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温かい場所
そもそもスマホも夫名義だ。
財布に入っている保険証だって、夫の扶養。
菜緒個人のものなんて何一つなくて、自分は夫の付属として生きてきたのだと実感させられる。
漠然と離婚を考えていた時は、若いし健康なんだから働けば自立して生きていけると高をくくっていた。
だがこうして現実に直面して、どれだけ自分が無力で世間知らずだったのかを思い知る。
どうすることもできずベンチに座り込むだけの無能な女が、菜緒の現実なのだ。
何回目か分からないため息をつきながら、バックに手を突っ込む。
裏地部分を加工して作った隠しポケットから、鍵を取り出す。鍵を隠すように言ったのは望だった。彼はありとあらゆることを想定して対策を講じている。それにひきかえ、自分はなんと能天気で愚かだったのだろう。
結局、誰かに頼らないと生きていけない。
無力な自分を自嘲しながらカバンを持って立ち上がった。
***
菜緒が訪れたのは、望のマンションだった。
自由に使っていいと言われているが、住んでもいいという意味ではないというのは分かっている。でも他に行くところが思いつかなかった。
無計画に家を飛び出して、望のマンションに転がり込むとか馬鹿のすることだと責められるかもしれない。怒るか、呆れるか、どんな反応が返ってくるかと想像してビクビクしながらドアを開ける。
明かりがついていて、望は今日もマンションのほうにいるのだろう。
数日だけでも置いてもらえるよう頼み込むしかない。
自分で考えることもできない無能だと罵られるかも……とビクビクしながら鍵を開ける。
「菜緒? どうしたんだよ、こんな時間に」
「あ…………」
すっかり日が暮れた時間帯に奈緒が訪れてきたから不思議そうにしていたが、菜緒の顔を見てすぐ顔をこわばらせる。
「……なにがあった?」
「ごめん、しばらくここに住まわせてもらえないかな? 本当に、申し訳ないんだけど」
「いいから早く入れ。それとシャワー浴びてこい。泥だらけだし、酷い顔してるぞ。話はそのあとでいいから」
手を引かれ、そのままバスルームへ押し込まれる。
ひとりになって、洗面台の大きな鏡で己を見ると服は土埃で汚れてひどい有様だった。それに転んだ時に擦ったのかジーンズはほつれて穴が開いている。
顔には涙の痕が残っていて、転んだ時についたのか泥で汚れていた。
服を脱ぐと、腕や胸元にアザができているのが目に入って、先ほどの夫の行為を思い出してぞわっと背筋が寒くなる。
急いで浴室に入り、シャワーを浴びて肌が赤くなるくらいゴシゴシこすって肌に残る感触を必死で洗い流した。
「着替え、とりあえず俺の置いとくから使えよ」
扉越しに望から声がかけられ、ありがとうと答えてシャワーを止める。
ずっとシャワーを流しっぱなしにしていたから、心配して声をかけてくれたのかもしれない。
持ってきたカバンにはルームウェアは入っていなかったから、望が置いてくれたスウェットをありがたく借りる。
「座って飲め。熱いぞ」
リビングにいくと、望が温かいお茶を淹れてくれていた。ソファに座るよう促されたが、座る時に体を曲げるとあちこちに痛みが走り、思わず顔をしかめる。
「怪我しているのか?」
「あ、うん。いや、大丈夫」
「どっちなんだよ。つか早く言え。怪我しているなら今すぐ病院に行くぞ」
「ちょ、ちょっとアザになってるだけだから。病院はいい。保険証使いたくないし」
「……だんなに殴られたのか? よく見れば顔も少し腫れている」
「顔? あ、そうか顔もぶたれたけどこれは前の日で、体のあざは無理やり押さえつけられたせいだと思う」
「なんだと? ……おい、何があったかちゃんと説明しろ」
顔色を変えた望が菜緒の手を取り、だぼだぼのスウェットを捲ると、手首にも強くつかまれた時についた痕がついていた。それを見て望はさらに表情を険しくする。勝手に服を捲り腹や背中を確認されてしまう。
「暴行されたのか?」
「ちが……わないけど、殴る蹴るされたとかじゃないよ。夫に離婚の話をしたら、なんだか様子がおかしくなって……その、急に無理やり、服を脱がされて……」
性的な話になるため言いにくかったが、望にはもう夫とのアレコレをあけすけに話してあったので、正直に起きた出来事を説明した。
正直、夫のアレ殴ったら気絶してしまって、その隙に逃げてきた件については望のことだからゲラゲラと笑い出すだろうと思っていた。
だが意外なことに彼は終始厳しい表情で眉を顰めるだけで、話し終わるまで一度も笑わず、皮肉のひとつも言わなかった。
「話は分かった。それで、妊娠の可能性は? アフターピルがいるなら病院に行かないとダメだ」
「それは平気だと思う。最後までされてないから。それに彼女の件で揉めてから性行為もなくなっていたから、妊娠は絶対にないよ」
「そうか。じゃあもう本格的に離婚に動こう。だが旦那が心変わりするとは予想外だったから、当初の想定よりも揉めることになるだろうな」
「心変わりなのかな? 義理のお母さんの話をし出してから急におかしくなったのよ。私のことを誤解していたとか言って、やっぱり夫婦としてやり直そうって興奮し始めて」
会話の内容を思い出しながら、やりとりの内容を望に詳しく話して聞かせる。
これまで菜緒に対する夫の不可解な嫌悪の理由について話が及ぶと、望は額に手を当て深いため息をついた。
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