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第19話 線のこちら側で交わす約束
しおりを挟むこの距離なら、きっと傷つかずに済む――そう思って半歩下がったのに、彼は平然とその半歩を詰めてくる。
王太子と教育係のあいだに引いたつもりの線は、案外あっけなく踏まれてしまうものだと、その日私は思い知った。
◇◇◇
王妃陛下との話から、数日が経った。
それからの私は、意識して“教育係らしく”振る舞うようになっていた。
レオンの視線が長くなりそうなときは話題を変え、
何気ない冗談が甘さを帯びそうになったら、わざと固い言葉で受け止める。
(線はここまで。
それ以上は、踏み込ませない)
そう決めたはずだった。
「ミサ、昨日の噂の――」
「殿下、噂の話はLESSONの対象外です」
「対象外ですか」
「ええ。“王太子が噂に振り回されないためのレッスン”はしても、
“教育係を噂のネタにする方法”は教えておりませんので」
わざと淡々と返すと、
レオンは少しだけ肩を落とした。
「……分かりました」
(ごめんね。本当は、笑い飛ばしてしまった方がきっと楽なのに)
申し訳なさと、必要な距離。
両方を抱えたまま、私は黒板に今日の日付を書き込んだ。
「本日のLESSONテーマは、“日常の愛情”です」
「日常、ですか」
「ええ。
冬至祭のような大きな夜だけではなく、
何もない日々の中でどうやって想いを伝え合うか――
それが分からないと、誓いの言葉ばかり立派でも中身が空洞になってしまいますから」
レオンは真剣な顔で頷いた。
「具体的には、どうすれば学べますか」
「それがですね……」
私は、今朝王妃陛下から渡された書状を思い出して、
内心で小さくため息をつく。
――『近日中に、レオンと共に王都の視察へ行ってちょうだい』
――『“民の日常”と“庶民の恋人たち”を見てくるのも、立派な恋愛レッスンの一つよ』
(あの陛下、本当に容赦がない)
距離を取ろうとしている教育係を、
わざわざ王太子と二人で王都へ送り出そうとするなんて。
「殿下。
近日中に、王都への“視察”がございます」
「視察?」
「はい。
名目上は王太子としての市井の視察ですが――」
言葉を区切って、彼の様子をうかがう。
「実際には、“日常の恋愛”の観察です」
「……観察」
「恋人同士や夫婦たちが、
どんな顔で日々を過ごしているのか。
手を繋ぐとき、名前を呼ぶとき、ケンカのあと。
そういう“舞台に乗らない愛情”を見てくるのも、
教育係としては必要だと判断しました」
最後の一文だけ、半分は言い訳のようだった。
レオンは、ゆっくりと目を細めた。
「それは、ミサも一緒に?」
「もちろんです。
王妃陛下から直々に“付き添いを”とのご命令がありましたので」
「良かった」
小さく漏れたその一言に、
私の胸がわずかにざわついた。
「殿下?」
「いえ。
王都を歩くのが楽しみだ、というだけです」
――そして、ほんの少しだけ。
――“誰と歩けるのか”を気にしていた自分に気づいてしまっただけです。
彼の表情が、そう言っている気がした。
◇◇◇
王都視察の日は、すぐにやってきた。
冬の空は薄曇り。
冷たい空気の中にも、どこか柔らかい匂いが混じり始めている。
(もうすぐ、本格的な春が来る)
そんな気配の中、
私とレオンは簡素な外套を身にまとい、
王城の裏門から馬車に乗り込んだ。
「殿下、仮名は覚えていらっしゃいますか?」
「ええ。
今日は“レオ”ですね」
「素直すぎて逆に怪しい仮名ですが……まあ、いいでしょう」
「ミサは?」
「私は“ミーナ”ということにしておきます」
前世の名前、“美咲”の欠片を、
ひとつだけ紛れ込ませた仮名。
口にしてみると、
どこかくすぐったい。
「レオとミーナ。
……なんだか物語に出てきそうな名前ですね」
「殿下、そういうことをさらっと言うから誤解されるんですよ」
冗談めかして言うと、
彼は少しだけ苦笑した。
「誤解されても、
いつかちゃんと説明できるだけの言葉を持っていたいですけどね」
その一言に、
王妃陛下の問いが頭の中でなぞられる。
――“どこに線を引くつもりなのか”
(今の私は、“説明しないこと”を選ぶ側なんだ)
そう自分に言い聞かせる。
◇◇◇
王都の中心部に着くと、
いつもの“視察”とは違う賑わいがあった。
露店には小さな花束や、
手編みの手袋、飴細工。
「冬の感謝祭、ですって」
通りがかりの婦人が教えてくれた。
「うちの人がね、
この日に毎年、ささやかな花を買ってきてくれるのよ」
「素敵ですね」
私がそう言うと、
婦人は照れくさそうに笑った。
「結婚して二十年もすると、
言葉なんてそんなに交わさないけれどね。
でも、この日にだけは花を忘れないから、
“ああ、まだ嫌われてはいないな”って安心するの」
なんでもないような台詞が、
妙に胸に残った。
(“嫌われてはいない”ことで、
やっと自分の居場所を確かめられる)
前世の自分にとって、
それは想像もつかなかった感覚だった。
隣を歩くレオンが、小さく問う。
「ミサ。
そういうのも“日常の愛情”ですか」
「ええ。
大きな約束や盛大な誓いよりも、
こういう“忘れない”行為が続いていく方が、
よっぽど難しくて、大切なんです」
「忘れない、行為」
「はい。
相手の誕生日を忘れない。
好きな花を覚えている。
寒がりだからマフラーを用意しておく。
恋は火花みたいに始まるかもしれませんが、
愛情は、こうやって毎日ちょっとずつ継ぎ足されていくものです」
レオンは、しばらく黙って歩いた。
やがて、ひとつの露店の前で足を止める。
「ミサ。
ここに“忘れない行為”が売っているようです」
彼が指さしたのは、小さな花屋だった。
色とりどりの花束が並んでいる中、
ひときわ目を引くのは、青い小花の束。
「“シルフィア草”だよ」
店の少年が、元気よく説明してくれる。
「“また会おうね”って意味があるんだ。
恋人同士でも、友達同士でも、
離れるときに渡したりするんだよ」
“また会おうね”。
前世の私が一番言えなかった言葉。
終電間際の会議室で、
“また明日”さえまともに言えずに帰っていた頃がふとよみがえる。
「殿下、一本いかがですか」
私が冗談めかして問うと、
レオンは真剣な顔で花束を見つめた。
「ミサ。
“また会おうね”という言葉は、
誰に向けて使うのが一番ふさわしいと思いますか」
「そうですね……」
恋人、家族、友人。
いくつもの答えが頭に浮かぶ。
けれど、今この場で私が選ぶべき答えはひとつしかなかった。
「“また会う約束が叶う相手”に、でしょうか」
「叶う、相手」
「はい。
約束を守れる距離にいる人。
“また会えるように”努力できる関係。
遠すぎる相手や、
どうしても交わらない立場の人にこの花を渡すのは、
少し酷かもしれません」
自分で言いながら、
どこかで自分に刺さっていく言葉。
レオンは、小さく息を吐いた。
「では、僕は――」
そう言って、
シルフィア草の小さな束を二つ手に取った。
「ひとつは、父と母に」
「陛下方に、ですか」
「ええ。
王と王妃としてではなく、
“家族としてまた会おう”と言える時間を、
これからも作れるように」
その言い方が、
彼らしいと思った。
「もうひとつは――」
レオンは、もう一束をこちらに差し出してきた。
「ミサに、です」
「……殿下」
「教育係として、
これからも“また会う約束”を続けていただきたいので」
それは、
恋でも告白でもない。
けれど、“何もなかったふり”をするには、
あまりにも真っ直ぐな贈り物だった。
(線のこちら側から届く、
これ以上ないくらいぎりぎりの花束)
私は、ゆっくりとそれを受け取った。
「身に余る光栄です。
その約束なら、喜んで」
そう答えると、
レオンの肩から、少しだけ力が抜けたように見えた。
「よかった」
その一言に、
胸の奥のどこかもふっと緩む。
◇◇◇
城に戻ったあと。
自室の机の上に、
小さな花瓶を置いた。
その中に、シルフィア草の束をそっと挿す。
青い小花が、
群青のインク瓶の隣で揺れた。
“LESSON 12:日常
“また会おうね”と言える関係は、
奇跡でも運命でもなく、
日々の小さな選択の積み重ねでできている。
隣の席を望まなくても、
同じ景色を見ながら“また明日”と言い合える距離がある。
選ばれなかった女の二度目の人生にとっては、
それだけでも、十分すぎるご褒美だ。”
そう書き記してから、
私は窓の外に目をやった。
城下の方角には、
今日歩いた通りがある。
手を繋いで歩く恋人たち。
花を持って帰る夫。
その背中を見送る人たち。
そこには、
派手な誓いの言葉はないかもしれない。
けれど、
毎日「またね」と言い合えるだけの関係が、
確かに積み重なっている。
「……線のこちら側でも、
同じ景色くらいは見ていてもいいよね」
誰に聞かせるでもなく呟く。
隣に座る資格なんてなくていい。
選ばれる花嫁にはならなくていい。
それでも、
“明日もまた会って話そう”と言えるくらいの距離で、
同じ青い花を見ていられるなら――
前世で一度ももらえなかった「また会おうね」が、
今世では確かに手の中にある。
その事実が、
引いたばかりの線のこちら側で、
そっと私を支えてくれる気がした。
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