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第5話 王太子殿下の涙のレッスンなんて、聞いてません
しおりを挟む「ミサの前でだけは、強くなくてもいいですか」
そう言って、王太子殿下が肩を震わせた夜を、私はきっと一生忘れない。
◇◇◇
約束のレッスンと、王妃主催のお茶会から、しばらくの時間が流れた。
季節は初夏から、ゆっくりと晩夏へ。
日差しはまだ強いけれど、朝晩の風にかすかな涼しさが混じり始めていた。
レオンは相変わらず、王太子として忙しい日々を送っている。
政務の見学、王城内の視察、貴族たちとの顔合わせ。
王妃陛下の言葉どおり、「王子」から「未来の王」への訓練は、一段と厳しくなっていた。
そのせいか、このところ学舎にやって来るときのレオンの表情に、ほんの少しだけ疲れの影が差しているように見えた。
「殿下、本日のご体調はいかがですか」
いつものように授業前に尋ねると、彼はわずかに笑ってみせた。
「問題ありません。
……少しだけ、眠いですが」
目の下には、うっすらと靴墨のような影。
前世で言うところの“クマ”だ。
(あ、これ、完全にブラック企業時代の私の顔じゃない)
心の中でそうツッコミながら、私は机の上に広げたノートに視線を落とした。
本日のレッスンテーマは、昨晩ぎりぎりまで悩んだ末に決めたものだ。
「今日は、“弱さ”について学んでみましょう、殿下」
「……弱さ、ですか」
レオンは、少しだけ目を瞬かせた。
「恋の物語には、よく“泣き虫なヒロイン”や“強がりなヒーロー”が出てきますよね。
でも、本当に誰かと心を通わせたいなら、自分の弱さを見せることも必要になります」
前世の私は、弱さを見せることがとにかく下手だった。
「大丈夫です」「平気です」が口癖で、倒れるまで無理をした。
“甘えてもいい相手”がいなかったこともあるけれど、
何より、自分自身が「弱音を吐く自分」を許せなかったのだ。
「殿下は、誰かの前で涙を見せたことはありますか?」
問いかけると、レオンは少しだけ視線をそらした。
「……物心がついてからは、ありません」
「ご両親の前でも?」
「父上も母上も、僕が泣く前に“どうすべきか”を教えてくれます。
泣く必要がないように、と」
それはきっと、愛情ゆえなのだろう。
でも、“泣く必要がないように”という言葉の裏側で、「泣くこと自体がいけないこと」のように感じてしまったとしても、おかしくはない。
「では今日は、“泣けない王子”のお話をしましょうか」
私は、昨日の夜に書き上げたばかりの台本を取り出した。
タイトルは、『泣けない王子と森の魔女』。
『泣くと弱いと言われて育った王子ルシアンは、決して涙を見せまいと心に決めている。
ある日、森で迷子になった王子は、年老いた魔女に出会う。
魔女は王子に、「涙を封じる代わりに、心も少しずつ石になる呪い」をかけていて――』
IN_STORY の劇中劇としては、少し寓話めいた物語だ。
“泣けないこと”が強さではない、と王子が気づくまでの話。
「殿下には、王子ルシアン役をお願いします」
「森の魔女は、ミサですか」
「もちろん」
私は、いたずらっぽく笑ってみせた。
「年老いた設定は、心外ですけれどね」
前世二十八歳+今世十五年=合計四十年以上生きていると考えると、
「年老いた」も案外冗談にならないのが辛いところだ。
◇◇◇
日中は暑いので、この日の読み合わせは学舎の一番奥にある小さな資料室で行うことになった。
窓を半分だけ開けると、緑の匂いを含んだ風が、紙の匂いと混ざり合って流れ込んでくる。
『泣いてはなりません、ルシアン王子。
あなたは王になるお方なのですから』
母王妃の台詞を読むとき、私は少し声を柔らかくした。
愛情と期待が混ざった、甘くて重たい声。
『僕は泣きません。
王子は強くなければならないのだから』
レオン演じるルシアンは、まだ幼い。
台詞のト書きには、こう書いてある。
“六歳の頃の王子。涙をこらえながら笑おうとしている”
レオンの声は、低くなりつつある少年のそれのままだが、
言葉の端々に、幼さを演じようとする丁寧さが滲んでいた。
物語が進むにつれて、ルシアンは森で迷子になり、魔女に出会う。
魔女はぶっきらぼうに言う。
『泣きたくても泣けない子どもほど、始末に負えないものはないよ。
そんな子には、心を石にしてやるのが一番さ』
『心を石に?』
『涙をこらえてばかりいると、そうなるんだよ。
本当に泣きたいときに泣けなくなる。
嬉しいときにも、心から笑えなくなる』
読みながら、私は自分自身を重ねていた。
前世で、“泣く時間があるなら仕事をしなきゃ”と自分を追い込んでいた頃。
心のどこかが、少しずつ固まっていく感覚が確かにあったのだ。
『僕は、強くなりたいだけです。
弱い王にはなりたくない』
『弱いから泣くんじゃないよ、坊や。
大事なものがあるから、涙が出るんだ』
そこまで読んだところで、レオンの喉がわずかに詰まったような気がした。
「殿下?」
私は顔を上げた。
彼は台本から視線を外し、窓の外をじっと見つめていた。
「……すみません。
この王子の言葉が、他人事とは思えなくて」
静かな告白に、胸の奥がきゅっとなる。
「前にも申し上げましたが、殿下は弱くなんてありませんよ」
「ミサは、よくそう言ってくれますね」
レオンは、少しだけ苦笑した。
「でも、僕が涙を見せたら、父上はどう思うでしょう。
母上は、国の重臣たちは。
“頼りない王太子”だと失望されるかもしれません」
「……そうですね」
それは、現実だ。
この国の王太子が、国中の人々の前でぽろぽろと泣いていたら、不安を覚える者も多いだろう。
「だから、全部の前で泣く必要はありません」
私は、そっと言葉を重ねた。
「弱さを見せるのは、“選んだ相手の前だけ”でもいいのです。
家族でも、友でも、恋人でも。
誰かひとりでも、本当の気持ちを見せられる人がいれば――心が石にはならずに済みます」
“恋人”という単語を口にした瞬間、胸のどこかが自分でもわかるくらいにざわついた。
頭では“教育係と教え子”だと分かっているのに、言葉だけが前世の癖で滑り出てしまう。
レオンは、その単語には特に反応を見せなかった。
少しだけ考え込むような顔をして、ぽつりと言う。
「……ミサは、誰の前なら弱さを見せられますか」
また、その質問。
私は思わず、苦笑いを浮かべた。
「そうですね。
前の人生では、正直、そんな相手はいませんでした」
「今の人生では?」
「今の人生では……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
ハルヴィア家の養父母は、私を大切にしてくれている。
けれど、そこにはやはり“養女”としての遠慮がある。
王宮の同僚たちは、仕事の仲間だ。
弱音を吐けば、「大丈夫?」と言ってくれるだろうけれど、
それはあくまで丁寧な心配であって、“甘えていい”という種類のものではない。
「……考えてみたこともありませんでしたね」
当たり障りのない答え方しかできなかった。
(本当は、今、目の前にいる人の前なら――と思ってしまったことは、絶対に言えない)
レオンは、それ以上追及しなかった。
「では、今日は劇の続きを後に回して、“弱さの練習”をしましょうか」
「弱さの、練習?」
「はい。
たとえば、“誰かの前で、できなかったことを素直に言う”とか、“しんどいときにしんどいと言ってみる”とか」
会社員時代、自分に一番欠けていたスキルだ。
“弱さを伝える練習”。
「じゃあまずは、私から練習してみましょうか」
私は、椅子から立ち上がり、深呼吸をひとつした。
「殿下。
私は今、少し……怖いです」
「怖い?」
「ええ。
殿下がこれから先、どんな婚約をするにせよ、
私は“教育係としての役目を終えたら、いつか王宮から離れる”のだろうと思うと。
そのとき、私はまた“居場所のない自分”に戻ってしまうのではないかと」
口にしてしまってから、頬がじわじわと熱くなった。
こんなこと、本当は教師が教え子に漏らすべきではない。
でも、“弱さの練習”と自分に言い訳しながら、私は初めて、誰かにこの恐怖を言葉にした。
レオンは驚いたように目を見開き、そしてゆっくりと立ち上がった。
「ミサ」
その声が、いつもより少しだけ低く響いた気がした。
「僕は……そんな未来、望んでいません」
「え?」
「教育係としての役目が終わっても、
君には、僕のそばにいてほしいと、そう思っています」
その言葉は、危うい。
王太子の「そばにいてほしい」は、あまりにも多くの意味を含んでしまう。
「……殿下。それは、王太子としての、“側仕え”の話ですか?」
必死に冗談めかして問うと、レオンはほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
「今はまだ、うまく言葉にできません。
でも、“弱さを見せられる相手”を誰かひとり選べと言われたら――僕は、ミサを選びます」
ざわり、と。
心の中で何かが音を立てて揺れた。
(それは、“恋”じゃない。
きっと、まだ“恋”ではない。
でも、私がずっと欲しかった言葉に、あまりにも似ている)
前世で誰にも選ばれなかった私にとって、「選ぶ」「選ばれる」という言葉は、呪いに近い。
その呪いを、たった一言で少しだけ緩めてしまうなんて。
「……ありがとうございます、殿下」
私は、どうにかそう答えることしかできなかった。
◇◇◇
その日の夜。
王宮の一角で、貴族たちの小さな夜会が開かれていた。
私は直接参加する立場ではないけれど、教育係として、レオンの様子を遠くから見守る役目を任されていた。
煌びやかなシャンデリアの下で、レオンは見事に振る舞っていた。
笑顔も、会釈も、言葉遣いも、完璧。
カトリーヌをはじめとする令嬢たちと軽やかに会話を交わし、
どの相手にも丁寧に気遣いを向けていた。
(……さすが、うちの教え子)
半分は教師としての誇り。
もう半分は、どうしようもない寂しさ。
やがて夜会が終わり、客人たちが引き上げた後。
私は控えの間で、冷めかけた紅茶を片手に、今日の記録を書こうとしていた。
コンコン、と控えめなノックの音。
「どうぞ」
返事をすると、扉の向こうから現れたのはレオンだった。
さきほどまでの礼装のまま、ネクタイだけが少し緩められている。
「殿下。お疲れ様でした。
本日のご様子、とても立派でしたよ」
「ありがとうございます。
……少しだけ、疲れました」
そう言った彼の声は、昼間よりもかすかに掠れていた。
「殿下?」
「ミサ」
レオンは、少し逡巡するような間を挟んでから、ぽつりと言った。
「弱さのレッスンを……覚えていますか」
「もちろんです」
「今夜、少しだけ、“生徒”として、それをしてもいいでしょうか」
その問いかけに、胸の鼓動が早くなる。
私はゆっくりと頷いた。
「ここは、人目もありません。
王太子殿下ではなく、ただの十五歳の少年としてお話しになってもかまいませんよ」
そう言った瞬間、レオンの肩から、目に見えない何かがふっと降りた気がした。
「……怖かったんです、少しだけ」
彼は、テーブルの端に手をつき、俯いたまま続けた。
「皆が、僕の“未来の王妃”を勝手に想像して、
僕自身はそこにいないような気がして。
笑顔で応じながら、心のどこかが、ずっと冷えていました」
言葉が途切れがちになる。
私は、そっと彼の前に立ち、テーブルを挟んで少しだけ距離を詰めた。
「殿下」
呼びかけると、レオンは顔を上げた。
いつもの整った表情が、かすかに崩れている。
十五歳の少年らしい、頼りなさと、不器用な強がり。
「僕は、国のために誰かを選ばなければならないことは分かっています。
でも、“選ばれる側”の令嬢たちが微笑んでいるのを見ていると、
それが本当に僕の望む未来なのか、分からなくなって」
その言葉に、胸が締めつけられる。
(この子は、やっぱり、自分で自分を追い詰める)
私は、深く息を吸い込んだ。
「殿下。
今だけは、“弱さのレッスン”です」
「……はい」
「強くなくてもいい。
王太子でなくてもいい。
泣きたいなら、泣いてもいいんです」
その瞬間、レオンの瞳がわずかに揺れた。
「……泣いても、いいのですか」
「ええ。
少なくとも、私は殿下の涙を“弱さ”だとは思いません」
沈黙が落ちる。
数拍おいて――ぽたり、と。
床に落ちた、透明な滴の音が、やけに大きく聞こえた。
レオンは、必死に表情を保とうとしながらも、
目尻からこぼれた涙を止めきれないでいた。
「……悔しいのか、悲しいのか、自分でもよく分からないんです」
震える声。
「皆の期待が怖いのか、自分の心が分からないのが怖いのか。
“王太子らしくあれ”と言われるたびに、“自分”がどこかに消えていく気がして」
私は、テーブルを回り込むように歩き、彼の隣に立った。
教師として、教育係として、越えてはいけない距離があることは分かっている。
それでも今は、“弱さのレッスン”だ。
「殿下」
そっと、袖口を引く。
驚いたようにこちらを向いたレオンに、できるだけ穏やかな声で告げた。
「大丈夫です。
少なくともここには、“レオンが泣いてもいい場所”がひとつあります」
“殿下”ではなく、“レオン”。
これまであえて避けてきた呼び方を、私は初めて口にした。
彼の瞳が、大きく見開かれる。
次の瞬間、彼はゆっくりと目を閉じ、
小さな子どものように、ひとつ、深く息を吐いた。
肩が、震える。
声にならない嗚咽が、喉の奥で押し殺される。
私は、ただその隣に立ち、
テーブルの上に置かれた手に、自分の指先をそっと触れさせた。
握りしめるでもなく、ただ“ここにいる”と伝えるくらいの、かすかな重さで。
どれくらい時間が経っただろう。
やがてレオンは、少しだけ呼吸を整え、瞳を拭った。
「……すみません。
みっともないところを、お見せしました」
「みっともなくなんて、ありません」
即座に否定すると、彼は少しだけ照れくさそうに笑った。
「これも、“恋のレッスン”のうちなのでしょうか」
「……どうでしょうね」
笑いながらも、胸の奥は複雑だった。
“恋のレッスン”。
そう言われてしまえば、今の時間も“練習”の一環になってしまう。
でも――。
(レオンが、誰かの前で初めて涙を見せた相手が私だという事実は、
たぶん、ずっと私の支えになる)
たとえこの先、彼が別の誰かと未来を築いたとしても。
“弱さを預けた相手”として、私のことを少しでも覚えていてくれるなら。
「殿下。
今日のレッスンのまとめです」
私は、机の上のペンを取り、メモ用紙に一行を書いた。
“弱さを見せるのは、信じたい人を選ぶこと”
それを彼の前に差し出す。
レオンはそれを読んで、小さく息をのんだ。
「……では、僕は今日、ミサを“信じたい人”として選んだ、ということですね」
「そうなりますね」
冗談めかして返すと、胸の奥で何かがじんわりと温かくなった。
前世で一度ももらえなかった、“信じたい人”の席。
人生二周目にして、ようやくひとつ、
小さな椅子を用意してもらえた気がした。
夜会の喧騒が遠くに去り、
静かな部屋に、二人分の呼吸だけが漂う。
――選ばれなかった女の人生にも、
ときどきこうして、誰かにそっと選ばれる瞬間があっていい。
そう思えた夜は、
前世のコンビニの明かりの下で泣きそうになっていた帰り道より、
ずっとあたたかかった。
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