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第16話 仮面の夜に踏み出した一歩
しおりを挟む明日のことなんて考えたくない夜に限って、音楽はやけに甘く聞こえる。
仮面なんて外してしまえたらいいのにと願いながら、私は一枚の仮面の下でそっと息を殺していた。
◇◇◇
冬至祭当日の夜。
大広間は、昼間見たときとは別世界になっていた。
天井からは星型のランタンがいくつも吊るされ、
白と銀の布が波のように垂れ下がっている。
私の居場所は、王妃陛下が手紙で指定してきたとおり、
二階回廊の、柱の陰。
群青色のドレスに身を包み、
淡いグレーの仮面をつけた私は、
下の光景を見下ろす「観客」でしかなかった。
(いや、観客になれただけでも進歩か)
前世では、忘年会の会場すら端っこの席が指定席だったのだ。
今こうして、王太子の十六歳の夜を見下ろせる位置にいるのは、
十分すぎるくらいのご褒美だと自分に言い聞かせる。
◇◇◇
やがて、ファンファーレが鳴った。
「アルノルト王国王太子、レオンハルト・アルノルト殿下のご入場!」
侍従の声とともに、
大広間の扉がゆっくりと開く。
白と紺を基調とした礼服に身を包み、
王家の紋章入りの仮面をつけたレオンが姿を現した。
瞬間、広間の空気が変わる。
期待とざわめきと、少しの羨望。
私は、二階の欄干をそっと握りしめた。
(大丈夫。ここから見守るだけだから)
レオンは、王と王妃のもとへ進み、
定められた位置で立ち止まる。
「本日、この場をお集まりの皆さまの前で、
わたくしは十六歳の誓いを述べます」
仮面越しでも分かるほど、彼の声はよく通った。
用意しておいた誓いの文言は、
最初の数行までは台本どおりだった。
『王太子として、国と民を守ることをここに誓います。
父王と母后の歩みを見本とし、その背を追い……』
だが、途中でふと、彼は言葉を切った。
「そして――」
欄干を握る手に、自然と力がこもる。
「そして、これは王太子としての誓いであると同時に、
一人の人間としての誓いでもあります」
(……書いてない)
台本にはなかった一文だった。
王と王妃が、わずかに目を細める。
貴族たちの間に、かすかなざわめきが走った。
「わたくしは、
役目と責務だけでなく、
自らの心からも目をそらさないと誓います。
いつか誰かの手を取るとき――
それが王太子妃であれ、共に歩む伴侶であれ、
その一歩だけは、わたくし自身の意思で踏み出します」
空気が、微かに張り詰めた。
それは、政治的にはぎりぎりの言葉だった。
でも、彼ははっきりと口にした。
(……約束、守ったんだ)
あの日、庭園劇場で交わした小さな約束。
「最後の一歩だけは、自分の意思で」と。
彼はそれを、
国中の前で宣言してしまった。
喉の奥が熱くなる。
(バカ。ほんとに言うなんて)
誇らしさと、怖さと、胸の痛みが一度に押し寄せてきた。
王は短く頷き、
王妃陛下は静かに微笑んだ。
「その誓い、しかと聞き届けました」
その一言で、
ぎりぎりの綱の上にいた言葉が、
かろうじて許される場所に落ち着いた気がした。
◇◇◇
誓いの言葉のあと、
いよいよ舞踏会の幕が上がる。
「最初の一曲は、王太子殿下による“開きの舞”でございます。
お相手は、公爵家令嬢カトリーヌ・フォン・リヴェール様」
そのアナウンスとともに、
カトリーヌが前に進み出た。
仮面越しでも分かるほど完璧な所作。
白いドレスに赤い宝石が映え、
まるでこの場のために生まれてきたような花嫁候補。
レオンは、静かにその手を取った。
音楽が流れ出す。
(そう、これでいい)
私は、自分に言い聞かせるように思う。
王太子の最初の一歩は、
国と家が選んだ最有力候補と共に踏むべきだ。
私の役目は、そのステップが乱れないように、
裏から支えることだけ。
それでも、胸の奥は少しきゅっと縮んだ。
カトリーヌのドレスの裾がくるりと回るたび、
二人の距離がきれいな円を描くたびに、
私は欄干から指を離せなくなっていた。
◇◇◇
一曲目が終わると、
次はアデールと、他の令嬢たちとのダンスが続いた。
アデールは相変わらず緊張していたが、
お茶会で少しだけ自信を取り戻したのか、
時折、仮面の下から柔らかな笑みをのぞかせていた。
(……よかった)
「自分の視線を持っていい」と伝えた言葉が、
ほんの少しでも彼女の支えになっているのだとしたら。
そう思うと、
胸の奥の痛みも、少しだけ丸くなる。
やがて、王太子との“公式のダンス”がひと通り終わり、
広間全体が自由舞踏の空気に変わり始めた頃。
私はそっと、欄干から身を引いた。
これ以上、下を見ていると、
自分の顔が仮面の下でどう歪むか分からない。
(大丈夫。私の出番は、もう終わってる)
そう言い聞かせながら、
回廊の柱の陰に身を寄せた。
下からは笑い声と音楽。
香水とワインの香りが、ふわりと上がってくる。
私は、ただ静かにそこに立っているだけのはずだった。
――足音が近づいてくるまでは。
◇◇◇
コツ、コツ、と規則正しい靴音。
振り返ると、
二階回廊の端から、一人の青年が歩いてくるところだった。
紺の礼服、王家の紋章入りの仮面。
「……殿下」
思わず名を呼ぶと、
彼は小さく笑った。
「どうして分かるんですか、ミサ」
「その歩き方は、何度も稽古に付き合わされましたから」
仮面で顔を隠しても、
隠しきれないものはいくつもある。
それを教えたのは、他ならぬ私だ。
「……下はもういいんですか?」
「少し、息抜きに」
レオンは欄干に近づき、
大広間を見下ろした。
星型のランタンの光の下で、
色とりどりのドレスと仮面が踊っている。
「皆、楽しそうですね」
「ええ。
殿下のおかげで、いい夜になりました」
「ミサは?」
彼は、視線を私に向ける。
「ミサにとっては、どんな夜ですか」
答えに詰まり、
少しだけ仮面の位置を直した。
「そうですね……
席のない場所から眺めるには、贅沢すぎる景色です」
「席なら、ちゃんと用意したつもりでしたけど」
「二階回廊は、席とは言いません」
冗談めかして返すと、
レオンが一歩、こちらへ近づいた。
「では、今から“席”にしましょうか」
「え?」
彼は、そっと右手を差し出してきた。
「ミサ。
ここで、一曲踊っていただけますか」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
「殿下。
ここは舞踏の場ではありません。
二階回廊で踊っているのを誰かに見られたら――」
「仮面をつけているから大丈夫ですよ」
さらりと言うその調子が、
ずるいと思った。
「それに、ミサが言ったじゃないですか」
「何を、でしょうか」
「“最後の一歩だけは、自分の意思で決めてほしい”と。
今、僕は自分の意思でここに来て、
ミサに手を差し出しています」
言葉を失った。
(ああ、そう来るの)
約束を盾にされると、
教育係としても断りづらい。
「……一曲だけですよ」
どうにかそう告げると、
レオンの目が、はっきりと嬉しそうに細められた。
「光栄です」
◇◇◇
二階回廊は、舞踏用に作られた場所ではない。
幅も広くはなく、足元も下ほど磨かれていない。
けれど、下から聞こえる音楽に合わせて、
ゆっくりとステップを踏む分には十分だった。
「殿下。
また前に出すぎですよ。
回廊の欄干から落ちたら、笑い話にもなりません」
「それは……さすがに嫌ですね」
小声でやり取りしながら、
私たちは慎重に円を描いていく。
仮面と仮面の距離は、
大広間で踊るときよりもずっと近い。
「……ミサのドレス、綺麗ですね」
不意にそんなことを言われ、
思わず足を踏み外しそうになった。
「こ、これは王妃陛下が用意してくださったもので」
「群青色は、インクの色だとミサが言っていましたね」
いつそんな話をしたのか、一瞬思い出せない。
「あのノートの色とよく似ていると思って。
ミサが書いてきた“レッスンの記録”の色です」
胸の奥がじんわり熱くなる。
(見られていたんだ。そんなところまで)
「殿下は、本当に――」
「本当に?」
「人の心に気づくのが上手くなりましたね」
「ミサが教えてくれたので」
さらりと言う。
そのたびに、
私が自分で自分の首を絞めている気がしてくる。
◇◇◇
しばらく、言葉少なに踊った。
下から聞こえる笑い声と拍手。
すれ違う風が、仮面の端を揺らす。
「……僕の誓いの言葉、どうでしたか」
ふいにレオンが口を開いた。
「途中から、台本と違うことを言ってしまいましたが」
「“台本どおり”を捨てるのは、
勇気がいることです」
私はゆっくり頷いた。
```
「でもあの誓いは、殿下の物語に必要な一行でした。
```
教育係としては、合格点を差し上げたいところです」
「教育係としては?」
「……一人の人間としては、少し心臓に悪かったです」
彼が小さく笑う気配がした。
「ミサが教えてくれた言葉を、
僕はちゃんと自分のものにしたかったんです」
「それは、嬉しいですけれど」
「それに、宣言しておけば、
簡単には後戻りできなくなりますからね」
「殿下は、そんなに自分を追い込まなくても」
「追い込んでおかないと、
“誰かに決めてもらう方が楽だから”って、
昔の僕に戻りそうで」
その言葉に、
前世の自分の姿がちらりと頭をよぎった。
評価も部署も、
「決めてもらうこと」に慣れすぎていた頃の私。
「……そうですね」
私は、小さく息を吐いた。
「誰かに選ばれるのを待つだけの人生から、
自分で選ぶ人生に舵を切るのは、
いつだって怖いものですから」
「ミサも?」
「ええ。
前世では、その一歩を最後まで踏み出せずに終わりました」
レオンの手が、ほんの少しだけ強く私の手を握った。
「じゃあ今世では、一緒に練習しましょう」
「練習?」
「はい。
僕は“誰の手を取るか”を自分で選ぶ練習を。
ミサは、“選ばれない前提で諦める”以外の選び方を」
そんなの、あまりにも――
「……ずるい言い方ですね、殿下」
「ミサ直伝の、ずるい台詞のつもりです」
思わず吹き出してしまう。
仮面の下で笑うのは、
思っていたよりずっと楽だった。
◇◇◇
曲が終わりに近づいたところで、
レオンはステップを止め、
私の手をそっと離した。
「ありがとうございました、ミサ」
「こちらこそ。
二階回廊で踊るなんて、
なかなかできない経験でした」
「これで、“踊れない教育係”ではなくなりましたね」
「そうですね。
前世の私に自慢してやろうと思います」
そう言うと、
レオンは少しだけ名残惜しそうに私を見てから、
回廊の階段の方へ歩き出した。
「殿下」
呼び止めると、彼は振り返る。
「……仮面を外したときに後悔しない選択を、
どうかしてくださいね」
それは、
教育係としての最後の釘刺しであり、
選ばれなかった女としての、
ささやかな祈りでもあった。
レオンは、真剣な表情で頷いた。
「約束します」
短い一言。
たったそれだけで、
私の胸の奥に、小さな灯りがともる。
◇◇◇
彼の背中が階段の向こうに消えたあと。
私はもう一度欄干に寄り、
大広間を見下ろした。
仮面と仮面が行き交い、
笑い声と音楽が渦を巻く。
その中で、
さっきまで二階回廊で踊っていた青年が、
再び王太子としての顔で輪の中に戻っていく。
「……ここで、いい」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
隣の席には座れない。
名前も呼ばれない。
それでもこの二階回廊は、
私にとって世界でただ一つの“特等席”だった。
仮面の下で静かに笑う自分を、
前世の私に見せてやりたい。
――選ばれなかった女にも、
仮面の夜にだけ踏み出せる一歩がある。
その一歩を、自分で選んで踏み出せたことが、
この夜いちばんのご褒美なのだと、
胸を張って言える気がした。
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