前世アラサー独身、異世界では王太子の教育係として「恋愛感情」を教えています

cotonoha garden

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第17話 仮面がない朝の顔

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 夜が明けたら、全部“ただの思い出”に戻るはずだった。
 けれど朝になっても、足の裏には、二階回廊の石床の感触がまだ消えないでいた。

 ◇◇◇

 冬至祭の翌朝、王宮は見事なまでに二日酔いの空気に包まれていた。

 とはいえ、酔っていたのはワインだけじゃない。
 王太子の誓いの言葉、仮面舞踏会、初舞踏の相手――
 あらゆる話題が夜の余韻と一緒になって、朝の回廊を飛び交っていた。

 「殿下のご挨拶、本当に立派だったわね」
 「“自分で選ぶ”なんて、あの年であそこまで言い切るなんて」

 廊下を歩けば、そんなささやきが耳に入ってくる。

 私はというと、
 いつもどおり教育係としての業務に戻るため、
 レッスン用の資料を抱えて学舎へ向かっていた。

 ――本当は、枕に顔を埋めたまま一日を終えたかったけれど。

 (二階回廊で王太子と踊った教育係が、
  翌日布団の中で現実逃避しているわけにはいかない)

 自分にそう言い聞かせながら、
 廊下の角を曲がった、そのときだった。

 「ねえ聞いた? 昨夜、二階回廊で殿下と踊っていた女性の話」

 ぴたり、と足が止まった。

 (……はい出た、舞踏会あるある“謎の女性”噂)

 使用人たちの控えめな声が、
 冬の空気を少しだけきな臭くする。

 「群青色のドレスだったって」
 「仮面をしていたから誰か分からないけど、背格好は……」

 慌てて足を動かし直し、
 聞こえないふりをして通り過ぎた。

 (いいのいいの。仮面舞踏会の醍醐味は“正体不明の誰か”よ)
 (……群青のドレスを選んだ自分を、今だけは恨みたいけど)

 自分で自分にツッコミを入れながら、
 私は学舎の扉を開いた。

 ◇◇◇

 いつもの教室。

 冬の光が斜めに差し込み、
 黒板の上に淡い影を落としている。

 レオンは、すでに席についていた。
 昨夜とは違い、仮面も礼服もない、
 いつもの制服姿の王太子だったはずなのに――

 (……顔つき、変わった?)

 そう思ってしまったのは、私の見方が変わっただけだろうか。

 「おはようございます、殿下」

 いつもどおり挨拶をすると、
 彼は椅子から立ち上がり、軽く頭を下げた。

 「おはようございます、ミサ」

 声の響き方が、ほんの少しだけ低くなった気がした。
 十六歳という年齢のせいなのか、
 昨夜の誓いのせいなのか。

 「体調は大丈夫ですか?
  昨日は長い一日でしたから」

 「問題ありません。
  むしろ、今日は早くレッスンがしたくて」

 「それは教育係冥利に尽きますが……
  本日は“お疲れ休み”でもよろしいのでは?」

 半分本気で提案すると、
 レオンは小さく首を振った。

 「昨夜のことを、そのままにしておきたくありませんでした」

 「昨夜のこと、とは?」

 わざと知らないふりをすると、
 彼はわずかに目を細めた。

 「誓いの言葉も、仮面舞踏会も。
  二階回廊のことも」

 (やっぱりそこ、触れるんだ)

 逃げ場がふさがれていく感覚に、
 私は思わず資料を抱える腕に力を込めた。

 ◇◇◇

 「本日のLESSONテーマは、“噂との距離感”です」

 私は、用意してきたノートを机に置き、
 強引に本題へと舵を切った。

 「噂、ですか」

 「ええ。
  昨夜のような大きな催しのあとには、
  必ず噂が生まれます。

  “誰と何回踊ったのか”“どの言葉を誰に向けたのか”“仮面の下は誰だったのか”――」

 言いながら、自分で自分の首を絞めている自覚はあった。

 レオンは、少しだけ苦笑した。

 「確かに、朝から色々と耳に入ってきました」

 「でしょうね」

 椅子を引きながら、
 私は黒板にひとつ円を描いた。

 「これは“殿下の本音”です」

 円の真ん中に、そう書き込む。

 「その周りに、“役目としての言葉”“礼儀としての言葉”“建前としての行動”が重なっていきます」

 幾重にも丸を重ねる。

 「そして一番外側に、“他人の解釈”と“噂”が広がっていく」

 今度は円の外にぐるりと線を引いた。

 「昨夜、殿下が口にした誓いの言葉や行動も、
  今頃この“噂”の辺りをくるくる回っているでしょう」

 「……二階回廊でのことも?」

 真ん中の円の主が、
 妙に真剣な顔でそう言った。

 「仮面舞踏会ですからね。
  “謎の群青の女性”くらいの噂にはなっているかもしれません」

 「やっぱりミサだったんですね」

 「殿下、それは“謎の女性”の正体を自分から暴露する台詞です」

 思わずツッコミを入れる。

 レオンは、少しだけ肩を震わせて笑った。

 「黙っていた方がよかったですか」

 「状況によります」

 私はチョークを置き、
 彼の方を向いた。

 「噂とどう付き合うかは、
  “何を守りたいか”で変わります」

 「守りたい、もの」

 「王太子としての立場か。
  誓いの言葉の重みか。
  それとも、誰か個人の名誉か。

  例えば昨夜の二階回廊のことなら――
  殿下が守るべきなのは“王宮全体の体面”よりも、
  まずは“あの場にいた相手の無用な誤解”だと思います」

 自分で言って、自分で胸が痛んだ。

 (そう。噂から一番遠ざけなきゃいけないのは、私の名前)

 「だから殿下。
  もし誰かに尋ねられたときは、こう答えてください」

 「どう、ですか」

 「“二階回廊では、ひとりで風に当たっていただけです”」

 「……嘘ですね」

 「噂に対する一番安全な嘘は、
  “真実の一部を切り取ったもの”です」

 私は、苦笑しながら続けた。

 「殿下は確かに、ひとりで風に当たりに来たでしょう?
  その後何があったかまでは、誰にも話す必要はありません」

 レオンは、しばらくじっと私の顔を見ていた。

 やがて、小さく息を吐く。

 「……ミサは、そうやって前世でも自分を守ってきたのですか」

 不意打ちの質問だった。

 「前世?」

 「噂や評価から、自分を守るために。
  “真実の一部だけを見せる”ことで」

 机の上で、拳を軽く握る。

 「そうですね。
  “残業が好きなんです”なんて笑って言ってみたり。
  “結婚はまだ考えてなくて”と冗談めかしたり」

 心の中では、
 ただ誘われなかったり、
 選ばれなかったりしていただけなのに。

 「本当は、少し寂しかったですけど」

 そう付け足すと、
 レオンの表情がほんの少し曇った。

 「今世でまで、
  ミサにそうさせたくはありません」

 「殿下?」

 「“冗談”や“建前”で、自分の本音を隠さなければ守れない立場に」

 真剣な瞳だった。

 その視線に、
 私の方が目をそらしたくなる。

 「……だからこそ、私は“教育係の仮面”を大事にしているんです」

 どうにか笑みを作りながら言った。

 「この仮面があるから、
  私は安心して殿下のそばに立てる。

  恋の練習相手にも、
  舞踏の踏み台にも、
  噂の矢面に立たない“便利な大人”にもなれる」

 「それは、本当にミサが望む役目ですか」

 彼の問いは、
 あまりにまっすぐだった。

 (十六歳にしては刺さる質問をしてくる)

 苦笑したくなる一方で、
 胸の奥のどこかが、ふっと温かくなった。

 ――“本当にそれでいいのか”と、
 誰かが私に問いかけてくれる日が来るなんて。

 ◇◇◇

 レッスンの後半は、
 劇中劇の台本を使った。

 タイトルは『噂に振り回される恋人たち』。

 噂だけを信じてすれ違う二人が、
 最後にようやく直接言葉を交わして誤解を解く、
 ありふれた筋書きだ。

 「ありふれているからこそ、
  人は何度も同じ失敗をするんです」

 そう言って読み合わせをしていると、
 レオンが一箇所で首を傾げた。

 『噂なんてどうでもいいわ。
  大事なのは――あなたが今、ここで何を選ぶかよ』

 その一文を、何度も繰り返し見つめていた。

 「この台詞は、誰の言葉ですか」

 「え?」

 「恋人役の台詞というより、
  ミサ自身の言葉のように聞こえました」

 どきり、とした。

 「……台本を書いた人間の癖が出てしまっただけです」

 そうごまかすと、
 彼は少しだけ笑った。

 「昨夜の誓いのとき、
  頭の中で何度もこの一文が響いていました」

 「それは、光栄ですね」

 「だからきっと、僕が“自分で選ぶ”と言えたのは、
  ミサが書いたこの台詞のおかげです」

 そう言われてしまうと、
 もう反論の言葉が見つからない。

 (ああ、本当に。
  教育係は自分で自分の首を絞める仕事だ)

 それでも、
 机の上の台本に落ちる自分の影が、
 前より少しだけ誇らしげに見えたのは、気のせいではなかった。

 ◇◇◇

 夕方。

 レッスンを終えて廊下を歩いていると、
 例の噂話がまだ尾を引いているのが分かった。

 「二階回廊の謎の女性、誰だったのかしらね」
 「殿下の様子からすると、特別な相手だったんじゃ……」

 角を曲がる前に、一度立ち止まる。

 逃げようと思えば、別の回廊を回って部屋に戻ることもできた。

 けれど――

 (噂から逃げるだけの人生は、前世で十分やった)

 そう思い直して、一歩を踏み出した。

 使用人たちと視線が合う。
 彼女たちは一瞬、気まずそうに口を閉じた。

 「こんばんは。
  昨夜はお疲れさまでした」

 ごく普通に頭を下げて通り過ぎる。

 背中に向けて、
 かすかな囁きが追いかけてきた。

 「……今の方じゃない? 群青のドレス」
 「教育係様よ。そんなはず――」

 “そんなはずない”。

 それは、
 私自身が一番よく知っている言葉だった。

 それでも。

 「そんなはずない場所に、一晩だけ立てたなら」

 自室の扉の前で、小さく呟いた。

 「それはそれで、悪くないでしょう」

 ノートを開き、
 新しいページに書き込む。

 “LESSON 10:噂

  噂は、放っておいても形を変えながら広がっていく。
  全部を否定することも、全部を肯定することもできない。

  大事なのは、“自分が何を選んだか”だけ。
  あの夜、二階回廊で踊る手を取ったのは、確かに私自身だった。

  それを誰にも説明しなくていいことが、
  少しだけ心地いい。”

 ペン先を止めたとき、
 胸の奥のざわめきは、いつの間にかほどけていた。

 ――仮面の夜は終わった。
  でも、あの一曲だけは、私の中で静かに鳴り続けている。

 たとえ王太子の人生からは、
 ただの“噂の一部”として消えてしまうことがあっても。

 選ばれなかった女が、自分で選んで踏み出した一歩がある。
 その事実ひとつを、
 私はこれから先の長い人生の中で、何度でも思い出してしまうのだろう。
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