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第9話 嫉妬レッスンで、一番えぐられたのは私でした
しおりを挟む「それは“嫉妬”です、殿下」
そう言った瞬間、私自身の胸の奥にも同じ色が広がっていることに、気づきたくなんてなかった。
◇◇◇
収穫祭の行幸が終わり、王都はすっかり秋の装いになっていた。
風は冷たくなったが、陽だまりはまだやさしくて、外でのレッスンにはちょうど良い季節だ。
この頃、レオンの公務はさらに増えていた。
行幸の評判が良かったらしく、「王太子殿下にお目にかかりたい」という地方貴族からの招待が一気に増えたのだ。
「ミサ、今日は少し遅くなりそうです」
午前の授業の終わり際、レオンが申し訳なさそうに言った。
「騎士団の訓練場を視察する予定が入ってしまって。
本当は午後もレッスンをしたかったのですが」
「公務が第一ですよ、殿下」
私は笑って返した。
「恋のレッスンは逃げませんから。
むしろ、公務での経験が増えた方が、次のレッスンの材料も増えますし」
「材料……ですか」
「ええ。
たとえば、“レオンのことをよく思っていない相手にどう接するか”とか、“噂好きな人との距離感”とか」
軽く冗談めかして言うと、彼は苦笑した。
「今のところ、騎士団では皆が敬意を払ってくれていますが……」
「それは何よりですね。
では、殿下が騎士団へ行っていらっしゃるあいだ、私は資料室で次の劇の準備でも――」
そう言いかけたとき。
「ミサ様」
廊下の向こうから、見慣れた姿が駆けてきた。
若い騎士見習い、ノエル・ラグランジュ。
以前、読み書きの苦手な新兵たちに授業をしたとき、特に熱心にノートを取っていた少年だ。
生真面目で、少しだけ不器用そうな笑顔が印象的な子だった。
「ノエル? どうしたの」
「訓練場の書庫の整理をお願いしたいと、隊長が申しておりまして。
お時間があれば、また読み方を教えていただけないかと……」
言いながら、彼は私ではなくレオンを見て、はっとして姿勢を正した。
「も、申し訳ありません、殿下! お話の途中に……!」
レオンは穏やかに首を振った。
「構いません。
ミサはもともと学問の専門家ですから。
騎士団の書庫の整理も、大事な仕事のひとつです」
レオンの許しを得て、私は午後、訓練場の書庫に行くことになった。
そのときはまだ、それが本日のレッスンテーマを“嫉妬”に決定づける出来事になるとは、思っていなかった。
◇◇◇
騎士団の訓練場に併設された小さな書庫は、紙と革の匂いで満ちていた。
武術の手引きや戦記、地理や戦術の本……内容は実務的だが、どれも読み応えがある。
「ノエル、ここの棚は分類がぐちゃぐちゃね」
私は背表紙を眺めながら言った。
「す、すみません。
皆、戻すときは“だいたいこの辺だろう”で……」
「よくある光景ね」
前世の会社の資料庫も、ほぼ同じ状態だった。
プロジェクト資料が年度も案件もバラバラに突っ込まれていて、必要なデータひとつ探すのに一時間かかったこともある。
「ここは基礎教養、ここは戦術論、ここは歴史と地理……と、ざっくり分けていきましょう。
戻す場所を決めておけば、次から少しは楽になるわ」
そう言いながら、本を小さな山に分けていく。
「ミサ様は、本当にすごいです」
ノエルが感心したように言った。
「文字だって、俺が一行読むのに時間がかかるところを、さっと見て意味を教えてくださるし……。
殿下のおそばに置かれるのも、当然だと思います」
「そ、そう?」
不意打ちのような褒め言葉に、思わず頬が熱くなった。
(いやいや、落ち着きなさい私。
これはただの尊敬。
“恋愛感情”じゃなくて、“教師への信頼”だから)
前世では、「すごいですね」と言われることはあっても、
そのあとに必ず「だから、この仕事もお願いできますか」がセットだった。
純粋な尊敬だけを向けられることが、少しだけくすぐったい。
「殿下も、ミサ様のことをいつも……」
ノエルが言いかけたそのとき。
「ミサ」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、そこにはレオンが立っていた。
予定より早く、公務を終えたらしい。
「殿下。
訓練場の視察は、もうお済みになったのですか?」
「はい。
隊長から、“学舎の先生が書庫を助けてくれている”と聞いて、少しだけ様子を見に」
レオンの視線が、私とノエルの間を、一瞬だけ行き来した。
「ノエル、でしたね」
「は、はいっ!」
「ミサには、日頃から世話になっています。
彼女の教えは分かりやすいでしょう」
「も、もったいないお言葉です!」
ノエルは、顔を真っ赤にして深々と頭を下げた。
その反応が、どこか微笑ましくて。
私も思わず笑ってしまった。
「褒めても何も出ないわよ」
「いえ、そういう意味ではなくて……!」
わたわたと手を振るノエルを見ながら、私はふとレオンの方を振り返った。
レオンは、笑っていた。
けれど、ほんの少しだけその笑みの温度が低いようにも感じられた。
「ミサ」
「はい」
「このあと、少しだけ時間が取れそうです。
もしよければ、学舎で今日のレッスンの続きを」
言葉遣いはいつも通りなのに、どこか早足気味な誘い方だった。
「分かりました。
ノエル、ここはあとは分類表だけ作れば十分だから、続きは今度ね」
「は、はいっ。
本当にありがとうございました、ミサ様!」
私はノエルに軽く手を振り、レオンとともに書庫を後にした。
廊下に出た途端、空気が少しひんやりと感じられた。
(あれ……さっきまで、こんなに涼しかったっけ)
◇◇◇
学舎に戻ると、レオンは窓の外をしばらく黙って眺めていた。
その横顔には、言葉にならない何かが張り付いている。
「……殿下?」
声をかけると、彼は少しだけ肩を揺らした。
「ああ、すみません。
考え事をしていました」
「公務のお話ですか?」
「いいえ。
今の、訓練場の書庫のことです」
意外な答えに、私は首を傾げた。
「ノエルのことですよ」
「ノエルが、どうかしました?」
レオンは、少しだけ言葉を選ぶように間を置いてから、ぽつりと言った。
「……ああいう笑顔を、僕は見たことがないと思って」
「笑顔?」
「ノエルが、ミサを見て笑っていた顔です。
何かを教わって、尊敬して、
それで“もっと近づきたい”と思っているような……」
言われて初めて、さっきの光景を思い返した。
ノエルの、まっすぐな視線と、ぎこちなくも嬉しそうな笑顔。
「それは、教師として光栄なことですね」
私はできるだけ軽い声で言った。
前世で、誰かにあんな目で見られたことは、たぶん一度もない。
上司の目は「使える人材かどうか」を測る物差しで、
同僚の目は「一緒に残業してくれるかどうか」を見ていただけだった。
「そう……ですね」
レオンは、どこか釈然としないような声で答えた。
「殿下?」
「ミサ」
彼は唐突にこちらを見た。
「今日のレッスンのテーマは、“嫉妬”にしませんか」
「嫉妬、ですか」
「はい。
恋の物語にはよく出てきますよね。
誰かが誰かに親しくしているのを見て、胸がざわつく感情」
彼の目が、まっすぐに私を射抜く。
(……今、さらっと自己申告しなかった?)
心の中でツッコミを入れながらも、私は頷いた。
「では、本日のレッスンテーマは“嫉妬”で決まりですね。
ちょうど、用意していた劇にも似たような場面が出てくるところでした」
昨日の夜、なんとなく書き始めていた台本のタイトルが脳裏に浮かぶ。
『鏡の王女と、黒猫の騎士』。
『何でも映し出す不思議な鏡を持つ王女エリナは、
自分の黒猫の騎士オリヴァーが、他の娘と楽しげに話す姿を見て、
胸の中に初めて感じるざわめきをうまく言葉にできずにいる――』
(……ネーミングのセンスはさておき、タイミングだけは良かったわね)
◇◇◇
私は台本を開き、レオンに黒猫騎士オリヴァーの役を渡した。
「殿下には、王女エリナの幼なじみであり、護衛でもある騎士役をお願いします」
「ミサは、王女ですね」
「ええ。
“鏡に映る自分”を見てしまう王女の役です」
どこか、自分でも嫌な予感がしていた。
“嫉妬”は、相手の心だけでなく、自分の心まで炙り出す。
読み合わせが始まる。
『ねえ、オリヴァー。
あなたは誰と話していたの?』
王女エリナは、何気ないふうを装って尋ねる。
『城下町の娘だよ。
彼女、僕の剣術の型を見て憧れたって言ってくれて。
だから、少しだけ話をしていただけだ』
レオンは、あくまで冷静に台詞を読み上げる。
『ふうん。
鏡には、とても楽しそうな顔で笑っているあなたと、その娘が映っていたわ』
『そう見えたのなら、きっとそうなんだろうな。
誰かに憧れられるのは、悪い気分じゃないから』
そこで、一旦読み合わせを止めた。
「殿下。
このとき、王女の胸の中には、どんな感情があると思いますか?」
「……寂しさ、でしょうか」
レオンは少し考えてから答えた。
「自分だけの騎士だと思っていた人が、
自分以外にも優しい顔を見せていることへの寂しさ」
「それも“嫉妬”の一種ですね」
私は頷いた。
「嫉妬は、“奪われるかもしれない”怖さから生まれることが多いです。
自分のものだと思っていた立場、名前、時間……
それが、自分の知らないところで誰かに向けられているのを見ると、
胸がざわざわします」
前世の私は、嫉妬とはあまり縁がないと思っていた。
恋をした相手がそもそも自分を見ていなかったから、
“奪われるもの”なんて最初からなかったのだ。
でも今世の私は――。
(……ノエルの笑顔を見ていたとき、
レオンの顔がほんの少し陰ったように見えたのは、気のせい?)
「殿下。
先ほど、“嫉妬をレッスンテーマに”とおっしゃいましたが」
私は少しだけ踏み込んでみることにした。
「もしかして、何か心当たりが?」
レオンは、わずかに視線を逸らした。
「……ミサは、ノエルと話しているとき、楽しそうでした」
「え?」
「いや、責めているわけではありません。
ただ、僕は初めて見ました。
ミサが自分以外の誰かに、あんなふうに笑いかけているのを」
胸の奥が、一瞬で熱くなった。
「そ、それは……教師として、ね?」
「ええ。
そうだと分かっています。
でも、分かっていても……胸が少し、ざわつきました」
彼の指先が、テーブルの上で小さく握られている。
「それが、“嫉妬”なのでしょうか」
静かな問いかけに、私は息を飲んだ。
(やめて、その目で見ないで。
そんなふうに素直に尋ねられたら、私まで巻き込まれる)
「……嫉妬の一種、かもしれませんね」
どうにかそう答えた。
「でも、“誰かを独り占めしたい”と思う気持ち自体は、必ずしも悪いものではありません。
その気持ちをどう扱うかが、大人と子どもの違いです」
「扱う、ですか」
「ええ。
相手を縛りつけるために使うのか、
“自分はどうしたいのか”を見つめるきっかけにするのか」
私は、自分に向けているような言葉を並べた。
「殿下は、ノエルを敵だと思いましたか」
「いいえ」
レオンは、きっぱりと首を振った。
「彼は真面目で、剣術も熱心で……
むしろ、“ミサの助けになれるいい騎士になればいい”と思いました」
「それなら、それは“嫉妬”よりも、“自分の居場所をもう一度確認したくなった気持ち”に近いかもしれませんね」
「自分の、居場所」
「ええ。
殿下はきっと、“ミサの前では、自分が一番弱さを見せていい相手でいたい”と思ってくださっている。
そこに、別の誰かが入ってくるかもしれないと感じたとき――
少しだけ不安になったのかもしれません」
言いながら、胸の奥がずきりと痛んだ。
(私だって同じだ。
レオンの隣に立つ候補が増えるたび、
“教育係としての居場所”が少しずつ狭くなっていく気がしている)
「……では、ミサ」
レオンが、少しだけ躊躇うように口を開いた。
「嫉妬しそうになったときは、どうしたらいいのでしょう」
「簡単には、消えませんからね」
私は苦笑した。
「まずは、自分が何に対して嫉妬しているのかを言葉にしてみることです。
相手の笑顔なのか、時間なのか、立場なのか。
それをはっきりさせるだけでも、少し落ち着きます」
「……ミサは、嫉妬したことはありますか」
また、その質問。
私は、一瞬だけ言葉に詰まった。
前世では、誰かを本気で好きになりきる前に、
“どうせ選ばれない”と諦めてしまっていた。
今世では――。
「そうですね」
私は、窓に映る自分の顔をちらりと見た。
そこには、以前より少しだけ柔らかい表情の女が映っていた。
「今は、少しだけ分かる気がします」
「少し?」
「ええ。
たとえば――殿下が、誰かの前で魅力的な笑顔を見せているとき。
“ああ、この笑顔はいつか誰かのものになるんだろうな”って思うと、
胸がざわつくことがあります」
言いながら、自分で自分の心の形を確認する。
それはきっと、完全な恋とはまだ言い切れない。
でも、“ただの教育係の誇り”だけでもない感情だ。
レオンは、驚いたように目を見開いた。
「……ミサも、嫉妬を?」
「人に教えるからには、少しくらいは自分でも体験しておかないと」
冗談めかして笑うと、彼はしばらく黙って私を見つめ、そのあとで小さく笑った。
「少しだけ安心しました」
「安心?」
「ええ。
ミサが何も感じていないわけじゃないと分かって」
その言葉に、胸のどこかがきゅっと締めつけられた。
◇◇◇
その日の夜。
自室で鏡台の前に座り、私はふと、自分の顔をまじまじと見つめた。
王宮に来たばかりの頃より、表情に少しだけ余裕がある気がする。
それでも、目の奥に宿る影は簡単には消えない。
「……これが、嫉妬している顔、ね」
思わず呟く。
レオンが誰かと笑っているのを見ると、
胸の奥がざわつく。
でも同時に、今日のノエルのように、
誰かに尊敬の目を向けられると、少し嬉しくて、少し申し訳ない。
(前世の私は、嫉妬されるほど“誰かの特別”になったことがなかった)
だから、嫉妬はいつも遠い世界の感情だった。
今世の私は――
誰かに嫉妬されるほど“特別”ではないけれど、
少なくとも、自分が嫉妬するほど大事に思う相手ができた。
それは、前世にはなかった進歩だ。
鏡の中の自分に向かって、小さく笑いかけてみる。
「選ばれなかった女のままでもいい。
誰かを選びたいと思って、胸を痛めて嫉妬するくらいには、
ちゃんと誰かを好きになれる自分でいられるなら」
前世で、「私の賞味期限は切れてるから」と冗談めかして笑っていた自分に、
今なら少しだけ違う言葉を渡せる気がした。
――嫉妬して苦しくなる夜があるのは、
何も感じずに通り過ぎるより、ずっと生きている証拠だ。
そう思えたとき、
鏡の中の自分の顔は、
前より少しだけ、好きになれそうな気がした。
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