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第26話 『ミサ』と呼ばれる距離
しおりを挟む「ミサ」と呼ばれただけで心臓が跳ねるようになってしまった教育係なんて、きっと失格に違いない。
それでも私は今日も、“教育係様”という鎧の内側で、小さな二文字を大事に抱え込んでいた。
◇◇◇
翌朝。
王宮の回廊を歩いていると、
向こうから学舎長が早足でやってくるのが見えた。
「ハルヴィア嬢」
いつもどおりの、きちんとした呼びかけ。
「おはようございます、学舎長」
挨拶を交わすと、
彼は少し息を整えてから切り出した。
「突然で済まないが、今朝、王立学舎から使いが来ていてね。
君と一度、話がしたいそうだ」
「……私と?」
胸の奥がひゅっと冷える。
「内容は伺いましたか」
「“今後の講師としての任用の可能性について”だそうだ」
来た。
王が執務室で示した未来の具体的な形が、
少しずつ現実に寄ってくる音がした。
「もちろん、すぐに決まる話ではない。
ただ、君自身の希望も聞きたいので、
一度顔合わせを――とのことだ」
「承知いたしました」
声が震えないようにするだけで精一杯だった。
(“いつかそうなる”と知っていた未来は、
いざ具体的な段取りが決まり始めると、急に息苦しくなる)
◇◇◇
王立学舎からの使いは、
品の良い中年の男性だった。
「初めまして。
王立学舎教務責任者のグレイと申します」
「ミサ・ハルヴィアです。
殿下の教育係を務めております」
応接室で向かい合って座る。
テーブルの上には、
簡素な資料束が置かれていた。
「ハルヴィア様――いや、
いずれ“ハルヴィア先生”とお呼びする日が来るかもしれませんね」
冗談めかした一言に、
胸の奥がざわりと揺れた。
(“先生”。
それは、今の“教育係様”よりも、
ずっと広い場所で呼ばれる名前だ)
「王と王妃陛下から、
あなたのご活躍についてはよく聞いております。
特に、劇場と連携した授業形態は、
学舎としても大変興味深く」
グレイは資料の一枚をめくる。
「王太子殿下の教育が一区切りつく頃に、
王立学舎で“物語と教養”の講義を担当していただけないか――
という打診が、すでに上がっておりまして」
「光栄なお話です」
それは本心でもあった。
物語を通して、人に世界の見方を教える。
それは、私が何より好きな仕事だ。
「ただ私は、
殿下の教育係としての任を、
まだ途中で投げ出すわけにはいきません」
「ええ。それは重々承知しております」
グレイは穏やかに頷いた。
「ですから今日は、
“いつかそうなるかもしれない未来”について、
少しだけ頭の片隅に置いておいていただければ十分です」
“いつかそうなるかもしれない未来”。
その言葉は、
昨日王から聞いた話と不思議なほど重なっていた。
「……私が、学舎で教壇に立つ日が来たとしたら」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「そのときも、私は“ミサ”でいられるでしょうか」
「ミサ?」
グレイが目を瞬く。
「ああ、失礼しました。
これは、私自身の中の問題です」
慌てて首を振る。
「“先生”という肩書きが増えても、
自分が自分でなくなってしまわないように、
気をつけなければならないな、というだけの話で」
グレイは、少しだけ目を細めた。
「どんな肩書きも、
その人自身を消してしまうためのものではありません。
むしろ、“その人がその人らしくいるための器”であってほしいと、
私はそう考えています」
器。
(“教育係”も、“先生”も――器)
「その器の中身までは、
王立学舎が決めることではありませんよ」
冗談めかして笑うその顔に、
少しだけ救われる。
「ありがとうございます」
私は深く頭を下げた。
(“ハルヴィア先生”と呼ばれる日が来たとしても。
誰か一人くらいは、“ミサ”と呼んでくれるだろうか)
そんな図々しい願いが、
喉の奥で小さくうずく。
◇◇◇
その日の午後は、
庭園劇場で春季祝典の読み合わせが行われた。
舞台には、レオンとカトリーヌ、
そして他の数人の生徒役たち。
「教師役の方は、まだ決まっていないのですね」
カトリーヌが脚本をめくりながら尋ねる。
「はい。
王立学舎から一人派遣していただくか、
劇場付きの役者に頼むか、調整中です」
私が答えると、
彼女は意味ありげに笑った。
「今日くらいは、ミサ様が座ってくださってもよろしいのに」
「私は演出側ですから」
きっぱり言い切ると、
カトリーヌは少しだけ肩をすくめた。
「ではせめて、
最後の“別れの場面”だけでも座ってみてくださいませんか。
殿下が台詞の感覚を掴みやすいはずですわ」
「そうでしょうか」
レオンの方を見ると、
彼はどこか期待するような、
それでいて少し不安そうな顔をしていた。
(……逃げ続けてばかりもいられない)
終幕のレッスンは、
私自身にも必要なのだ。
「分かりました。
読み合わせのあいだだけ、座りましょう」
◇◇◇
私が舞台上の椅子に腰掛けると、
不思議なほど足が震えた。
“師サラ”の位置。
弟子役の少年――レオンと視線が合う高さ。
「では、終盤の三場面目から始めましょう。
旅立ちの前夜、師と弟子の会話です」
私は台本を持ちながら、
演出の声を出す。
レオンは、一度深呼吸をしてから口を開いた。
「先生」
舞台上の彼の声は、
いつもの講義よりも少し低く、
それでいてどこか迷いを含んでいた。
「はい」
思わず、いつもの癖で返事をしてしまいそうになる。
いけない。
今ここにいるのは“ミサ”ではなく、“サラ”だ。
(役だ。これは役。いつものレッスンの延長)
自分に言い聞かせる。
「先生。……いいえ」
レオンの声が、わずかに震えた。
「いいえ、サ――」
その瞬間、彼の言葉が途切れた。
呼びかけの途中で、
喉が強張ったように音を失う。
舞台袖から、
カトリーヌが心配そうにこちらを見ているのが見えた。
「殿下、大丈夫ですか」
私が思わず素に戻ってしまう。
「……すみません」
レオンは、唇を噛んだ。
「名前を、言おうとしたら――
別の名前が頭に浮かんでしまって」
胸の奥が、どくんと痛む。
(別の名前。
それが誰のことか、聞かなくたって分かる)
「もう一度、最初からやってみましょう」
私は台本を握り直した。
「これは物語です。
殿下が誰の名前を思い浮かべても、
舞台の上で口にするのは“サラ”ただ一人です」
それは、自分に向けた線引きの言葉でもあった。
「……分かりました」
レオンは目を閉じ、
ひと呼吸置いてから再び口を開いた。
「先生。……いいえ、サラ」
今度は、ちゃんと名前を言えた。
「僕に“世界の見方”を教えてくれて、
僕が僕のままでいていいと教えてくれて――ありがとう」
その台詞を聞きながら、
胸の奥がじんわりと熱くなる。
(これは、物語。これは、練習。
現実ではない。……ない、はず)
「はい。……行ってらっしゃい」
私も、台本通りに答えた。
“師サラ”としての最後の台詞。
「あなたがあなたのままでいられる場所を、
どうか、見つけておいで」
声がほんの少しだけ掠れたのを、
誰も指摘しなかった。
◇◇◇
読み合わせが終わったあと、
カトリーヌが近づいてきた。
「とても、良かったですわ」
彼女は真剣な顔で言う。
「殿下の“名前を呼ぶ”ところの震え方が、
今まで見たどの芝居よりも自然で」
「……そうですか」
「本番で“サラ役”を演じる方が、
あの視線をきちんと受け止められるかどうか、
少し心配になってしまうくらいです」
冗談めかした一言に、
返す笑いがうまく作れなかった。
◇◇◇
夕暮れ。
劇場を出ようとしたとき、
背中から控えめな呼び声がした。
「……ミサ」
振り返ると、
レオンが柱の陰に立っていた。
「殿下?」
周囲に誰もいないのを確かめてから、
彼は一歩近づいてくる。
「さっきは、すみませんでした」
「台詞を詰まらせることくらい、よくあることです」
「違います」
レオンは首を振った。
「“サラ”と呼ぶ前に、
ミサの名前が先に頭の中に浮かんでしまって」
正直すぎる。
心臓が、また大きく跳ねた。
「だから、ちゃんと練習しておきたかったんです」
「練習?」
「“サラ”と呼ぶ練習も、
“ミサ”と呼ぶ練習も」
まっすぐな目でそう言われて、
視線を逸らしたくなる。
「……どうして、私の名前の練習までなさるんですか」
ようやく絞り出した声は、
驚くほどかすれていた。
「いつか一度だけでいいから、
本当に呼びたい名前を、
役目も肩書きも抜きにして呼べる場所があるなら――」
昨日、彼が言った言葉の続きが、
そのまま口からこぼれる。
「そのとき、
ちゃんと綺麗に呼べるように」
「殿下」
名前を止めようとして、
うまく言葉が出てこなかった。
(そんな未来を、約束しないでほしいのに)
「……今はまだ、練習です」
代わりに、
いつもの言葉を選ぶ。
「ここは王宮で、私は教育係で、
殿下は王太子です。
“ミサ”と呼ぶ声に、
あまり意味を乗せすぎないでください」
「“意味の乗らないミサ”なんて、呼びづらいですね」
レオンが、苦笑とも寂しさともつかない表情を浮かべた。
「でも、分かりました。
今はまだ、練習の練習にしておきます」
「……はい」
それしか言えなかった。
彼が去っていく足音を聞きながら、
私は自分の胸に手を当てる。
“ミサ”と呼ばれたところで、
現実は何も変わらない。
教育係で、王太子と、
師と弟子で――
それでも。
名前に込められた小さな温度だけは、
確かに前世のどの呼び名よりも、
私の心の芯に近いところをあたためていた。
前世では一度も届かなかったはずの二文字が、
今は誰か一人の口の中で、
何度も何度も練習されている。
――その事実だけで、
自分が少しだけ“選ばれている”ような錯覚に落ちるのを、
私は情けなく思いながらも、否定しきれずにいた。
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