前世アラサー独身、異世界では王太子の教育係として「恋愛感情」を教えています

cotonoha garden

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第25話 名前を呼ぶ練習

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 一度もきちんと名前を呼ばれなかった人生を送った人間が、誰かの口からその名前を望むようになるまでに、こんなにも時間がかかるなんて思わなかった。 
 “先生”でも“教育係”でもなく、ただの「ミサ」として呼ばれる未来を、私はまだ怖がっていた。 
 
 ◇◇◇ 
 
 翌日のレッスンは、いつもより早い時間に設定した。 
 
 春季祝典まで、残された日はそう多くない。 
 “師と弟子の別れ”の台本を仕上げるには、レオンの意見と感覚がどうしても必要だった。 
 
 「本日のLESSONテーマは、“名前”です」 
 
 黒板にそう書いた瞬間、 
 レオンの眉がぴくりと動いた。 
 
 「名前……ですか」 
 
 「はい」 
 
 私は、机の上に台本の下書きを広げる。 
 
 「師はずっと“先生”としか呼ばれていませんが、 
 旅立ちの夜、弟子は初めて師の“本当の名前”を知ることになります」 
 
 「昨日、おっしゃっていた設定ですね」 
 
 「ええ。 
 今日は、ここを一緒に考えていきたいのです」 
 
 台本の余白には、 
 “師の名前:未定”とだけ書かれていた。 
 
 「師の名前をどうするか。 
 そして、弟子がその名前を口にするとき、 
 どんな気持ちで呼ぶのか――」 
 
 私は、黒板にもう一行書き足した。 
 
 “LESSON:人は、どんなときに“名前”で呼び合うのか” 
 
 「殿下」 
 
 「はい」 
 
 「殿下が、誰かを“名前だけで”呼ぶときは、どんなときですか?」 
 
 レオンは、一瞬だけ固まった。 
 
 「……名前“だけ”?」 
 
 「“殿下”とか“王太子殿下”とか、 
 “○○公爵令嬢”といった肩書きや身分を取ってしまって。 
 
 ただ“レオン”、“カトリーヌ”、“ミサ”―― 
 そう呼ぶのは、どういう距離感のときでしょう」 
 
 自分で自分の名前を口にして、 
 ほんの少しだけ背中がむずがゆくなる。 
 
 レオンは、真剣な顔で考え込んだ。 
 
 「家族と、友人と……」 
 
 「“友人”と呼べる人が、殿下には何人くらいいらっしゃいますか」 
 
 「……多くはありませんね」 
 
 苦笑が漏れる。 
 
 「幼い頃から、 
 “殿下”としか呼ばれないことの方が多かったので」 
 
 (それは、少し前の私と似ているかもしれない) 
 
 前世の私は、 
 “早瀬さん”とか“君”とか“そこの若い子”としか呼ばれていなかった。 
 
 “美咲”と名前だけで呼ぶ人は、 
 指折り数えられるほどしかいなかった。 
 
 「だからこそ、“名前で呼ぶ”ことと“名前で呼ばれる”ことには、 
 特別な意味が生まれます」 
 
 私は、台本の一ページをめくった。 
 
 「この物語の弟子は、最後の夜にこう言います。 
 
 “先生。……いいえ、○○。”」 
 
 「師の名前ですね」 
 
 「はい。 
 それまで一度も口にしたことのない名前を、 
 別れの直前に初めて呼ぶ」 
 
 レオンは、ゆっくりと息を吸った。 
 
 「それは、怖いですね」 
 
 「怖い?」 
 
 「名前を呼んでしまったら、 
 もう後戻りできない気がします。 
 
 先生と弟子という関係を越えてしまうような、 
 何か別のものを認めてしまいそうで」 
 
 その感覚は、痛いほど分かった。 
 
 “教育係”と“王太子”という安全な呼び方の向こう側に、 
 名前しかない場所があることを、 
 私もどこかで知っていたからだ。 
 
 「だからこそ、“別れの前のたった一度だけ”にするんです」 
 
 私は、黒板に小さく書き足した。 
 
 “名前を呼ぶことは、関係に対する“覚悟”の表明でもある” 
 
 ◇◇◇ 
 
 「師の名前、何がいいと思いますか?」 
 
 レオンに尋ねると、 
 彼は少し意外そうな顔をした。 
 
 「僕が決めていいんですか」 
 
 「もちろんです。 
 殿下が演じる弟子が、 
 “口にしたい”と思える名前であるべきですから」 
 
 「口にしたい名前、ですか……」 
 
 彼は視線を窓の外に向けた。 
 
 「僕は――短い名前がいいと思います」 
 
 「短い名前?」 
 
 「長くて立派な名前って、 
 どうしても“肩書き”みたいに聞こえてしまうでしょう。 
 
 でも、短い名前は、 
 呼ぶたびにちゃんと相手の顔が浮かぶ気がするんです」 
 
 「そういう感覚、私は好きですよ」 
 
 私が頷くと、 
 レオンは少し照れたように笑った。 
 
 「たとえば、“リア”とか、“エル”とか、“サラ”とか」 
 
 「どれも素敵ですね」 
 
 「でも、どれも…… 
 ミサとは違いますね」 
 
 そこで、ふいに矢が飛んできた。 
 
 「比べる必要はありません」 
 
 咄嗟にそう返す。 
 
 「これはあくまで、“物語の中の師の名前”ですから」 
 
 「分かっています」 
 
 レオンは、少しだけ目を細めた。 
 
 「でも、“名前で呼ぶ勇気”を考えたとき、 
 どうしても、ミサのことを一緒に考えてしまうんです」 
 
 心臓が、どくりと鳴る。 
 
 (線。線をしっかり意識しなさい) 
 
 自分にそう言い聞かせながら、 
 私はわざと話題を少しだけずらした。 
 
 「では、こうしましょう。 
 
 師の名前候補を、今挙げてくださった中から選んで、 
 最後の台詞の形を一緒に整えること。 
 
 それが今日のレッスンの課題です」 
 
 「分かりました」 
 
 ◇◇◇ 
 
 黒板に三つの名前を書き出す。 
 
 “Ria(リア)” 
 “El(エル)” 
 “Sarah(サラ)” 
 
 「どれも、呼びやすくて、 
 優しい響きがありますね」 
 
 レオンがぽつりと呟く。 
 
 「殿下の好みによるところが大きいですよ」 
 
 「そうですね」 
 
 彼は少しだけ迷ったあと、 
 一本のチョークを手に取った。 
 
 そして、“サラ”の下に小さな丸印をつける。 
 
 「これにします。 
 “サラ”がいい」 
 
 「理由を聞いても?」 
 
 「“リア”も“エル”も素敵ですが、 
 どこか現実に知っている人の顔が浮かんでしまって」 
 
 「なるほど」 
 
 「“サラ”は、 
 僕の知らない誰かの名前です。 
 
 だから、純粋に“物語の師”として呼べる気がして」 
 
 それは、 
 私の名前を避けてくれた、ということでもあった。 
 
 (……優しい子だ、本当に) 
 
 「では、師の名前は“サラ”にしましょう」 
 
 私は台本の“未定”を、“サラ”に書き換えた。 
 
 「最後の台詞は――」 
 
 ページの片隅に、 
 昨夜書いた案が残っている。 
 
 “先生。……いいえ、サラ。 
 僕に世界の見方を教えてくれて、ありがとう” 
 
 「このままでは、まだ足りない気がするんです」 
 
 私は、正直に言った。 
 
 「“ありがとう”という言葉の前に、 
 弟子が何に対して感謝しているのかを、 
 もう少し具体的にしたい」 
 
 「世界の見方……」 
 
 レオンが繰り返す。 
 
 「師は、弟子に何を教えたのでしょう」 
 
 「学問や言葉だけではなく、 
 “自分で選ぶこと”かもしれません」 
 
 自分で言いながら、どきりとする。 
 
 「たとえ村を出ていくという選択が寂しくても、 
 それを“自分で選んだ道”だと言えるように」 
 
 レオンは、しばらく考えてから口を開いた。 
 
 「“僕が僕のままでいていいこと”も、 
 きっと教えてくれていると思います」 
 
 「……殿下」 
 
 「周りから“こうあるべきだ”と求められる中で、 
 自分の感じ方や考え方を、“それでいい”と言ってくれる人が、 
 一人でもいるかどうかは、大きな違いだと思うんです」 
 
 その言葉は、 
 レオン自身の体験から出てきたものなのだろう。 
 
 そして、その“誰か一人”に、 
 私を含めてくれているのだということも。 
 
 胸の奥が、じんわりと熱くなる。 
 
 「では、こうしてみましょうか」 
 
 私は、ペンを走らせた。 
 
 “先生。……いいえ、サラ。 
 
 僕に“世界の見方”を教えてくれて、 
 僕が僕のままでいていいと教えてくれて――ありがとう。” 
 
 読み上げると、 
 レオンは静かに頷いた。 
 
 「とても、いいと思います」 
 
 「では、これで仮決定にしましょう」 
 
 ◇◇◇ 
 
 レッスンの終わり。 
 
 レオンが、少し躊躇いがちに手を挙げた。 
 
 「ミサ」 
 
 「はい?」 
 
 「もしも、ですよ」 
 
 「はい」 
 
 「もしもこの台本の“弟子”が、 
 本当は“サラ”ではない別の名前を呼びたいと思っていたとしたら―― 
 
 それでも、“サラ”と呼ぶべきなんでしょうか」 
 
 心臓が、また一段深く沈んだ。 
 
 (それは、誰の話? この物語の弟子? それとも……) 
 
 「“誰のための舞台か”によると思います」 
 
 私は、慎重に答えを選んだ。 
 
 「観客のための舞台であり、 
 師のための舞台であり、 
 同時に、弟子自身のための舞台でもあります。 
 
 その全部を守りたいのなら、 
 本当に呼びたい名前を心の中にしまっておいて、 
 舞台の上では“役目としての名前”を呼ぶのもひとつの選択です」 
 
 それは、 
 自分に言い聞かせている言葉でもあった。 
 
 「でも――」 
 
 レオンが、珍しく私の言葉を遮った。 
 
 「いつか一度だけでいいから、 
 本当に呼びたい名前を、 
 役目も肩書きも抜きにして呼べる場所があるなら」 
 
 彼は、まっすぐこちらを見た。 
 
 「そのときのために、 
 ちゃんと“名前を呼ぶ練習”をしておきたいです」 
 
 「……殿下」 
 
 「だから今日のLESSONは、 
 僕にとっても大事な練習でした」 
 
 穏やかな笑みなのに、 
 胸の奥は穏やかではいられない。 
 
 (“本当に呼びたい名前”なんて、 
 そんな言葉を正面から投げないでほしい) 
 
 言えない本音を飲み込んで、 
 私はいつもどおり丁寧に頭を下げた。 
 
 「本日のレッスンは、これで終了です」 
 
 レオンが部屋を出ていったあと、 
 私は黒板に残った“名前”という二文字を、 
 しばらく消せずに眺めていた。 
 
 ◇◇◇ 
 
 夜。 
 
 ノートの新しいページに、 
 “LESSON 18:名前を呼ぶ勇気”と書き込む。 
 
 “前世の私は、 
 誰かの名前を呼ぶとき、いつもどこかで距離を測っていた。 
 
 “さん”をつけるか、“くん”をつけるか、 
 あだ名で呼ぶか、苗字のままにするか。 
 
 そのくせ、自分の名前を呼ばれることに、 
 そこまで価値があるとも思っていなかった。 
 
 でも今は違う。 
 
 “ミサ”と呼ばれるとき、 
 肩書きや役目を越えたところで、 
 私自身を見てくれようとしているのだと感じるから。 
 
 ――いつか私も、 
 本当に呼びたい誰かの名前を、 
 役目抜きで呼べる日が来るのだろうか。” 
 
 ペンを置き、窓の外の夜空を見上げた。 
 
 星が、いくつも瞬いている。 
 
 “教育係様”として守れる距離は、安全で優しい。 
 “ミサ”として呼ばれたがっている自分は、危なっかしくて仕方がない。 
 
 それでも、 
 心のどこかで小さく芽を出してしまった願いを、 
 もう完全には踏み潰せないのだと分かってしまっていた。 
 
 やっと分かった。 
 
 呼ばれたかったのは、役職でも、姓でもなく―― 
 ただの「ミサ」という、私自身の名前だったのだ。
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