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第6話 「お気に入り教育係」なんて肩書き、聞いてません
しおりを挟む「殿下は、教育係に“特別なお気に入り”がおありだそうですね」
そう笑われた瞬間、喉の奥に張り付いた言い訳は、何ひとつ外に出てくれなかった。
◇◇◇
レオンが私の前で涙をこぼした夜から、数日が過ぎた。
あのときのことは、二人の間で特別な秘密としてしまい込んだつもりだった。
学舎での授業も、庭園劇場での読み合わせも、表面上はいつも通り。
王太子と教育係、少し距離の近い“師弟”の姿。
……の、はずだった。
「ねえ聞いた? 殿下、この頃あの教育係と二人でいる時間がやけに長いんですって」
「恋愛の“練習相手”をしているらしいわよ。実は本命なんじゃないかって――」
朝、王宮の廊下を歩いていたとき、そんな声が耳に飛び込んできた。
声の主たちは、私に気づいていないのか、それとも気づいていてあえて無視しているのか。
(来たか、噂ルート)
前世でも、部署内の恋愛事情はいつも噂話の餌食だった。
同僚の女性が同じ課の男性と付き合い出したとき、本人たちより先に、休憩室のコーヒーメーカーが真っ先に知っていたくらいだ。
私は、そういう輪の外側で紙コップを補充する係。
「ミサさんって、恋愛とか興味なさそうですよね」と笑われて、
「そうかなー」と笑い返すだけ。
――その私が今、噂の真ん中にいる。
笑えない冗談だ。
「“お気に入り教育係”ね……」
小さくつぶやきながら、私は教室に入った。
机の上には、いつものように整えられたノートと教材。
レオンから贈られたインクの瓶が、朝の光を受けて青くきらめいている。
(これは、私にとって大事なもの。
でも……外から見れば、ただの“特別扱い”にしか見えないのかもしれない)
胸の奥に、じわりと嫌な汗がにじんだ。
そのとき、扉がノックされる。
「おはようございます、ミサ」
レオンが姿を見せた。
その表情はいつも通り穏やかで、夜会のときのような張り詰めた影は薄れている。
「おはようございます、殿下」
私は、できるだけ平静を装って頭を下げた。
「本日のテーマは、決まっていらっしゃいますか?」
「はい。……本日のテーマは、“噂”と“本当の声”です」
レオンが少し驚いたように目を瞬いた。
「噂、ですか」
「ええ。王宮では、たくさんの言葉が行き交います。
恋の噂、政略の噂、そして――王太子殿下にまつわる噂も」
あえて軽く笑う。
それが、私の精一杯の防御だった。
「噂は、人の心を揺らします。
でも、本当に大切なのは、“誰のどんな声を信じるか”を自分で選ぶことです」
私は机の上から、新しい台本を取り上げた。
タイトルは、『井戸端噂話と、黙っている恋人』。
『城下町の娘マリアには、幼なじみの恋人がいる。
しかし町では、「彼は別の娘と婚約したらしい」という噂が流れ始める。
マリアは怖くなって、本人に確かめることもできず、噂ばかりを信じて心を閉ざしてしまう――』
「殿下には、幼なじみの恋人役をお願いいたします」
「……また、難しい役ですね」
レオンは苦笑しながらも、台本を受け取った。
「噂に振り回される側の気持ちと、噂を否定したくても届かないもどかしさ。
どちらも、恋の物語にはよく出てきますから」
(例外なく、今の私の胃にも来てるけどね)
前世の会議室で、「あの人、プロジェクトの失敗の責任を押しつけられたらしい」と聞いたとき。
本人に確かめる勇気もなく、「関わらない方がいいのかも」と距離を取ってしまった自分がいた。
噂はいつだって、楽で、卑怯だ。
◇◇◇
庭園劇場での読み合わせが始まった。
『ねえ、本当なの? あなたが別の人と婚約したって――』
マリア役の台詞を読みながら、自分の声がわずかに震えるのを感じた。
噂を信じてしまった娘の不安。
それは、今の私自身の不安とよく似ていた。
『誰がそんなことを言ったんだ。
僕は一度も、君以外を娶るなんて言っていない』
レオン演じる恋人は、怒りと戸惑いをないまぜにした声で返す。
『でも、皆が言っているわ。“あなたはきっと、もっと立派な家の娘と結婚するはずだ”って』
『皆がそう言うから、君は僕を信じられなくなったのか?』
台詞なのに、胸がちくりと痛んだ。
“皆がそう言うから”。
“似合わないと思われるから”。
前世でも今世でも、私は何度この言葉で、自分の心をごまかしてきただろう。
読み合わせの合間に、レオンがふと口を開いた。
「ミサ」
「はい、殿下」
「今日、この劇を選んだ理由を、伺ってもいいでしょうか」
逃げ道を塞ぐような問い。
私は、台本を閉じて息を整えた。
「王宮でも、いろいろな噂が立ち始めていますから」
曖昧に笑うと、レオンの表情がわずかに陰った。
「僕とミサについて、でしょうか」
「……ええ。“殿下の恋の練習相手は教育係だ”とか、“お気に入りだ”とか」
“本命”などという言葉も聞こえた気がするが、
それを口にする勇気は、さすがに出なかった。
「殿下にご迷惑がかからないよう、私の方で距離を取った方が良いのかもしれない、と」
できるだけ淡々と告げると、レオンははっきりと首を振った。
「いいえ。それは、違うと思います」
「殿下?」
「噂があるから距離を取るのは、噂に負けることです。
それに、“恋のレッスン”をすると決めたのは、父上と母上と、そして僕自身です。
ミサだけが責任を感じる必要はありません」
真面目すぎるほどの答えに、思わず苦笑が洩れた。
(そういうところが、この子の一番危うくて、一番まっすぐなところなんだよな……)
「ですが、殿下。
私は自分の身分も立場も分かっているつもりです。
“噂になる相手”としてふさわしくないことも」
中流貴族の養女。
王宮での肩書きは、あくまで一教育係。
“王太子妃候補”である公爵令嬢と並べば、
どちらが“選ばれる側”かなど、火を見るより明らかだ。
「ミサ」
レオンの声が、ほんの少し低くなった。
「僕が誰かと噂になるとき、その相手がどんな立場かを気にする人は多いでしょう。
でも、“僕自身がどう思っているか”を気にしている人は、どれくらいいるでしょうか」
言葉が、胸に刺さる。
「僕は、自分の隣に誰がいてほしいかを、僕の気持ちで選びたい。
たとえそれが、噂にふさわしい相手ではなかったとしても」
それは、あまりにもまっすぐで、
まだ十五歳の少年が口にするには、危うすぎる望みだった。
だからこそ――。
「……殿下」
私は、そっと息を吐いた。
「今の殿下には、その気持ちを大切にしてほしいと思います。
ただ、私は“選ばれる相手”ではなく、“選び方を教える役目”です」
食い違うようでいて、重なる場所もある言葉。
「だから、もし噂に揺れそうになったら、今日の劇を思い出してください。
“皆が言っている”声より、“自分が信じたい人の言葉”を選ぶことを」
レオンは、少しだけ目を伏せた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「では、ミサ。
ひとつ、わがままを言ってもいいですか」
「わがまま?」
「公の場では、これまで通り“殿下”と呼んでください。
でも、二人だけのときには……さっきのように、“レオン”と呼んでください」
胸の奥が、ぎゅっとなった。
さっき、涙の夜の続きのように、思わず“レオン”と呼んでしまった自分を思い出す。
それは、意識的な一歩ではなく、ふと零れた弱さの名前だった。
「……それでは、余計に噂がひどくなるかもしれませんよ」
冗談めかして言うと、彼は首を横に振った。
「いいえ。
噂はどうせ、何をしていても立ちます。
せめて、その中に“本当の呼び方”がひとつだけあってもいい。
僕が僕でいられる名前を、誰かに呼んでもらいたいんです」
“王太子殿下”でも、“将来の王”でもなく。
ただの、“レオン”。
前世で、会社の先輩が言っていた。
「本名で呼んでくれる人の数が、その人の居場所の数だ」と。
私はどうだっただろう。
名字か、あだ名か、「ねえ」で呼ばれることばかりで、
ちゃんと“早瀬美咲”と呼んでくれた人が何人いたか、思い出せない。
「……分かりました」
私は、静かにうなずいた。
「ただし、“弱さのレッスン”が必要なときだけです」
「え?」
「レオンの涙を受け止めるとき。
レオンが自分の心を見失いそうなとき。
そのときだけ、私は“レオン”と呼びます」
それは、私なりの線引きだった。
教師と教え子。
王太子と教育係。
その境界線の、ぎりぎり手前。
レオンは、ふっと微笑んだ。
「それなら、たくさん“レッスン”が必要かもしれませんね」
「ほどほどにしてください」
そう返しながらも、どこかで少しだけ期待している自分がいることを、私はごまかせなかった。
◇◇◇
その日の夕刻。
廊下でまた、ささやき声が聞こえた。
「ねえ、聞いた? 殿下、この頃ますます教育係に懐いているらしいわ」
「まあ、“お気に入り”にもほどがあるわね」
私は立ち止まらず、そのまま通り過ぎた。
心臓は、相変わらずどきどきしていたけれど。
窓の外には、夕焼けに染まる王都が広がっている。
石畳の上を歩く人々の姿は、小さな点にしか見えない。
(皆が何を言ってもいい。
私が信じたいのは、レオンが選んだ言葉と、レオンが見せてくれた涙だ)
前世では、噂に怯えて足を止めた。
今世ではせめて、自分の歩き方だけは、自分で決めたい。
“お気に入り教育係”という肩書きは、正直、胃に悪い。
でも、もしその裏側に、“信じたい人”という名前が隠れているのなら――
私はその影くらい、引き受けてもいいのかもしれない。
夕陽に照らされた廊下をひとり歩きながら、
私は胸の内で、小さく名前を呼んでみた。
――レオン。
声には出さなかったその呼び方が、
前世で誰にも呼ばれなかった私自身の名前を、
少しだけやさしく撫でてくれたような気がした。
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