63 / 66
第十六章 信 長
信 長 (三)
しおりを挟む
ついに信長様を怒らせてしまった……と、覚悟を決めた。
ところが老公はいきなり、ハッハッハと大声を発したのだ。これにはさすがの信長様もビクッと肩を震わせたようである。
老公はゆっくりと、しかしながら声の高さはそのままで言い放った。
「……そこな太刀持ちの一刀、身共にお渡しあれば、お手前様の首、瞬息のうちに斬り落としてみせましょうが、如何!」
すると、信長様は鼻で嗤った。
「ふん、ほざきおるわっ!」
ところがそれが合図だったのか、わたしたちを取り囲んだ侍衛たちは、そのままぐるりと向きを変えて板廊まで下っていった。
信長様はころりと口調を変え、幼児をあやすような目をわたしに向けた。
「……亀っ、おまえは、奥平の家を潰すつもりなのか」
信長様の逆鱗にふれ、これまでどれだけの武将が、排斥され憎悪され消えていったのか、わたしですらよく知っている。
けれどここで臆することなどできない。
「……いまは、奥平の家とはなんら縁あるものではございませぬ」
「ふん、またまた、ほざきおるわっ。おまえのほうから、あの信昌めに、離縁してほしいと文を送ったこと、予の耳にも届いておるぞ!」
なんでもよく知っている御方だと驚き、次のことばを失った。
そのとき中庭から、ぽんと、なにかが跳んできて、ころころとわたしの前でとまった。
蹴鞠であった。
「これは、粗相でおじゃる」
庭で頓狂な場違いの声がした。
指貫を穿き、狩衣をまとい立烏帽子をつけた今川氏真公が、腰を低くして信長様の前に平伏した。
「予は、そのほうを招いたおぼえはないぞ!」
信長様が一喝しても、氏真公は動じずに、にこにこ笑っていた。
なにゆえ氏真公が、この場にいるのか、わたしにも不思議でならなかった。
「上様に、余興の者を献上つかまつろうとおもいましてな、庭に連れてまいりましたゆえ、なにとぞ、ご披見くだされたく」
ちらりと中庭を振り返った。
汚い身なりの男が二人いた。
筒袖着をまくり、肩を出し、褌までもが見えた。頬かむりをしている。どこぞで会ったような気がした。
アッと驚いた。
ざわざわと諸侯にも動揺が伝染していった。信長様もようやく気づいて、ほうけたように笑った。
一人は、わたしの夫、奥平信昌どの、もう一人はその父、すなわち舅の奥平貞能さまであった。
「そちは、奥平信昌だな!」
信長様が叫んだ。
「はっ。まさしく、御前に!」
「信昌っ!きさま、予の一字を与えてやったというに、不甲斐ない奴めが!亀に、離縁されたそうじゃな」
「はっ。まことに!それがし、女人を悦ばせる閨の技に不得手にて、ついには、お亀に愛想を尽かされました次第。まっこと、お恥ずかしきかぎりにてござ候」
どっと座がどよめいた。
信昌どのが援けに来てくれたのだと、わたしはおもった。
……これは茶屋四郎次郎どのの差し金かもしれない。それにしても満座の中で、体面にこだわるあの信昌どのが、おのれを道化者にするとは、さすがに信じられなかった。
けれども、正直いえば嬉しかった。
ほんとうに嬉しかった。
今川氏真公は、相変わらず、とぼけたままだ。ようやくわたしは、氏真公という人の持つ底知れぬ孤独のようなものを感じ取ることができた。
氏真公は、満座の中で笑われようと罵られようと、その対手を認めていないから、平然としていられるのではないか。と、ふとおもった。つまりは、誰も信じることができず、認めていない対手がどう感じようが、おのれにはまったく関係ないのだろう。
そんな気がした。
どこか奥の部分で、氏真公は信長様に似ているところがある、そうおもえてきてならなかった。
そしてあの翁狐、松永弾正どのとも、どこかで同じ脈をもっている同類のような気がしてきてならなかった……。
ところが老公はいきなり、ハッハッハと大声を発したのだ。これにはさすがの信長様もビクッと肩を震わせたようである。
老公はゆっくりと、しかしながら声の高さはそのままで言い放った。
「……そこな太刀持ちの一刀、身共にお渡しあれば、お手前様の首、瞬息のうちに斬り落としてみせましょうが、如何!」
すると、信長様は鼻で嗤った。
「ふん、ほざきおるわっ!」
ところがそれが合図だったのか、わたしたちを取り囲んだ侍衛たちは、そのままぐるりと向きを変えて板廊まで下っていった。
信長様はころりと口調を変え、幼児をあやすような目をわたしに向けた。
「……亀っ、おまえは、奥平の家を潰すつもりなのか」
信長様の逆鱗にふれ、これまでどれだけの武将が、排斥され憎悪され消えていったのか、わたしですらよく知っている。
けれどここで臆することなどできない。
「……いまは、奥平の家とはなんら縁あるものではございませぬ」
「ふん、またまた、ほざきおるわっ。おまえのほうから、あの信昌めに、離縁してほしいと文を送ったこと、予の耳にも届いておるぞ!」
なんでもよく知っている御方だと驚き、次のことばを失った。
そのとき中庭から、ぽんと、なにかが跳んできて、ころころとわたしの前でとまった。
蹴鞠であった。
「これは、粗相でおじゃる」
庭で頓狂な場違いの声がした。
指貫を穿き、狩衣をまとい立烏帽子をつけた今川氏真公が、腰を低くして信長様の前に平伏した。
「予は、そのほうを招いたおぼえはないぞ!」
信長様が一喝しても、氏真公は動じずに、にこにこ笑っていた。
なにゆえ氏真公が、この場にいるのか、わたしにも不思議でならなかった。
「上様に、余興の者を献上つかまつろうとおもいましてな、庭に連れてまいりましたゆえ、なにとぞ、ご披見くだされたく」
ちらりと中庭を振り返った。
汚い身なりの男が二人いた。
筒袖着をまくり、肩を出し、褌までもが見えた。頬かむりをしている。どこぞで会ったような気がした。
アッと驚いた。
ざわざわと諸侯にも動揺が伝染していった。信長様もようやく気づいて、ほうけたように笑った。
一人は、わたしの夫、奥平信昌どの、もう一人はその父、すなわち舅の奥平貞能さまであった。
「そちは、奥平信昌だな!」
信長様が叫んだ。
「はっ。まさしく、御前に!」
「信昌っ!きさま、予の一字を与えてやったというに、不甲斐ない奴めが!亀に、離縁されたそうじゃな」
「はっ。まことに!それがし、女人を悦ばせる閨の技に不得手にて、ついには、お亀に愛想を尽かされました次第。まっこと、お恥ずかしきかぎりにてござ候」
どっと座がどよめいた。
信昌どのが援けに来てくれたのだと、わたしはおもった。
……これは茶屋四郎次郎どのの差し金かもしれない。それにしても満座の中で、体面にこだわるあの信昌どのが、おのれを道化者にするとは、さすがに信じられなかった。
けれども、正直いえば嬉しかった。
ほんとうに嬉しかった。
今川氏真公は、相変わらず、とぼけたままだ。ようやくわたしは、氏真公という人の持つ底知れぬ孤独のようなものを感じ取ることができた。
氏真公は、満座の中で笑われようと罵られようと、その対手を認めていないから、平然としていられるのではないか。と、ふとおもった。つまりは、誰も信じることができず、認めていない対手がどう感じようが、おのれにはまったく関係ないのだろう。
そんな気がした。
どこか奥の部分で、氏真公は信長様に似ているところがある、そうおもえてきてならなかった。
そしてあの翁狐、松永弾正どのとも、どこかで同じ脈をもっている同類のような気がしてきてならなかった……。
0
あなたにおすすめの小説
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~
川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる
…はずだった。
まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか?
敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。
文治系藩主は頼りなし?
暴れん坊藩主がまさかの活躍?
参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。
更新は週5~6予定です。
※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
改大和型戦艦一番艦「若狭」抜錨す
みにみ
歴史・時代
史実の第二次世界大戦が起きず、各国は技術力を誇示するための
「第二次海軍休日」崩壊後の無制限建艦競争に突入した
航空機技術も発達したが、それ以上に電子射撃装置が劇的に進化。
航空攻撃を無力化する防御陣形が確立されたことで、海戦の決定打は再び「巨大な砲」へと回帰した。
そんな中⑤計画で建造された改大和型戦艦「若狭」 彼女が歩む太平洋の航跡は
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる