに靴がある。
まさかと思いリビングに行くと、まだスーツを着たままの夫がソファに腰かけてスマホをいじっている。
どうして今日は早いのかと菜緒が訝しんでいると、夫が顔を上げて不機嫌さを前面に押し出した顔で睨んできた。
「お前、まさかと思ったが毎日こんな時間まで遊び歩いていたのか」
「はい?」
こんな時間と言われて反射的に時計を見る。まだ夜の七時前だけど……と内心思うが、夫にとっては責めるほど遅い時間らしい。
「主婦が出歩いていい時間じゃないだろう。家のことをおろそかにして、お前は一体どこで何をしているんだ」
「夕飯を作る必要がないんだから、この時間に帰ったって問題ないでしょう? それより紘一さん、今日は珍しく早いのね」
今日は彼女さんとは会えなかったから暇で帰ってきたの? と嫌味が喉元まで出かかったが、面倒なことになりそうなので口には出さなかった。
夕飯は家で食べないと決めたのは、夫自身だ。
いつも日付が変わる頃まで帰ってこない人が、たまたま早く帰ってきて妻が家にいないからと怒るなんて身勝手にもほどがある。
呆れた顔で夫を見返すと、さすがに気まずかったのか、少し気まずそうに目を逸らす。
「確かに夕飯は要らないと言ったが、朝食まで作らなくなったのはどういう了見だ? 掃除も洗濯もさぼって、毎日遊び歩いているなんてご近所にも外聞が悪いだろう。噂が実家の耳にでも入ったら困るのはお前だぞ」
あまりにも的外れな非難に思わず笑いが漏れる。
「外聞を心配するなら、駅前で堂々とデートなんかしないほうがいいと思うわよ。実家の耳に入ったらまずことをしているのはあなたのほうじゃない」
自宅の最寄り駅で妻ではない女性と家族ごっこをしているのだから、夫の知り合いが見れば『あれは一体どういう関係なんだろう』と疑問に思われるのは確実だ。
やましいことがないから堂々としているなんて言ったところで、彼女と息子の三人で毎日仲良く食事をしているところをみられたら、別の家庭を作っているとしか思われない。
そういった意味の指摘をしたつもりだったが、夫は明後日の方向に怒りだした。
「はあ? お前……俺たちの後をつけていたのか?」
「なんでそうなるのよ。買い物に行った時に見かけたの」
「コソコソと人のことを付け回して、恥ずかしくないのか」
「コソコソって、ウチの最寄り駅なのよ? そんなところで毎日のようにデートしてたら嫌でも見かけるでしょう」
「彼女とはただの友人だ! 友人と食事をしているだけで疚しいことなどなにひとつない!」
またこの話か、とうんざりする。こちらからはもう何も言っていないのに、どうして責められなければならないのか。もう話し合う気力も出てこない。
「私は何も言ってないわ。別に疚しくないって言うならいいんじゃない? だから私も外聞が悪いとか気にしないし」
「なっ……なんだその言いぐさは!」
言い合いの末、そのままにらみ合うかたちになる。
はっきり言って夫の主張は筋が通らないし、菜緒が責められるのは違うと思う。すごまれても引く様子を見せない妻に対し、先に折れたのは夫のほうだった。
「……落ち着けよ。俺は別にお前とケンカをしたいわけじゃないんだ」
「いきなりケンカ腰で責めてきたのはあなたのほうじゃない」
「……分かった。言い方が悪かったな。俺もさすがに家庭をないがしろにし過ぎたかもしれない」
そんな話はしていない、と言いかけたが、夫はこちらの言葉を待たずに話を続ける。
「この前は友人を批判されてつい酷い言葉が出てしまったんだ。本気で言ったわけじゃないよ。でもお前が誤解してしまうのも仕方がないよな。分かった、なるべく家にも早く帰るようにするから」
「……は?」
「ほのかとは、今は本当にただの友人なんだ。シングルマザーになって、色々大変だから手助けしているだけなんだ。だからお前も変に疑ったりするのはやめてくれよ」
「疑うも何も、私はあれから何も言っていないよね? 駅で二人が歩いていたっていうのはただ事実を言っただけだし、家に早く帰ってきてほしいとも思っていない。私のことを嫌っている人と一緒の空間にいるのもしんどいし、これまで通りでいいわよ」
それだけ言って、菜緒は逃げるようにキッチンに向かう。朝作っておいた常備菜で夕食にしようと思っていたが、こんなことならどこかで食べてくればよかった。
紘一はまだなにか言いたそうにその場に留まっていたが、一切そちらに目を向けることなく作業していると、そのうち諦めたのかソファに座ってテレビのニュースを見始めた。
さっさとこの場を離れたかったので、冷凍のご飯を温め常備菜を小鉢に盛るだけの質素な食事を用意する。お膳に並べ、部屋に持って行って食べようとしていると、再び声をかけてくる。
「おい、俺の飯は? まだ夕食を食べていないんだぞ」
だから食事は要らないとあなたが言ったんでしょうと言いたくなったが、また揉めるのも嫌なのでぐっと言葉を飲み込んだ。
しぶしぶ自分の分のお膳はテーブルに置いて、冷凍していた豚の味噌漬けを焼いて、それに常備菜の小鉢を添えて出した。お味噌汁は具がワカメとネギだけ。
こんな手抜き料理を出したことが無かったなと思いながら出すと、案の定夫は質素なおかずを見て眉をひそめたが、何も言わず食べ始めた。
「……最近外食が続いていたから、胃の調子が悪い。これからはなるべく家で食べるようにするから、朝晩の用意をちゃんとしてくれよ」
「えっ」
嫌だと言いそうになるのをなんとかこらえて、黙って頷く。
自由に食事をして、食べたいものを選べる喜びを知ってしまったから、また夫好みの食事を作り続ける生活に戻るのかと思うとがっかりする気持ちを抑えきれなかった。
彼女のことで大喧嘩したあの日から、夫は完全に菜緒を拒絶していた。
きっと離婚を考えているのだろうと思っていたのに、まさかまた何事もなかったかのように家で食事をするなどと言い出すとは思わなかった。
「今日は仕方ないが、明日からはまともな食事を作ってくれ」
嫌味を言い捨てて夫は食器を下げることもせず部屋へ戻って行った。
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