初恋の泥沼

エイ

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逃げて正解

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「……旦那はお前と母親を重ねて見ていたってことか。マザコン野郎だと思っていたからこれは俺も想定外だった。話を聞く限り、過干渉の母親を内心では相当嫌悪しているみたいだな。菜緒も知らない確執があったのか」
「夫はお義母さんの言いなりだから、私もマザコンだと思い込んでいたけど、違ったんだね。
 元カノさんの交際にも反対されて、進学や就職も勝手に決められたみたいだし、鬱屈したものがあったのかも」

 菜緒のことも、母親が用意した女だと決めつけて最初から嫌悪感を抱いていたようだ。
 しかも一緒に住んでみれば母親と同じ料理、同じインテリア、同じ服装をするとなれば、菜緒が母親に見えてしまっても仕方がないかもしれない。

 母親に見える女とセックスするのは相当苦痛だっただろうが、それこそもっと早く言ってくれればこんなにこじれることはなかったのに……。
 月一回、義務だと思って必死に己を奮い立たせていたとしたらあの態度も納得だが、だからと言って許せるわけではない。

「嫌っていた理由は分かったけど、それがどうして急に興奮しだすのか分からないのよ。あんなことして逃げたらこの後面倒なことになるのは分かっているんだけど、どうしても気持ち悪くて……あの家に帰りたくないの」
「思い込みフィルターが外れて、急にお前が女に見えてきて、溜まっていた性欲が爆発したんだろ。初恋の彼女ともヤれないし、風俗に行くタイプでもなかったんなら、頭おかしくなるほど性欲ため込んでいたんだろな」
「潔癖症気味だったから……風俗とかは絶対無理なんじゃないかな」
「だろうな。プライドが高いから口にしないだけで、本当はやりたくてたまらなかったんだろ。しかし厄介なことになったな」
「全然分からなかった。てっきり、性的なことを嫌悪しているんだとばかり」
「菜緒は逃げて正解だよ。素直にヤラれてたら数年分の性欲をぶつけられるところだったぞ」
「ひえっ、怖いこと言わないで」

 ようやくいつもの調子で望むが笑いだし、つられて菜緒も少し笑顔になれた。張り詰めていた表情が和らぎ、それを見た望は時計に目を遣り立ち上がった。

「食うものとかなんもねえし、ちょっと買い物行ってくるわ」
「え、じゃあ私も……」
「アホか。そんなカッコで外出れねえだろ。いいから待ってろ」

 ブランケットを投げ渡され、望はさっさと玄関を出て行ってしまう。
 ふわふわのブランケットに包まり、菜緒はソファにもたれかかり息を吐いた。

 きっと怒られるか笑われるかすると思ったのに、望は真剣に話を聞いてくれて菜緒を受け入れてくれた。その優しさが有難くて嬉しくて、胸がぎゅっとなる。
 望がいなかったら、路頭に迷うところだった。
 いや、そもそも彼に会わなければ、菜緒は今も夫にしがみつくしかできず、今もあの家で悪意にまみれながら暮らしていただろう。
 何もかも、望のおかげだ。
 望にどうやって恩返ししたらいいのか分からないくらい、世話になっている。この恩をどうやって返したらいいか想像もつかないが、きっと望は恩返しする余裕があるなら自立しろと言いそうだ。

 ブランケットの暖かさでうとうとしていると、玄関が開く音がした。
 立ち上がって出迎えると、望は買い物袋をいくつも抱えている。急いで手を貸そうとすると、中身は食品だけでなく氷やシップなどの医薬品もたくさん入っていた。

「先に手当するから、そこ座れ」

 どうやら菜緒の手当てをするためにわざわざ買ってきてくれたらしい。手当してくれるというが、いとことはいえ裸をみられるのは少々恥ずかしい。

「ありがとう……えっと、自分でできるから」
「いーから。怪我の具合を確認しておきたい」

 望相手に気にしているほうがおかしいかと思いなおし、スウェットを捲る。
 胸は隠していたが、酷い歯型があちこちに残っている肌を見て、望の顔色が変わる。ぐいっとスウェットを捲り上げられ、結局全部見られてしまった。

「なんだこれ……おい、やっぱり病院行くぞ。ちゃんと処置してもらわないと痕になる」
「い、嫌っ! こんなの他人に見られたくないっ!」

 ヒステリックな声をあげると、怯んだ望は申し訳なさそうに俯いてスウェットから手を放した。

「分かった、悪かった。でも手当はさせてくれ」
「私こそ、怒鳴ってごめん」

 傷のひとつひとつに軟膏を塗ってくれて、血が出ている個所にはガーゼを貼ってくれた。
 手首や太もものアザは時間の経過とともに赤みを増し、指の痕がくっきり見えるようになっていた。そこにも丁寧にシップを貼り包帯を巻いてくれる。ただ、乳房についた指の痕には一瞬悩んでいたが、さすがにそこには手を触れなかった。
 手当が終わった頃には体中包帯まみれになってしまって少し笑ってしまう。
 望は終始苦し気な表情をして、心配している気持ちが伝わってくる。それを見ていると素肌を晒していても恥ずかしいとは感じなかった。

「ちょっと掴んだくらいじゃこんなアザにならないぞ。手加減なく押さえつけられたんだろ。完全なDVだ。できれば病院に行って、診断書を取っておいたほうがいいんだけどな……どうしても無理か?」

 少し落ち着いてからもう一度病院を勧められる。
 DVの証拠があれば離婚事由になると説明されたが、菜緒は先ほどとは別の理由でそれを断った。

「怪我で言えば、多分私のほうがひどいことしたと思うし……それに紘一さんはあの時正気じゃなかったみたいだし、乱暴した自覚はないと思うんだ。だからこの怪我を離婚材料に使うのはちょっと卑怯かなって気がして」
「DV被害者の大半は相手を庇う発言をするものなんだよ。こんなの暴力以外のなにものでもないだろ。お前がしたことは正当防衛だ」
「暴力は許すべきじゃないけど、紘一さんは本当にあれが加害だと気づいていないみたいだから、もしいきなり証拠として突きつけたらきっとすっごくこじれると思う。だからまずは話をして、あれが暴力だったって自覚をしてもらいたい」

 プライドの高い紘一のことだから、暴力を振るった覚えもないのに警察などからDVの訴えがあるといきなり連絡がきたら恐らく怒りを爆発させて徹底的に戦おうとするだろう。逆に、社会的な立場を重んじる人でもあるから、自分が暴力を振るったことを自覚すればその事実を公にしたくないと考えるはずだ。
 訴えない代わりに、離婚の承諾してくれと菜緒が言えば聞き入れるしかない。

 望は不満そうだったが、今は無理強いするべきでないと判断したようで黙って頷いてくれた。そして持ってきた氷嚢を菜緒の顔に押し付けてくる。

「飯用意してくるから、アザを冷やしておけよ。あと、痛み止めとか色々薬も買ってあるから、適当に使え」
「あ、ありがと」
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