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第27話 距離の取り方を教わる日
しおりを挟む守られる位置に立つことも、立派な距離の取り方のひとつだと、頭では分かっていた。
でも私はいつも、自分だけ一歩下がっている方が楽だと思っていた――誰からも「こちらへ」と手を伸ばされるまでは。
◇◇◇
春季祝典まで、あと十日。
朝の大広間は、いつもよりにぎやかだった。
祝典用の緞帳が掛け替えられ、花飾りの位置が侍女たちによって次々と調整されていく。
「ミサ様、こちらの台本は舞台袖にお運びしてよろしいでしょうか」
劇場付きの若い俳優が、両腕いっぱいに台本の束を抱えながら声をかけてくる。
「ええ、第三幕の分は袖に、第一・二幕は客席側にお願いします」
指示を出していると、
背後から、柔らかい香水の香りがふわりと漂ってきた。
「まあ、熱心なのね。さすが“殿下の教育係様”」
振り向くと、
そこには数名の貴婦人が立っていた。
誰もが豪奢なドレスに身を包み、
そのうちの一人――碧い瞳の侯爵夫人が、扇を口元に当てて私を観察するように見つめている。
「ご挨拶が遅れました。ミサ・ハルヴィアと申します」
お辞儀をすると、
彼女はわずかに顎を引き、笑みともそうでないともとれる表情を浮かべた。
「存じておりますわ。
殿下に“恋愛感情”を教えて差し上げているご婦人でしょう?」
(言い方)
胸の奥がつんと突かれたように痛む。
「私はあくまで、物語や芝居を通じて人の感情の形をお伝えしているだけで――」
「もちろんですとも」
侯爵夫人は、扇でひらひらと自分の頬をあおぐ。
「けれど、王都にはいろいろな噂が飛び交いますからね。
“殿下の一番近くにいる女”というのは、それだけで目につきますわ」
(そうでしょうね)
分かっていた。
でも、改めて言葉にされると、胃のあたりに重たい石が乗る。
「春季祝典の劇も、殿下が“師との別れ”を演じられるのでしょう?
まあ、なんて感傷的な題材」
「殿下のご成長を、分かりやすい形でお示しできればと」
できるだけ穏やかに答える。
侯爵夫人は、扇の陰からじっと私の顔色を窺っていた。
「……本番の日、あなたはどちらにお立ちになるおつもり?」
「演出補佐として、袖か客席の後方に」
「そう。舞台の上ではなく?」
「はい」
即答した私に、彼女は満足げに目を細めた。
「それがよろしいわ。
殿下の“お隣”は、いずれ正式に選ばれるご令嬢のために空けておかなければなりませんもの」
言葉は丁寧なのに、
その一つ一つが小さな針のように刺さってくる。
「その日が待ち遠しいですわね、ミサ様」
「……ええ」
そう言うしかなかった。
◇◇◇
貴婦人たちが去ったあと、
私は大きく息を吐いた。
(分かっている。私は“殿下の隣の席”を約束された存在ではない)
それでも、
「待ち遠しい」と笑顔で言われると、
まるで私がそこに居座っているかのように感じてしまう。
「……ミサ様」
振り向くと、
そこには王妃付きの侍女長、リーナが立っていた。
「先ほどの方々は、なかなか言葉が鋭いですからね」
「聞こえていましたか」
「半分くらいは」
リーナは、少しだけ眉を下げて笑う。
「でも、あの方々にとって“正しさ”は、
常に“家と娘のため”にありますから」
「……それは、責めることができませんね」
誰もが、自分の大事なものを守ろうとしている。
それがたまたま、私を刺す形になっているだけだ。
「ミサ様」
リーナが、ふと声の調子を変えた。
「“いつも一歩下がっておく”だけが、
自分を守る方法ではありませんよ」
「え?」
「時には、“守ってくれる人のそば”に立つ方が安全なこともあります」
そう言って、彼女は王妃がよく座る椅子の方に視線を向けた。
「陛下の隣に立つことも、
王妃様の少し斜め後ろに控えることも、
どちらも“守られている位置”です。
けれど、その意味は大きく違うでしょう?」
(……斜め後ろか、隣か)
これまで私は、
斜め後ろから見ている方が楽だと思っていた。
「ミサ様の“立ち位置”を決めるのは、誰ですか」
リーナの問いは、静かだった。
「……私、でしょうか」
「そうです。
周囲の声に押されて下がるのではなく、
自分で“ここに立ちたい”と決めることも、
一度考えてみてください」
彼女は、軽く頭を下げて去っていった。
(“立ち位置を自分で決める”……)
そんな発想を、前世の私は一度も持たなかった。
振られた席に座り、
与えられた机で仕事をし、
いつも輪の外側の方が居心地がいいふりをしていた。
今ここで、
私はどこに立ちたいのだろう。
◇◇◇
午後の読み合わせ。
今日は、王も一部を観覧することになっていた。
「春季祝典では、このような流れで殿下のご成長をお見せする予定です」
私は簡単な説明をし、
舞台の袖に下がろうとした。
そのとき、王がふと口を開いた。
「ハルヴィア嬢」
「はい」
「お前はどこに立つつもりだ」
(また、その質問)
「演出の確認のため、袖か客席の後方に――」
「そうではなく」
王は、視線だけで舞台の上を示した。
「“殿下の師として”の位置だ」
舞台上では、
レオンが弟子役の衣装に身を包み、
カトリーヌたちが旅立ちを見送る村人役として並んでいる。
「本番では誰か別の者が演じるとしても、
今この場での立ち位置は、
お前が決めて構わぬ」
「……陛下」
(私が、決めていい?)
袖から見守ることもできる。
客席の端から眺めることもできる。
でも――
「……失礼いたします」
気がつけば、足は舞台へ向かっていた。
レオンの斜め後ろ。
少しだけ横にずれれば、
彼の表情も客席も両方見える位置。
「ここに、立たせてください」
王は短く頷いた。
「よかろう」
(私は“隣”には立たない。
けれど、“斜め後ろ”でもない場所を選ぶ)
自分で選んだ位置に、
足が、思ったよりもすんなりと馴染んだ。
「では、終盤の場面から」
王の合図で、
レオンが台本を開く。
「先生。……いいえ、サラ」
さきほどよりも、
ずっと自然に名前が呼ばれた。
私の視線は、
彼の横顔と、
緞帳の向こうに広がるであろう客席を交互に見ている。
(これは物語で、これは練習で。
でも、ここに立つと決めたのは、私だ)
レオンが最後の台詞を言い終えると、
大広間の端で見ていた王が、静かに手を打った。
「悪くない」
「ありがとうございます」
レオンが一礼する隣で、
私も深く頭を下げた。
「ハルヴィア嬢」
王の声が、再び飛ぶ。
「お前の“立ち位置”は、それでよい」
短い一言。
でもそれは、
先ほど侯爵夫人から受けた言葉とはまるで逆の温度を持っていた。
“そこに立っていてよい”と、
王自らが認めてくれたのだ。
胸の奥で、
何か固まっていたものが少しだけ溶ける。
◇◇◇
稽古が終わったあと。
舞台裏で片づけを手伝っていたとき、
レオンがひょっこり顔を出した。
「……ミサ」
「はい」
「さっきの位置、僕はとても好きでした」
「さっきの位置?」
「僕の真横でもなく、
遠くから見下ろすでもなく。
振り返ればすぐそこにいる距離」
彼は、ぐっと一歩近づいてくる。
「“守られる位置”というより、
“支え合う位置”に近い気がしました」
(そういう言い方をされると、
また線がぼやけるからやめてほしい)
心の中でちいさく悲鳴を上げながら、
私はできるだけ落ち着いた声を出した。
「今日はあくまで稽古です。
本番での私は、袖か客席ですから」
「分かっています」
レオンは、少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、“どこに立つか”を自分で決めたミサを見られたのは、
僕にとっては大きなことでした」
「……そうですか」
褒められているのに、
胸の奥がむず痒くて仕方がない。
「いつも、下がってばかりではいられませんから」
自分に言い聞かせるように呟くと、
レオンは小さくうなずいた。
「じゃあ、僕も考えてみます」
「何をですか」
「“王太子として、どこに立つのか”をです。
ただ前に出るだけじゃなくて、
誰と並んで立ちたいのかも含めて」
その言葉に、
ひときわ強く心臓が鳴った。
(“誰と並んで”なんて、
そんなことを真顔で言わないでほしい)
「それは――
殿下が自分で決めることです」
なんとかそれだけ言って、
私はそっと視線を逸らした。
◇◇◇
夜。
机の上にノートを開き、
新しいページに書き込む。
“LESSON 19:距離を測る”
“前世の私は、
いつも輪の外側に立つことで、自分を守ってきた。
巻き込まれない位置。
傷つかない位置。
でも、それは同時に、
誰からも本気で“ここへ来てほしい”と言われない位置でもあった。
今世の私は、
王の言葉と、侍女長の助言と、レオンの視線に背中を押されて――
初めて、自分で“ここに立ちたい”と選んだ。
殿下の真横でも、
誰かのずっと後ろでもない、
振り返れば互いの顔が見える距離に。”
ペン先が止まる。
“私は、そこに立っていていいのだろうか。”
問いの形のまま、文字が紙に残る。
答えはまだ出ない。
でも少なくとも今日は、
「誰かに押し出されたからそこにいる」のではない位置を、
自分で一度選んでみた。
前世では一度も与えられなかった“立ち位置を選ぶ権利”を、
今世の私は、少しずつ手に入れているのかもしれない。
――もしいつか、本当に幕が下りる日が来ても。
「ずっと斜め後ろから見ていました」ではなく、
「ちゃんとあなたの隣を、一度は選びました」と言えるように。
そんなささやかな願いを、
ノートの余白にそっと折りたたんで、
この日のページを閉じた。
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